第05話 夫婦の買い食い
城下へ出かける日、オデットは、用意された三着の外出着の前で固まった。
「お好きな物を」
リナは言った。
親切な言葉だ。
それが毎朝、自分を小さな試験の前へ連れていく。
青は大公妃らしい。白は汚れそう。薄茶は地味すぎるだろうか。
リナは答えを急かさず、窓辺の鉢を回していた。
「こちらの花、蕾がつきましたね」
「本当?」
衣装のことを忘れて駆け寄ると、小さな緑の粒が葉の間にあった。
オデットは顔を近づけた。
旅を越えた。
ここで咲くかもしれない。
嬉しくなって振り向いたとき、薄茶の服が目に入った。
「それにするわ」
「かしこまりました」
「土がついても、目立たなさそう」
「本日は温室ではなく、街へお出かけでございますよ」
「ええ。でも、何があるかわからないでしょう」
リナは満足そうに服を取り上げた。
馬車は市場の手前で止まった。
護衛はいたが、儀仗の兵列はなかった。大公が出歩くたびに城下を止めていては暮らせない、とテオバルトが説明した。
大通りには石畳が敷かれていたが、横道に入ると土が覗く。
魚屋の呼び声。金具を打つ音。熱い油と焼けた粉のにおい。
オデットは、自分の目が忙しく動くのを感じた。
「どこへ行きましょう」
テオバルトが尋ねる。
「どこまで、行ってよいのですか」
「午後に戻れるところまでなら」
「本屋も?」
「あります」
「種屋は」
「角を曲がったところに」
「では、そちらへ」
彼が歩き出す。
オデットは横に並ぼうとして、一歩遅れた。
王宮で父や姉の横を歩くことはなかった。身体が覚えている距離だった。
テオバルトは二歩先で止まった。
振り返る代わりに、道端の店を眺める。
オデットが隣へ来ると、また歩き出した。
何も言われなかったので、恥ずかしくならずに済んだ。
種屋では、店主がすぐに大公へ頭を下げた。
「例の苗ですが、あと一月は」
「今日はそちらではなくて」
テオバルトがオデットを紹介する。
店主の目が丸くなり、帽子を取り落としそうになった。
「これは、大公妃殿下。まことに、その」
「お仕事の途中に、すみません」
「とんでもございません」
店主は棚の最上段から豪華な種袋を出そうとした。
オデットはその前に、小さな素焼きの鉢を指した。
「こちらを見せてください」
「普段使いの物ですが」
「はい」
手のひらに載せると、ちょうどよい大きさだった。
新しい苗を育てたら、夫の温室へ持っていける。
まだ何を植えるかも決めていないのに、置く場所だけ先に思い浮かんだ。
テオバルトが、棚の札を見た。
「似た物が館にもあります」
「底の欠けていない物が欲しいのです」
店主が噴き出しかけ、咳へ変えた。
大公は、否定しなかった。
「それは確かに」
鉢を二つ買った。
一つは窓辺に。一つは温室に。
夫が支払いをしようとしたとき、オデットは持参した小さな財布を出した。
「わたくしが」
「持ちますよ」
「お金です」
「……そうでした」
テオバルトは財布をしまい、包みのほうを受け取った。
やり取りがおかしくて、オデットは店を出てからも笑っていた。
市場の広場で、焼き菓子の屋台を見つけた。
平たい鉄板で焼いた生地を、折り畳んで紙に包んでいる。中から甘い匂いがした。
オデットの足が少し遅くなった。
テオバルトは、今度はすぐ気づいた。
「食べますか」
「……外で?」
「ここで売っていますから」
「そのまま、歩きながら」
「座る場所もあります」
オデットは屋台と夫を見比べた。
「お作法としては」
「マルタに見つからなければ」
冗談だとわかるまで、少しかかった。
わかったら、もう食べたかった。
テオバルトが二つ買った。
夫婦は噴水の縁へ腰を下ろした。
護衛たちは見える距離で別の方向を向いている。
紙に包まれた菓子は熱く、どこから食べればよいかわからなかった。
テオバルトが自分の分の上を少し折る。
真似をしてかじると、中から煮た林檎が現れた。
「おいしい」
考える前に声が出た。
彼が顔を向ける。
「それはよかった」
「温かいのですね」
「焼きたてです」
「城でも、いただけるのでしょうか」
口にした途端、テオバルトが何かを手配する顔になった。
オデットは慌てて笑った。
「違います。今のは、注文ではありません」
彼も笑った。
「危なかった」
屋台のそばで、小さな女の子が父親へ両手を差し出していた。
片手に菓子、片手に木の笛。どちらも離したくないらしい。
父親が笛を預かろうとすると、女の子は首を振った。
結局、父親が菓子を持ち、女の子がそこへかじりついた。
オデットはその様子を、つい見続けてしまった。
「持ちましょうか」
テオバルトが尋ねる。
「わたくしは、一人で食べられます」
「いえ。鉢の包みが、膝から落ちそうです」
オデットは慌てて包みを押さえた。
夫の目が笑っている。
「今のは、忘れてください」
「努力することが、増えましたね」
「そんなに、覚えていらっしゃらなくても」
