第28話 王女の印章
父の返書は、祝いの翌々日に届いた。
セレーヌを帰したことへの不満と、文通の記録を渡さなかったことへの問いが、整った文章で記されていた。
最後に、今後王家を代表する発言をする際は、事前の確認を受けるように、とあった。
オデットは、紙を机へ置いた。
怒鳴り声はしない。
父は遠くにいる。
それでも、文字だけで部屋の空気を変えられる人だった。
テオバルトが隣へ座る。
「一緒に、読みましょうか」
「もう、読みました」
紙を渡す。
夫は最後まで目を通し、少し黙った。
オデットは自分の引き出しを開けた。
小さな赤い箱がある。
王女として与えられた印章だった。
故国の家紋に、三番目の娘を示す小さな印。
結婚前、公的な挨拶の便りに使った。
父への帰国の返事にも、押した。
薄青い封筒へは、一度も使わなかった。
「これが、あるからでしょうか」
オデットが尋ねると、テオバルトは箱を見た。
「印章だけの話では、ないと思います」
「はい」
父にとって、自分はいつまでも自分の家の娘だった。
嫁がせても、家の役に立つところへ置いたということなのだろう。
本人が別の暮らしを選び始めるとは、考えていなかったのかもしれない。
「返そうと思います」
彼女は言った。
テオバルトが顔を上げた。
「今、決めなくても」
「今まで、ずっと持っていました」
オデットは箱の縁を撫でた。
「でも、これを使うとき、何を書きたいかより、何を書けば怒られないかを考えます」
薄青い便りには、好きな花を書いた。
人参の悪口も、知らない男への小さな憧れも、未来の夫への不満も。
そのどれにも、王女の印章はいらなかった。
「王家の代表としては、もう、お話ししません」
声にすると、少し怖かった。
自分は何になるのだろう。
王女でなければ、父の娘でなければ。
夫がいなければ、何も残らないのではないか。
その怖さまで、オデットは見ようとした。
今は夫がいる。
でも、自分の好きなものも、自分が書いた手紙もある。
それを持っている自分が、彼と暮らしている。
「父の娘であることは、なくなりません」
彼女は言った。
「母の娘であることも。でも、父の代わりに話すことは、やめられますね」
テオバルトは、ゆっくり頷いた。
「はい」
返事を書き始めると、最初の一行に時間がかかった。
国王陛下、と書いて消した。
父上、と書いても、しばらく続かなかった。
テオバルトは別の机で仕事をしていた。
時々紙をめくる音がする。
その音を聞きながら、オデットは考えた。
怒りを全部ぶつけたいわけではない。
昔のことを、今ここで一つずつ裁きたいわけでもない。
ただ、これからの暮らしを、勝手に決められたくなかった。
彼女は、父上と残した。
こちらでの生活については、夫と相談し、自分でも考えて決めてまいります。
わたくしたちの私信は、お渡ししません。
王家を代表する役目としてのお便りやお話は、今後辞退いたします。そのため、印章をお返しします。
そこまで書くと、手が少し冷たくなった。
父は、失望するだろう。
昔から言われたように、恩を忘れた娘だと思うかもしれない。
それでも、紙を破らなかった。
続けて書く。
姉の婚礼は、お祝いしています。日程が決まりましたら、参列できる期間を改めてお返事します。
母の手帳は、今も欲しいと思っています。ですが、それと引き換えにこちらでの暮らしを変えることは、いたしません。
涙が出そうになった。
欲しいと、もう一度書いたからだった。
いらないと言えれば、強い娘に見えるのかもしれない。
でも、いらなくなったわけではない。
欲しいものを欲しいまま、渡さないものを決めたかった。
最後に、少し迷ってから花のことを足した。
母の庭からいただいた枝に、新しい葉が出ています。
返事が来るかは、わからなかった。
それでも、知らせたいと思ったことだけを書いた。
テオバルトに読んでもらうと、彼は長く黙った。
「強すぎますか」
オデットが尋ねる。
夫は首を振った。
「あなたの言葉です」
「はい」
「寂しいところも、怒っているところも、わかります」
オデットは紙を見た。
「どちらも、あるので」
テオバルトが彼女の手を取った。
「私にできることは」
彼女は少し笑った。
何かを用意しようとする、いつもの夫だった。
「今夜、一緒にいてください」
「それは、毎晩」
「では、今夜は、もう少し近くに」
テオバルトの表情が変わった。
オデットは顔を赤くしたが、取り消さなかった。
夫は彼女の指を唇へ寄せた。
「喜んで」
印章の箱は、翌朝、手紙と一緒に送った。
フリッツへ渡す時、オデットは一度だけ蓋を開けた。
赤い布の上で、小さな金属が光っている。
自分を守ってくれたことも、あったのだと思う。
その名がなければ、得られなかったものもある。
ただ、これからも全てを決める物にしたくなかった。
蓋を閉じた。
「お願いします」
秘書官は、余計なことを尋ねず受け取った。
荷物が運び出されると、机の引き出しに小さな空きができた。
オデットはそこへ、別の箱を入れようとした。
テオバルトが止めた。
「すぐに、埋めなくても」
彼女は顔を上げた。
夫は少し笑う。
「新しく欲しい物が、できるかもしれません」
オデットも笑った。
「では、空けておきます」
空いている場所は、失った跡だけではない。
これから何かを置ける場所でもある。
そう思えたのは、その日の午後になってからだった。




