第29話 母の字ではない手紙
父からの返事は、短かった。
印章を受け取ったこと。
王家の名での用務を辞退するという意向は承知したこと。
母の手帳は、王宮で引き続き保管すること。
新しく出た葉の話は、そこにもなかった。
オデットは最後まで読み、封筒へ戻した。
テオバルトは隣で、彼女の顔を見ていた。
「大丈夫ですか」
「はい」
答えてから、少し考えた。
「いえ。大丈夫になるまで、少し待ってください」
夫は頷いた。
オデットは窓辺の椅子へ座った。
父が急に花を好きになるとは思っていなかった。
娘の新しい暮らしへ、細やかな返事をくれる人でもない。
わかっているのに、封筒を開く前には期待した。
よかった、と一言あるかもしれない。
どんな花なのかと、尋ねられるかもしれない。
その小さな期待を、自分で笑いたくはなかった。
「聞いてほしかったのです」
オデットは言った。
「お花のことを?」
「はい。母のことも。わたくしが、こちらでどんなふうに暮らしているかも」
テオバルトは、向かいの椅子に座った。
隣へ来てすぐ抱きしめるのではなく、彼女が話せる距離にいた。
「わたくし、欲張りですね」
「そうは、思いません」
「十分、幸せなのに」
「幸せでも、寂しいことはあるのでしょう」
オデットは夫を見た。
全部を自分で満たすと言わない人だった。
父の代わりにも、母の代わりにもなろうとせず、夫としてそこにいる。
そのことに、今は深く安心した。
「しばらく、こちらからは書かないと思います」
「はい」
「また、書きたくなったら」
「書けばよい」
オデットは頷いた。
父へ返事をする時刻まで、父の言葉で決めなくてよい。
そう思うと、胸の痛みの周りに、少し余白ができた。
同じ日の午後、姉から別の包みが届いた。
父の使いとは別の便だった。
封を切ると、薄い冊子と、短い手紙が入っている。
冊子の字は、ブランシュのものだった。
几帳面だが、長く書くのに慣れていない字。
ところどころ、線が斜めになっている。
母の手帳を写しました。
全部ではありません。あなたのことがある頁と、わたくしが読み返したくなった頁です。
原本ではないので、いらなければ言ってください。
でも、いらないと言われると少し腹が立つくらいには、時間がかかりました。
オデットは、思わず笑った。
姉らしい手紙だった。
礼を言う前から少し怒られている。
でも、以前のような、当然に何かを返すよう求める声ではなかった。
冊子を開く。
人参の話があった。
鳥を助けそこねた話も。
母が頭痛で怒り、翌日に謝ろうと書いた頁も写されていた。
字は違う。
紙も新しい。
母の指が触れた物ではない。
それでも、母の言葉が届いていた。
オデットは頁へ手を置いた。
目が熱くなった。
「テオバルト様」
呼ぶと、夫がすぐに顔を上げた。
「見てください」
彼へ冊子を渡す。
テオバルトは手紙と最初の頁を読み、静かに微笑んだ。
「届きましたね」
「はい。でも、これは」
「お姉様の字ですね」
「はい」
母の物を取り返したのではない。
姉が、新しく何かを作って送ってくれたのだ。
その違いも、嬉しかった。
冊子の途中に、オデットの知らない話があった。
父が夜遅く帰り、眠った娘を食堂から運んだと、母が記している。
翌日、腰が痛いと不満を言った。
それでも、侍女へ渡さず自分で運んだ、と。
オデットは、その頁を長く見ていた。
覚えていない夜だった。
父には、そんな日もあった。
だから今のことを我慢すべきだとは思わなかった。
昔一度優しかったから、その後の寂しさがなくなるわけではない。
でも、何もかも冷たかったと決めなくてもよかった。
オデットは冊子を閉じ、胸へ抱えた。
「嫌いになりきれないのです」
夫へ言うと、彼は頷いた。
「ええ」
「それでも、帰らなくてよいですよね」
「はい」
返事は、短く、確かだった。
オデットは少し泣いた。
父を嫌いになれないまま、父のもとで暮らさない。
その二つを、同時に選んでもよいのだ。
姉への返事は、その日のうちに書いた。
何度もありがとうと書きたくなり、三度目で笑って消した。
届いた頁を読んで嬉しかったこと。
母の字ではないことも、今は大切だと思うこと。
原本を諦めたわけではないが、この冊子を大事にすること。
最後に、婚約者の詩はどうだったかと尋ねた。
書き終えてから、オデットは手紙を見た。
姉へ、次の返事を楽しみにする便りを書いている。
それも、初めてだった。
テオバルトが彼女の肩越しに尋ねる。
「また、恋の相談になるでしょうか」
「姉の?」
「はい」
「その時は、おばあ様へお願いしましょうか」
夫が、わずかに目を細めた。
「私は、あまり公平な助言ができないかもしれません」
「姉の恋には、嫉妬なさらないでしょう」
「あなたのお手紙の時間を、取られます」
オデットは噴き出した。
夫も笑い、彼女の肩へ頬を寄せる。
「冗談です」
「半分くらいですか」
「そのくらいです」
正直すぎる返事だった。
オデットは振り向き、夫の頬へ口づけた。
「あなたのお話も、聞きます」
「それは、助かる」
冊子の置き場は、すぐには決めなかった。
母の手帳のために空けていた場所へ、そのまま入れることもできた。
でも、それでは母の物の代わりにしてしまう気がした。
オデットは、新しい小箱を選んだ。
青い布を張った、薄い箱。
姉の手紙も、一緒に入れる。
棚には、夫との二つの箱と、新しい箱が並んだ。
赤い印章の箱は、もうない。
なくなったものと、増えたものがある。
どちらも、自分が選んだ結果だった。
夕方、母の挿し芽を見に行った。
残った二つのうち、一つには新しい葉がはっきり開いていた。
もう一つは、少し弱っている。
オデットはエーミルへ状態を尋ね、必要なことだけした。
水を増やせば、安心できるわけではない。
日差しへ出せば、早く元気になるとも限らない。
見て、待つ。
以前より、少しできるようになった。
テオバルトが隣で、包帯の取れた手を開いた。
傷は薄い線になっていた。
「今度は、私も持てます」
「まだ、重い鉢は」
「軽い鉢を」
オデットは一つ渡した。
二人で、窓辺へ運ぶ。
母の庭から来た枝が、夫の家の日差しを受けた。
オデットはその葉を見て、今度父へ便りを書く時まで、もう少し大きくなっているだろうかと思った。
書かなくても、葉は育つ。
それでも、いつか知らせたくなるかもしれない。
その時は、その時に決めればよかった。




