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冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました  作者: 星舟能空


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第11話 帰りを待つ人

 窓辺の花が咲いた。

 朝の光の中で、薄紅の花弁が開いていた。

 オデットはリナを呼び、それから廊下へ出た。

 夫はもう執務室へ行っただろうか。

 足が自然に速くなる。

 角を曲がったところで、フリッツとぶつかりかけた。

「失礼しました」

「大公妃殿下、いかがなさいました」

「咲いたので」

 それだけではわからない。

 言い直そうとしたら、秘書官はすぐに頷いた。

「お部屋の花ですね。殿下は、今から会議に」

「では、後で」

 引き返そうとすると、扉が開いた。

「何が咲きましたか」

 テオバルトが顔を出した。

 オデットは、急いで答えた。

「鉢の花です。でも、お仕事が」

「二分、待ってもらいましょう」

 フリッツが時計を見た。

「往復で三分では」

「では三分」

 夫が歩き出す。

 オデットは隣に並んだ。

 誰かへ嬉しいことを知らせたくて走るなど、子供の時以来だった。

 部屋へ戻り、窓辺を示す。

 テオバルトは屈み、花を見た。

「綺麗に開きましたね」

「はい」

「無事に来られた」

 花への言葉だった。

 でも、オデットにも届いた。

 彼女は少し笑って、夫の袖に触れた。

「はい」

 三分で、彼は仕事へ戻った。

 それで十分だった。

 全部の時間をもらわなくても、知らせれば会いに来てくれる。

 花は、午後になっても開いていた。


 夏の帰国について、正式な招待状が届いたのは、その数日後だった。

 姉の婚約発表と、亡き王妃を偲ぶ礼拝を合わせて行うという。

 テオバルトにも招待があった。

 オデットは二つの封筒を並べ、何度も日付を確かめた。

 母の命日は、別の季節だった。

 偲ぶための礼拝なら、命日でなくてもよいのだろう。

 ただ、それを今まで開いたことはなかった。

「行きたいですか」

 テオバルトが尋ねた。

 オデットは、以前より長く考えた。

 王宮へ戻るのは怖い。

 でも、母の小さな庭をもう一度見たい。

 姉の婚約が決まったのなら、直接祝いを言いたい気持ちもある。

 嫌なことしかなかった場所ではないから、余計に答えにくかった。

「行きたい気持ちも、あります」

「では、ご一緒しましょう」

「お仕事は」

「日程を調整できます。三泊なら」

 招待状には、オデットだけ先に到着し、婚約発表の後もしばらく留まるよう書かれていた。

 何日なのかは、決められていない。

「わたくしは、長く」

「あなたは、何泊したいですか」

 テオバルトは遮るほど強い声ではなく、ただ、問いを戻した。

 オデットは紙を見つめた。

「一緒に、帰りたいです」

「はい」

「一緒に行って、一緒に帰りたい」

 夫の返事は変わらなかった。

「そうしましょう」

 オデットはようやく、旅の終わりを思い描けた。

 王宮へ行く。

 そして、ここへ戻ってくる。

 帰国という言葉の行き先が、今は少し違っていた。


 旅支度を始めると、館の人々はそれぞれ違う心配をした。

 マルタは向こうの寝台が寒くないかを案じ、料理長は道中の食事を詰めすぎ、エーミルは鉢を持って行かないよう何度も念を押した。

「今動かしたら、せっかくの花が傷みます」

「置いていきます」

「お水も、わしが」

「はい」

「殿下には、触らせません」

 近くにいたテオバルトが咳をした。

 オデットは笑った。

 心配されることに、少し慣れてきた。

 ただ、部屋の荷物を箱へ詰めると、最初にここへ来た日を思い出した。

 リナと二人きりで、何を持って行けば怒られないか考えていた日。

 今は持って行きたい物が増えていた。

 小鳥の髪飾り。城下で買った薄い本。夫からもらった短い紙。

 引き出しの一番奥には、三年間の手紙を入れた箱がある。

 オデットは蓋へ手を置いた。

 故国にいたときは、この箱を置いて出かけることができなかった。

 留守中に見つかり、処分されるかもしれないと思ったからだ。

「こちらは、お持ちになりますか」

 リナが尋ねた。

 オデットは蓋から手を離した。

「置いていくわ」

 鍵を掛ける。

 そして鍵も、机の小皿へ置いた。

 ここでは、なくならない。

 そう思えることが、自分でも不思議だった。


 出発の前夜、テオバルトが部屋を訪ねてきた。

 近頃は夕食の後、少し一緒に過ごすのが習慣になっていた。

 たいてい本を読むか、その日の話をする。

 時々、話が途切れたところで、どちらからともなく唇を重ねる。

 その先を考えると、オデットはまだ息が詰まりそうになった。

 怖いというより、知らない自分になりそうで。

 テオバルトは急がなかった。

 そのことに安心し、時々、もう少し急いでほしいと思う。

 自分の心は、手紙の相談よりずっと扱いにくい。

「支度は?」

「済みました」

「眠れそうですか」

「少し、難しいかもしれません」

 オデットは正直に答えた。

 テオバルトは隣に座り、手を差し出した。

 彼女はその手を取る。

「向こうで、わたくしが変になっても」

「変に?」

「何も言えなくなったり、今、申し上げたことと違うお返事をしたりするかもしれません」

 テオバルトは黙って聞いた。

「あそこにいると、先に頷いてしまうので。そうしたほうが、早く終わることが多くて」

 夫の指が、少し強くなった。

「わかりました」

「ごめんなさい」

「謝ることではありません」

 オデットは彼を見た。

 何もかも任せてしまえば楽だろう。

 でも、自分の言葉を全部代わりに言ってもらいたいわけではなかった。

「その時は、少し待ってください」

「はい」

「わたくしが、もう一度考えるまで」

「待ちます」

 テオバルトは、右手の傷を見せるように掌を返した。

「得意ではありませんが、練習しています」

 オデットは笑った。

 花への水と同じにされるのは、少しおかしい。

 でも、彼らしい約束だった。


 翌朝、馬車に乗る前に、オデットは窓を見上げた。

 薄紅の花が見えた。

 エーミルが庭で手を上げ、マルタが見送りの列の端から声をかける。

「お帰りをお待ちしております」

 オデットは振り向いた。

 帰りを待つ。

 三年前の手紙に、一度だけ書いた願いだった。

 誰かが、わたくしの帰りを待ってくれたらいいのに。

 目の前には、何人もいる。

 隣には、一緒に帰る人がいる。

「行ってまいります」

 声が少し震えた。

 テオバルトが先に馬車へ上がり、手を差し伸べる。

 オデットは、その手を取った。

 今度の旅には、帰る場所があった。



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