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冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました  作者: 星舟能空


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第15話 笑い話にしないで

 部屋へ戻ると、テオバルトは机で手紙を書いていた。

 顔を上げた瞬間、彼は筆を置いた。

「いただけませんでしたか」

 オデットは頷いた。

 それから首を振った。

 どちらの返事も、正しくなかった。

「まだ、決まっていません」

 夫は立ち上がり、椅子を引いてくれた。

 座ると、膝が震えていたことに気づいた。

 父には強く叱られていない。

 怒鳴られたわけでもない。

 家族の祝いよりもか、と聞かれただけだ。

 それなのに、ひどく悪いことをした気がする。

「こちらに、残るようにと」

「伺いました」

 テオバルトが答えた。

 オデットは顔を上げる。

「殿下にも?」

「クレマン伯爵から。あなたがお姉様のために残りたがっている、と」

 血の気が引いた。

 言ったことと、伝わることが違う。

 いつものことだった。

 けれど、その違いが夫へ届くのは、耐えられなかった。

「違います」

 声が大きくなった。

「わたくし、帰りたいと」

「わかっています」

 テオバルトはすぐに答えた。

「あなたから聞きましたから」

 オデットは口を閉じた。

 言い直さなくても、覚えていてくれた。

 他の人が上手に説明しても、自分の最初の言葉を残してくれた。

 胸の中の恐ろしさが、少しずつ形を失った。

「伯爵には、何と」

「妻と相談します、と」

「すみません」

「いいえ。相談するために、ここで待っていました」

 夫は膝を折り、彼女と目の高さを合わせた。

「今も、ご一緒に帰るというお返事で?」

「はい」

「では、予定を変えません」

 それは命令でも、救出の宣言でもなかった。

 馬車の出発時刻を確かめるような、穏やかな声だった。

 オデットは、その穏やかさへ手を伸ばした。

 夫の肩に指を置く。

「ありがとうございます」

 テオバルトは手を重ねた。

「私も、あなたと帰りたい」

 胸の奥が、今度は違う理由で痛んだ。


 夜の茶会には、近しい親族と、翌日の婚約発表へ出席する客が招かれていた。

 広い客間の中央に、焼菓子と果物が並ぶ。

 オデットはテオバルトの隣に座り、父と姉の会話を聞いていた。

 ブランシュの婚約者は、翌朝到着する。

 王弟の趣味の話から、いつの間にか夫婦の出会いへ話題が移った。

「そういえば、大公殿下は、娘と以前から便りを交わしていたそうだな」

 父が言った。

 オデットの背が固まった。

 テオバルトは杯を置いた。

「はい。園芸誌を通じて」

「老婦人と間違えていたとか。娘には、少々夢見がちなところがあってな」

 周囲が控えめに笑った。

 悪意の強い笑いではない。

 だから、止めにくかった。

 微笑んで受け流せば、すぐ終わる。

 オデットはそう考えた。

 父が続けた。

「子供の頃から、花や鳥に話しかけていた。相手が誰かも確かめずに、何を書いたものやら」

 また笑いが起きる。

 オデットは、手紙の箱を思い出した。

 ベルンの机に置いてきた箱。

 泣きながら書いた夜も、何度も返事を読んだ朝も、この人たちには知られていない。

 知らないまま、可笑しい話にされる。

 それは嫌だった。

「たくさん、書きました」

 自分の声が聞こえた。

 父がこちらを向く。

「そうか」

「花が枯れたこと。育ったこと。嬉しかったことも、嫌だったことも」

 周囲の笑いが止まった。

 オデットは膝の上の手を開いた。

「わたくしには、大切な手紙でした」

 父は軽く頷いた。

「それは、よいご縁になった」

「はい。でも、結婚したから大切になったのではありません」

 隣でテオバルトが、少しこちらへ身体を向けた。

 オデットは夫を見ず、父へ続けた。

「お返事を待つだけで、明日が楽しみになることがありました。なので、夢見がちな子供の間違いとしては、お話しにならないでください」

