第12話 懐かしい家の客人
故国の王宮は、遠くからでも白かった。
夏の日差しを受けると、壁も階段も、人を寄せつけないほど明るく見える。
馬車の窓から眺めながら、オデットは膝の上で手を重ねた。
テオバルトは向かいに座っていた。
話しかけずにいてくれることが、今はありがたかった。
門をくぐると、噴水の水音が聞こえた。
あの音を聞きながら育った。
雨の日にも、母が亡くなった日にも、何も変わらず水は落ちていた。
馬車が止まる。
扉が開く前に、テオバルトが言った。
「三泊です」
オデットは顔を上げた。
「はい」
「帰り道に、あの宿で昼食を取りましょう」
途中で立ち寄った、豆のスープがおいしい小さな宿だった。
「林檎の煮たのも」
「頼んでおきます」
先の景色を一つ置いてくれた。
オデットは、ようやく息を深く吸えた。
出迎えた女官長は、昔と同じ香水をつけていた。
「王女殿下。お変わりなく」
「お久しぶりです」
「少し、お痩せに?」
「そうでしょうか」
反射的に腹へ力が入る。
次に姿勢を注意される気がした。
だが女官長はテオバルトへ向き直り、深く礼をした。
「大公殿下には、ようこそお越しくださいました」
自分への声より、ずっと柔らかかった。
知っていた違いだ。
今日は、隣に立つ夫がその違いを聞いたことがわかった。
テオバルトは礼を返し、オデットへ腕を差し出した。
「案内していただけますか」
彼女に向けた言葉だった。
女官長が一瞬止まる。
「こちらで、ご案内いたします」
「ええ。ですが妻の育ったところですから、話を聞きながら歩きたい」
オデットは夫の腕へ手を添えた。
廊下の絵。窓の向き。階段の段差。
知っていることを一つずつ話し始めると、昔の足取りとは少し違って歩けた。
用意されたのは、客人用の二間続きの部屋だった。
オデットは驚いた。
以前の自室へ戻されると思っていたのだ。
女官長は、テオバルトへ説明した。
「南棟でございますので、庭がよく見えます。王女殿下のお部屋は、従来のまま残しておりますが」
「こちらで、一緒に過ごします」
オデットが先に答えた。
女官長は彼女を見て、それから大公を見た。
確認する相手が違うことに、オデットは気づいた。
テオバルトはただ頷いた。
「妻の言う通りに」
扉が閉まると、オデットは深く息を吐いた。
「ごめんなさい。わたくしが、勝手に」
「私も、そのつもりでした」
「寝室は」
また、その話をしてしまった。
テオバルトは内側の扉を見た。
寝台は一つだった。
幅は広い。十分すぎるほど。
それが、かえって何の言い訳にもならなかった。
「私は、こちらの長椅子でも」
「それでは、休めません」
答えたあと、二人とも黙った。
オデットは耳まで熱くなった。
夫婦なのに。
夫婦だからこそ、言葉が詰まる。
「……夜に、考えましょう」
テオバルトが言った。
先送りにほっとして、少しだけ残念になる。
自分は忙しい、とオデットは思った。
拝謁までの待ち時間に、オデットは以前の自室を見に行った。
テオバルトには、少しだけ一人で歩きたいと伝えた。
夫は頷き、客間で待っていると言った。
廊下の奥の扉を開く。
部屋は、驚くほどそのままだった。
狭い寝台。北向きの窓。壁の小さな染み。
ただ、机の上には何もなく、花の鉢を置いていた窓台だけ、四角く色が違っていた。
オデットはそこへ手を置いた。
ここで手紙を書いた。
返事が来ると、人に見られないよう窓の陰へ座って読んだ。
薄青い紙を何度も開いたせいで、折り目が弱くなった。
嬉しい返事ほど、破らないように気をつけた。
あの頃、この部屋から出たいと思っていた。
それなのに今、空になった机を見ると、少し寂しい。
つらい場所にも、自分が生きた時間は残るのだ。
扉の外で、若い侍女が足を止めた。
「王女殿下」
以前、時々湯を運んでくれた娘だった。
「お戻りになったと伺って。お部屋は、このままにするよう言われております」
「ありがとう」
「お花は、お持ちになったのですね」
「ええ。咲いたのよ」
侍女が笑った。
