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冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました  作者: 星舟能空


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第02話 南向きの窓と別々の寝室

 南向きの部屋には、黄色い花が飾ってあった。

 オデットは扉をくぐったところで立ち止まった。

 明るい壁。低い卓。腰掛けの背に掛けられた、薄緑の膝掛け。

 窓辺には何も置かれていない。

「そこを空けておくように、殿下がおっしゃいまして」

 マルタが説明した。

「お持ちになる物があるかもしれない、と」

 リナが小さな鉢を窓台へ置く。

 頼りなく傾いた葉が、午後の日差しを受けた。

 オデットはその葉に触れたかったが、先に部屋のあちこちを見てしまった。

 黄色い花。緑の膝掛け。窓。

 知っている物ばかりだった。

 いや、知っているのは自分ではない。自分が好きだと、あの人が知っている物ばかりだ。

「お気に召しませんか」

「いいえ。とても」

 ここで泣いてはいけない、と思った。

 何かを用意してもらうたびに泣くのは、相手を困らせる。女官長に何度も言われた言葉だ。

 オデットは、卓の上の水差しを見つめた。

 何の思い出もない水差しなら、落ち着いて見ていられる。

「お湯をお持ちしましょう。旅装を解かれたら、夕食まではお休みになれます」

「大公殿下に、ご挨拶を」

「もう十分になさいました」

 マルタは丸い目を細めた。

「あの方も今、お着替えです。襟がたいへんきつそうでございました」

 部屋を辞する家政婦長の言い方に、リナがまた笑いをこらえた。

 二人になると、オデットは両手で頬を挟んだ。

「どうしましょう」

「よい方でいらっしゃるようで」

「そこではないの」

「お手紙の方だったことですか」

「そこよ」

 リナは小箱から髪留めを取り出し、化粧台へ並べた。

 故国から付き従ってくれた、たった一人の侍女だ。王宮ではいつも走っていた人なのに、今日は何をするにもゆっくりだった。

「文通相手がどなたであっても、お手紙に書かれた殿下は殿下でございましょう」

「だから困るの。あの人、わたくしが人参を嫌いなのまで知っているのよ」

「大問題でございますね」

「礼儀正しい妻には、なれないでしょう」

「人参がお嫌いでも、礼儀正しくはなれます」

 帯を解かれて、息が深く入った。

 オデットは鏡の中の自分を見た。

 旅の間に少し痩せた頬。きつく編まれた淡い金髪。失敗しないようにと結んでいる口。

 手紙を書いているときは、こんな顔ではなかった。

 あの人のところへだけ、もう少し自由な自分が先に着いている。

 その自分を、あの人は迎えてくれた。

 気を張って鏡に向けていた口元を、オデットは少し緩めた。まだ緊張はする。でも、何もかも初めから取り繕わなくてもよいのかもしれない。


 夕食は二人きりだった。

 長い食堂の一番端に、小さな丸卓が置かれていた。大卓には布が掛けられ、その上で茶色い猫が丸くなっている。

「猫は食堂に入ってよいのですか」

 オデットは座るより先に尋ねてしまった。

 テオバルトは猫を見た。

「よくないはずです」

「そうなのですか」

「ただ、猫はそう思っていない」

 使用人が猫を抱き上げると、猫は無言で長く伸びた。

 その様子が妙におかしくて、オデットは椅子の背を掴んだまま笑った。

「あの犬も、大公殿下の犬ですか」

「階段にいた?」

「はい」

「父の犬でした。今は、マルタの犬に近い。食事をくれる相手に忠実です」

 テオバルトが椅子を引いてくれた。

 昼間とは違う、柔らかな紺の上着を着ている。手袋はなかった。

 オデットは傷を見まいとするあまり、かえって目を向けてしまった。

 彼は気づいただろうに、隠さなかった。

「お疲れでしょう。今夜は短く」

「はい」

「食べられない物があれば、残してください」

「はい」

 給仕された皿を見て、オデットは止まった。

 白身魚。馬鈴薯。蕪。青い豆。

 人参だけがいなかった。

 テオバルトの皿にもない。

「……お手紙を、料理人に」

「渡していません」

 即座に返事が来た。

「苦手な食材だけ伝えました。まずかったでしょうか」

「まずくは、ありません」

 言いながら、オデットは頬が熱くなるのを感じた。

 甘い言葉を囁かれたわけでもないのに。

 王宮で食べ残すたびに注意された物が、自分の皿にだけ、初めから載っていない。

 誰にも言い訳をせず、好きな物から口にできる。

 オデットは魚へ匙を入れた。こんなところまで自分を覚えていてくれたことが、嬉しかった。

 テオバルトは水を飲んだ。その間に、彼女も魚を一口食べる。

 温かかった。

 宮廷の晩餐では自分の席に届くころ、ソースの表面に膜が張っていた。それが当たり前だったので、舌が驚いてしまう。

「熱かったですか」

「おいしいです」

「それなら、よかった」

 会話が途切れた。

 窓の外で小鳥が鳴いている。

 手紙なら、書きたいことは山ほどあった。

 到着した国の空が思ったより明るいこと。鉢の葉がまだ保っていること。こちらの猫がたいへん自由であること。

