第04話 願いごとの失敗
夫婦になって三日目、オデットの朝食に、苺の菓子が十二種類並んだ。
皿を運ぶ料理長は誇らしげだった。
薄い焼菓子、粉砂糖を振った小さなケーキ、赤い実を閉じ込めた冷菓。皿の端には、飴で作った葉まで添えられている。
オデットは夫を見た。
テオバルトは、よいことをした人の顔ではなかった。
試験の結果を待つ人の顔をしていた。
「どうぞ」
「……どれを」
「お好きな物を」
好きな物と言われると、急に難しくなる。
オデットは一番小さな焼菓子を選んだ。
料理長が深々と頭を下げる。
「その品は、殿下のお好みを伺って、甘さを控えてございます」
お好み。
オデットは、三年前の手紙を思い出した。
誕生日に、苺の菓子を一つも食べられなかった。
姉の招いた友人たちへ出されて、残ったのは乾いたビスケットだけだった。取り置いてほしいとは言えなかったので、自分が悪いのだと書いた。
あの話だった。
胸が柔らかくなる。
けれど同時に、十二枚の皿の向こうで料理長が待っていることが気になった。
「おいしいです」
食べてから言った。
それは本当だった。
料理長は満足そうに下がり、二人きりになると、テオバルトも焼菓子に手を伸ばした。
「甘さは、このくらいで?」
「はい」
「別の果物のほうがよければ」
「いえ、苺が好きです」
「よかった」
彼は安心した。
オデットも安心させたかった。
だから二つ目を食べた。
三つ目まで食べたところで、リナが茶を足しながら、静かに皿の半分を片づけた。
助かった、と思った自分が後ろめたかった。
その日は昼にも贈り物があった。
図書室の書棚に、園芸の本が二十冊増えた。
夕方には、花鋏と手袋と小さな熊手が届いた。
翌朝には、城下で評判の靴屋がやって来た。
「歩きやすい靴を、ご希望と伺いました」
靴屋はオデットの足の形を測りながら言った。
確かに書いた。
故国の庭は広いのに、礼装用の靴では一周する前に足が痛むと。
ありがたかった。
嬉しくもあった。
ただ、夕刻、刺繍枠を持った職人まで部屋へ案内されたとき、オデットは小さく息を止めた。
もう、何を喜べばよいかわからなかった。
「小鳥の模様で、よろしゅうございますか」
「何の」
「お部屋の帳でございます。大公殿下が、灰色では寂しいだろうと」
窓辺を見る。
今の帳は薄い灰色だった。
陽を通すと銀色に見えて、オデットは気に入っていた。
変えると言ったら、テオバルトが選んだ職人は喜ぶだろう。
変えないと言ったら、この人は無駄足になる。
どちらが正しいのか考え始めた自分に、オデットは気づいた。
故国にいたときと同じだった。
「……今のままが、好きです」
小さくても、聞こえる声で言った。
職人は帳を見て、頷いた。
「では、お困りになってから伺いましょう」
怒らなかった。
拍子抜けするくらい、普通の返事だった。
夕食の前に、オデットは夫の執務室を訪ねた。
扉の前で、三度、息を整える。
中からフリッツが出てきた。
「大公妃殿下」
「今、お時間は」
「ちょうどございます」
彼は迷いなく扉を開けた。
テオバルトは書類から顔を上げ、すぐに立とうとした。
「どうしました」
「座っていてください」
言ってから、オデットは自分も椅子に座った。
大公の執務室は広くなかった。机の後ろの棚には本と、小さな木箱が混じっている。花の絵が入った額が壁に掛かっていた。
部屋の持ち主らしい物を見つけると、少し話しやすくなった。
「今日は、ありがとうございました」
「靴は合いそうでしたか」
「はい。とても」
「帳のことは聞きました。好みを取り違えたようで」
「違います。あの、そうではなくて」
オデットは膝の上の指をほどいた。
手紙なら、何度でも書き直せる。
今は書き直せない。
それでも、紙へ逃げたくなかった。
「一度に、こんなにたくさんは、受け取れません」
テオバルトの表情が固まった。
「負担でしたか」
「少し」
「申し訳ない」
「謝っていただきたいのではなくて」
彼が言葉を止めたので、オデットは続けられた。
「あの手紙は、注文書ではありません」
部屋が静かになった。
言い方がきつかったかもしれない。
オデットは唇を噛んだが、彼は怒らなかった。
「……そうですね」
ゆっくり、頷いた。
「そうでした」
「嬉しかったのです。覚えていてくださって。でも、一つも無駄にできないと思うと、お菓子を食べるのも少し怖くなって」
「十二種類は、多すぎた」
「おいしい物ほど、残すのがつらいので」
テオバルトは両手を組み、机の縁を見た。
オデットは、その姿を初めて見た気がした。
手紙の中で何でも知っていた人が、目の前で、答えを持たずに座っている。
「あなたが欲しいと書いた物を、渡せる場所に来てくれたので」
彼は言った。
「長く待たせた分まで、と。勝手に考えました」
「殿下が、待たせたのではありません」
「ええ」
「お返事は、いつもくださいました」
言ったとたん、彼が顔を上げた。
