第九話 鈴、運用される
鈴システムは、朝から運用されていた。
ちりん。
軽い音が、山の家に響く。
間もなく、廊下の向こうから足音がした。
ベルが来た。
「何だ。」
「敬語。」
「何でしょうか。」
「朝です。」
「知ってる。」
「敬語。」
「知っています。」
「鈴の音、聞こえましたか。」
「聞こえたから来たんだろ。」
「確認です。」
「確認で鳴らすなって、昨日言ったよな。」
「はい。」
「はいじゃねぇ。」
「敬語。」
「はいではありません。」
小雪は手の中の鈴を見た。
よく響く。
小さくて、軽くて、手の中に収まる。
寝床の横に置いても邪魔にならず、作業台に持っていっても邪魔にならず、袖の中に入れても落ちない。
非常に便利だった。
ベルは犬ではない。
たしかに人間であるはずだ。
しかし、鈴を鳴らすと来る。
小雪は、その分類に少し困っていた。
便利。
有能。
生活文明担当。
呼ぶと来る。
人間。
犬ではない。
並べると、少し不思議である。
「今、何を考えてる。」
「ベルの分類です。」
「分類するな。」
「敬語。」
「分類しないでください。」
「難しいですね。」
「難しくねぇ。」
ベルは額を押さえた。
柔らかな金色の髪が、指の間から少し零れる。
今日はいつもより髪が乱れていた。
きちんと整えていない前髪が額へ落ち、その下の琥珀色の目も、少し眠そうに細められている。
小雪は、しばし観察した。
「寝不足ですか。」
「誰のせいだと思ってる。」
「鈴?」
「おまえだ。」
「敬語。」
「あなたです。」
「そうですか。」
小雪は頷いた。
昨夜、小雪は鈴を二回鳴らした。
一度目は、寝床の横に置いた鈴が本当に鳴るかどうかの確認。
二度目は、夜に鳴らしてもベルが聞こえるかどうかの確認。
ベルは二度とも来た。
一度目は、「何だ!危険物か!」と言った。
二度目は、「……今度こそ何だ」と言った。
どちらも敬語ではなかったので、小雪は訂正した。
結果、夜間でも鈴は有効と分かった。
そして、ベルの睡眠時間は少し減った。
小雪は机の上の紙を取り、書き付けた。
鈴、夜間の有効性を確認。
課題、ベルが寝不足になる。
「書くな。」
「重要です。」
「俺の寝不足を研究成果にするな。」
「生活文明の課題です。」
「課題を作ってんのはおまえだ。」
「敬語。」
「課題を作っているのはあなたです。」
「丁寧な責任転嫁。」
「うるさいです。」
ベルは深く息を吐いた。
それから、長い腕を上へ伸ばして大きく背を伸ばす。
背が高いので、ただそれだけで天井が少し近そうに見えた。
寝不足のせいか、普段より動きが少し緩い。
それでも、シャツの袖を無造作に肘まで捲り上げると、剣を扱う人間らしい引き締まった腕が露わになる。
小雪はそれを見た。
ふむ。
力仕事にも使える。
やはり有用。
「……おい。」
「はい。」
「今度は何を見てる。」
「腕です。」
ベルが固まった。
「腕。」
「はい。」
「何で。」
「力がありそうなので。」
「……そうかよ。」
「敬語。」
「そうですか。」
ベルはなぜか袖を少し下げた。
「朝飯にする。鈴を鳴らすなよ。」
「はい。」
「飯ができるまでは鳴らすな。」
「はい。」
「危険物に触るな。」
「はい。」
「電磁石も触るな。」
「はい。」
「返事がいい時ほど信用ならねぇんだよな……。」
「敬語。」
「信用なりませんね。」
「はい。」
「そこは否定しろ。」
ベルは、また深く息を吐き、台所へ入った。
大変疲れている様子だ。
ふむ。
文明の進歩とは、時に犠牲を伴うものであるらしい。
小雪は作業台を見た。
鉄芯。
銅線。
昨日買った保存容器。
酢。
塩。
銅板。
鉄板。
水。
ベルが、「電気を作るなら、まず小さく試す」と言って用意したものだった。
小雪はそれを眺めた。
触るなと言われた。
つまり、触らなければよい。
見るだけなら問題ない。
小雪は椅子に座り、じっと見た。
しばし見た。
とても見た。
しかし、見るだけでは何も進まない。
