第31話 おばあ様への最後の相談
テオバルトの手紙は、三日かかった。
一日目、オデットは待った。
二日目も待った。
三日目の朝、夫が朝食の途中で窓のほうを見たので、彼女は匙を置いた。
「おばあ様」
テオバルトが顔を戻す。
「はい」
「人参が、冷めます」
彼は自分の皿を見た。
「失礼」
「そんなに、難しいお手紙なのですか」
夫は少し困った顔をした。
「短くしようとすると、足りなくなる。長くすると、同じことを書いてしまう」
オデットは笑った。
「同じことでも、読みますよ」
「あなたのお時間を、取ります」
「取りたいと、おっしゃったではありませんか」
テオバルトは言葉を止めた。
少しして、笑った。
「そうでした」
オデットは自分の皿へ目を戻した。
急かすつもりはなかった。
けれど、待っていると伝えたかった。
自分のために選ばれている言葉を、楽しみにしていると。
午前、オデットも紙を取り出した。
薄青い紙ではなく、昔から自分が使っていた白い紙だった。
書き出しは、考えなくても手が覚えていた。
拝啓、灰色の庭のおばあ様。
そこまで書いて、笑った。
目の前に、鏡がある。
映っている自分は、十九歳の頃よりよく笑う。
同じ髪の色で、同じ顔なのに、口を開く前にためらう時間が少し短くなった。
変わらないこともある。
人参は嫌いだ。
蜘蛛も怖い。
褒められると、今でも、何と返せばよいか迷う。
夜中、夫が遠くへ寝返りを打つと、自分から近づくようになった。
最後のことは、まだ紙に書いたことがなかった。
オデットは、少し赤くなりながら続きを書いた。
夫のことで、またご相談があります。
この方は、最初に聞いていたよりも、ずっとよく笑います。
花を枯らすことがありますし、お菓子を買いすぎることもあります。
親切な顔で、わたくしがほかの方と踊るのを邪魔したこともあるそうです。
おばあ様の時には、ずいぶんご立派だったのに。
羽根ペンを置き、しばらく笑った。
こういう便りが書きたかったのだ。
困っているから書くのに、書いている間に少し楽しくなる。
読んだ人が、どんな顔をするか考える。
昔は、暖かい部屋で老婦人が微笑む姿を想像した。
今は、夫が額へ指を当てる顔まで、はっきりわかる。
ただ、わたくしも、よい妻というには困ったところがあります。
夫の昔を知る人に、少し張り合いました。
夫の温室を、ほかの方へ見せたくないと言いました。
夜、そばにいてほしいだけでなく、もっと近くにいてほしいと思うようになりました。
ここで、また止まった。
書いたら、読まれる。
当たり前のことを、今さら考えてしまう。
でも、すでに本人へ言ったことだ。
紙にしただけで逃げたくなるのは、ずるい気がした。
オデットは続きを書いた。
このまま、少しわがままな妻でいてもよいでしょうか。
お返事は、急ぎません。
今夜、同じ部屋でお待ちしています。
あなたの、雀より。
最後の一行を書いた途端、胸が温かくなった。
誰にも名を知られずに話したかった十九歳の自分。
雀なら、小さくても声を出せる気がした。
その名前に、助けられた。
今は、オデットと呼ばれるのが好きだった。
夫の声で呼ばれるたび、ここにいる自分が確かになる。
彼女は最後の行へ、小さく書き足した。
追伸。最近は、名前を呼ばれるのも好きです。
手紙を渡すために、オデットは夫の私室へ行った。
あちらの机は、今もテオバルトのものだった。
窓から大きな楡が見える。
葉の端が少し黄色くなっていた。
彼は仕事を終えたところで、彼女を見ると椅子を引いた。
「お手紙です」
オデットが封筒を差し出す。
テオバルトは嬉しそうに受け取った。
「今、読んでも?」
「はい。でも、わたくしが帰ってから」
夫の眉が上がった。
「そのほうが、恥ずかしい内容かと想像しますが」
「想像は、お控えください」
「読めば、よいのですね」
オデットは笑ってしまった。
結局、帰らずに椅子へ座った。
夫が封を開ける。
読み始めてすぐ、口元が緩んだ。
途中で彼女を見る。
オデットは窓の楡を見た。
葉を数えているふりをするにも、数が多すぎた。
「オデット」
呼ばれ、顔を戻した。
夫は読み終えた紙を持っていた。
「今、お返事をしても?」
「急がなくても」
「これは、すぐに答えられます」
テオバルトは立ち上がり、彼女の前へ来た。
オデットが顔を上げると、彼は身をかがめた。
「そのままの妻で、いてください」
声は低く、近かった。
「私が、そういうあなたを好きなので」
胸が、いつものように跳ねた。
何度聞いても、慣れきることはないらしい。
「もっと、わがままになるかもしれません」
「その時は、私も返事をします」
オデットは笑った。
何でも頷く約束ではない。
困って、考えて、返事をする。
それなら、これからも話せる気がした。
テオバルトは机から、薄青い封筒を一つ取り上げた。
ようやく、できたらしい。
オデットは姿勢を正した。
「こちらが、あなたのお返事ですか」
「今の手紙より、前に書いたものですが」
「はい」
「今夜、お渡しします」
オデットは夫を見た。
「今ではなく?」
「できれば、いつもの窓のそばで」
少し照れた顔だった。
場所まで選んでいる。
そのことが、胸に甘かった。
「では、今夜」
彼女は頷いた。
部屋を出る前、テオバルトが呼び止めた。
「それと、今のお手紙のおばあ様への相談は、これで最後にしましょうか」
オデットは振り返った。
「もう、ご迷惑ですか」
「いいえ」
夫は、手紙を胸の前で持った。
「これからの返事は、夫として書きたい」
オデットは彼を見つめた。
少し寂しかった。
それ以上に、嬉しかった。
「わかりました」
彼女は微笑んだ。
「おばあ様、今までありがとうございました」
テオバルトも、笑った。
「こちらこそ」
扉を閉じても、別れのようには感じなかった。
今夜、また同じ人に会う。
今度は、自分の夫に。




