第07話 踊れない理由
披露宴の衣装を決める日、オデットは鏡の前で、青い絹を胸元へ当てていた。
淡い色だった。晴れた日の空より少し灰色がかっている。
衣装師は深い紅を勧めた。
「お髪のお色が映えますし、大公妃殿下として初めてのお披露目には、こちらのほうが」
似合うのだろうと思う。
鏡で合わせてみても、確かに綺麗だった。
でも、青い布から手が離れなかった。
「こちらでは、いけませんか」
「いけないことはございません。ただ、少し控えめかと」
控えめ。
王宮で何度も聞いた言葉だった。
褒めるときにも、注意するときにも使われるので、本当の意味がわからなくなる。
オデットは青い布を指で撫でた。
あの人の返事が入っていた封筒と、似た色だった。
「これが好きです」
衣装師は少し考え、銀の細い飾り紐を取り出した。
「では、首元にこちらを。一筋光があれば、沈みません」
断られたわけではない。
自分が選んだ後で、それをよくする方法を考えてくれている。
オデットは胸の布を、もう一度鏡に映した。
「お願いします」
披露宴には、公国の貴族と、近隣の使節が招かれた。
大広間から猫の姿は消え、代わりに花が並んでいる。
白い花の間に、赤い薔薇が少しだけ混じっていた。
オデットは会場へ入る前にそれを見つけた。
「治ったのですか」
「別の畑から、切って持ってきました。株を戻すのは秋です」
テオバルトが答える。
婚礼の日よりも、今夜の彼は緊張していた。
自分を隣へ立たせるのが不安なのだろうか、と考えかけて、オデットは止めた。
今の人に聞く。
手紙の推測ではなく。
「何か、心配なことが?」
テオバルトは言いよどんだ。
「最初の踊りです」
「お嫌いなのですか」
「得意ではありません」
意外だった。
女性と踊るときも手袋を脱がない、という噂から、冷たい顔で完璧に踊る姿を想像していた。
「いつも、どのように」
「なるべく早く終わる曲を」
オデットは声を立てずに笑った。
夫が真剣に困っているので、笑ってはいけない気もしたが、おかしかった。
「では、わたくしを見ていてください」
「あなたを?」
「足元を見ると、かえって遅れます」
テオバルトは彼女を見た。
見つめられると、こちらのほうが落ち着かなくなる。
急いで言い足した。
「今ではなく、踊るときに」
「そうですね」
口元が少し緩んだ。
扉が開く。
夫の腕に手を添えると、広間の人々が一斉にこちらを向いた。
挨拶は次々に続いた。
名を覚え、祝福に礼を返し、母国の王の健康を尋ねられれば、つつがなくと答える。
慣れた仕事だった。
自分にできることがあるとわかると、オデットは少し落ち着いた。
ただ、隣に立つ夫が、時々こちらを見る。
返事を間違えたかと胸が縮むたび、彼は水の杯を少し近づけてくれた。
それだけだった。
監督されているのではない。
喉が渇いていないか、気にされているのだ。
ラウエン伯爵夫人が来たときには、自然に笑えた。
「今日はお鉢をお持ちではないのね」
「夫が持ってくださいましたので」
「まあ、そうだったわ」
夫人は楽しそうに目を細めた。
「青がよくお似合いですわ。ご自分で?」
「はい」
「素敵。殿下はいつも、贈り物になると急に豪華すぎる物をお選びになるから」
オデットは夫を見た。
テオバルトは水を飲んでいた。
十二種類の菓子を思い出して、彼女は笑いをこらえた。
「はい。存じております」
伯爵夫人が驚き、それから笑った。
昔を知る人に、今を少しだけ返せた。
最初の曲が始まった。
テオバルトは杯を置き、オデットの前へ立つ。
「お相手を」
「喜んで」
広間の中央へ進む。
手を重ねた瞬間、彼の右手がいつもより固いとわかった。
「大丈夫です」
小声で言う。
「わたくし、踊りだけは、たくさん練習しました」
「だけではないでしょう」
「今は、お返事より一歩目を」
夫が小さく笑った。
曲に合わせて動き始める。
確かに、得意ではなかった。
歩幅が慎重すぎる。回るときに少し遅れる。相手に合わせようとするあまり、自分から動けなくなる。
でも、オデットの足を踏まないようにと気をつける手は、嫌ではなかった。
「次、少し大きく」
「はい」
「今です」
裾が広がる。
彼の手が背に添えられた。
近い。
手を繋いだことはあるのに、こうして身体の向きが一緒に変わるのは違った。
オデットは息を吸い、夫の肩の向こうを見た。
「私を見るのでは?」
テオバルトが囁く。
言い返そうとすると、彼の目が笑っていた。
「意地悪ですね」
「少し余裕ができた」
オデットは笑った。
広間の灯りが、夫の髪の端に当たっている。
少し前まで、この顔を知らなかった。
今は、顔を見なくても手紙の筆跡が浮かぶ。
どちらも同じ人だということに、毎日少しずつ驚いている。
