第08話 優しくないお願い
雨の朝、オデットは夫の声で目を覚ました。
扉の向こうで、リナと話している。
「まだ、お休みでしたら」
「先ほどお目覚めに」
まだ目覚めていなかったが、今、目覚めた。
オデットは急いで起き上がり、羽織を探した。
寝台の横に落ちている。昨夜、自分で脱いだままにしたのだった。
拾う間に、外からもう一度声がした。
「お昼に、叔母を見送りに行きます。ご一緒できればと思いまして」
「行きます」
慌てて答えたら、声がひどく寝ぼけていた。
扉の向こうが一瞬静かになる。
「では、後ほど」
笑っていた気がする。
オデットは羽織へ顔を埋めた。
手紙なら、声が起きていないことまで知られずに済むのに。
エルザは昼過ぎの馬車で湖の家へ帰った。
館に残るよう二人が勧めても、彼女は首を振った。
「鉢が待っているもの。隣人に水を頼んできたけれど、あの人は気前がよすぎるの」
テオバルトが目をそらす。
オデットは笑った。
馬車へ乗る前、エルザは彼女を抱きしめた。
母を亡くしてから、年長の女性にそうされることは少なかった。
香水は薄く、乾いた葉に似たにおいがした。
「夫に言えない悪口ができたら、今度はわたくしへ」
耳元で囁かれ、オデットは小さく笑った。
「それでは、二度目になってしまいます」
「二度目は、本物よ」
エルザは離れ、テオバルトの胸を杖の柄で軽く押した。
「あなたも、いい人をやりすぎないこと」
「叔母上」
「欲しい物があるなら言いなさい。鉢でも、人でも」
雨が小降りになる。
馬車が出ていくまで、オデットは夫の横顔を見られなかった。
午後はそれぞれの仕事があった。
オデットはマルタと、館の行事や使用人の名前を覚えた。
食糧の帳面を任せられるのかと思ったが、家政婦長は厚い帳簿を自分の側へ寄せた。
「こちらはわたくしの仕事でございます。大公妃殿下には、困った時にお話を聞いていただければ」
「わたくしに、わかるでしょうか」
「人が困っているかどうかは、よくおわかりになる方だと存じます」
それは褒められるようなことだろうか。
オデットが黙ると、マルタは若い下女の名前を指した。
「この子は母親の具合が悪く、時々帰らせております。今月は少し多くなりますが」
「もちろん」
「ありがとうございます」
そういう判断なら、できた。
ただ、許可を出した後、何かもっと役に立つことを探してしまった。
暇ができると、自分の席まで消える気がする。
マルタの後を追い、食器の数を確かめるのを手伝おうかと尋ねた。
家政婦長は礼を言い、今日は帳簿だけで済むと答えた。
廊下でリナに会い、繕い物があればと声をかける。
リナも、もう終えたと答えた。
誰も困っていなかった。
それは、よいことのはずだった。
なのに部屋へ戻ると、オデットは何も持っていない自分の手を見つめた。
父の手紙なら、返事を書けばよい。
姉の衣装なら、ほどけた場所を直せばよい。
夫の幸福には、どこへ針を通せばよいのだろう。
考えてから、自分の考え方の奇妙さに気づいた。
テオバルトは服ではない。
夫は昨日、踊りの間に笑っていた。
そのために自分は、何をしたのだろう。
足元ではなくこちらを見てほしいと言った。
意地悪ですね、と笑った。
それだけのことを、受け取ったものへのお返しとして数えるのは、あまりに少ない気がした。
窓辺の鉢へ水をやりかけて、止めた。
昨日、やったばかりだ。
何かをしていないと不安になるのは、花を枯らす時と似ていた。
オデットは水差しを元へ戻した。
正しい量が、わからなかった。
マルタが下がると、オデットは父へ書く手紙を取り出した。
お健やかにお過ごしのことと存じます。
こちらでは、つつがなく。
そこから先が、なかなか続かなかった。
苺の菓子のことは、父には関係がない。
温室の窓を磨いたことも。
夫が自分に会いたかったと言ってくれたことなど、書けない。
代わりに、大公妃として学んでいると書いた。
仕事を増やし、両国の役に立てるよう努める、と。
書き終えると、手紙はいつもの自分になっていた。
夕刻、テオバルトが迎えに来た。
庭はまだ濡れていたので、夕食前に図書室を見ようという。
オデットは机の紙を片づけ、最後に父への便りを持ち上げた。
「これを、お送りしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
夫は受け取らなかった。
「フリッツに頼めば、明日の便へ」
「内容を、ご確認に」
「私に?」
オデットは頷いた。
他国へ嫁いだ身なのだから、便りには気をつけなくてはならない。勝手に書いてはいけないこともあるはずだ。
テオバルトは少し考えてから、紙へ手を伸ばした。
目を通す間、彼女は彼の顔を見ていた。
最後まで読んだ夫は、紙を戻した。
「差し支えのあることは、書かれていません」
ほっとした。