 目の前に宛先が座っているだけで、その全部がうまく言葉にならない。

 オデットは匙を置いた。

「あの」

「はい」

「書いてもよろしいですか」

 テオバルトは瞬きをした。

「何を」

「お話ししたいことを」

 断られるかと思った。

 馬鹿にされるかもしれない、とも思った。

 けれど彼は卓上の小さな呼び鈴を鳴らして、紙と鉛筆を頼んだ。

 使用人が運んできた紙に、オデットはしばらく考えてから書く。


 おばあ様のときより、お話ししにくいです。


 紙を滑らせると、テオバルトは真剣に読んだ。

 それから鉛筆を受け取り、下へ返事を書く。


 私もです。


 たった四文字だった。

 オデットは顔を上げた。

「おばあ様は、もっとたくさん書いてくださったわ」

「考える時間がありましたから」

「ああ」

「あなたへの最初の返事は、三日かかりました」

 意外だった。

 返事の紙はいつも落ち着いていて、まるで書き手は何にも困ったことがない人のようだった。

「どうしてですか」

「花を枯らしたくないという手紙なのに、花だけの話をしてはいけない気がした」

 オデットは、自分の前に戻った紙を見つめた。

 園芸誌へ出した最初の手紙には、王女とは書かなかった。年齢と、小さな鉢をもらったことしか。

 うまく育てられない気がします。

 いつも何かを駄目にするので。

 それだけで、あの人は三日考えてくれたのだ。

「わたくし、あの返事を今も持っています」

「私も、あなたの最初の手紙を」

 見つめ合ってしまい、どちらからともなく皿へ目を落とした。

 今度の沈黙は、さっきほど寒くなかった。


 食後に聞かされたのは、翌日の婚礼の段取りだった。

 館の礼拝堂で、昼前に式を挙げる。大きな披露宴は十日後。旅を終えたばかりの花嫁に負担をかけないためだという。

「お部屋は、今のままで」

 テオバルトが言った。

「私室は西側です。必要な物があれば、マルタにお伝えください。私でよければ、いつでも」

「寝室は」

 言ってから、オデットは息を止めた。

 彼も止まった。

「別に、用意しています」

「そう、ですか」

「あなたのご都合がよいように」

「はい」

 そこで話は終わった。

 終わったはずなのに、部屋へ戻ってから、胸の中で続いていた。

 別に用意している。

 自分の都合がよいように。

 優しさだとわかる。旅で疲れているし、顔を合わせたばかりの相手だ。いきなり夫婦として振る舞えと言われても困っただろう。

 それでも、あまりに滞りなく離してもらえたので、どこかが小さく痛んだ。

 彼にとって自分は、三年間励ましてきた相談相手なのかもしれない。

 困っている人を助けるように、部屋も食事も用意したのかもしれない。

 おばあ様ではなかったとわかったばかりなのに、おばあ様のように大切にされるのは寂しいなんて。

 随分なわがままだった。

 寝支度を終えてリナを下がらせると、オデットは机に座った。

 持参した紙を出す。


 拝啓、灰色の庭のおばあ様。


 そこまで書いて、羽根ペンが止まった。

 この相談を、この人にしていいのだろうか。

 明日、夫になりますが、わたくしを女として見てくださるのでしょうか。

 そんなことを書けるはずがない。

 オデットは紙を裏返した。

 窓の外で、乾いた音がした。

 小石ではない。枝が硝子に触れたのだ。

 窓を開けると、下の庭にテオバルトが立っていた。長い剪定鋏を持っている。

「申し訳ない。明日の朝、風が強くなるそうなので」

 枝が窓を叩かないよう、結び直していたらしい。

 大公が夜に自分でやる仕事なのだろうか。

 疑問に思っていると、彼は言い訳を足した。

「眠れなかった」

「わたくしもです」

 寝間着の上に羽織を掛けたままだと気づき、オデットは窓枠に半分隠れた。

 庭から顔を上げた彼が、すぐに視線を外す。

 その仕草で、さっきの小さな痛みが少し変わった。

「何か、足りない物がありましたか」

「いいえ」

「寒くは」

「寒くありません」

 会話が尽きる前に、オデットは言った。

「明日も、人参はありませんか」

 テオバルトが顔を上げかけて、また控えた。

「頼めば用意できます」

「そうではなくて。殿下は、お嫌いではないのでしょう」

「私は、好きです」

「では、殿下のお皿には載せてください」

 庭の人は黙った。

「わたくしだけの好きな物でなくても、いいのです」

 風が庭を渡った。

 結ばれた枝が、硝子から離れたところで揺れる。

「わかりました」

 テオバルトは言った。

「明日は、そうします」

 オデットは窓を閉めかけて、最後にもう一つ尋ねた。

「殿下は、どうして眠れなかったのですか」

 今度は彼が、長いこと返事をしなかった。

 庭師の道具を持つ右手に、月明かりが当たっている。

「明日、あなたと結婚するので」

 それだけ言って、彼は頭を下げた。

「おやすみなさい、オデット」

 初めて、王女がつかなかった。

 足音が去っても、オデットはしばらく窓辺に立っていた。

 部屋は南向きだ。

 しかし今夜の温かさは、日差しの残りではなかった。



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