↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
71/71

最終話 三下くんと勇者さま

 勇者召喚システムは崩壊した。


 しかし、世界は滅びなかった。


 王城天文塔は半壊し、神殿地下の召喚陣は中央から割れ、旧魔王領へ伸びていた固定線も、世界の外へ手を伸ばしていた道も、すべて消えた。


 もう、勇者候補は呼べない。


 王家は責任を問われた。

 神殿は沈黙した。

 世界魔素保全会議は、最初の数日、責任の所在を巡って紛糾したという。


 誰が決めたのか。

 誰が許可したのか。

 誰が実務を担ったのか。

 誰が止められたはずなのか。


 それらの問いに、誰も綺麗な答えを出せなかった。


 当然だ。


 綺麗な答えを出せないように、千年かけて責任を薄めてきたのだから。


 第一王子ドライエンは、王城の会議で何度も怒鳴ったらしい。神殿の使者にも、各国の代表にも、父王にも。


 その結果、彼は一部の貴族から危険な理想主義者と呼ばれ、一部の若い官吏からは次代の王にふさわしいと囁かれ、本人はどちらにも不快そうな顔をしていた。


 魔法に頼り切った世界は、急には変わらない。


 魔石炉はまだ使われている。

 魔導士団はまだ必要とされている。

 魔法で耕す畑も、魔法で水を運ぶ街も、魔法で病を癒やす治療所も、一日で消えるわけではない。


 けれど、逃げ道は消えた。


 魔素が足りなくなったからといって、別の世界から人間を呼ぶことはできない。


 ならば、この世界は、この世界だけで続いていかなければならない。


 水を使う。

 風を使う。

 火を使う。

 金属を伸ばす。

 車輪を回す。

 力を伝える。

 力を逃がす。

 危ない時には止める。


 そういうことを、一つずつ覚えていかなければならない。


 そのために、グランツ家は王家から正式な協力要請を受けた。


 鉱山、工房、運搬路、職人、留学先との人脈。

 そして、技術立国で学び、山の家で小雪と試作を積み重ねてきた青年。


 ヴェルヴァルド・グランツ。


 魔法が使えない落ちこぼれ。

 無魔力の公爵家次男。


 かつて舞踏会で嘲られた青年は、魔法に頼らない文明づくりの技術顧問として、王家とグランツ家の間で勝手に重要人物へ祭り上げられた。


 本人は、心底嫌そうな顔をした。

 小雪はそれを見て、少しだけ面白いと思った。


 山の家の水車は、今日も回っていた。


 春の水はまだ少し冷たい。

 けれど、雪解けの頃よりは柔らかく、木の羽根を押す音も穏やかだった。


 山の家の煙突からは、細い煙が上がっている。暖炉には火が入り、鍋には豆と野菜のスープが煮えていた。


 作業台の上には、コイルの小箱がある。


 その横には、王城から届いた書簡が数通積まれていた。


 グランツ家の兄からの手紙。

 父からの手紙。

 そして、ドライエンから届いた、命令文に限りなく近い協力要請書。


 それらすべてを、ベルは作業台の端へ追いやっていた。


「読まなくてよいのですか。」


 小雪は椅子に座ったまま尋ねた。

 肩には毛布がかかっている。


 王城から戻って数日。


 体力は少しずつ戻ってきていたが、大規模魔法の反動はまだ残っていた。


 ベルは鍋をかき混ぜながら答えた。


「後で読む。」

「昨日もそう言っていました。」

「後で読む。」

「一昨日もそう言っていました。」

「後で読む。」

「技術顧問。」

「やめろ。」


 ベルは鍋から顔を上げた。


「その肩書きで呼ぶな。」

「三下技術顧問。」

「もっとやめろ。」

「魔法に頼らない文明の先導者。」

「やめろ。胃が痛くなる。」

「下剋上ですね。」

「俺は公爵家の次男だって、何度言えば分かるんだ。」

「そうでした。チャラ設定でしたね。」

「チャラ設定って何だよ。」

「よく分かりません。雰囲気です。」

「雰囲気で俺の出自を軽くするな。」


 小雪は毛布の端を握ったまま、少しだけ首を傾げた。


「ですが、ベルが国の技術を動かす側になるのは、良いことだと思います。」


 ベルは少し黙った。

 鍋の中で、豆が小さく跳ねる。


「俺は別に、国を動かしたいわけじゃねぇ。」

「はい。」

「偉くなりたいわけでもねぇ。」

「はい。」

「小雪を、二度と世界の尻拭いに使わせたくねぇだけだ。」


 小雪は、しばらくベルを見ていた。


 それから、静かに言った。


「十分です。」


 ベルは視線をそらした。


「何が。」

「それが、十分です。」

「……そうかよ。」


 ベルは再び鍋をかき混ぜた。

 耳が少し赤い。


「食うぞ。」

「はい。」


 食卓にスープが置かれる。


 豆と野菜。

 少しだけ塩味が強い。


 けれど、疲れた身体へ染み込む味だった。


 小雪は匙を持ち、ゆっくりと食べ始める。


 ベルは向かい側ではなく、少し斜め前に座っていた。


 すぐに手が届く距離。

