第23話 初恋の人が二人いる
編集人クラウスから届いた返事の末尾に、アランの名があった。
オデットは、その名前を三度見た。
展示する古い号や本を運ぶため、首都の書店を任されている甥が同行するという。
アラン・レーナー。
忘れていた姓まで、思い出した。
「まさか」
声に出すと、隣のテオバルトが紙を覗いた。
読んだ後の沈黙が、たいへん長かった。
「同じ方でしょうか」
オデットが尋ねる。
「あなたのほうが、ご存じなのでは」
「何年も前ですし」
「ええ」
夫の返事は落ち着いていた。
落ち着きすぎていて、昨日の話を思い出さずにはいられなかった。
オデットは笑うのをこらえた。
「お断りに、なさいますか」
テオバルトが彼女を見る。
「仕事で来られる方です」
「はい」
「そんな理由では、断れません」
その言い方で、断りたい気持ちは少しあるのだとわかった。
オデットは、夫の袖へ指を添えた。
「わたくし、楽しみです」
テオバルトの目が、わずかに動いた。
彼女は急いで続けた。
「あなたが、どんなお顔をなさるか」
「オデット」
夫の声が低くなる。
叱る声ではなかった。
彼女は笑い、逃げようとした。
腰へ腕が回るほうが早かった。
「あまり、試さないでください」
「おばあ様は、こんなことをなさいません」
「私は、もうおばあ様ではないので」
口づけられて、オデットは言葉を忘れた。
夫の嫉妬は困る。
ただ、困るほど嫌ではなかった。
編集人たちが到着した日は、よく晴れていた。
クラウスは丸い眼鏡をかけた老紳士で、妻のベアタは分厚い帳面を抱えていた。
エルザも同じ馬車に乗って来た。
その後ろで荷物を運んでいた若い男を見て、オデットは確信した。
アランだった。
昔より少し肩幅が広くなり、髪も短い。
笑うと片頬に窪みができるところは、同じだった。
「大公妃殿下、お久しぶりでございます」
彼は礼をした。
オデットは驚いた。
「覚えていらっしゃるのですか」
「王宮で、何度か目録をご覧いただきましたので」
「そうでしたね」
何度か。
オデットの中では一度目の笑顔が大きく残っていたが、向こうにとっては何度か接客した相手だった。
それが悲しくはなかった。
ただ、昔の記憶が適切な大きさへ戻る感じがした。
テオバルトが隣へ来た。
アランは大公へ礼をし、運んできた本の説明を始める。
夫は真面目に聞いていた。
たいへん真面目に。
オデットは口元を引き締めた。
エルザがそれを見て、面白そうな顔をした。
客人たちを部屋へ案内した後、図書室に本を並べた。
古い号には、紙が黄ばんだものもある。
表紙に描かれた花を見ながら、オデットは十九歳の自分を思い出した。
園芸誌を手に入れたのは、図書室の片隅だった。
誰かが読み終えた物を、捨てる前に譲ってもらった。
自分宛てに返事が来るかもしれない欄を見つけ、何度も読み直した。
「あの欄は、叔母上が始められたのですか」
ベアタへ尋ねると、彼女は頷いた。
「ええ。園芸は、本だけでは困ることが多いでしょう。失敗した人同士が話せる場所を、と」
エルザが笑った。
「成功した自慢なら、いくらでも届くけれど、失敗の話のほうが役に立つのよ」
オデットはテオバルトを見た。
夫も、彼女を見た。
欠けた鉢と、磨いていない窓が、同時に浮かんだのだと思う。
二人だけで少し笑う。
アランが本を置きながら言った。
「殿下も、あの欄へお便りを?」
「はい」
「それで、あの頃、発送日をよくお尋ねになったのですね」
オデットは顔を向けた。
「発送日?」
「王宮へ次の号を届けるたび、今月の便りはもう届いているかと。こちらで直接お預かりするのではないと、何度かご説明した記憶が」
思い出した。
月の後半になると、手紙がまだ来ないのか気になっていた。
園芸誌と私信は別に届くのに、同じ出版社だから何か知っているのではと思ったのだ。
アランが来る日を楽しみにしていたのも、あの返事へ少し近づける気がしたからだった。
「……そうでした」
彼女は小さく答えた。
アランは笑った。
「本のご説明の途中で、手紙が届いたと侍女の方が来られたこともございました。殿下があまり嬉しそうになさるので、わたしも覚えております」
