第01話 わたくしの味方が待つ家
親愛なる雀へ。
お誕生日、おめでとうございます。
お好きなお菓子が残っていなかったのは、残念でしたね。
取り置きを頼めなかったご自分を責める前に、今年は何を食べたかったか、私に教えてください。
来年はそれを召し上がれたと聞けたら、私も嬉しいです。
灰色の庭より。
十九歳の誕生日の後に届いた、その返事を、オデットは三年間持っていた。
泣くほどのことではない。姉の客を優先するのは当然だ。王宮では、そう言われた。
遠い国の見知らぬ人だけが、食べたかった菓子の名を尋ねてくれた。
薄青い紙を開き、苺です、と声に出した夜を覚えている。
その人へなら、何でも書けた。
花が咲いた日も、誰かの前では笑って済ませた日も。
だから、結婚が決まったときにも便りを書いた。
拝啓、灰色の庭のおばあ様。
北のベルン公国へ嫁ぐことになりました。
相手のテオバルト大公殿下は、笑わない方だそうです。赤い薔薇を全部白に替え、女性とは手袋越しにしか踊らないのだとか。
わたくし、この方と仲良くなる自信がありません。
でも、おばあ様へのお手紙は、向こうへ行っても続けたいです。
よいお知らせを書けない日にも、お返事をくださいますか。
あなたの、雀より。
*
オデットは、人生最後の自由時間になるかもしれない二十分を、馬車の中で使い果たそうとしていた。
膝には小さな鉢。包み布から覗く葉の先は黄色くなっている。
「もうすぐでございます、殿下」
向かいの席の侍女リナが言った。
「ええ」
「鉢は、わたしがお持ちします」
「いいえ」
「婚礼の装いでお持ちになる物ではございません」
「では、この装いのほうを脱ぎたいわ」
リナは口元を押さえた。
笑ってくれたら、少し安心した。
故国では、王女が冗談を言うと、まず誰を不快にさせたか調べなくてはならなかった。王の三番目の娘であるオデットには、その確認を免除されるほどの愛嬌も、母の後ろ盾もなかった。
二十二年で覚えたことは多い。扉の前で息を整えること。呼ばれるまで座らないこと。欲しい物を欲しいと思う前に、それが誰の物か確かめること。
なのに、花の鉢を捨てる練習だけは、ついにできなかった。
「この子、寒さに弱いのよ」
「存じております」
「あなたじゃなくて、この子のこと」
「わたしも寒さには弱うございます」
今度はオデットが笑った。
馬車が曲がり、窓の向こうに灰色の石の館が現れる。
城というより、大きな家だった。塔は二つしかなく、片方には蔦が絡まり、正面の階段の端には茶色い犬が寝ている。婚礼の花嫁を迎えるための赤い絨毯を、その犬の尻尾だけが横切っていた。
犬は兵に抱えて移された。少しも起きなかった。
「王都とはずいぶん違うのね」
よい意味なのか、悪い意味なのか、自分でもまだわからない。
扉が開いた。
冷たい空気が、蜜蝋と香水のにおいをさらってゆく。
馬車の外に立つ男を見て、オデットは噂の半分を信じた。
確かに笑わない人だった。
濃い栗色の髪は短く整えられ、灰緑の瞳がまっすぐこちらを向いている。黒に近い礼服も、背中を伸ばした姿勢も、まるで人の形をした拒絶のようだった。
差し出された右手には白い手袋。
「遠路、お疲れになったでしょう。オデット王女」
よく響く声だった。怒鳴らなくても部屋の隅まで届くだろう。
オデットは鉢をリナへ渡そうとした。
その葉が一枚、布に引っかかる。
「あ」
手袋の男が、先に布の端を持ち上げた。
「葉柄を引かないほうがいい。付け根から傷みます」
彼はそう言って、布だけをゆっくり抜いた。
声から受けた緊張が、妙なところで途切れる。
園丁と同じことを言う大公だった。
「ありがとうございます」
「そのままお持ちください。階段は短い」
オデットは鉢を片腕に抱き、空いた手を白い手袋に重ねた。
固い手だと思った。手袋越しでもわかるくらい、掌の付け根が厚い。
足を地面へ下ろすと、彼の手はすぐに離れた。
やはりそうなのだ。
触れる必要のないところでは、触れたくない。
そういう約束なのだと、オデットは胸の中で頷いた。
広間には使用人たちが並んでいた。紹介された名前の半分は緊張で耳を通り過ぎたが、家政婦長がマルタ、秘書官がフリッツということは覚えた。
大公の隣に立つと、自分はひどく小さくなった気がする。
「お部屋へご案内する前に、少しお話を」
テオバルトはマルタへ目を向け、広間の脇の小さな客間を開けてもらった。
リナが鉢を預かり、向かいの窓辺で待つ。扉が閉まり、二人だけになってから、彼は内ポケットへ手を入れた。
婚約の書類だろうか。従うべき決まりの目録かもしれない。
出てきたのは、薄青い封筒だった。
オデットの足が止まった。
紙の右下に、小さな葉の模様がある。
何度も指でなぞった模様だった。
「早便を出したのですが、あなたの一行が途中の宿を変えたと聞き、戻させました」
大公は言った。
「直接、お渡しするのがよいと」
「それは」
声がかすれた。
「どなたから」
彼の目が、初めて迷うように動いた。
封筒へ落としていた目を上げ、オデットを見る。
「私からです」
「でも」
「お持ちになった鉢の底には、軽石を入れましたか」
ありふれた園芸の質問だった。
その問いに続く言葉を、オデットは知っていた。
「水をやる勇気より、やらずに待つ勇気が必要な花です」
大公の声と、薄青い紙の上の文字が重なった。
三年前。十九歳だった自分が、園芸雑誌の文通欄へ初めて送った相談。
いつも何かを間違えるので、せめて花くらいは枯らしたくない。そう書いた手紙に、知らない人が返してくれた言葉だった。
