↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/32

第03話 誓いの前に一つだけ

 婚礼の朝、オデットの皿には人参がなかった。

 テオバルトの皿にはあった。

 それだけのことで、昨夜の会話が夢ではなかったとわかった。

「おはようございます」

「おはようございます」

 目を合わせて挨拶した後、二人とも少し笑った。

 給仕をしていた若い女性が、扉の陰で誰かに小さく頷いている。

 オデットは気づかないふりをした。自分たちはどうやら、館じゅうから心配されているらしい。

 朝食を終えるころ、フリッツが革の書類挟みを持ってやって来た。

「故国からのご使節が到着しております。祝辞と、いくつか確認事項が」

 オデットの指が止まった。

 昨日までは、国境の向こうへ出たら王宮の空気から離れられると思っていた。

 けれど空気は、人が持って来る。

「どなたが」

「クレマン伯爵でいらっしゃいます」

 父王の古くからの側近だった。

 オデットが十歳で母を亡くしたとき、葬儀の列で泣く顔を隠すよう注意した人でもある。

 銀の匙を皿に置くと、予想より大きな音が出た。

「私が先に会いましょう」

 テオバルトが立ち上がった。

 その自然な動作に、ほっとしかけた自分をオデットは止めた。

「わたくしも参ります」

「支度があるのでは」

「まだ、間に合います」

 何を言われるかわからないまま、別室で待つほうが怖かった。


 伯爵は客間で茶を飲んでいた。

 オデットを見ると立ち上がったが、その目は部屋着の裾から襟元までを順に見た。

「お健やかで何よりでございます、王女殿下」

「ありがとうございます」

「陛下も、北の寒さを案じておられました」

「こちらは温かくしていただいております」

 父が寒さを案じるほど自分を思い出したのか、祝辞に必要だからそう書かれたのか。どちらでも同じことだと、オデットは考えた。

 クレマンはテオバルトへ向き直り、整った言葉を連ねた。

 両国の友誼。末永い繁栄。亡き王妃も喜ばれているだろうという、おそらく本人にしかわからない推測。

 オデットは膝の上で手を組んだ。

 祝辞が終わると、伯爵は細長い箱を取り出した。

「陛下より、婚礼にお使いいただくようにと」

 蓋の内側に、白い石をつないだ首飾りが入っていた。

 故国の王家が、花嫁へ貸し与える品だった。

 オデットは顔を上げた。

「姉上がお使いになるのでは」

「第一王女殿下のご婚約は、まだ正式ではございませんので」

「そうでしたね」

「こちらの首飾りは、式の後、お預かりして戻ります」

 貸与品なのだから当然だ。

 わかっているのに、白い石がひどく冷たく見えた。

「それから、儀式でのご署名ですが」

 伯爵は紙を一枚広げた。

「殿下には生家の名を先にお書きいただきます。陛下の御息女であることを、第一に」

「当地の式次第では、大公妃としての名を記すことになっています」

 テオバルトが静かに言った。

「承知しております。両方を並べればよいのです。ただ順序だけは」

 伯爵の説明を聞く間、オデットは紙を見た。

 自分の名が、見本としてすでに書かれている。

 長い称号の後に、生家の家名。

 オデットという五文字は、その途中に挟まっていた。

「わたくしは、こちらの式に従います」

 言った瞬間、伯爵が笑った。

 子供が難しいことを口にしたときの笑い方だった。

「王女殿下。大切なのは、形式そのものではございません」

「でしたら」

「陛下のお心を」

「形式ではないのでしたら、こちらの決まりでもよろしいでしょう」

 最後まで言えた。

 オデットは自分で驚いた。

 伯爵も驚いていたが、その顔はすぐに元へ戻った。

「長旅でお疲れのようです」

「疲れてはいます。でも、今のお返事とは別です」

 隣で、テオバルトが少しだけ身体の向きを変えた。

 助け船を出すのかと思った。

 彼は何も言わず、ただ、オデットが話し終えるのを待った。

 それが思いがけず心強かった。

「父上には、故国への感謝を忘れずに式に臨むとお伝えください」

 感謝が何に対するものなのかは、探さなかった。

「それと、この首飾りは使いません」

 伯爵の指が、箱の蓋で止まる。

「お気に召しませんか」

「式のすぐ後に、お返しするために外すのは寂しいので」

 言ってしまってから、わがままだと思った。

 きっと伯爵もそう思った。

 けれど今は、誰も訂正しなかった。

「使わなかった理由は、私からも陛下へお伝えできます」

 テオバルトが言った。

 伯爵が夫を見る。

「妻が選んだ装いで、式を挙げたいと。私の希望でもありますから」

 オデットは膝の上で握っていた指をほどいた。

 わがままを我慢してもらっているのではなかった。

 自分と同じことを望む人が、隣に座っている。

 テオバルトは立ち上がり、客間の扉を開けた。

「では、式でお会いしましょう。妻には支度がありますので」

 妻。

 その一言を、オデットは部屋へ戻るまで胸の内で持っていた。


「首飾りを、お断りになったと」

 リナに聞かれ、オデットは鏡の前で頷いた。

「ごめんなさい。何もなくなってしまったわ」

「謝ることではございません。こちらの襟でしたら、むしろ首元は空いていたほうが綺麗です」

 婚礼衣装は故国で作られたものだった。

 真珠色の絹。胸元には細い刺繍。王女の婚礼にしては簡素だと女官たちは言ったが、オデットは重くないところを気に入っていた。

 リナが髪をほどき、半分だけ編んで留める。

 首の後ろが少し心もとなかった。

 叩扉の音がして、マルタが小箱を持って入ってきた。

「大公殿下からです」

