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冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました  作者: 星舟能空


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第14話 母の箱を開ける

 朝、オデットは夫の胸へ頬を押しつけたまま目を覚ました。

 最初に、自分がどこにいるかわからなかった。

 次に、何をしているかがわかった。

 最後に、動けなくなった。

 テオバルトの腕が背中にある。

 眠るだけと言った自分が、掛け布を片側へ寄せ、彼へほとんどしがみついていた。

 そっと離れようとすると、頭の上から声がした。

「おはようございます」

 起きていた。

「お、おはようございます」

「よく眠れましたか」

「はい。あの、すみません」

「何が?」

 夫は本当にわからない顔でこちらを見た。

 オデットは彼の胸と、自分の腕を示した。

 テオバルトは少し笑った。

「私も、よく眠れました」

 謝罪の行き先がなくなった。

 オデットは顔を枕へ伏せた。

「ご覧にならないでください」

「難しいですね」

「努力を」

「はい」

 声が笑っている。

 枕に隠れていても、わかった。

 しばらくして顔を上げると、テオバルトは本当に天井を見ていた。

 その生真面目さがおかしくて、オデットも笑った。

 夫が視線を戻す。

 今度は、隠れずにいられた。

「今日も、ご一緒していただけますか」

「もちろん」

 短い口づけの後、二人は起きた。

 昨夜まで、同じ寝台は大きな問題だった。

 今朝はそこから出ることのほうが、少し難しかった。


 西の別邸へ向かう道は、オデットの記憶より狭かった。

 子供の足で歩いた距離だからかもしれない。

 石畳の端を縁取る草は刈られ、以前は曲がり角にあった老木がなくなっていた。

「あそこに、木がありました」

 指すと、案内の侍従が答えた。

「嵐で倒れまして、三年前に」

 知らなかった。

 自分は三年前にも、同じ王宮に住んでいたのに。

 母が亡くなってから、ここへ来るには許可が必要だった。

 使われていない建物へ入るのは危ないと、そう言われていた。

 扉の前には、木箱が積まれていた。

 中から布と紙のにおいがする。

 女官長が一つずつ説明した。

「衣服は保管用に選別してございます。日用の品は、状態のよい物のみ」

「状態のよくない物は」

「処分いたしました」

 オデットは、箱の縁へ指を置いた。

 テオバルトが一歩後ろにいる。

 その距離を確かめてから、彼女は尋ねた。

「どのような物を」

「布類、紙類。傷んだ小物も」

「わたくしの絵は、ありましたか」

 女官長は記憶を探す顔になった。

 それが答えだった。

 母のために描いた、三本しか足のない馬。

 紙の端に、母が『速そうね』と書いてくれた。

 オデットは唇を閉じた。

 怒れば戻ってくるわけではない。

 それでも、怒ってよいのだと、今日は思った。

「次に処分する物があるなら、先に見せてください」

「ですが、整理はすでに」

「残っている物について、申し上げています」

 女官長は、しばらく彼女を見た。

 やがて頭を下げた。

「承知いたしました」


 母の部屋には、厚い布を掛けた家具が残っていた。

 窓を開けると、光の中に埃が浮いた。

 オデットは、机の位置を覚えていた。

 窓から少し離して置いてある。母は明るすぎる光を眩しがった。

 机の小さな引き出しに、平たい箱があった。

 女官長が鍵を出す。

「こちらは、書き付けの類でございます」

 蓋を開くと、見覚えのある筆跡が現れた。

 花の名前。来客の予定。子供が熱を出した日の覚え書き。

 大切な遺言ではなかった。

 国を動かす秘密でもない。

 母が明日を忘れないために書いた、日々の言葉だった。

 オデットは一枚を取り上げた。


 オデット、豆は嫌い。人参はもっと嫌い。

 でも焼いた南瓜は食べた。


 笑いが漏れた。

 続けて、涙が落ちた。

 紙へ落とさないよう、慌てて顔を横へ向ける。

 テオバルトが布を差し出した。

 受け取って目を押さえたが、笑いは止まらなかった。

「わたくし、変わっておりませんね」

 夫も、小さく笑った。

「少なくとも、人参については」

 女官長は窓のほうへ離れた。

 オデットはもう一枚めくった。


 雀を助けようとして、鉢を倒す。

 鳥は自力で逃げた。

 本人は納得していない。


 母は、こんなことを残していたのだ。

 立派な娘になった日ではない。

 失敗した日。嫌いな物を食べなかった日。

 母の紙の中には、王女になる前の自分がいた。

 箱の奥に、少し長い書き付けがあった。

