第06話 本物のおばあ様
「あなたが雀ね」
そう言った老婦人は、テオバルトによく似た灰緑の目をしていた。
ただし、笑わないと噂される甥と違い、その目の周りにはいくつも笑い皺がある。
オデットが名乗るより先に、両手を包まれた。
「来てくれてありがとう。遠かったでしょう」
「いえ、その」
「顔を見せて。まあ、本当に若い。わたくし、甥がようやく同年代の人を好きになったと聞いて、安心したのよ」
「叔母上」
後ろからテオバルトが言った。
声に、珍しく焦りがあった。
老婦人は振り返る。
「何か、間違えた?」
「順序が」
「では、最初から。はじめまして、エルザです」
元の『灰色の庭』だった。
エルザは大公の父の妹で、今は南の湖のほとりに暮らしている。
オデットの母国を訪れたことがあり、鉢を落とした女官を庇う王女の話を覚えていた人でもあった。
彼女は婚礼に間に合わなかったことを詫びると、荷物を置く前に温室へ行きたいと言った。
「見ておきたいのよ。わたくしが譲った頃は、もう少し歩く場所があったはずだから」
「今もあります」
「あなたの足の大きさに合わせた道でしょう」
テオバルトが黙る。
オデットは笑いそうになった。
人にやり込められる夫は、少し可愛い。
三人で庭へ出ると、エルザは杖を使いながらも、思ったより速く歩いた。
途中の花を見ては品種を当て、土の湿り具合へ文句を言い、窓辺のオデットの鉢を遠くから見つけた。
「あれは、わたくしが昔育てていた花ね」
「はい。最初は、母がくださった株でした」
母が生きていたときの株は、とうに枯れた。
挿し芽を取り、育て直し、また駄目にして、ようやく残った一鉢だった。
エルザは頷いた。
「生き延び方を覚えたのね」
花のことだった。
それでも、オデットは自分の手を見てしまった。
温室の三枚目の窓は、昨日磨いたばかりだった。
エルザは見上げて、ほう、と声を出した。
「光が入るようになったじゃない」
「二人で磨きました」
オデットが言うと、彼女は甥を見た。
「そう。二人で」
特別な意味をつけた言い方だった。
テオバルトは棚の鉢を並べ直し始めた。
エルザは小さな椅子へ座り、オデットを隣へ招いた。
「手紙のこと、怒ってもいいのよ」
唐突に言われて、オデットは姿勢を正した。
「男性だと知らなかったのでしょう」
「はい。でも、わたくしも王女だとは書かなかったので」
「それと、老婦人の筆名を使い続けたことは、少し違うでしょう。テオ、最初にきちんと書けばよかったのに」
「孫はいないと」
「わたくしにもいません」
夫が止まった。
オデットは、とうとう笑った。
自分を困らせた行き違いが、今は三人で笑える話になっている。
「こちらこそ、勝手におばあ様とお呼びしてしまって」
「呼んでちょうだい。甥よりは似合うでしょう」
エルザは彼女の手を軽く叩いた。
「ただ、甥は手紙を他人に見せる人ではないから、あなたが何を相談したのか、わたくしは知りませんよ。園芸の返事をしているのは聞いたけれど」
オデットは思わず息を緩めた。
その様子を見て、エルザが目を細める。
「安心したわね」
「少し」
「たくさん愚痴を言える相手は、大切だもの」
テオバルトが棚から花鋏を取り出す。
何かすることを探しているようだった。
オデットはその横顔を見た。
さっき、叔母は何と言っただろう。
同年代の人を好きになった。
あれは親戚の冗談だろうか。
結婚相手なのだから、好きに決まっているという、よくある祝福の言い方だろうか。
知りたかった。
でも、本人の前で聞く勇気はなかった。
午後、テオバルトが仕事に戻ると、エルザはオデットの部屋で茶を飲んだ。
窓辺の鉢を間近で見て、葉の向きを褒めてくれた。
「これは、あなたの仕事ね」
「教えていただきながらです」
「水を運んだのはあなたでしょう」
その言葉が、嬉しかった。
オデットは茶を注ぎながら、胸の中の疑問を何度も並べ替えた。
何から尋ねればよいのだろう。
夫は、女性と親しくなることがあったのか。
誰かに恋をしたことがあるのか。
自分へ向ける気遣いは、特別なものなのか。
どれも口に出すには、あまりに自分の期待が透けていた。
エルザは菓子を一つ取り、先に話し始めた。
「あの子、家でああやって笑うようになったのね」
「以前は、お笑いにならなかったのですか」
「笑っていたわ。ただ、いつも次にすることを考えていた」
オデットは茶器を置いた。
夫が人の話を聞くときの顔を思い出す。
何をしてほしいか、何を用意すればよいか。確かに、いつも探している。
「兄が亡くなってから、急に家の主人になったでしょう。まだ二十二で。きちんとしなければ、という癖がついたの」
「そうだったのですね」