「誕生日のお菓子がなくなったとき、来年は食べられたと聞きたい、と書いてくださったでしょう」
「覚えています」
「わたくしは、来年のことを考えてくれる人がいると知っただけで、嬉しかったのです」
テオバルトはしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「今年は、同じ卓で食べられる」
「はい。一緒に、おいしいと言ってくださったら」
卓いっぱいの菓子より、その顔をもっと見たかった。
オデットは少し笑った。
「苺のお菓子は、一つでよかったのです」
「明日から一つに」
「毎日でなくても」
「……そうか」
二人とも笑ってしまった。
声に出して笑うと、話しに来るまでの怖さが薄れていった。
「今のわたくしに、聞いていただけますか」
オデットは言った。
「三年前の手紙ではなくて」
テオバルトは椅子の背から身体を起こした。
「今、何をしたいですか」
あまりにまっすぐ尋ねられて、オデットはまた考え込んだ。
それを見た彼が、急いで付け加える。
「明日でも、構いません」
「いいえ。あります」
指で窓を示した。
庭の奥に、赤茶色の屋根が見える。
「あそこへ、行ってみたいです」
「古い温室です」
「はい」
「まだ片づいていません」
「わたくし、片づいたお部屋は、もうたくさん見ました」
テオバルトは、予想外のことを言われた顔をした。
それから笑った。
「では、靴を汚してもよければ」
温室には、割れた植木鉢と、土の袋と、枯れた枝があった。
美しく整えられた秘密の庭を期待していたわけではない。
それでも、ここまで散らかっているとは思わなかった。
入り口の棚から、片方しかない手袋が垂れている。鉢の札は三枚が逆さまで、踏み台の上に読みかけの本が開かれていた。
「……殿下の?」
「私のです」
テオバルトは覚悟した顔で言った。
「園丁のエーミルには、触らないよう頼んでいます」
「どうして」
「場所が、わからなくなるので」
オデットは彼を見上げた。
彼は目をそらした。
「今も、わからない物はあります」
笑いをこらえきれなかった。
肩を揺らして笑うと、テオバルトまで困ったように笑った。
「おばあ様のお庭は、もっと立派だと思っていました」
「手紙には、見える範囲しか書きませんでした」
「窓を二枚磨いた、とありましたね」
「その二枚です」
残りの硝子は曇っていた。
オデットは指を伸ばし、埃の上に短い線を引いた。
線の向こうに、夕空の青が現れた。
「ここを、わたくしも使ってよいですか」
「もちろん。片づけさせましょう」
「いいえ」
彼は、今度はすぐに気づいた。
「一緒に?」
「はい」
オデットは床の鉢を持ち上げた。
乾いた土のにおいがした。
久しぶりに、何を喜ぶべきか考えなくてよかった。
「これは、捨てても?」
「待ってください。底が少し欠けているだけです」
「少し、でしょうか」
「挿し木には使えます」
「では、こちらは」
「それは捨てていい」
片づけはゆっくり進んだ。
一つどけるたびに、テオバルトの説明がつく。去年うまく育たなかった種。買った時には綺麗だった鉢。針金の曲げ方を試した木片。
どれも、オデットをもてなすための話ではなかった。
夫自身の、どうでもよくて、大事な話だった。
棚の奥から小さな札が出てくる。
そこには、見慣れた字で『雀、六月』と書いてあった。
「これは?」
テオバルトが手を止めた。
「あなたが送ってくれた種です」
「咲きましたか」
「少しだけ」
「少し」
「水をやりすぎた」
オデットは彼を見た。
彼は先に言った。
「待つ勇気が足りなかったのです」
また、笑ってしまった。
おばあ様も失敗する。
夫も、手紙を書きながら何かを駄目にしている。
その発見は、十二種類の菓子よりずっと気持ちを軽くした。
陽が傾いたころ、二人の手は土だらけだった。
オデットの頬にも汚れがついていたらしく、テオバルトが指で自分の頬を示す。
拭ったら、かえって広がった。
「失礼」
彼はきれいな布を水で湿らせた。
オデットが受け取ろうとすると、少しだけ躊躇してから、手渡してくれた。
昨日なら、そこでほっとしただろう。
今日は、受け取った布を持ったまま、尋ねた。
「ここですか」
「もう少し上です」
「この辺り?」
「……私が、よければ」
頷くと、テオバルトの指が布越しに頬へ触れた。
土を拭うだけの短い時間だった。
それでも、オデットは息を止めてしまった。
人参を皿から除いてくれる手と、鉢を守る手と、自分に触れる手は、同じ手なのだ。
彼が布を下ろす。
「取れました」
「ありがとうございます」
テオバルトの耳が、少し赤かった。
オデットは自分だけではないと知って、胸の奥で小さく喜んだ。
その夜、机の上に一枚の紙が届いた。
今日のあなたは、何がお好きでしたか。
オデットはすぐに返事を書いた。
窓を二枚しか磨かなかった方のお庭です。
しばらくして、同じ紙が戻ってきた。
明日は三枚目を。
オデットはその下に、小さく書いた。
一緒に。