小雪は鈴に手を伸ばした。
ちりん。
台所からベルの声が飛んできた。
「鳴らすなって言っただろ!」
「質問です。」
「何だ!」
「敬語。」
「何でしょうか!」
「見るだけなら、触っていませんか。」
「見るだけなら触ってねぇ!」
「では、見るだけにします。」
「そうしろ!」
「敬語。」
「そうしてください!」
小雪は頷いた。
見るだけ。
小雪は銅板を見た。
鉄板も見た。
酢も見た。
塩も見た。
銅線も見た。
見ているうちに、銅板が少し斜めになっていることに気づいた。
斜め。
他のものは真っ直ぐなのに、これだけ斜め。
気になる。
これだけ。
小雪は、しばし考えた。
直すのは、触ることに含まれるだろうか。
たぶん、含まれる。
小雪は鈴に手を伸ばした。
ちりん。
「今度は何だ!」
「銅板が斜めです。」
「触るな!」
「はい。」
「俺が行く!」
「来ますか。」
「行く!」
「敬語。」
「行きます!」
ほどなくして、ベルが台所から現れた。
手には木べら。
背を少し屈めるようにして作業台を覗き込み、乱れた金髪を鬱陶しそうに片手でかき上げる。
小雪は銅板を指さした。
「斜めです。」
「……斜めだな。」
「気になります。」
「分かった。直す。」
ベルは長い指で銅板を摘み、真っ直ぐにした。
小雪はそれを見て頷く。
うむ。
これで、他と同じ真っ直ぐになった。
「ありがとうございます。」
「……このくらいで礼を言うな。」
「では、言いません。」
「いや、言ってもいい。」
「どちらですか。」
「時と場合による。」
「難しいですね。」
「難しいです。」
ベルは木べらを持ったまま、作業台の前に立っている。
小雪は彼を見る。
「台所は大丈夫ですか。」
「……危ない。」
ベルの琥珀色の目が見開かれた。
次の瞬間、彼は急いで台所へ戻っていった。
小雪は記録した。
鈴はベルを移動させる。
台所との併用に課題あり。
朝食の後、ベルは作業台の前に座った。
小雪はその向かいに座る。
鈴は小雪の右手の近く。
ベルはそれを見た。
「今日は、目の前にいる時は鳴らすな。」
「声で呼びますか。」
「そうだ。」
「ベル。」
「何だ。」
「鳴らしていません。」
「偉いな。」
「はい。」
小雪は頷いた。
ベルが少し固まった。
「……今のは皮肉だ。」
「褒められたのかと。」
「いや、まあ。」
ベルは視線を逸らした。
「鳴らさなかったのは、偉い。」
「ありがとうございます。」
「……どういたしまして。」
ベルはさらに顔を逸らした。
耳が少し赤い。
小雪は鈴を見た。
鳴らしていない。
特に何もしていないのに、ベルが赤くなった。
鈴以外でも、ベルは色々変化する。
これは興味深い。
「書くな。」
「まだ何も。」
「顔で分かる。」
「やはりベルは私の顔をよく見ていますね。」
ベルは手を滑らせ、木箱に拳をぶつけた。
ごつ、と鈍い音がする。
「痛そうです。」
「痛くねぇ。」
「敬語。」
「痛くありません。」
「そうですか。」
小雪は鈴を少し遠ざけた。
鈴とベルの実験に夢中になってしまった。
しかし、今はそれどころではない。
今は電磁石である。
ベルは咳払いをした。
「まず、昨日の続きだ。」
「はい。」
「電磁石は、鉄芯に銅線を巻くだけじゃ動かねぇ。」
「はい。」
「電気を流す必要がある。」
「雷――。」
「却下。」
「まだ何も言っていません。」
「言う顔をしてた。」
「顔。」
「おまえは、雷を使う時の顔がある。」
「そうですか。」
「そうだ。」
「どんな顔ですか。」
「何かを、手早く済ませようとしている顔だ。」
「効率的なので。」
「絶対に家が壊れる。」
「復元。」
「だから、そういうところだぞ。」
「敬語。」
「そういうところです。」
ベルは銅板と鉄板を取り出した。
それから、昨日買った小さな壺を三つ並べる。
「今日は、これで試す。」
「壺。」
「壺じゃねぇ。いや、壺ではあるが、中身だ。」
ベルは壺へ水を入れ、塩を加え、少し酢を混ぜた。
小雪はじっと見る。
