第32話 親愛なるオデットへ
夕食の後、オデットは少しだけ部屋へ急いだ。
廊下でリナに会い、歩く速さを戻す。
侍女は何も言わなかったが、口元が笑っていた。
「お茶は、お持ちしますか」
「後で、お願いします」
「かしこまりました」
扉を開けると、南向きの窓辺に灯りがあった。
テオバルトはもう来ていた。
薄青い封筒を卓へ置き、立ち上がる。
同じ部屋なのに、初めて招かれたような気がした。
「お待たせしました」
「いえ」
夫は彼女を椅子へ案内した。
窓の外には、植えたばかりの赤い薔薇の枝がある。
白い花も、まだ少し咲いていた。
部屋へ来た最初の日、オデットは温かい水差しを見つめて泣くのを我慢した。
今は夫の顔を見た。
見るだけで、少し泣きそうになった。
「緊張していますか」
彼女が尋ねると、テオバルトは頷いた。
「かなり」
「三年間、書いてくださったのに」
「その時は、返事を読む顔が見えなかった」
オデットは笑った。
自分も同じことを何度も思った。
紙の向こうの人が、今は目の前にいる。
返事が届いた夜、薄青い紙を胸へ抱いたことがある。
書いてくれた人に、どれほど嬉しかったかを伝えるには、また便を待たなくてはならなかった。
今は、顔を上げれば彼がいる。
嬉しくなったそのときに、手を伸ばせる距離だった。
テオバルトが、封筒を差し出した。
「どうぞ」
宛名には、オデットとあった。
王女も、大公妃も、雀もつかない。
自分の名前だけだった。
親愛なるオデットへ。
あなたが私の妻になってから、知らなかったことが随分増えました。
朝、起きたばかりの声が少し低いこと。
熱い菓子を急いで食べること。
髪を結ぶ時、左の肩へ少し首を傾けること。
夜中に私が離れると、眠ったまま袖を掴むこと。
オデットは、そこで顔を上げた。
「最後のことは」
テオバルトが、静かに頷いた。
「何度か」
「教えてください」
「やめられると、困るので」
夫は真面目な顔で言った。
オデットは口元を隠し、手紙へ目を戻した。
手紙で知っていたあなたより、実際のあなたはよく笑い、時々、思っていたより強く私を叱ります。
私の贈り物を全部受け取ってはくれません。
それが、今はありがたい。
あなたが黙って受け取っていたら、私は、あなたの望みを知っているつもりのままだったでしょう。
最初に返事を書いた時、あなたを励ましたいと思いました。
そのうち、あなたの返事を待つようになりました。
知らない本屋の笑顔を褒める便りには、たいへん困りました。
また、笑ってしまった。
テオバルトも、今度は隠さず笑った。
オデットは夫の膝へ一度手を置き、それから続きを読んだ。
会いたいと書けなかったことは、今も少し後悔しています。
あなたを困らせないためだと思っていましたが、私が、あなたからの手紙を失うのを恐れていたのでしょう。
おばあ様でいれば、あなたは何でも話してくれる。
その場所に甘えていました。
結婚の相手があなただとわかった時、何度もお手紙を読み直しました。
私のところへ来る方が、あなたなのだと、すぐには信じられなかったのです。
あなたは心配しているのに、私は会えることが嬉しい。それが申し訳なく、同時に、どうしても嬉しかった。
名前も知らずに待っていた方を、妻として迎えられる。
玄関であなたを見た時には、用意していた言葉を半分も思い出せませんでした。
嬉しいと言ってくださった、あなたの声だけは覚えています。
今、私は、あなたに優しい人だと思われるだけでは足りません。
あなたと笑いたい。
あなたの知らない話をして、驚いてほしい。
時には、私のほうを見てほしいと頼みたい。
赤い薔薇の戻った庭を、来年も一緒に見たい。
海の風で食事が砂だらけになる前に、二人で逃げる場所を探したい。
オデットは、目を細めた。
立派な約束ばかりではなかった。
わがままで、具体的で、少し可笑しい。
夫の望みだった。
あなたがここへ来る前、南向きの窓を用意しました。
今、その窓のそばに、あなたと私の物が並んでいます。
その眺めが好きです。
私の本に、あなたの栞が挟まっているのも。
あなたの花の横に、私が捨てられなかった札があるのも。
これからも、あなたと暮らしたい。
政略のためでも、三年間の返礼でもなく。
私が、そうしたいのです。
あなたを愛しています。
テオバルト。
追伸。
返事は、同じ寝室へお願いします。
