↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/32

第25話 雨の中で呼ぶ名前

 嵐は、祝いの前日の夕方に来た。

 朝から空気が重く、エーミルは早めに鉢を軒下へ寄せていた。

 最初の雨粒は大きかった。

 すぐに、地面が白く煙るほどの雨になった。

 オデットは部屋の窓を閉じ、庭を見た。

 椅子は片づいている。

 茶のための幕も、下ろされていた。

 温室の入口には、二人で書いた札が揺れていた。

 テオバルトはまだ、街の会議から戻っていなかった。

 予定では、もう到着する頃だ。

 オデットは時計を見て、すぐに目を戻した。

 数分ごとに見ても、道の水が引くわけではない。

 それでも、待つのは難しかった。

 花へ水をやらずに待つのとは、違う難しさだった。


 大きな音がして、庭の奥で枝が折れた。

 温室の屋根へ当たり、硝子が割れた。

 オデットは思わず窓へ手をついた。

 屋根の一角が黒く開いている。

 中に鉢がある。

 母の挿し芽も。

 すぐに外套を取った。

 扉を開けると、廊下でリナに会った。

「殿下、どちらへ」

「温室に」

「今は危のうございます」

 その言葉を聞きながら、オデットは立ち止まった。

 窓の向こうでは、また枝が揺れている。

 行けば、鉢を持って来られるかもしれない。

 でも、自分が濡れて駆け出せば、リナも追いかける。

 彼女まで、危ない場所へ行かせることになる。

「……エーミルは」

「東の物置を閉めに」

「では、皆が戻っているか、先に確認してください」

 オデットは外套を握った。

「鉢は、後にします」

 言うと、胸がひどく痛んだ。

 正しい判断をすれば、惜しくなくなるわけではなかった。


 マルタは、すでに人を集めていた。

 庭で作業していた者は、ほとんど戻っている。

 ただ、下男のトマが、温室横の小屋から道具を運んでいたという。

 オデットはその名前を聞いた。

 若い、笑う時に前歯の見える男だった。

 鉢より先に確かめるものが、名前を持った。

「戻っていますか」

 誰もすぐには答えられなかった。

 庭師の一人が外を見に行くと言い、マルタが丈夫な外套を渡す。

 その時、玄関が開いた。

 テオバルトだった。

 肩も髪も濡れている。

「何が」

 オデットは彼のそばへ行った。

 無事に戻ったことを喜ぶより先に、状況を話した。

「温室へ枝が落ちました。トマが、まだ戻っていないかもしれません」

 夫の表情が変わる。

 彼は外套を脱がず、庭師へ向き直った。

「一緒に確認します」

 オデットは彼の腕を掴みかけた。

 行かないで、と言いたかった。

 でも、トマを探す人が必要だった。

 夫はただ危ないところへ飛び出すのではなく、庭を知る人と行こうとしている。

 オデットは手を握った。

「一人には、ならないでください」

 テオバルトが彼女を見る。

「はい」

「約束です」

「約束します」

 彼は彼女の肩へ一度触れ、庭師と外へ出た。


 雨は扉の向こうを白くした。

 オデットは玄関で待った。

 待つ間に、できることを探す。

 濡れた人のための布。暖かい飲み物。医師を呼ぶ準備。

 マルタと短く言葉を交わし、運ぶ物を決めた。

 身体を動かすと、少しだけ怖さが形を変える。

 やがて、庭のほうから声がした。

 トマが見つかった。

 小屋の扉の前へ倒れた枝が引っかかり、中から開けられなくなっていたらしい。

 怪我はないという。

 オデットは息を吐いた。

 テオバルトが戻ってくる。

 後ろに庭師、その間にトマ。

 夫の右の袖に、赤いものが滲んでいた。

 息が、もう一度止まった。

「その手」

「硝子で、少し」

 テオバルトが言った。

 少し、という言葉が嫌だった。

 オデットは近づき、袖を見た。

 手首の上を切っていた。深くはなさそうだが、雨で血が広がっている。

 夫は先にトマを気遣った。

「温かい物を。着替えも」

「わかりましたから」

 オデットの声が強くなった。

 夫がこちらを見る。

「あなたも、座ってください」

 玄関の椅子を示す。

 テオバルトは素直に座った。

 オデットは布を受け取り、傷へ当てる。

 指が震えていた。

「痛いですか」

「それほどは」

「本当に?」

「はい」

 彼女は夫を見た。

 テオバルトも、目をそらさなかった。

「扉を開ける時、割れた硝子の端に触れました。火傷のところではありません」

 具体的に話してくれたので、少し呼吸が戻った。

 医師が来るまで、オデットは布を押さえていた。

 トマが何度も謝った。

 彼女は顔を向けた。

「戻って来てくれて、よかったです」

 それは、夫へも言いたかった言葉だった。


 傷は浅く、縫う必要はなかった。

 消毒をされる時、テオバルトは眉をしかめた。

 オデットはそれを見て、少し安心した。

 痛い時に、痛い顔をしている。

 何でもない人のふりをされるより、ずっとよかった。

 着替えを終えると、二人は部屋へ戻った。

 窓の外の雨は、まだ続いている。

「温室は」

 テオバルトが言いかける。

 オデットは彼を見た。

「明日、見ます」

「あなたの挿し芽が」

「明日」

 夫が黙った。

 彼女は膝の上で手を握り、それからほどいた。

「あなたが帰ってきたので、今夜は、それでよいです」

 声の最後が震えた。

 テオバルトが左手を伸ばす。

 オデットはその手を取らず、先に彼の胸へ身体を寄せた。

 抱きしめられてから、ようやく涙が出た。

「怖かった」

「はい」

「鉢も、惜しかったです。でも、トマがいないと聞いたら、そんなことを考えた自分が嫌で」

「両方、大切でいい」

 夫の声が髪の上に落ちる。

「あなたは、人を先に確かめた」

 オデットは頷いた。

 そうした。

 でも、何もかも救えたわけではない。

 明日、割れた鉢を見るかもしれない。

 それでも今夜は、この人の心臓の音を聞きたかった。

「一人にならないという約束は、守りました」

 テオバルトが小さく言った。

 オデットは顔を上げた。

「はい」

「怪我をしないという約束までは、できませんでしたが」

「これからも、できませんね」

「残念ながら」

 彼女は濡れた目で、少し笑った。

 何も起こらないように、好きな人を箱へしまっておくことはできない。

 手紙の箱を守るのとは違う。

 夫は、生きて動く人だった。

「では、帰ってきてください」

「はい」

「痛い時は、痛いと」

「言います」

 オデットは彼の肩へ頬を戻した。

 雨の中で名前を呼んだ時、自分がどれほどこの人を失いたくないのか、初めて身体でわかった。

 好きという言葉は、幸せな時だけのものではなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。