 言い終えると、耳の中で心臓が鳴っていた。

 茶会の客が、誰も口を開かない。

 やりすぎたのかもしれない。

 そう思った時、テオバルトが言った。

「私にも、大切でした」

 声は落ち着いていた。

「立場も名も知らない方から、失敗した花の話が届く。それへ答えている間は、大公としての返答を求められずに済みました」

 父が夫を見る。

「それは、気楽であったろう」

「ええ。ただ、気楽なだけではありませんでした」

 テオバルトは、オデットを見た。

「返事を待つのが、楽しみでした。私も」

 オデットは、顔が熱くなるのを感じた。

 守るための言葉なのに、口説かれているようだった。

 夫は、父へ視線を戻した。

「妻が相手を間違えたことには、私の説明不足もあります。そこは、私が笑われるべきところです」

「テオバルト様」

 思わず呼ぶと、彼は目だけで笑った。

 ブランシュが、初めて会話へ入った。

「おばあ様と呼ばれて、ずっとお返事を?」

「はい」

「それは、訂正したほうがよろしかったわね」

 今度の笑いは、さっきと違った。

 テオバルトも笑っている。

 オデットは、夫の袖へそっと触れた。

 自分たちで笑える話と、人に笑い話にされることは、同じではなかった。


 茶会の後、廊下で父に呼び止められた。

「オデット」

 テオバルトが足を止める。

 王は夫へ会釈し、娘と少し話したいと言った。

 オデットは夫を見た。

「先に、戻っていてください」

 テオバルトは彼女の目を確かめ、頷いた。

 父と二人になると、廊下は昔の広さに戻った。

「客人の前で、ああいう言い方をするものではない」

「申し訳ありません」

 謝罪が先に出た。

 けれど、その後に続けた。

「でも、お願いしたことは、変わりません」

 父の眉が寄った。

「何が不満なのだ。よい夫を得て、何不自由なく暮らしていると聞く」

 オデットは、父の言葉を一つずつ聞いた。

 よい夫を得た。

 不自由なく暮らしている。

 それは本当だ。

 けれど、それなら昔の自分をどう扱われてもよい、ということにはならなかった。

「今、幸せです」

 彼女は言った。

「だから、あの手紙を大切にしてよかったと思っています」

 父は息を吐いた。

「お前は、結婚して強くなったな」

 褒める声ではなかった。

 オデットはその言葉を受け取り、少し考えた。

「一人で話しても、聞いてもらえると思えるようになりました」

 父は答えなかった。

 彼女は礼をして、その場を辞した。

 足はまだ震えていた。

 強くなったわけではないのかもしれない。

 でも、震えていても帰る部屋がある。

 その部屋へ戻りたいと思った。


 テオバルトは、扉のすぐ近くには立っていなかった。

 長椅子に座り、本を開いていた。

 待ち構えられると話しにくいと、知ってくれているようだった。

 オデットは扉を閉じ、彼の隣へ座った。

「わたくし、強くなったと言われました」

「そうですか」

「でも、今、とても怖いです」

 テオバルトは本を閉じた。

「何が、いちばん?」

「母の手帳を、いただけないかもしれません」

 声が小さくなった。

「それから、父に嫌われたかもしれません」

 夫はすぐに否定しなかった。

 嫌われるはずがない、と慰めれば、彼女が嘘だとわかるからだろう。

 代わりに、手を取った。

「私は、今夜のあなたを好きです」

 オデットは彼を見る。

「今夜のように、お話しできなくても?」

「もちろん」

 返事はすぐだった。

「何も言えなかった日の便りも、私は待っていました」

 オデットは唇を結んだ。

 手紙に書いていない、王宮の廊下に座り込んだ夜のことまで、話したくなった。

「あの頃は、返事が来るまで何日もありましたね」

「ええ」

 テオバルトが彼女の背へ腕を回した。

「今夜は、ここにいます」

 涙がこぼれた。薄青い紙へ落とさないように顔を背けた夜とは違い、そのまま彼へ身を寄せた。

 オデットは夫の肩へ額をつけた。

 父に好かれるために捨てられるものが、少しずつ減っている。

 いちばん捨てられない人は、今、自分の手を握っていた。



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