第13話 同じ寝台の遠い端
王宮の夕食は、皿が冷めていた。
オデットは魚を一口食べてから、それに気づいた。
前は、そういう料理なのだと思っていた。
今は、温かい物の味を知っている。
向かいのテオバルトが、給仕へ何かを小さく頼んだ。
程なく、オデットのスープが取り替えられた。
湯気が上がっている。
彼女が夫を見ると、彼は自分の皿へ目を戻した。
大きなことにはしなかった。
それでも、父の隣に座るクレマン伯爵は見ていた。
「ベルンでは、お食事のお好みもお変わりになりましたか」
穏やかな声だった。
オデットは匙を置いた。
「温かいほうが、おいしいと思います」
「もちろん。ただ、人数が多いと、どうしても」
この場には十二人しかいない。
公国の披露宴には、もっといた。
言いかけたが、口には出さなかった。
今したいことは、伯爵を言い負かすことではなく、夫と食事を終えることだった。
「お手数をおかけしました」
給仕へ礼を言い、温かいスープを口に運ぶ。
それで十分だった。
伯爵は別の人へ話しかけた。
食後、女官長が翌日の予定を告げに来た。
朝の礼拝。母の遺品の整理。ブランシュの衣装の最終確認。夕方には客人との茶会。
オデットは途中で止めた。
「母の遺品の整理とは」
「西の別邸を改めますので。王女殿下にも、お確かめいただこうと」
「取り壊すのですか」
「一部を、来賓の宿泊所に」
母の小さな庭があった場所だ。
オデットは喉の奥が冷えるのを感じた。
「いつ、決まったのですか」
「先月でございます」
自分に手紙は来なかった。
ベルンで咲いた花のことを父へ送っていた頃、母の庭を変える話が決まっていた。
女官長は、困った顔をした。
「王女殿下がこちらにいらっしゃれば、もっと早くご相談できたのですが」
その言い方で、オデットは自分の席へ戻された。
いなかった自分が悪い。
嫁いだのは自分の意思ではなくても、離れた側が責任を取る。
頷きそうになった。
隣でテオバルトが動いた。
けれど言葉は挟まなかった。
待ってくれる約束を、守っていた。
オデットは息を吸った。
「明日、見せてください」
「はい」
「それから、姉の衣装の確認は、わたくしでなくてもできると思います」
女官長が目を上げた。
「以前は、お好みをよくご存じでしたので」
「今は、こちらに仕える方のほうがよくご存じでしょう」
声は揺れた。
でも、言い終えた。
「明日の午後は、夫と過ごします」
テオバルトは、その時だけ頷いた。
女官長は予定の紙を見直し、承知しましたと答えた。
部屋へ戻った後、オデットはしばらく窓の前に立った。
西の別邸は、ここから見えない。
あの庭には、母がよく座っていた石の椅子があった。
雨が降ると座面に水が溜まり、いつも侍女が布で拭いてから母を呼んだ。
母は、少しくらい濡れてもいいのにと言っていた。
その声を、忘れたくなかった。
「見に行きましょう」
テオバルトが隣に立った。
「明日」
「はい」
「残したい物があれば、交渉できます」
オデットは頷いた。
それでも、胸の痛みは消えなかった。
石の椅子を持って帰っても、母が座っていた庭にはならない。
鉢を一つ救えても、あの時間を持ち帰れるわけではない。
「なくなることより」
言葉を探した。
「わたくしが、知らない間に決まっていたことが、寂しいのかもしれません」
夫は、頷いた。
「ええ」
「いつも、そうでした。なくなった後で、もういらないと思ったと言われるのです」
母の刺繍枠。古い絵本。背が伸びても捨てたくなかった外套。
大事だったと伝えると、物に執着してはいけないと言われた。
「大事だと、先に言えばよかったのでしょうか」
テオバルトは、少し考えた。