 オデットは反射的に身構えた。

 また、誰かが選んだ首飾りだろうか。

 箱の中には、銀の小さな髪飾りが入っていた。

 細い枝に、小鳥が一羽止まっている。

 添えられた紙を開く。


 婚礼用に選んだ物ではないので、使わなくても構いません。

 あなたが誰だかわかる前から、いつか送ろうと思っていました。

 首飾りの代わりには、小さすぎるかもしれませんが。


 オデットは、小鳥の背に指を当てた。

 雀。

 いつか送ろうと思っていた。

 王女だと知られる前から。

「……これを、お願いします」

 リナの声が、少し柔らかくなった。

「はい」

 鏡の中で、小鳥は耳の後ろへ収まった。

 白い石よりずっと小さく、ずっと重かった。


 礼拝堂までの短い廊下で、テオバルトが待っていた。

 花嫁と花婿は別々に入るものだと思っていたので、オデットは足を止める。

「こちらでは、一緒に?」

「どちらでも。あなたのご希望を聞きそびれた」

「一緒が、いいです」

 返事をすると、彼が頷いた。

 濃紺の礼服の襟元に、白い小花が挿してある。右手の手袋は外されていた。

 髪飾りを見つけた彼の目が、わずかに見開く。

「似合っています」

「ありがとうございます」

「本当に」

 付け足された言葉に、オデットは俯いた。

 褒め言葉はたくさん知っている。社交の場にはいくらでも落ちていた。

 でも、この人は二度言う。

 きっと、紙の上に書き損ねた分まで、声で届けようとしている。

「式の前に、一つだけ聞いてもいいでしょうか」

 オデットが言うと、彼は表情を引き締めた。

「もちろん」

「この結婚が決まったとき、わたくしが雀だとは、知らなかったのですよね」

「知りませんでした」

「では、どうして承知なさったのですか」

 テオバルトはすぐに答えなかった。

 礼拝堂から、椅子を引く音が聞こえる。

「結婚の必要がありました。両国の関係にとっても、悪くない話だった」

 予想した返事だった。

 オデットは頷こうとした。

 彼が続ける。

「あなたについて調べた人は、従順で、控えめで、趣味らしい趣味もないと報告しました」

「そうでしょうね」

「ただ、私の叔母が一度だけ故国へ行ったことがありまして。そのとき、鉢を階段から落としてしまった女官を、一人だけ庇った王女がいたと」

 覚えていた。

 五年前のことだ。

 あの女官は新入りで、まだ王宮の階段に慣れていなかった。植え替えたばかりの鉢はひどく重くて、オデットが持って行ってほしいと頼んだのだった。

 自分が頼んだのだから、自分の責任だと言っただけだ。

「叔母は、その人なら会ってみたいと言いました。私もそう思った。それ以上のことを、知ったふりはできません」

 彼の声は穏やかだった。

「手紙の相手があなただったことは……その後に、もらったものです」

「もらった」

「はい」

 オデットは、白い床の模様を見つめた。

 誰かの都合でここへ送られた。

 その事実は変わらない。

 けれど、受け取った人は、荷物だと思っていなかった。

「わたくし、よい大公妃になれるかは、まだわかりません」

「私も、よい夫になれるかは」

「人参がお好きですものね」

「そこは大きな問題でしょうか」

 笑ってしまった。

 彼も笑った。

 礼拝堂の扉が開く。

 オデットは差し出された右手を見た。

 傷のある素手。

 三年間、返事を書いてくれた手だ。

 昨日はその手で、花の鉢と自分を迎えてくれた。

 今度は自分から、その手を取った。


 誓いの文句は短かった。

 苦しい時に見捨てず、喜びを分かち、互いの家となること。

 オデットは最後の言葉で少し詰まった。

 家にはずっと住んできた。

 自分の家がどんなものなのかは、まだ知らなかった。

 テオバルトの親指が、重ねた指の横へそっと触れる。

 先を急かすためではなく、ここにいると知らせるように。

「誓います」

 言えた。

 署名の番が来ると、オデットは見本を求めなかった。

 こちらの式次第に従い、自分の名を書いた。

 その横へ、テオバルトが名を記す。

 彼の筆跡を、オデットは知っていた。

 三年間、何度も読み返した文字だった。

 見慣れた線が、自分の名前のすぐ隣にある。

 それが、指輪より先に結婚を実感させた。

 神官が祝いの言葉を述べる。

 参列した人々が立ち上がる。

 オデットは、これで終わりだと思った。

 テオバルトがこちらを向くまでは。

「よろしいですか」

 小さな声だった。

 何を、と聞くより早く、目が彼の唇へ行った。

 顔が熱くなる。

 ほんの少し頷くと、彼は身をかがめた。

 触れたのは、額だった。

 思っていた場所と違って、安心した。

 少しだけ、残念だった。

 両方を感じたことが自分でも信じられず、オデットは髪飾りに手をやった。

 雀は、逃げなかった。


 式の後、庭へ出ると、クレマン伯爵が帰国の挨拶をした。

「陛下へは、つつがなく終えられたとお伝えいたします」

「お願いいたします」

「くれぐれも、お立場をお忘れなく」

 いつもなら、その言葉を飲み込んでいた。

 今日は、隣に夫がいた。

 それでも答えたのは、オデットだった。

「はい。大公妃として、よく考えます」

 伯爵は一瞬、口を閉じた。

 テオバルトが咳払いをした。

 伯爵が去った後、オデットは夫を見上げた。

「笑いましたか」

「いいえ」

「今のは、おばあ様の嘘です」

 テオバルトは否定を諦めたようだった。

「頼もしい方と結婚したと思いました」

 庭で風が吹いた。

 髪飾りの小鳥は揺れたが、落ちなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。