 小雪が皿を落としかけた時、すぐ支えられる距離。


「近くありませんか。」

「近い。」

「なぜです。」

「お前がまだ信用ならねぇから。」

「私も皿くらい持てます。」

「昨日、落としかけただろ。」

「あれは……観測誤差です。」

「誤差でなんで床にスープが落ちるんだよ。」

「床も食事を。」

「しねぇ。」


 小雪は匙を口へ運んだ。


 温かい。


 スープ。

 山の家。

 水車の音。

 火の音。

 ベルの声。


 世界はまだ騒がしい。


 王都ではきっと、今日も誰かが責任を押しつけ合っている。

 神殿では、壊れた召喚陣の前で誰かが祈っているかもしれない。

 ドライエンは怒鳴っているだろう。

 グランツ家では、父と兄が王家から届いた予算案と技術導入計画を見て、目を輝かせているかもしれない。


 それでも、ここにはスープがある。


 小雪は一口飲み込んだ。


「おいしいです。」


 ベルの手が止まった。


「そうか。」

「はい。」

「……なら、食え。」

「食べています。」

「もっと食え。」

「横暴です。」

「今は看病係として、助手より上位存在だからな。」

「その階級は、どこまで有効なのですか。」

「俺が解除するまで有効だ。」

「独裁。」

「何とでも言え。」


 小雪は少しだけ目を細めた。


 スープは温かかった。




     ◇ ◇ ◇




 夜、湯浴みを終えた小雪は、暖炉の前の椅子に座っていた。


 髪はまだ濡れている。


 白く長い髪。

 片側だけ少し整い、もう片側は、不揃いなままの髪。


 あの日、山の家で途中まで整えられたまま、止まっていた髪だった。


 小雪は膝の上で手を重ねている。


 ベルが背後に立った。


 手には布。

 櫛。

 そして、小さな鋏。


「髪、やるぞ。」


 ベルが言った。

 小雪は前を向いたまま答えた。


「拭く方ですか。整える方ですか。」

「両方だ。」

「心の治療ですね。」

「俺の心は重傷だからな。」

「まだ治りませんか。」

「治らねぇ。」

「大変ですね。」

「誰のせいだと思ってんだ。」

「世界でしょうか。」

「……だいたい合ってる。」


 ベルは布で小雪の髪を包んだ。


 濡れた髪を丁寧に押さえる。


 こすらない。

 引っ張らない。


 水気を取ってから、櫛を通す。


 以前と同じ。

 けれど、以前とは違う。


 ベルの手は僅かに緊張していた。


 小雪には分かった。


「ベル。」

「何だ。」

「また、消えますよ。」


 ベルの手が一瞬だけ止まった。


 それから、何事もなかったように再び動き始める。


「知ってる。」

「怖くありませんか。」

「怖い。」

「では、やめますか。」

「やめねぇ。」


 小雪は膝の上の手を握った。


「床へ落ちる前に光ります。」

「知ってる。」

「髪として残りません。」

「知ってる。」

「私の身体は、普通ではありません。」

「知ってる。」


 ベルの声は、少しだけ低くなった。


「でも、雑に扱っていい理由にはならねぇ。」


 小雪は黙った。


 暖炉の火が、ぱち、と鳴る。


 ベルは小雪の髪を梳いた。

 白い髪の間を、櫛がゆっくりと通る。

 引っかかったところは、指でほどく。


 何度も。

 何度も。


 小雪は目を伏せた。


 あの日、ここで怒鳴った。


 全部ベルのせいだと言った。

 私はただの小雪がよかったと叫んだ。

 勇者になんかなりたくなかったと。

 こんな自分を見られたくなかったと。


 その声は、まだ山の家のどこかに残っているような気がした。


「ベル。」

「何だ。」

「私は、ひどいことを言いました。」

「言ったな。」

「謝罪がまだでした。」

「そうだな。」

「申し訳、ありませんでした。」


 ベルの手が、髪の上で止まった。


 小雪は続けた。


「ベルのせいでは、ありませんでした。」

「知ってる。」

「分かっていたのに、私は言いました。」

「知ってる。」

「傷つけました。」

「傷ついた。」


 ベルは正直に答えた。


 小雪の胸が少し痛んだ。


「今も。」


 ベルは言った。


「怒ってる途中だ。」

「まだ途中ですか。」

「ああ。」

「では、怒りますか。」

「後で。」

「……後で。」

「今は髪だ。」


 小雪は少しだけ息を吐いた。


「はい。」


 ベルは髪を整え、毛先を手に取った。


 小さな鋏が、暖炉の光を受けて輝く。


「切るぞ。」

「はい。」

「動くなよ。」

「動きません。」


 ちょきり。


 小さな音がした。

 白い毛先が床へ落ちる。


 床板へ触れる直前、髪は微かに光った。

 白い粒がほどける。

 細い糸が空気へ溶けていくように、切られた髪は消えていった。


 あの日と同じ。

 髪は残らない。

 そこにあった証拠は、すぐに失われる。


 ベルの手が一瞬だけ震えた。

 けれど、今度は止まらなかった。