ベルはこういう時、いつもより静かだった。
普段はよく吠える。
だが、道具を扱う時は違う。
伏せられた琥珀色の目は真剣で、長い睫毛が頬に小さな影を作っている。
細長い指は迷わず動く。
小雪が触れば曲がる物も、折れる物も、壊れる物も、その手の中では正しい位置に収まっていく。
小雪は、しばし考えた。
やはり、ベルは道具を触っている時が一番頼もしい。
小雪はその考えを、どう分類すればよいか分からなかった。
「飲み物ですか。」
「飲むな。」
「酸っぱそうです。」
「飲むな。」
「敬語。」
「飲まないでください。」
「はい。」
ベルは銅板と鉄板をそれぞれ壺の中へ入れ、銅線をつないだ。
小雪は首を傾げる。
「これで電気が出ますか。」
「弱いけどな。」
「なぜですか。」
「金属と液の組み合わせで、小さな流れができる。」
「魔法ではなく。」
「魔法ではなく。」
小雪は少しだけ身を乗り出した。
袖が壺に触れそうになる。
ベルがすぐに手を伸ばした。
「袖。」
「はい。」
「濡れる。」
「乾きます。」
「濡らすな。」
「敬語。」
「濡らさないでください。」
ベルは小雪の袖口をつまみ、二度ほど折り返した。
手首が出る。
小雪はそれを見た。
ベルも見た。
なぜか、ベルの動きが止まった。
小雪の手首を支えたまま。
「どうしました。」
「……何でもない。」
「敬語。」
「何でもありません。」
「顔が赤いです。」
「壺が暑い。」
「壺は冷たいです。」
「気分の問題だ。」
「そうですか。」
小雪は折られた袖を見る。
たしかに、これなら作業しやすい。
これは生活文明。
あるいは、作業文明。
ベルは非常に有能である。
「有能ですね。」
「今言うな。」
「なぜですか。」
「手首を触った直後に言うな。」
「手首を触ると、有能ではなくなりますか。」
「そういう話じゃねぇ。」
「敬語。」
「そういう話ではありません。」
ベルは小雪の手を離し、強く咳払いした。
それから、無理やり作業へ戻った。
鉄芯に銅線を巻く作業は、ほとんどベルが行った。
小雪は見る。
非常に綺麗に巻かれていく。
隙間は少ない。
重なりもない。
力も均等。
ベルの大きな手の中で、細い銅線だけが正確に並んでいく。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「毛づくろいも上手でしたが、やはり巻くのも上手ですね。」
「毛づくろいって言うな。」
「整髪。」
「最初からそう言え。」
「整髪も上手でしたが、巻くのも上手ですね。」
「言い直せばいいってもんじゃねぇ。」
「褒めています。」
「分かってるから困るんだよ。」
「困りますか。」
「困る。」
「なぜですか。」
「おまえが真顔で褒めるからだ。」
「笑って褒めますか。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
小雪は試しに、少しだけ口元を緩めた。
ベルの手元が大きく狂った。
銅線が一か所、斜めになる。
「あ。」
ベルが固まる。
小雪も銅線を見る。
「斜めです。」
「おまえが悪い。」
「笑って褒めたから?」
「……破壊力が違うんだよ。」
「破壊。」
「そうだ。」
「魔法ではないのに。」
「おまえの顔は、魔法より危ない時がある。」
「危険物ですか。」
「危険物だ。」
「箱に。」
「入るな。」
「発言用の箱。」
「作るな。」
ベルは銅線を巻き直した。
今度は、小雪に笑うなと言った。
小雪は無表情で見つめた。
ベルはそれでも少し赤かった。
難しい。
完成した電磁石は、小さかった。
鉄芯に銅線を巻いたもの。
三つ並んだ簡易電池。
銅板と鉄板。
酢と塩水。
銅線。
小雪はそれを見た。
思っていたより、かなり地味だった。
小さな壺と、板と、線と、鉄の棒。
これで科学が振興され、文明が興るのだろうか。
むしろ、弥生時代あたりへ逆戻りするのではないか。
この世界に、そんな時代があるのかは知らないが。
ベルが小さな針を作業台に置いた。
