第26話 枯れた花の話をしましょう
翌朝、庭は静かだった。
雨に洗われた葉が光り、昨夜の音が嘘のように鳥が鳴いている。
けれど、温室の屋根には穴があり、地面には折れた枝が残っていた。
割れた硝子を片づけるまで、誰も中へ入れない。
オデットは入口の外で待った。
テオバルトの右手には包帯が巻かれている。
彼はいつもの癖で何かを持とうとして、オデットに見られると左手へ替えた。
「見ていますよ」
「わかっています」
「本当に?」
「今は、よく」
少し笑えた。
エーミルが中から鉢を運び出した。
無事なものもある。
枝が折れたものも、土が流れたものも。
母の挿し芽を入れた三つの小鉢は、一つが割れていた。
オデットは屈んだ。
折れた枝を、指で持ち上げる。
もう、つなぎ直すことはできない。
「残りは、どうでしょう」
エーミルへ尋ねると、老園丁は葉を見た。
「こちらは残りそうです。もう一つは、しばらく見ないと」
「はい」
全部助かるとは言わなかった。
その返事が、今はありがたかった。
オデットは無事な鉢を両手で持った。
軽い。
母の庭より、ずっと小さい。
それでも、生きていた。
テオバルトは、別の鉢の前で立ち止まっていた。
古い、色の褪せた鉢だった。
オデットが最初に送った種を育てたものだ。
札には、まだ『雀、六月』とある。
鉢は横倒しになり、茎が根元から折れていた。
夫は何も言わなかった。
オデットは隣へしゃがんだ。
「これも、ですか」
「はい」
短い返事だった。
彼女は折れた茎を見た。
水をやりすぎたと笑った花。
少ししか咲かなかったと、夫が恥ずかしそうに言った花。
「種は、残っていますか」
「最初の袋は、使い切りました」
テオバルトは札を拾った。
土を指で払う。
その仕草で、オデットは夫が悲しんでいるとわかった。
いつも励ます側の人にも、今は返事がなかった。
新しい種を買えばよいとは、言いたくなかった。
同じ花があっても、最初の一株ではない。
それは、母の手帳と同じことだった。
「寂しいですね」
オデットは言った。
テオバルトが、彼女を見る。
「ええ」
彼は札を握ったまま、少し目を伏せた。
「あなたから何かが届いたのが、初めてだったので」
手紙以外の物が。
遠いところで触られた種が、自分の手に乗った。
夫にとって、その花はそういう物だった。
オデットは彼の左手へ触れた。
「届いて、よかったです」
「はい」
「育ててくださって、ありがとうございました」
テオバルトは、少し笑った。
「上手では、ありませんでしたが」
「知っています」
彼女も笑った。
夫がこちらへ顔を向ける。
「そこは、否定してくださっても」
「枯れた花の話を、する場所なのでしょう」
テオバルトは、今度は声を出して笑った。
鉢が元へ戻ったわけではない。
でも、一人で見ているよりは、少し温かかった。
祝いの集まりをどうするか、朝食の後で相談した。
庭の一部は使えない。
温室は、もともと見せない予定だったが、外の鉢も傷んでいた。
オデットは中止を考えた。
せっかく遠くから来る人に、折れた花ばかり見せるわけにはいかない。
クラウスは話を聞いて、眼鏡を直した。
「では、図書室でお話をしましょうか」
あまりに普通の提案だった。
「鉢が、少なくなりました」
「本は残っています」
ベアタが言った。
「人も、います」
エルザは頷いた。
「成功した花だけのお祝いにした覚えはないわ」
オデットは夫を見た。
テオバルトは、彼女の返事を待っていた。
昨日、自分たちが何を話すか決めた。
その中に、失敗もあった。
庭が立派でなくなったから、急に隠すのは、少しおかしいのかもしれない。
「いらっしゃる方に、事情をお知らせして」
オデットは言った。
「それでもよければ、図書室へお招きしたいです」
マルタがすぐに、椅子の数を数え始めた。
料理長は、茶の皿は濡れていないと保証した。
エーミルは、見せる価値のある鉢はまだあると言った。
オデットは皆の顔を見た。
自分一人が完璧に準備をしなくても、人が来る場所は作れる。
それは、王宮での行事とは違う忙しさだった。
午後の準備の合間、テオバルトが部屋へ戻ってきた。
手には、壊れた鉢から外した札がある。
「捨てられませんでした」
彼は少し困ったように言った。
オデットは机の引き出しを開けた。
「こちらへ」
「手紙と一緒に?」
「はい」
札を薄い紙で包み、二つの箱の間へ置く。
全部がなくなるわけではない。
残ったものの置き場を、自分たちで作ればよい。
テオバルトは机を見てから、オデットへ顔を向けた。
「あなたに、また種をいただいても?」
「もちろんです」
「同じ花でなくても」
「今度は、一緒に選びましょう」
夫が頷いた。
オデットは包帯の巻かれた手を見た。
「そして、しばらくは、わたくしが鉢を持ちます」
「はい」
「水も」
「はい」
何でも素直に頷くので、彼女は少し笑った。
「お返事が、短いですね」
「逆らうと、叱られそうなので」
「叱ります」
テオバルトが左手を伸ばし、彼女の腰を抱いた。
「これは、叱られますか」
オデットは包帯へ気をつけながら、近づいた。
「右手を使わなければ」
「なかなか、厳しい」
夫が笑い、彼女も笑った。
昨日の雨の音は、まだ身体のどこかに残っていた。
それでも今、触れ合う温度があった。
集まりのために用意した話を、オデットは一度だけ読み直した。
初めて送った手紙。
花を枯らしたくない。
いつも何かを駄目にするので。
その返事には、待つ勇気が必要だとあった。
今なら、もう一つ足せると思った。
枯れた時に、一緒に残念がる人がいること。
また植えたいと、言えること。
オデットは紙を畳んだ。
今日は、その話をしたかった。