読み終えても、オデットはしばらく紙を畳めなかった。
目が熱い。
でも、泣くだけではもったいない気がした。
夫の字を、もう一度見た。
最後は、灰色の庭ではなかった。
自分の夫の名前だった。
「二度、読みました」
オデットが言うと、テオバルトは小さく笑った。
「何か、確かめたいことが?」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「嬉しかったので」
テオバルトの顔が、ゆっくり緩んだ。
オデットは手紙を胸へ寄せた。
「お返事を、書きます」
「いつでも」
「今、書きたいです」
夫が紙とペンを差し出した。
最初の夕食で、話しにくいから書いてもよいかと頼んだ時と同じだった。
今は、話せないからではない。
この人へ、残る言葉を渡したかった。
オデットは机の端へ紙を置き、書き始めた。
親愛なるテオバルト様。
最初に、訂正があります。
わたくしは、あなたから一方的に励ましていただいていたわけではなかったそうです。
あなたも、わたくしの手紙を待っていてくださった。
もっと早く教えてくだされば、と少し思います。
でも、今、知ることができてよかったです。
誕生日のお菓子を食べられなかったとき、わたくしは、そんなことを悲しむ自分が悪いのだと思っていました。
あなたが、何を食べたかったかと聞いてくださった。
あの返事を読んだ夜、わたくしは一人でも笑えました。
今は、あなたと一緒に食べたいです。
よいお知らせのない日にも便りを待ってくれた方と、何もなかった一日まで、同じ家で過ごせるのですから。
わたくしは、ここへ来て、好きなものが増えました。
南向きの窓。
うまく踊れない人と踊ること。
温室で、何を捨てるか言い合うこと。
同じ本を、交代で読むこと。
同じ寝台で、目を覚ますこと。
ここまで書いて、オデットは少し頬を赤くした。
テオバルトは覗かなかった。
その代わり、彼女の空いた左手を握った。
片手で続きを書く。
なくなったものもあります。
母の庭は、前と同じではありません。
父に、思っていた返事をいただけないこともあります。
それでも、わたくしの毎日は、なくなりませんでした。
ここで、あなたと暮らしているから。
そして、ここへ帰りたいと、わたくしが思ったからです。
わたくしも、あなたと暮らしたい。
これからも、知らなかったところを見つけたいです。
あなたの悪いところも、少しは教えてください。
おばあ様の時のように、上手に隠されると困ります。
あなたを愛しています。
オデット。
追伸。
今夜も、袖を掴んだら、離さないでください。
書き終えると、オデットは紙を渡した。
夫が読む間、彼女は窓を見なかった。
顔を見ていたかった。
途中で笑い、最後の行で少し黙った、テオバルトの顔を。
読み終えた夫は、手紙を丁寧に卓へ置いた。
「承知しました」
「どの、お返事ですか」
「まずは、追伸の」
オデットは笑った。
テオバルトが彼女を抱き寄せる。
紙を皺にしないよう、彼女も手紙を卓へ置いた。
その動作まで、二人で似ていた。
唇が触れる前に、オデットは夫の名を呼んだ。
返事は、声より先に腕の強さで届いた。
夜更け、リナが茶を下げに来た時には、二人はまだ窓辺にいた。
侍女は何も言わず、空いた杯を持って部屋を出た。
テオバルトは少し照れた顔で、寝室へ行きましょうかと言った。
オデットは頷いた。
その前に、二通の手紙をそれぞれの箱へ収める。
古い便りを押し退けず、上に重ねた。
おばあ様からの手紙は、これからも残る。
寂しい夜を越えたことも、返事を待って笑ったことも、誕生日を覚えていてくれる人ができたことも。
その上に、夫の名前が増えた。
オデットは蓋を閉じ、振り向いた。
テオバルトが手を差し出していた。
白い手袋はない。
古い火傷も、新しい小さな傷もある手。
彼女はその手を取った。
「明日の朝、人参は」
夫が尋ねる。
「あなたのお皿だけに」
「わかりました」
オデットは笑い、彼も笑った。
笑わない夫だという噂を、最初に誰が言ったのだろう。
その人へ訂正の手紙を書くことは、もう考えなかった。
今夜も、明日も、いちばん近くで笑う顔は、自分が知っていればよかった。
おわり
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