なのに、彼は嬉しそうではなかった。
「何か、間違えましたか」
「いいえ」
「では」
テオバルトは机の前の椅子へ座った。
オデットも、向かいへ座る。
「仕事を増やしたいのですか」
「できることがあれば」
「今の暮らしは、退屈ですか」
「いいえ」
即座に答えた。
退屈とは、ずいぶん遠い。
毎日知らなかった自分が現れ、夫の手が触れるだけで眠る前に思い出してしまう。
「では、どうして」
尋ねる声は穏やかだった。
その穏やかさが、かえって答えにくかった。
「役に立ちたいのです」
「立ってくださっています」
「何もしておりません」
「叔母が喜びました。マルタも、私も」
「それは、仕事では」
「仕事だけが、ここにいる理由ではない」
オデットは唇を結んだ。
正しい言葉だった。
夫が優しいこともわかっている。
でも、優しい人は、いずれ疲れるのではないか。
自分を喜ばせ、困らせないよう気を遣い、そのうち何も欲しがらないほうが楽だと思うのではないか。
王宮では、頼まれたことを終えなければ食卓から先に下がれなかった。
理由のある場所にいるほうが、怖くなかった。
「わたくしは、何もお返しできません」
テオバルトの眉がわずかに寄った。
「返してもらうためではありません」
「それでは、いただくばかりです」
「そうでしょうか」
「殿下は、お優しいから」
言い終える前に、夫が黙った。
その沈黙は初めてのものだった。
オデットは顔を上げた。
テオバルトは、机の上に置かれた自分の手を見ている。
「私は、それほど優しくはありません」
低い声だった。
「ですが」
「あなたが笑うと、また笑わせたいと思う。私以外の人に楽しそうに話していると、その話を私にもしてほしいと思う。昨日、踊りに誘おうとしていた若い人がいたので、先にあなたを連れ出しました」
オデットは瞬いた。
「あの、窓際へ?」
「はい」
「疲れていると」
「それも本当です」
テオバルトは彼女を見た。
「けれど、休ませるだけなら、私が隣に座らなくてもよかった」
胸が速く打ち始めた。
叱られているわけではない。
もっと、どうしていいかわからない話だった。
「あなたから何かを得たいと思っています。役に立つ仕事ではなく、あなたの時間を」
「時間」
「今のように、私の顔を見て、返事を考えてくださる時間です」
オデットは目をそらせなくなった。
優しくされることなら、まだ返す方法を探せる。
でも、こうして欲しがられたら。
「それでは……何をすれば」
「義務にしないでほしい」
テオバルトは息を吐いた。
少し、困ったように笑う。
「私も、うまく言えないのです。あなたを好きだから、そばにいてほしい。今は、それだけしか」
好き。
言葉が、机の上に置かれた。
手紙には何度も好きな花の話があった。
好きな季節。好きな本。
自分がその言葉の行き先になると、こんなに重さが違うのだ。
オデットは、父への手紙を折った。
封筒へは入れなかった。
「わたくし」
声が震えた。
「今、何と申し上げればよいか、わかりません」
「はい」
「でも、お部屋へ帰ってほしくありません」
テオバルトの目が柔らかくなった。
「それで、十分です」
図書室へは行かなかった。
代わりに、部屋の窓辺の腰掛けへ二人で座った。
雨が硝子を流れ、庭の輪郭をぼかしている。
テオバルトは何か話そうとするたび、少し考えて口を閉じた。
オデットも同じだった。
「手紙なら、こんなに黙らないのに」
彼女が言うと、夫は笑った。
「手紙でも、黙っていましたよ。あなたには、その間が届かなかっただけです」
その考え方が面白かった。
薄青い紙の行間には、迷っていた時間が入っていたのだ。
オデットは隣の手を見た。
今日は、先に触れたかった。
自分の指をそっと重ねると、テオバルトが動きを止めた。
「わたくしも」
彼女は言った。
「殿下が、ほかの方と昔のお話をなさると、知らないことがあるのが寂しくなります」
「ええ」
「これからのことなら、わたくしも知っていていいでしょうか」
返事の代わりに、手が握られた。
オデットは夫を見上げる。
今度は、どこへ顔が近づいてくるのかわかった。
額ではなかった。
彼が途中で止まり、彼女を見る。
オデットは目を閉じた。
触れた唇は、思っていたより温かかった。
短く離れた後、どちらも何も言えなかった。
雨の音だけが続いている。
オデットは、繋いだ手を見た。
自分の指が、彼の指を強く握っていた。
「……お返事は」
夫が尋ねる声に、珍しく自信がなかった。
オデットは顔を上げずに言った。
「もう少し、ここにいてください」
テオバルトが息を吐いた。
ほっとしたような、その反対のような息だった。
「はい」
彼は彼女の髪へ頬を寄せた。
仕事も、贈り物も、誰かへ報告できる成果もない午後だった。
それでもオデットは、自分の席がここにあることを、少しだけ信じられた。




