第18話 眠るだけではない夜
宿の二階からは、川が見えた。
行きの旅では通り過ぎた町だった。
橋の工事で馬車が遅れたため、予定を変えて泊まることになったのだ。
宿の主人は大公夫妻を迎えてひどく慌てたが、テオバルトは食事と寝台があれば十分だと伝えた。
「浴室は、お湯を運ばせますので」
「ありがとうございます」
「何か、ご不足が」
「ありましたら、お願いします」
夫の返事を聞きながら、オデットは窓を開けた。
川の冷たい匂いが入ってくる。
向こう岸には洗濯物が干され、青い布が風を受けていた。
ここには、昔の自分がいない。
王女の子供時代も、大公妃としての評判も、窓の向こうの人々は知らない。
オデットは肩の力を抜いた。
「よいところですね」
夫が隣へ来る。
「少し、騒がしいかもしれません。下が食堂なので」
「はい」
「困りますか」
「いいえ。誰かが楽しそうにしている音は、好きです」
テオバルトは窓の下を見た。
荷馬車の御者が、宿の前で顔を洗っている。
「後で、少し歩きますか」
「はい」
返事がすぐにできることも、今は嬉しかった。
夕食までの短い散歩で、二人は川の橋まで行った。
護衛は少し離れてついてくる。
オデットは夫の腕へ手を添えていたが、途中から手を繋いだ。
どちらが先に変えたのかは、わからなかった。
川には小さな舟が浮かんでいる。
橋の欄干へ寄りかかると、風が頬を冷やした。
「母の手帳に、わたくしのことが書いてありました」
オデットが言った。
テオバルトは頷いた。
「はい」
「立派なことは、一つも」
思い出すと、また笑えた。
人参を食べない。鳥を助けそこねる。
母に残された自分は、上手に生きていない子供だった。
「わたくし、母が生きていたら、今の自分を何と言うか、ずっと考えていました」
「何と、思っていたのですか」
「もっとしっかりしなさい、と。姉を助けて、父を困らせずに、と」
テオバルトは黙っていた。
母を知らないのに、違うと決めつけなかった。
だから、オデットは自分で先を言えた。
「でも、手帳の中の母は、そんなことを書いていませんでした」
川の水が、橋脚にぶつかって白くなる。
「母の声だと思っていたものは、ほかの人の声だったのかもしれません」
言うと、涙が出そうになった。
夫の手が、指の間へ入り直す。
「お母様に、あなたが幸せだと伝えたいですね」
「はい」
「私も、ご挨拶したかった」
オデットは彼を見上げた。
夫は、遠くの空を見ていた。
「娘さんの文通相手です、と?」
尋ねると、彼が笑った。
「最初は、夫だと名乗らせてください」
「おばあ様とは、名乗れませんものね」
「そこを説明するには、長くかかる」
笑うと、胸の痛みの中へ空気が入った。
橋を戻る途中、川辺の店で、小さな木の箱を売っていた。
蓋に花の模様が彫ってある。
オデットは足を止めたが、すぐに歩こうとした。
テオバルトも止まる。
「見ますか」
「いいえ。母の箱に似ていたので」
似た物を買えば、寂しさがなくなるだろうか。
きっと、ならない。
見るたびに、持って来られなかった物を思い出す気がした。
夫は店へ入ろうとせず、彼女の隣にいた。
「何かを買ってあげたいと、思いましたね」
オデットが言うと、テオバルトは少し驚いた。
「顔に?」
「はい」
「そうですね。少し、思いました」
正直な返事に、彼女は笑った。
「今日は、いりません」
「わかりました」
物を選ばずに店先を離れた。
オデットは、夫の手を少し強く握った。
「でも、聞いてくださって、嬉しかったです」
「買わなくても?」
「はい」
テオバルトが笑う。
贈り物をしないで喜ばれることにも、この人は少しずつ慣れていくのだろう。
オデットも、何かを受け取らなくても、一緒に歩けることへ慣れたかった。
母の手帳を持っていないことは、変わらない。
でも、母について夫と笑ったことは、もう誰にも取り上げられない。
部屋へ戻ると、湯が用意されていた。
リナに髪をほどいてもらいながら、オデットは鏡を見た。
王宮へ着いた時より、疲れた顔をしている。
けれど、目を伏せてはいなかった。
「今夜のお召し物は、こちらで」
リナが寝間着を出した。