恥ずかしさをごまかすように菓子をかじると、中の林檎が少し熱かった。
オデットが口元を押さえ、テオバルトは笑うのをやめた。
「水を」
「大丈夫です」
「ゆっくり」
結局、菓子も包みも一度夫へ預け、彼女は水を飲んだ。
何も一人で食べられない子供と同じではないか。
そう思って顔を上げると、テオバルトは彼女の分の紙の端を折り直していた。
手際はよくなかった。
不器用な指で、熱いところを持たずに済むよう考えている。
見ていると、恥ずかしさより嬉しさが勝った。
「ありがとうございます」
受け取るとき、彼の指へ自分の指が触れた。
それを偶然のままにせず、一度だけ握った。
テオバルトが驚いて彼女を見る。
オデットは何も説明せず、もう一口食べた。
粉砂糖が手袋に落ちた。
オデットはそれを払い、もう一口食べた。
向かいの噴水には子供が二人、木の葉の舟を浮かべていた。年上の子が小さい子の舟を押してやる。流れが悪く、二つともすぐ同じ場所へ戻ってくる。
何も特別ではない午後だった。
王宮では、こういう時間が自分以外の人にだけあると思っていた。
「殿下は、よく召し上がるのですか」
「学生のころは」
「今は?」
「一人で座っていると、用事のある人が順番に来るので」
「今日は、来ませんね」
テオバルトは広場を見た。
確かに、こちらに気づいて会釈する人はいるが、誰も近づいてこない。
「あなたといるからでしょう」
オデットは菓子を持つ手を止めた。
自分がいるために、この人の時間が守られる。
そんなことがあるのだ。
何か役に立つ仕事をしたわけでもないのに。
彼女は噴水に浮かぶ舟を見て、小さく言った。
「では、もう少し」
「はい」
「座っていましょう」
テオバルトは頷いた。
二つの木の葉が、また戻ってきた。
帰り道、服飾店の前で、身なりのよい女性に声をかけられた。
「大公殿下」
黒い髪を華やかに結った、三十歳ほどの女性だった。
テオバルトが彼女を紹介する。
隣領のラウエン伯爵夫人。亡き大公の友人の娘で、幼いころから館へ出入りしていた人だという。
オデットは礼をした。
夫人は笑顔で祝辞を述べ、彼女の手元を見た。
粉砂糖のついた手袋。
夫が持つ素朴な紙包み。
「殿下が、お買い物にお付き合いになるなんて」
「鉢を買っただけです」
テオバルトが言った。
「まあ。相変わらず、花にはお優しいのね」
気安い言い方だった。
オデットは、自分の笑顔が少し固まるのを感じた。
夫人に意地悪のつもりはなかったかもしれない。
ただ、自分がまだ知らない年月を、簡単に言葉へできる人なのだ。
「大公妃殿下も、ご苦労なさるでしょう。昔から、黙って庭に逃げてしまう方ですもの」
オデットは夫を見た。
テオバルトは反論しなかった。
昔から知る相手への、慣れた沈黙だった。
「庭では、よくお話しくださいます」
気づいたら言っていた。
伯爵夫人の眉が上がる。
「そうですの?」
「はい。鉢の底が欠けていても捨ててはいけない理由ですとか」
夫がこちらを見る。
「水をやりすぎた種のお話ですとか。窓を二枚しか磨かなかったことも」
ラウエン夫人が笑った。
今度は形式の笑みではなかった。
「それは、ずいぶんお話しになったこと」
「ええ」
オデットは、粉砂糖のついた手を下げなかった。
「楽しいです」
隣で、テオバルトが紙包みを持ち替えた。
夫人は披露宴でまた会いましょうと言い、店へ入っていった。
角を曲がってから、オデットは息を吐いた。
「失礼だったでしょうか」
「いいえ」
「少し、言いすぎました」
「私は、嬉しかった」
足が止まりそうになった。
テオバルトは歩く速さを落とした。
「あの人に勝とうとしなくても、よかったのですが」
「勝とうとしたのでは」
言いかけて、オデットは黙った。
庭で黙っている夫の昔を、自分よりよく知る人がいる。
そのことが、面白くなかった。
正直に考えると、理由はそれだけだった。
「……少し、しました」
テオバルトがこちらを向いた。
笑うかと思った。
彼は笑わず、声を低くした。
「それも、嬉しいです」
オデットは顔を上げられなくなった。
夫婦の買い物には、思っていたより危険なことがある。
館へ戻ると、マルタが二人を迎えた。
彼女はオデットの手袋を見て、それからテオバルトを見た。
「林檎でございましたか」
「どうしてわかる」
「殿下の上着に」
紺の布に、飴色の小さな染みがついていた。
オデットは笑いをこらえた。
テオバルトは降参したように包みを差し出す。
「鉢です。割れない所へ」
「先に、お召し替えを」
大公が叱られている。
そんな帰宅が、ひどく幸福だった。
部屋へ戻り、リナに今日の話をしながら手袋を外す。
指に少しだけ砂糖が残っていた。
オデットは机に向かい、薄青い紙へ書いた。
今日の好きな物は、城下の林檎のお菓子です。
ただし、二つ買ってください。
返事には、こうあった。
次は、もう少し上手に食べます。
オデットは笑って、その下へ書き足した。
上手でなくても、またご一緒したいです。