「よかったです。冬に、ずっと気にしていらしたので」
覚えている人がいた。
父が知らなくても、姉が気に留めなくても、自分の窓辺を見ていた人がいたのだ。
オデットは、その娘の名を呼んで礼を言った。
彼女は驚き、照れたように頭を下げた。
部屋を出る前、オデットは机の引き出しを開けた。
忘れ物はなかった。
それでも、手紙を書く時に指が引っかかった小さな傷は残っている。
指で一度なぞり、引き出しを閉じた。
昔の自分を、この部屋へ置き去りにするのではない。
ここで便りを書いた自分ごと、今の部屋へ帰ればよい。
廊下へ出ると、足取りは来た時より少し軽かった。
父王への拝謁は、到着から一時間後だった。
王は以前より少し白髪が増えていたが、声は変わらなかった。
オデットへ手を差し出し、近況を二つ尋ねた後、話をテオバルトへ移した。
公国の天候。街道の様子。共通の知人。
オデットは椅子に座り、会話の切れ目で微笑んだ。
慣れた位置だった。
「娘が、ご迷惑をかけておらぬか」
王が言った。
「不慣れなことも多かろう。何分、控えめな娘で」
テオバルトは杯を置いた。
「よく助けてくれています」
「そうか」
父は満足そうに頷いた。
オデットも、そこで話が終わると思った。
夫が続ける。
「ただ、もっと不満を言ってくれてもよいと思っています」
王の笑みが止まった。
オデットは夫を見た。
「不満?」
「私が気づかないことを、教えてくれるので」
「そうした細事は、家の者が」
「夫婦のことですから」
静かな返答だった。
王は笑い直し、まだ新婚であったな、と言った。
テオバルトも、はい、と答えた。
オデットは膝の上で指をほどいた。
夫は自分を褒めるために、従順だと言わなかった。
そのことが、嬉しかった。
夕食までの間、オデットは姉を訪ねた。
ブランシュは衣装の仮縫いの最中だった。
部屋には布と箱が積まれ、鏡の前で侍女が裾を持っている。
「戻ったのね」
姉は鏡越しに言った。
「婚約のお祝いを、申し上げたくて」
「ありがとう。そこの針箱を取ってくださる?」
オデットの手が、先に動いた。
針箱を取り、衣装師へ渡す。
次に姉が、あのリボンを、と言いかけたところで、侍女が慌てて動いた。
「わたくしが」
オデットは空いた手を見た。
まだ、同じように働こうとしていた。
ブランシュは気にした様子もなく、婚約者の話をした。
隣国の王弟で、年は三つ上。狩猟が好きで、詩を少し書くという。
「詩を読まされるのは、困るわね」
姉が言う。
オデットは夫の声で読む随筆を思い出した。
「楽しいかもしれません」
「あなたは、そういうのを苦にしないでしょう」
昔なら、頷いていた。
今日は、違うとわかった。
苦にならないのではない。
あの人が読むから、聞きたいのだ。
「相手によると思います」
ブランシュが鏡から振り返った。
「何だか、変わったわね」
責める声ではなかった。
ただ、見慣れた家具の場所が変わったことに気づいたような声だった。
オデットは微笑んだ。
「そうかもしれません」
姉の胸元に、白い石の首飾りがあった。
自分の婚礼へ貸し出された品だ。
今は姉のものでもなく、王家のものとして首にある。
オデットは耳の後ろの小鳥へ触れた。
自分の物を、一つ確かめた。
部屋へ戻ると、テオバルトが窓のそばで待っていた。
「お会いできましたか」
「はい」
「よかった」
オデットは靴を脱ぐ前に、彼のそばへ行った。
自分から腕を回すと、夫は驚きながら受け止めた。
何も聞かれなかった。
そのまま胸へ額をつけ、少し立っていた。
「昔のわたくしが、たくさんいます」
やっと言えた。
「廊下にも、お部屋にも」
テオバルトの手が、背をゆっくり撫でた。
「今のあなたは、ここにいます」
「はい」
「私には、今のあなたしか抱きしめられない」
オデットは顔を上げた。
夫の目を見て、小さく笑う。
「では、しばらく」
「喜んで」
窓の向こうでは、昔と同じ噴水が光っていた。
その音を聞きながら、オデットは初めて、この王宮で誰かに甘えた。