 オデットは、端に記された日付を見た。

 七歳の夏だった。

 その日、母に強く叱られたことを覚えている。

 庭へ行く約束をしていたのに、母は部屋から出なかった。何度も呼びに行き、最後にはもうよしなさいと声を荒らげられた。

 自分がしつこかったからだと思っていた。

 紙には、頭痛がひどく、子供へ八つ当たりしたと書いてあった。

 明日は謝ること。

 その一行に、細い線が引かれている。

 オデットは目を閉じた。

 翌日、母が焼菓子を半分に割ってくれたのを思い出した。

 謝られた言葉は、忘れていた。

 怖い声だけ覚えていたのだ。

 テオバルトが隣で、紙を覗かずに待っている。

 オデットはその書き付けを見せた。

「母も、失敗していました」

 夫は読んで、頷いた。

「ええ」

「わたくし、ずっと、母なら何でも正しかったと思っていたのです」

 亡くなった人は、それ以上間違えない。

 残った人が思い出すたび、少しずつ綺麗になる。

 母は優しく、美しく、どんな時にも正しい答えを持っていた。

 そんな人に、自分がなれるはずがなかった。

 でも、この紙の母は頭痛がし、苛立ち、娘へ謝るのを忘れないよう書いていた。

 急に、近くなった。

「わたくしにも、似ていますね」

 オデットが言うと、テオバルトは少し笑った。

「あなたは、今のところ、頭痛で私を叱ったことはありません」

「これから、あるかもしれません」

「その時は、翌日教えてください」

 彼女も笑った。

 母へ近づくために完璧になる必要は、なかったのかもしれない。

 失敗した人の書き付けを、大事にしたいと思った。

「これを、いただきたいです」

 オデットが言うと、女官長は少し迷った。

「陛下へ、お伺いを」

「母の手帳です」

「王妃殿下の遺品でございますので」

 テオバルトの気配が動いた。

 オデットは振り返らず、静かに言った。

「では、わたくしからお願いします」

 箱の蓋を閉じる。

 戻したくなかった。

 でも、自分で頼みたかった。


 庭には、石の椅子が残っていた。

 座面には苔がつき、足元の土は乾いている。

 母が育てていた花の多くはなくなっていた。

 ただ、塀の根元に、葉の細い株が一つ生きていた。

 オデットは屈んだ。

「これも、母の花です」

 テオバルトが隣へ来た。

「強い株ですね」

「名前を、忘れてしまいました」

「後で調べましょう」

 葉を指で持ち上げると、土の匂いがした。

 母がいなくなっても、庭の全部が死んだわけではない。

 残っているものがある。

 それを、今の自分が見つけた。

「挿し芽を、取ってもよいでしょうか」

 女官長へ尋ねると、今度はすぐに頷いた。

「その程度でしたら」

 その程度。

 オデットは言葉を飲み込んだ。

 同じ物を見ていても、重さは違う。

 全部をわかってもらう必要はないのかもしれない。

 大切にする権利さえ、手放さなければ。

 テオバルトが小刀を取り出した。

 彼女へ柄を向けて渡す。

 オデットは若い枝を選び、三本だけ切った。

 濡らした布で包み、小箱へ収める。

 今度は、葉柄を引かなかった。


 父への面会は、午後になった。

 王は母の手帳の話を聞き、意外そうな顔をした。

「そのような物が、欲しいのか」

「はい」

「母に似たな。古い物を捨てられぬ」

 オデットは、自分が息を止めたことに気づいた。

 母に似ている。

 そう言われたかった頃があった。

 今は、その言葉に従うための条件がつく気がして、すぐには喜べなかった。

「少し、目を通しておこう」

 王が言った。

「お渡しいただけるのですか」

「急ぐこともあるまい。お前はしばらく、こちらに残るのだから」

 オデットは顔を上げた。

「三泊と、お返事を」

「大公の滞在はな。お前には、ブランシュを手伝ってもらいたい」

 父は自然に言った。

 決まっていることを、思い出させるように。

「婚礼まで、まだいろいろと用がある。母の物も、ゆっくり選べばよい」

 箱が、遠くなった気がした。

 手帳と、滞在。

 好きな物を受け取るために、何かを差し出す。

 慣れた形だった。

 オデットは、膝の上で指を握った。

「夫と一緒に、帰ります」

 声がかすれた。

 王は眉を上げた。

「話し合えばよい。あちらにも、わかっていただける」

「わたくしが、帰りたいのです」

 部屋の空気が変わった。

 父は、初めて彼女自身を見たようだった。

「家族の祝いよりもか」

 オデットは答えられなかった。

 胸の奥に、古い痛みが戻る。

 母の手帳はまだ机の向こうにあった。

 王は紙を閉じ、明日また話そうと言った。

 面会が終わった。

 オデットは箱を受け取れないまま、部屋を出た。


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