淡い白。襟元に、小さな刺繍。
嫁ぐ時に用意された物だった。
王宮で眠った夜は、その上に厚い羽織を着ていた。
オデットは刺繍へ指を当てた。
「羽織は、薄いほうを」
「かしこまりました」
リナは何も尋ねなかった。
そのことに、助けられた。
テオバルトは窓辺で、途中の町から届いた報告を読んでいた。
オデットが浴室から出ると、紙を折る。
視線が一度、彼女の襟元で止まった。
すぐに顔へ戻ったが、オデットは気づいた。
胸が速く打った。
見られたいと思っていたのに、実際に見られると逃げたくなる。
「お湯を、どうぞ」
「ありがとうございます」
夫が立ち上がる。
すれ違う時、彼女は袖を掴んだ。
考えるより先だった。
テオバルトが止まる。
「オデット?」
何を言うつもりだったのか、自分でもわからなかった。
帰らないでほしい、ではない。
彼は同じ部屋へ戻ってくる。
そばにいてほしい、だけでもない。
もう、そばにいる。
その先が、欲しかった。
「今夜は」
声が途切れた。
夫は待っていた。
いつもそうしてくれる人へ、今度は待たなくてもよいと伝えたかった。
「眠るだけでなくても、よいです」
言い終えると、顔を上げられなくなった。
テオバルトの手が、彼女の手へ触れた。
「寂しいからですか」
低い声だった。
オデットは首を横に振った。
母の手帳を失い、父へ逆らった夜だからではない。
慰めてもらうためなら、昨日までの抱擁でも十分だった。
「あなたが、好きだからです」
彼女は言った。
「帰ったら、また別々のお部屋になるのかと考えて……それが、嫌でした」
テオバルトが息を吐いた。
その息は、今まで聞いたものより深かった。
「私も、嫌です」
オデットは顔を上げた。
夫の目が、優しいだけではなくなっていた。
「ずっと、そう思っていました」
「では、どうして」
「あなたが安心して眠れる場所を、先に作りたかった。それと」
彼は少し困ったように笑った。
「一度、抱き寄せたら、上手に離せない気がして」
オデットは夫の袖を、もう少し強く掴んだ。
「離さなくても、よいのです」
自分の声なのに、知らない娘が話しているようだった。
テオバルトの手が、腰へ回った。
顔が近づく。
今度の口づけは、短く終わらなかった。
オデットは目を閉じ、彼の肩へ腕を上げた。
待っていたのは、自分も同じだったと、その時わかった。
灯りを落とす前に、テオバルトが彼女の髪飾りを外した。
小鳥を、枕元の机へ置く。
銀の羽が、一度だけ光った。
「これは、こちらで待っていてもらいましょう」
夫が言うので、オデットは笑ってしまった。
その笑いで、最後の緊張が少しほどけた。
名前を呼ばれる。
返事をする。
手紙で何度も重ねてきたことが、今夜は声と温度になった。
わからないことは、わからないと言えた。
もっと近くにいてほしい時は、腕を伸ばした。
夫がそのたびに自分の名を呼ぶので、オデットは、好きな言葉が一つ増えたと思った。
夜の途中から、川の音を聞かなくなった。
翌朝、窓の外で荷車が軋んだ。
オデットは目を開け、しばらく動かずにいた。
隣でテオバルトが眠っている。
昨夜より少し幼く見える顔。
寝台の上で片方だけ跳ねた髪。
この人を、誰より近くで見ている。
その事実が、胸の中でゆっくり広がった。
彼女が指を伸ばすと、夫が目を開けた。
「おはようございます」
少し掠れた声だった。
オデットは、返事の前に笑った。
「おはようございます、テオバルト様」
夫の腕が伸びる。
今朝は、謝らなかった。
自分から、その中へ戻った。
出発の支度をする頃、テオバルトが少し改まった顔になった。
「帰った後の部屋ですが」
オデットは髪を留める手を止めた。
「はい」
「私の部屋へ来ていただくか、それとも私が」
「どちらの窓からも見える場所を、探すのでは?」
彼が、昨日の挿し芽の話を思い出す。
オデットは小鳥を髪に留め、振り返った。
「同じ窓なら、探さなくても済みますね」
テオバルトは、ゆっくり笑った。
「そうですね」
部屋の話は、その場ではそれ以上進まなかった。
夫が彼女を抱き寄せたせいで、出発が少し遅れたからだ。