オデットは両手を胸の前で重ねた。
「……おばあ様?」
オデットは、目の前の若い男を見つめた。
返事の筆跡なら、目を閉じても思い出せる。
その字を書く人の顔を、初めて知った。
テオバルトは逃げなかった。
「その点について、最初の手紙で、孫はいないとお伝えしたつもりでした」
「孫のいないおばあ様かと」
「そうでしたか」
「そうでしたか、ではありません」
オデットは生まれて初めて、到着したばかりの嫁ぎ先で、夫になる人へ強い声を出した。
彼は短く息を吸った。
「申し訳ない」
詫びる声は低かった。
二人の間で、薄青い封筒だけが鮮やかだった。
「叔母が園芸誌で使っていた筆名を継いだのです。『灰色の庭』はその家の名で、女性の名ではありません。私も、あなたが女性だとは知っていましたが、王女だとは」
「いつ」
「三日前です。最新の便りに、婚礼の出立日と、白い薔薇の話があった。それで初めて」
オデットは、ゆっくり目を閉じた。
白い薔薇。
手袋。
笑わない男。
仲良くなる自信がない。
そんな言葉の後に、本当は、一人になるのが怖いと書きたかった。
目の前の人は、そこまで読んだだろうか。
「読まれたのですね」
「はい」
「最後まで」
「はい。お返事を続けてほしいと、書いてありましたね」
オデットは頷いた。
恥ずかしかった。けれど、彼が拾ったのは、夫への不満ではなかった。
「もちろん、書きます」
テオバルトは彼女へ封筒を差し出した。
「ただ、これからは、読んでいただいたその日にお返事を聞けます」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「私には、それが嬉しい」
オデットは紙の端に触れた。
いつもは何日も離れていた二人の手が、同じ封筒を持っている。
ここへ来ても、あの人を失わずに済む。
それどころか、向こうの家で待っているはずだった人が、自分を迎えに出てくれた。
「大公殿下が……おばあ様」
「そこは、少し難しいのですが」
困った返事に、笑いが漏れた。
彼も短く息を緩め、それから、どうしても話しておきたい様子で続けた。
「薔薇は白に替えていません。赤い株が病気になったので、一年間、別の畑で養生させています。手袋は……右手に傷があります。初対面の方を驚かせたくなかった」
衣擦れの音がした。
オデットが彼の手へ目を落とすと、右の手袋が外されていた。
手の甲から手首へ、白い引きつれが走っている。
剣傷のように細くはない。皮膚の色がまだらに変わった、古い火傷だった。
「触れたくないという意味ではありません」
彼は言った。
オデットは彼を見上げた。
「わたくし、そこまでは書いていません」
「ええ」
「そこまで……わかってしまうのですか」
テオバルトが返事をするまでに、少し間があった。
「三年、あなたのお手紙を読みましたから」
この人は、誰にも見せなかった泣き言を知っている。
誕生日に一人で残りの焼菓子を食べたことも、母の形見を姉へ譲った夜のことも、誰かが自分の帰りを待ってくれたらいいと書いたことも。
読み終えても、返事をやめなかった人だ。
オデットは彼の顔を、もう一度見た。
これから大切にしてもらえるかもしれない、というだけではなかった。
自分は知らずに、この人に大切にされてきたのだ。
「お怒りでは、ないのですか」
「何にです」
「悪口を」
「訂正したい点はありました」
「ほかには」
彼は外した手袋を握った。
その動作は、広間で立派に出迎えた大公のものではなかった。
「あなたに会えるとわかってから、何度も玄関の時計を見ました」
「時計を?」
「今日は、便りだけではないので」
彼は彼女の手にある封筒を見た。
「書いてくれた方を、迎えられる」
オデットの喉の奥が、急に痛くなった。
ずるい。
おばあ様の返事は、いつもこうだった。
頑張りなさいとも、王女なのだからとも言わず、自分がいちばん隠そうとした小さな望みを拾ってしまう。
「わたくし、ここでうまくやらなくてはと、そればかり考えてきました」
オデットは、封筒の葉の模様を指でなぞった。
「でも、あなたが待っていてくださったのですね」
「はい」
「お会いできて、嬉しいです」
言えた途端、目の奥が熱くなった。
テオバルトの顔も、少し変わった。
「私もです。オデット王女」
オデットは目元を押さえながら、小さく笑った。
テオバルトが、驚いたように彼女を見た。
笑わないと聞いていた人の口元が、ほんの少し緩む。
それだけで、知らない館の温度が変わった。
「まず、お手紙を読んでいただけますか」
オデットは手の中の薄青い封筒を開いた。
封蝋は園芸誌へ送るときと同じ、名のない小さな円だった。
中には一枚だけ、紙が入っている。
親愛なる雀へ。
これまでのお手紙を、ありがとうございました。
よいお知らせの日も、そうでない日も、あなたのお便りが届くのを楽しみにしていました。
こちらへいらしても、そのことは変わりません。
今度は、あなたが帰ってくる家で、私が待っています。
夫としては、これから知っていただくことばかりです。どうか、あなたにも私を知っていただけますように。
灰色の庭より。
追伸。
南向きの窓を用意しました。
オデットは追伸を二度読んだ。
誰にも喜ばれないことまで書ける、たった一人の味方。
その人が、明日、自分の夫になる。
オデットは手紙を胸に抱いた。旅の間には思い浮かべられなかった明日が、待ち遠しかった。
「……二度、読みました」
顔を上げて言うと、夫になる人は今度こそ笑った。