「何もかも、先に言うのは難しい」
「でも」
「私も、温室の欠けた鉢を、一つずつ大切だと札に書いてはいません」
オデットは顔を向けた。
「それは、書いたほうがよいかもしれません」
夫が笑う。
彼女も、少し笑えた。
「すみません。上手い例ではなかった」
「いいえ」
オデットは彼の手を取った。
「今は、ここにいたいです」
「はい」
寝室のほうから、リナが支度を終えたと知らせた。
オデットは扉を見た。
大きな寝台。
別々に眠るには、一つしかない場所。
昼間は先送りにできた話が、戻ってきていた。
テオバルトが手を緩める。
「私は、隣の部屋で」
「ここに」
オデットは急いで言った。
自分の声に驚いたが、取り消さなかった。
「いてください」
テオバルトが彼女を見る。
「眠るだけでも?」
尋ねたのは、オデットだった。
彼は少し息を止め、それから頷いた。
「もちろん」
その返事で、膝の力が抜けそうになった。
夫と同じ寝台に入ることが、こんなに手間取るとは思わなかった。
リナが下がるまで、オデットは枕の位置を何度も直した。
テオバルトは衝立の向こうで着替え、出てきた時には襟の緩い寝間着を着ていた。
普段より髪が少し乱れている。
見てはいけない気がして、オデットはすぐに掛け布へ潜った。
それから、見なかったことを後悔した。
夫は寝台の反対側へ入り、灯りを一つ残した。
「消しますか」
「このままで」
「はい」
間に、人が一人入れそうな距離があった。
広い寝台なのが、ありがたくもあり、意地悪にも思えた。
オデットは天井を見た。
隣に人がいると、眠り方までわからなくなる。
息をどのくらいの大きさで吐けばよいのか。寝返りを打ってよいのか。
しばらくして、夫が言った。
「遠いですね」
オデットは目を向けた。
「はい」
「あなたが端へ落ちそうで」
自分はいつの間にか、寝台の縁ぎりぎりにいた。
少し中央へ動く。
テオバルトも少し動いた。
まだ、遠かった。
「もう少し」
どちらが言ったのか、後で思い出せなかった。
気づくと、手が届くところに夫がいた。
オデットは指を伸ばす。
彼が受け止めた。
「おばあ様」
呼ぶと、テオバルトが小さく笑った。
「今、その名で呼ばれると、少々」
「すみません」
「いえ。何でしょう」
オデットは、天井へ目を戻した。
「わたくし、ここで眠れない夜があると、いつも手紙を書いていました」
「はい」
「でも、今夜は、何も書きたくありません」
繋いだ手が、ゆっくり握られた。
「私も、読まなくて済むなら、そのほうが」
「寂しくありませんか」
「あなたが隣にいるので」
オデットは横を向いた。
夫も、こちらを向いている。
近いと、瞳の中の色がいくつも見える。灰色だけではなく、緑と、少しの茶。
知らなかったことが、また一つ増えた。
「おやすみなさい、テオバルト様」
「おやすみなさい、オデット」
眠る前、彼の手が髪へ一度触れた。
それから夫は、約束通り何もしなかった。
何もされないことに、自分が少し残念がったことは、まだ教えなかった。
夜中に一度、目が覚めた。
雨は降っていない。
噴水の音だけが、遠くから聞こえた。
オデットは一瞬、自分がまだ嫁ぐ前なのかと思った。
明日も誰かの機嫌を読み、姉の支度を手伝い、誰にも必要とされないように一日を終える。
胸が冷たくなった。
その時、腰のあたりに温かいものがあった。
夫の腕だった。
眠っている間に、二人とも近づいたらしい。
テオバルトは目を閉じていた。
起こさないように、オデットはそっと身体を寄せた。
胸に頬をつけると、心臓の音がした。
手紙には載らない音だった。
自分の帰る場所が、生きている。
オデットは目を閉じ、もう一度眠った。