「いくぞ。」
「はい。」
「触るなよ。」
「はい。」
「鳴らすなよ。」
「はい。」
「息を吹きかけるなよ。」
「はい。」
「念のため言っておくが、見つめすぎて燃やすなよ。」
「そんなことはできません。」
「本当か。」
「たぶん。」
「たぶんかよ。」
魔法にも最低限の詠唱は必要だ。
いくら最強の勇者といっても、さすがに目から光線は出ない。
練習すれば近いことはできるかもしれないが。
ベルは銅線をつないだ。
小雪は身を乗り出す。
針は動かない。
ベルは眉を寄せた。
「弱いか。」
「失敗ですか。」
「まだだ。」
ベルは接続を確認した。
銅線の端を少し削る。
壺の中の板の位置を変える。
塩を少し足す。
小雪が酢を足そうとしたので止める。
「適当に足すな。」
「濃い方が強そうです。」
「強ければいいというものじゃない。」
「そうですか。」
「そうです。」
もう一度、つなぐ。
針は。
ほんの少しだけ、動いた。
小雪は目を見開いた。
本当に少し。
風でも動いたのではないかと思うほど、少し。
だが、動いた。
「ベル。」
「待て。」
ベルは息を詰めている。
先ほどまで赤かった顔から、ふざけた色がすべて消えていた。
琥珀色の目は針だけを見ている。
小雪も黙った。
ベルが鉄芯を針へ近づける。
針が、かすかに引かれた。
そして。
ぴたり、と鉄芯に触れた。
小雪は黙った。
ベルも黙った。
作業部屋が静かになる。
魔法ではない。
詠唱もない。
魔素も動かない。
それでも。
鉄が動いた。
小雪は小さく言った。
「……文明が起きました。」
ベルの口元が、少しだけ緩んだ。
「小せぇ文明だな。」
「トカゲのしっぽくらいの。」
「……もっと小さくなったな。」
「でも、起きました。」
「まあな。」
ベルは針を見た。
それから、ゆっくり小雪を見る。
少し得意そうだった。
いつもの偉そうな顔とは、少し違う。
目元が柔らかい。
口元に、押し隠しきれない笑みがある。
寝不足で乱れていた金色の髪に、窓から入った光が当たっていた。
小雪は、しばし彼を見た。
「小雪。」
「はい。」
「成功は成功だ。」
小雪は、もう一度針を見る。
鉄芯にくっついた、小さな針。
魔法の代替には遠く及ばない。
世界を変えるには、あまりにも小さい。
けれど、小雪はそれを見つめた。
なぜか、胸の奥が少しだけ静かになった。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「あなたは、すごいです。」
ベルは完全に止まった。
小雪は続ける。
「魔法なしで、鉄が動きました。」
「あ、ああ。」
「ベルが巻きました。」
「まあな。」
「ベルがつなぎました。」
「ああ。」
「ベルが考えました。」
「小雪も考えただろ。」
「私は雷を考えました。」
「却下した。」
「はい。だから、ベルが考えました。」
小雪は針を見て、もう一度言った。
「すごいです。」
ベルは顔を覆った。
「やめろ。」
「駄目ですか。」
「駄目じゃねぇ。」
「敬語。」
「駄目では、ありません。」
「では、やはりすごいです。」
「二回言うな。」
「すごいです。」
「三回目!」
「敬語。」
「三回も言わないでください!」
小雪は頷いた。
ベルは椅子に座り込み、片手で顔を覆っている。
指の間から見える耳が赤い。
小雪は鈴を見た。
鳴らしていないのに、ベルが壊れた。
まさか、電磁石が何らかの影響を与えたのだろうか。
「違う。」
「まだ何も。」
「顔で分かる。」
「観察が鋭いですね。」
「おまえが分かりやすいんだよ。」
「敬語。」
「分かりやすいです。」
小雪は針を見た。
小さい。
けれど、成功は成功。
文明は文明。
これから大きくしていけばいい。
可能性は、まだある。
捨てなくていい。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「電磁石は成功しました。」
「弱いけどな。」
「もっと強くできますか。」