「わたくしも、手伝えるだけ手伝ったけれど。年寄りの助言は、受け取るだけで仕事になることがあるから」
エルザは自分で笑った。
「だから、園芸誌の欄を譲ったのよ。返事を書けば、何かを命じる以外にも手を使えるでしょう」
オデットは窓辺へ視線を移した。
あの返事を書く人にも、そういう時間が必要だったのだ。
「わたくしは、困ったことばかり書きました」
「そう?」
「励ましていただいてばかりで」
「でも、笑えることも書いたでしょう」
オデットは考えた。
庭の雀が、女官長の帽子から飾り羽根を抜こうとしたこと。
花の名前を間違えて覚え、毒草に親しげな愛称をつけてしまったこと。
王宮の窓を磨く男が、作業の途中で居眠りして、硝子に額の跡を残したこと。
確かに、書いた。
「あると思います」
「あの子、ときどき声を出して笑っていたもの」
エルザはさらりと言った。
「手紙を読んで」
オデットの胸の奥で、小さなものがほどけた。
自分は助けられてばかりではなかったかもしれない。
遠い国で、大公になったばかりの若い男を、少し笑わせたことがあったのだ。
夕食の席で、エルザは城下の菓子の話を持ち出した。
「マルタに聞いたわ。買い食いをしたんですって?」
「はい」
オデットが答えると、テオバルトも頷いた。
「子供の頃から、あの林檎のが好きだったものね」
「叔母上も」
「ええ。あなたのお父様には黙っていた」
エルザは楽しそうだった。
昔からこの家にいた人の話を聞くのは、ラウエン夫人のときと違って寂しくなかった。
話の中へ、自分を招いてくれるからだろう。
「今度は三人で行きましょう」
オデットが言うと、エルザは首を振った。
「いいえ。それは二人でなさい。わたくしには、こっそり買ってきて」
「マルタには?」
「あの人にも一つ」
テオバルトが笑う。
オデットは笑いながら、ふと思った。
自分もいつか、この家の昔話をする人になるのだろうか。
大公殿下は、林檎を上着につけたことがあるのですよ、と。
その未来が、怖くなかった。
エルザが早く休んだ後、テオバルトはオデットを部屋まで送った。
廊下の窓に、二人の姿が薄く映る。
オデットは扉の前で立ち止まった。
「今日は、楽しかったです」
「叔母が、何か余計なことを」
「お話ししてくださいました」
テオバルトが眉を下げた。
彼女は少し勇気を出した。
「わたくしの手紙で、お笑いになったと」
「……それは」
「嬉しかったです」
夫の顔が変わった。
困っていたものが、静かにほどける。
「面白い手紙でしたから」
「愚痴ばかりではありませんでしたか」
「女官長の帽子から、雀が羽根を盗んだお話は、何度も読みました」
「わたくしより大胆な雀だと、書いたのでしたね」
「ええ。次の便りでは、逃げ切ったと教えてくださった」
二人で笑った。
笑った勢いが消えないうちに、オデットは尋ねた。
「おばあ様は、その……わたくしの手紙が届くのを、待っていてくださいましたか」
テオバルトは、廊下の奥を一度見た。
誰もいなかった。
「待っていました」
「そうですか」
「来ない月は、園芸誌の編集部へ問い合わせようかと思うほど」
オデットは目を見開いた。
「おばあ様が?」
「私が」
その訂正で、胸が跳ねた。
テオバルトは少し迷った後、続けた。
「一度、返事に、自分の名を書こうとしました」
「お名前を」
「お会いしたいと、添えて」
廊下が、急に静かになった気がした。
遠くで扉の閉まる音がする。
「いつですか」
「去年の冬です」
結婚の話が来るより前だった。
彼は自分が王女だと知らなかった。
それでも、会いたいと。
「どうして、書かなかったのですか」
オデットの声は小さかった。
テオバルトは、その小ささに合わせるように答えた。
「あなたが、おばあ様には何でも話せると書いてくれたので」
「あ」
「男性だとわかれば、その場所を失わせるかもしれないと思いました」
彼女は扉の取っ手から手を離した。
当時の自分なら、確かに怯えたかもしれない。
知らない男性へ手紙を送ることは、王宮で許されなかった。老婦人との園芸の話だからこそ、女官たちも深く調べなかったのだ。
でも。
「今は、もう知っています」
「はい」
「なので、これからは、書こうとしたことを……教えてください」
テオバルトは返事をしなかった。
代わりに、彼女の右手を見た。
オデットは、自分から少しだけ手を上げた。
夫の手が重なる。
婚礼の時と同じ手なのに、今は誰も見ていない。
「あなたに、会いたかった」
テオバルトが言った。
オデットは指を握り返した。
「はい」
「顔を知った今は、もっと」
返事を探しても、言葉は見つからなかった。
だから手を離さずにいた。
そうしているだけで、今まで紙の中にしかなかった三年間が、二人の間へゆっくり降りてくる気がした。