オデットは夫を見られなくなった。
テオバルトが、静かにこちらを見ている気配がした。
恋かもしれないと思っていた相手との会話を、途中でやめて、便りへ走った。
昔の自分は、もう答えを知っていたのかもしれない。
午後の茶は、五人で庭に出した。
アランは荷物の整理へ戻り、夫婦と年長の三人が残った。
クラウスは、文通が結婚へ繋がったことを喜んだ。
「名前も立場も知らないほうが、話せることはありますね」
「ええ」
テオバルトが答える。
「知ってから、話しにくくなることもありました」
オデットは茶碗で顔を隠した。
エルザが笑う。
「それは、よい苦労でしょう」
ベアタは鉢を見ながら、昔の読者の話をした。
隣町同士なのに誌面で相談し合い、後で同じ市場を使っていると気づいた老夫婦。
父と娘が別々に送った花の相談が、同じ鉢だった話。
どれも小さく、可笑しかった。
オデットは笑いながら、自分たちもそういう一つなのだと思った。
運命の大きな印ではなく、偶然届いた紙を、二人が何度も返した。
だから続いた。
途中でやめることもできた。
それでも、やめなかった。
そのことが、決められた結婚より強く思えた。
夕方、客人たちが休みに入ると、テオバルトは温室へ行った。
オデットは少し遅れて追いかけた。
夫は水差しを持っていたが、まだ水をやっていなかった。
母の挿し芽の前に立っている。
「今は、いりません」
彼女が言うと、彼は振り向いて笑った。
「わかっています」
「考え事ですか」
「少し」
オデットは隣へ立った。
葉に、新しい小さな緑が見える。
「アラン様は、親切な方でしたね」
彼女が言う。
テオバルトは頷いた。
「ええ」
「片頬の窪みも、そのままでした」
「よく、ご覧になった」
声が、ほんの少し低くなった。
オデットは笑うのをやめた。
からかうより先に、伝えたいことがあった。
「でも、お話を聞きながら、あなたを見たくなりました」
夫が彼女を向く。
「あの頃も、同じだったのだと思います」
オデットは、窓の向こうの空を見た。
「わたくし、優しくしてくださる男の方を見つけたら、恋なのだと思っていました。そういうものだと聞いていたので」
テオバルトは水差しを置いた。
「でも、あの方に会うより、お返事が届くほうが嬉しかった。会えないと寂しかったのは、顔も知らないあなたでした」
言葉にすると、胸が熱くなった。
老婦人へ恋をしたと考えると、少し可笑しい。
でも、相手の姿を知らなかったことと、気持ちがなかったことは違う。
「初恋だったのかは、まだ、うまく言えません」
彼女は正直に言った。
「おばあ様だと思っていましたから」
夫が小さく笑った。
「ええ」
「でも、あなたに会いたかったのは、今になって始まったことではありません」
テオバルトの顔が、ゆっくり変わった。
オデットは彼の手を取る。
「わたくしの知らないところで、片思いしていてくださったと聞いて、嬉しかったのです。でも、わたくしも、少しは一緒にいたのだと思います」
夫は、長く返事をしなかった。
その沈黙が、今は怖くない。
やがてテオバルトが、彼女を抱き寄せた。
「ずいぶん、遠回りをしましたね」
「おばあ様でしたので」
「はい」
笑いながら、オデットは彼の背へ腕を回した。
昔の自分は、ただ救われるのを待っていたのではなかった。
便りを書き、返事を待ち、知らない相手へ自分の明日を少しずつ渡していた。
今抱きしめている人へ、自分も向かっていたのだ。
夕食でアランが席へ着くと、テオバルトは昼間より自然に話しかけた。
書店の話。紙の値段。読者からよく尋ねられる本。
オデットは隣で聞きながら、少し不思議に思った。
嫉妬は消えたのだろうか。
部屋へ戻ってから尋ねると、夫は首を振った。
「消えたわけでは、ありません」
「では」
「あなたが、私と同じ部屋へ帰ってくださったので」
答えを聞いて、オデットは笑った。
「毎日、帰りますよ」
「それは、ありがたい」
夫の腕へ自分から入りながら、彼女は思った。
初恋の人が二人いるような話なのに、最後に会いたい人は、一人だった。