最後の回転は、綺麗に合った。
曲が止まると、拍手が起きる。
テオバルトは手を離す前に言った。
「助かりました」
「お礼は、人参以外で」
「考えておきます」
その短いやり取りを、他の誰も聞いていなかった。
たくさんの人に囲まれているのに、二人きりの場所がある。
オデットは、それを初めて知った。
しばらくして、母国の駐在使節が挨拶に来た。
クレマン伯爵ではなく、その部下のドランだった。
「お見事な踊りでございました」
「ありがとうございます」
「王宮でのご修練が、お役に立ちましたね」
反射的に頷きかけた。
隣へ戻ってきたテオバルトが、オデットの杯を受け取る。
彼女はその手を見ながら言った。
「夫が、合わせてくださいました」
ドランは愛想よく笑った。
「ご謙遜を。陛下もお喜びになります」
「そうであれば、嬉しいです」
「日々のご様子も、時折お知らせください。王女殿下のお手紙を、陛下はお待ちです」
オデットは返事をするまでに一拍置いた。
今まで、父が自分の手紙を待っていたことなどあっただろうか。
結婚前、別邸へ滞在したときに送った便りに、返事はなかった。
「近く、お送りいたします」
それだけ答えた。
使節が去ると、若い男が近づいてきた。
先ほど紹介された、東の領地の男爵子息だった。名はマティアス。
彼は少し緊張した顔で礼をした。
「大公妃殿下。庭がお好きだと伺いまして」
「はい」
「母が、ぜひ一度お話ししたいと。家では庭より母の命令のほうがよく育つと、父が申しております」
オデットは笑った。
青年も、ほっとしたように笑う。
肩の力が抜けると、案外気さくな人だった。
「こちらでも、庭師の言葉には逆らえません」
「それは、大公殿下も?」
オデットは隣の夫を見た。
テオバルトは、淡々と頷いた。
「特に、私が」
青年が笑う。
その輪に自分が自然に入っていることが、オデットには少し嬉しかった。
故国の宴では、若い男と話していると、すぐに女官が間へ入った。相手に気を持たせるな、と後で注意された。
ここでは、夫が隣にいる。
だから話せるのだと思った。
「母は花を切るのを惜しみすぎまして、客間の花瓶がいつも空なのです」
「わかります。咲いたばかりですと、もう少し鉢に置きたくて」
「では、今度は鉢ごと運ぶよう提案してみます」
青年は礼をした後、音楽のほうへ目をやった。
「もし、お疲れでなければ、次の曲を」
最後まで言う前に、テオバルトが杯を置いた。
「妻には、少し休んでもらおうと思っていました」
青年がすぐに身を引いた。
「これは、失礼を。長くお引き止めいたしました」
「いいえ。楽しいお話でした」
オデットは答えた。
疲れていることには、その時、初めて気づいた。
青年が去ると、テオバルトは何も尋ねず、窓に近い席へ彼女を誘った。
「少し、座りましょう」
手を取って歩き始めてから、オデットは一度、夫を見上げた。
「長く、立っておりましたね」
「はい」
「気づいてくださって、ありがとうございます」
テオバルトは、なぜか少し返事に詰まった。
それから、礼には及びません、と言う。
オデットは不思議に思ったが、椅子が近づくと、足の疲れのほうが気になった。
その短い間の意味を知るのは、翌日のことだった。
椅子に腰掛けると、靴の中の足がじんじんした。
「疲れましたか」
「少し。でも、楽しかったです」
「それなら、よかった」
オデットは、広間で踊る人々を眺めた。
色とりどりの裾が揺れる。
その中に、昔の自分がいない。
壁際で姉の帰りを待ち、余った花束を持つ娘は、ここにはいなかった。
自分は今、最初に踊った人だった。
「もう一度、踊れますか」
夫へ尋ねると、彼は少し驚いた。
「足は」
「休んだ後で」
「もちろん」
「今度は、もう少し遅い曲がいいです」
「私もです」
意見が合って、笑った。
そのとき、テオバルトが彼女の髪へ目をやった。
「小鳥を、また使ってくださった」
「好きなので」
「よかった」
夫は何か言いかけて、やめた。
オデットはそれを見逃さなかった。
「書こうとしたことは、教えてくださるのでしょう」
テオバルトは彼女を見た。
広間の音楽が、少し遠のく。
「今夜、あなたを見ている人が多い」
「初めてのお披露目ですから」
「ええ。それはわかっています」
彼は杯を置いた。
「それでも、もう少し私のほうを見ていてほしいと思った」
オデットは返事ができなかった。
大公の義務でも、文通相手への親切でもない言葉だった。
自分のことだけを、欲しがっている。
彼女は少し俯き、膝の上で指を重ねた。
「……今は、見ています」
テオバルトはその声を聞いて、やっと笑った。
遅い曲が始まるまで、二人は席を離れなかった。




