第19話 ただいまの後で
館の階段には、やはり犬が寝ていた。
オデットは馬車の窓から見つけて、笑った。
「元気ですね」
「寝ていますが」
「同じですから」
テオバルトも笑った。
到着の音に、今度は犬が片目を開けた。
尻尾を一度動かし、また眠る。
オデットはそれを歓迎だということにした。
馬車を降りると、マルタが待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、戻りました」
声に出すと、身体の奥に残っていた旅の緊張が解けた。
帰ってきた。
王宮から、ここへ。
エーミルが窓辺の鉢は無事だと報告し、料理長が食事は温かくできると告げる。
フリッツは書類の山を持っていたが、テオバルトへはまだ渡さなかった。
「夕食の後で、少しだけ」
「少しで済みますか」
「それは、殿下次第です」
いつものやり取りだった。
オデットは、こんなものまで懐かしかった。
部屋は、出発前と同じに整えられていた。
窓の花は、一つ増えていた。
引き出しの鍵は、小皿に置いたまま。
手紙の箱も、そこにあった。
オデットは蓋を開け、薄青い封筒を指で撫でた。
無事だった。
当たり前のはずのことへ、毎回安心する。
リナが荷物をほどきながら尋ねた。
「お寝間着は、こちらへ?」
オデットは振り向いた。
昨夜、夫と同じ窓にしようと話した。
けれど、どちらの部屋を使うかは決めていない。
「あとで、考えます」
リナは頷き、寝間着の包みだけを分けて置いた。
その自然さに、オデットは頬が熱くなった。
自分たちが話していなくても、周囲にはわかることがあるのだ。
夕食は、久しぶりにいつもの丸卓だった。
テオバルトの皿には人参があり、彼女の皿にはない。
王宮での食卓の話は、しなかった。
比べなくても、ここが好きだとわかったからだ。
食後、夫が書類を片づける間、オデットは母の挿し芽を温室へ運んだ。
エーミルが鉢を用意して待っていた。
「三本、全部つけばよろしいが」
「全部でなくても、残れば」
「強い花です。案外、平気かもしれません」
土へ挿すと、枝はひどく小さく見えた。
母の庭を持ち帰った、と言うには頼りない。
でも、ここから始められるものだった。
オデットは札を立てた。
何と書くか迷う。
花の名はまだ調べていない。
母の名を書こうとして、少し止まった。
それでは、枯れた時に母をもう一度なくした気がするかもしれない。
彼女は鉛筆で、日付だけを書いた。
ここへ帰ってきた日だった。
夜、テオバルトが部屋を訪ねた。
手には、厚い本を二冊と、小さな箱。
「引っ越しでしょうか」
オデットが尋ねると、彼は頷いた。
「その、相談を」
声が、妙に改まっていた。
オデットは窓辺の椅子を示した。
「どうぞ」
夫が座り、本を膝へ置く。
大公が妻の部屋へ来るのに、こんなに遠慮するものだろうか。
少し可笑しく、少し嬉しかった。
「私の部屋は、西向きなので」
「はい」
「あなたの鉢には、こちらのほうがよいと思います」
「鉢は、こちらへ置けます」
「ええ。それと、あなたはこの部屋を気に入ってくださっているようなので」
オデットは夫の膝の本を見た。
旅の随筆と、読みかけの園芸書。
「テオバルト様が、こちらへ?」
「ご迷惑でなければ」
彼女は少し考えた。
自分の部屋へ、夫の物が増える。
嬉しい。
でも、夫は自分の部屋の何を好きなのだろう。
「あちらのお部屋の好きなところは?」
テオバルトは、意外そうに彼女を見た。
「窓から、大きな楡が見えます」
「はい」
「夜は、廊下を通る人が少ない。机の高さも、使い慣れています」
オデットは頷いた。
「では、お昼はあちらをお使いになって」
「ええ」
「夜は、こちらで」
言った途端、頬が熱くなった。
自分で決めた話なのに、恥ずかしい。
テオバルトも、少し目を伏せた。
「そう、させていただければ」
オデットは膝の上で手を握った。
「でも、わたくしも、楡の木を見に行ってよいですか」
夫が顔を上げる。
「もちろん」
「お部屋を、全部譲っていただきたいのではないので」
「わかりました」
二人とも、少し笑った。
どちらか一人の暮らしを消さなくても、一緒に眠ることはできる。
そんな簡単なことを、一つずつ相談するのが、結婚なのかもしれなかった。
テオバルトが持って来た小箱には、古い手紙が入っていた。
オデットは、自分の筆跡を見つけて息を止めた。
「それは」
「あなたのお手紙です」
「こちらへ、持って来るのですか」
「近くに置いておきたくて」
自分が書いた便りが、こんなに大事にされている。
それは嬉しいのに、同時に箱を隠したくなった。
「読み返されるのですか」
「時々」
「悪口のところも?」
「努力はしているのですが」
「忘れる努力を、してください」
夫が笑う。
オデットも笑い、彼の箱を自分の箱の隣へ置いた。
往復した紙が、同じ部屋で並んだ。
その眺めだけで、胸がいっぱいになった。
「一つ、お聞きしても」
テオバルトが言った。
「はい」
「今の夫については、どなたへ苦情を?」
オデットは顔を上げた。
エルザから、夫に言えない悪口は自分へ、と言われていた。
でも、まだ一通も書いていない。
「本物のおばあ様へ、と思いましたが」
「そうですか」
「困ったことが」
テオバルトの表情が、少しだけ真剣になる。
オデットは彼の手を取った。
「今の夫は、すぐ近くに来て、わたくしの言いたいことを忘れさせます」
夫が黙った。
彼女は勇気を出して続ける。
「どうすればよいと、思われますか」
テオバルトは、ゆっくり彼女へ近づいた。
「苦情の内容を、もう少し確かめる必要が」
「そうやって」
言い終える前に、笑ってしまった。
夫の唇が、笑いの端へ触れる。
困る。
本当に、困っている。
でも、やめてほしいとは思わなかった。
その夜から、部屋の窓辺には、二人分の本が置かれた。
寝台の横の水差しも、杯が二つになった。
大きな宣言は、何もなかった。
マルタが翌朝、夫の上着を自然に椅子へ掛け、リナが彼女の髪を結った。
日々が少し形を変え、その形へ二人が収まっていく。
オデットは朝食へ行く前に、手紙の箱を見た。
母の手帳のために空けていた場所は、まだ空いていた。
その隣には、夫が抱えて来た自分の手紙があった。
空いた場所を埋めるための代わりではない。
新しく、大切になった場所だった。