ベルは顔から手を下ろした。
すぐに、先ほどまでの技術者の顔に戻る。
「その前に、安定させる必要がある。線も切れやすい。今のままじゃ持ち運びも面倒だ。実際に何かへ組み込むなら、小型化も考えなきゃならねぇ。」
「項目が多いです。」
「文明は大変なんだろ。」
「そうでした。」
小雪は頷いた。
文明は大変。
生活も大変。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「次は何を作るべきでしょうか。」
ベルは、しばし考えた。
琥珀色の目が伏せられる。
長い睫毛が、小さな影を作る。
「……やっぱり、水車だろうな。」
「水車。」
「電気を作るなら、ずっと壺を増やしていくわけにもいかねぇ。水の流れから回転を取れれば、その先を考えられる。」
「川。」
「そうだ。」
「爆発しますか。」
「しない方向で考えろ。」
「敬語。」
「しない方向で考えてください。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
ベルは深く息を吐いた。
小雪は、完成した電磁石を見る。
世界は、まだ何も変わっていない。
けれど、確かに針一本が動いた。
袖の中で、鈴が小さく揺れた。
ちり、と音がしそうになる。
小雪は手で押さえた。
ベルが横目で見る。
「鳴らすのか。」
「鳴らしません。」
「偉いな。」
「はい。」
「……また素直に受け取るのか。」
「褒めましたか。」
「少し。」
「ありがとうございます。」
ベルは前を向いた。
耳が赤い。
小雪はそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
今日は、鈴を鳴らさなくても、ベルは隣にいる。
それもまた、鈴の運用方法の一つなのかもしれない。
その夜。
小雪はいつものように紙を取り、ペンで書き付け始めた。
今日、初めて実験が成功した。
この世界へ来てから初めて、自分が作ろうとしたものが、小さくても思った通りに動いた。
科学文明が興った。
かなり小さい。
針一本。
だが、ゼロではない。
これから水車を作る。
おそらく、取り組みはこれから加速していく。
最近は記憶が曖昧になることも多い。
些細なことでも、できるだけ記録しておかなければならない。
小雪は紙へ書いた。
科学文明進捗。
一、電磁石。
結果、針がくっついた。
用途、未定。
課題、弱い。壺が多い。ベルが赤くなる。
次、水車。
ベルはそれを読んで、眉間を押さえた。
「課題に俺を入れるな。」
「実際に赤くなりました。」
「そこは文明の課題じゃねぇ。」
「では、生活文明の課題。」
「そっちにも入れるな。」
「難しいですね。」
「難しいです。」
ベルは深く、深く溜息を吐いた。
実験で大分疲れたらしい。
小雪は鈴を寝床の横に置いた。
今日は、まだ鳴らしていない。
夜の確認もしない予定である。
たぶん。
ベルはそれを見て言った。
「鳴らすなよ。」
「はい。」
「寝るんだぞ。」
「はい。」
「夜中に電磁石を触るなよ。」
「……。」
「今の沈黙は何だ。」
「善処します。」
「する気だったな。」
「少し。」
「寝ろ。」
「敬語。」
「寝てください。」
「はい。」
小雪は布団に入った。
枕は反発する。
布は暖かい。
鈴は手元にある。
ベルは廊下の向こうにいる。
次は、水車。
生活は大変だ。
文明は、もっと大変だ。
ベルは確かによく怒る。
しかし、ごはんは美味しい。
呼ぶと来る。
歩く時は隣にいる。
何も言わなくても、斜めの銅板を真っ直ぐにする。
針が動いた時は、一緒に黙る。
そして、鈴を鳴らさなくても、隣にいる。
小雪は目を閉じた。
今日は、少しだけ長く眠れそうだった。
廊下の向こうで、ベルが小さく言った。
「おやすみ。」
小雪は鈴を鳴らさずに答えた。
「おやすみなさい。」
ベルは来なかった。
来なくても、声は届いた。
それもまた、生活文明の進歩なのかもしれない。




