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冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました  作者: 星舟能空


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第16話 姉のための一時間

 婚約発表の日、ブランシュの部屋で小さな騒ぎが起きた。

 袖につける飾りが届かない。

 頼んだ色と違う花が来た。

 衣装師は別の客の直しへ呼ばれ、姉は鏡の前で機嫌を悪くしていた。

 オデットは祝辞を伝えに寄っただけだった。

 けれど、目の前にほどけた縫い目を見ると、指が動きかける。

「あなた、これを」

 ブランシュが言いかけた。

 その言葉が止まった。

 昨夜の茶会を思い出したのかもしれない。

「……直せるかしら」

 尋ねる形になった。

 オデットは時計を見た。

 夫との約束まで、一時間半ある。

「一時間でしたら」

 姉が振り返った。

「その後は?」

「夫と、庭を見に行きます」

「こんな日に」

 いつもの言い方だった。

 オデットは針箱を手に取る前に、答えた。

「はい。約束したので」

 ブランシュはしばらく黙った。

 それから、ほどけた袖を持ち上げる。

「では、お願い」

 オデットは椅子を引いた。

 頼まれたことをする。

 それ自体が嫌いだったわけではない。

 終わりがなく、自分の時間より当然に優先されることが苦しかったのだ。

 針へ糸を通すと、手は迷わず動いた。

 姉の腕の長さも、布の張り方の好みも、まだ覚えていた。

「向こうでは、こういうことをしないの?」

 ブランシュが尋ねた。

「必要な時は、します」

「大公の服を?」

「衣装係の方がいますから」

「では、何をしているの」

 オデットは一針縫ってから答えた。

「庭を見たり。本を読んだり。時々、街へ行きます」

「それだけ?」

 責めるというより、姉は本当に意外そうだった。

 オデットは針を止めた。

「ほかにも、いろいろあります。でも、夫と過ごす時間は、そういうことが多いです」

「退屈ではないのね」

「はい」

 ブランシュは鏡へ目を戻した。

 首飾りの白い石を、指で揃える。

「わたくしの婚約者は、詩を持って来るそうよ」

 オデットは笑いかけて、やめた。

 姉の声が、少し硬かった。

「読んでみたいですか」

「よいと思うと言わなければならないでしょう」

「そうなのですか」

「王弟殿下の詩なのよ」

 オデットは夫の失敗した温室を思い出した。

 立派だと言わずに、散らかっていると笑った。

 それで二人の距離が近くなった。

「わたくしなら、わからないところは、聞くと思います」

「あなたは、気楽ね」

 その言葉は少し刺さった。

 気楽になるまでに、何度も息が詰まったことを姉は知らない。

 でも、今は説明して争いたくなかった。

「今は、前より気楽です」

 オデットはそう答えた。

 ブランシュが、鏡の中で彼女を見た。

 姉妹は少しの間、黙っていた。


 袖が直ると、ちょうど一時間近く経っていた。

 オデットは糸を切り、針を戻した。

「終わりました」

「綺麗ね」

 姉は袖を動かした。

 昔は、終わったことだけ確認していた。

 今日は綺麗だと言った。

 それだけで何もかも変わるわけではないが、オデットは嬉しかった。

「お似合いです」

 立ち上がると、ブランシュが呼び止めた。

「母の手帳、欲しいのね」

「はい」

「わたくしも、見せてもらったの」

 オデットは姉を見た。

「わたくしのことも、書いてあった。眠いと怒る、と」

 少し笑ってしまった。

 ブランシュも、口元だけで笑った。

「ひどいでしょう」

「子供でしたから」

「今も、あまり変わらないわ」

 姉は鏡へ視線を戻した。

「父上は、あなたが残れば渡すと?」

「はっきりは、おっしゃっていません」

「あの言い方でしょうね」

 知っているのだと、オデットは思った。

 姉は自分と違う側にいたが、同じ父の言い方を知っている。

「わたくしは、明日帰ります」

 彼女は言った。

 ブランシュはすぐに頷かなかった。

「いてくれれば、助かるけれど」

「はい」

「でも、婚約者が来るのですものね。わたくしも、あの方と話さないと」

 オデットは姉の横顔を見た。

 慰めてくれたわけではない。

 自分も困っていると言っただけだ。

 それでも、昔より少しだけ対等な会話だった。

「お祝いしています」

 オデットは言った。

「本当に」

 姉は彼女を見て、短く答えた。

「ありがとう」

 オデットはその一言を持って、部屋を出た。


 庭の入口で、テオバルトが待っていた。

 彼は時計を見なかった。

「間に合いましたか」

 オデットが尋ねると、夫は頷いた。

「はい」

「袖を直していたのです」

「お疲れさまでした」

 何も心配しすぎない、その返事が嬉しかった。

 オデットが自分で時間を決め、自分で戻ってきたことを、ただ受け取ってくれる。

 二人で、昨日取った挿し芽を確かめに行った。

 切り口は傷んでいない。

 テオバルトが布の湿り具合を確かめ、オデットが小箱の蓋へ通気の隙間を作る。

 共同の手つきが、少しずつできていた。

「帰ったら、どこへ置きましょう」

 彼が尋ねる。

「最初は温室へ。その後、育ったら、窓から見えるところへ」

「あなたの部屋の?」

 オデットは返事をしようとして、止まった。

 昨夜、一緒に眠った。

 今夜も、同じ寝台なのだろう。

 ベルンへ戻れば、また部屋が別になる。

 そのことを考えていたと、顔に出たかもしれない。

 テオバルトが、静かに彼女を見た。

「……どちらの窓からも、見えるところがいいです」

 ようやく答えた。

 夫は小さく頷く。

「探してみましょう」


 婚約発表の宴で、ブランシュは婚約者の腕へ手を添えていた。

 王弟は穏やかな顔の人で、姉が何か尋ねると、少し慌てたように話し始めた。

 詩のことかもしれない。

 オデットは遠くから見て、少し笑った。

 自分の夫が、彼女の視線を追う。

「お幸せになられるといいですね」

「はい」

 今は、心からそう思えた。

 姉の幸福のために、自分が不幸な役を続ける必要はない。

 それぞれの隣に、それぞれの人がいる。

 宴の途中、父が客人へ、娘たちはいずれもよい縁に恵まれたと語った。

 その声を聞きながら、オデットは夫の右手を見た。

 手袋はない。

 火傷の痕も、指の硬さも、初めて会った日と同じだった。

 でも、自分はもう、何も知らない花嫁ではない。

 彼がどんな時に待てず、どんな菓子が好きで、眠る時に腕を伸ばすのかを知っている。

 そのことは、父が与えたものではなかった。

 オデットはテオバルトの手を取った。

 夫が顔を向ける。

「踊れますか」

「ゆっくりした曲なら」

「今、ちょうど」

 テオバルトは笑い、彼女を広間の中央へ導いた。

 故国の床で、初めて、自分が踊りたい相手と踊った。



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