 小雪は床を見つめた。


「消えました。」

「見えてる。」

「私を、憐れだと思いますか。」


 あの日と同じ問いだった。

 けれど、声は違っていた。


 ベルは少し間を置いて答えた。


「思わねぇ。」

「本当に。」

「本当だ。」

「では、これまで痛かったと、思いますか。」

「思う。」

「それは、憐れみでは。」

「違う。」


 ベルの声が低くなる。


「怒りだ。」


 小雪は瞬きをした。


「誰への。」

「お前をそうした全部への。」


 暖炉の火が揺れた。


 ベルは続けた。


「召喚した奴ら。黙ってた奴ら。仕方ねぇで済ませた奴ら。世界のためだって言った奴ら。お前が自分を削るしかないところまで追い込んだ、全部だ。」


 小雪は何も言えなかった。


「お前を、可哀想なものとして見たいんじゃねぇ。」


 ベルは言った。


「お前が痛かったなら、痛くしたものに腹が立つ。それだけだ。」

「怒っていますか。」

「怒ってる。」

「私にも?」

「そうだな。お前を痛くしたお前自身にも、一生分くらい怒ってる。」

「では、私は一生、謝罪が必要ですか。」

「いや。」


 ベルは再び髪を切った。


 白い毛先が落ちる。

 光って消える。


 今度も、ベルは止まらなかった。


「謝るより、飯を食って寝ろ。」

「そればかりです。」

「俺の人生方針だからな。」

「三下人生方針。」

「やめろ。」


 小雪は小さく笑った。


 ベルは最後まで髪を整えた。

 不揃いだった毛先が、綺麗に揃っていく。


 白い髪は、暖炉の光を受けて柔らかく輝いていた。


 切った髪は、すべて消えた。

 けれど、整えられた髪は残っている。


 ベルの手が、最後に櫛を通した。


「終わったぞ。」


 小雪は髪に触れた。


 短くなった毛先。

 揃った髪。

 途中ではない髪。


「髪整え文明、完成ですね。」

「やっとな。」

「長い道のりでした。」

「途中で世界滅亡を挟んだからな。」

「壮大な寄り道でした。」

「寄り道で世界を滅ぼしかけるな。」


 小雪は静かに髪を撫でた。


「ありがとうございます。」


 ベルは布と鋏を片づけながら、少しだけ顔をそらした。


「おう。」

「ベル。」

「何だ。」

「鳴らさなくても来てくれて、ありがとうございました。」


 ベルの手が止まった。


 小雪は袖の内側から、小さな鈴を取り出した。


 何の変哲もない、小さな銀色の鈴。

 それは今、静かに小雪の手の中にあった。


「鈴、鳴らしていませんでした。」

「ああ。」

「それでも、来ました。」

「ああ。」

「次は、鳴らします。」


 ベルは小雪を見た。


「来る。」

「鳴らさなくても。」

「鳴らしても、鳴らさなくても来る。」


 小雪は鈴を見下ろした。


「では、鈴の存在意義が。」

「ある。」

「何ですか。」

「俺が心の準備をする時間だ。」

「鳴ってから来るまでにですか。」

「そうだ。」

「三下の心は繊細ですね。」

「今さら知ったか。」


 小雪は鈴を軽く揺らした。


 ちりん。


 小さな音がした。


 ベルはすぐに答えた。


「いる。」

「早いですね。」

「目の前だからな。」

「便利です。」

「便利扱いすんな。」


 小雪は鈴を袖へ戻した。


 外から微かに川の流れる音が聞こえてくる。


 その先には、水車が回り、次の文明を静かに待っている。


 召喚に頼るのではなく、この世界を、自分たちの力で動かしていくための音。


 それは、何かが終わった音ではなく、確かにこれから始まっていく音だった。




     ◇ ◇ ◇




 翌朝、山の家には柔らかな光が差していた。


 小雪は食卓でスープを食べている。

 昨日の残りへ、ベルが少し野菜と干魚を足したものだった。


 ベルは向かい側でパンを割っている。


 作業台には、王城からの書簡がまだ積まれていた。その上には、ベルが昨夜書きかけた覚書が置かれている。


 水車式粉挽き。

 鉱山排水用の簡易ポンプ。

 ふいご改良。

 線引き板。

 軸受け。

 油。

 滑車。

 安全停止装置。

 絶縁材。

 コイル。

 留学先で見た時計塔の歯車機構。

 風車の羽根角度。

 蒸気を利用した実験装置。


 項目はまだ続いていたが、文字は少しずつ乱れ始めていた。

 ところどころ、眠気で線が曲がってしまったようだ。


 小雪はそれを見て言った。


「これは、技術顧問らしい字ですね。」

「どんな字だよ。」

「三下が頑張っている字です。」

「褒めてんのか。」

「はい。」

「まったく信用できねぇ。」


 ベルはパンを差し出した。

 小雪はそれを受け取る。


 ふと、頭をよぎった言葉に、目の前の青年をじっと見つめた。


「ベル。」

「何だ。」

「これで、あなたも勇者ですね。」


 ベルはパンを落としかけた。


「は?何で?」

「世界の滅亡を救ったではありませんか。」

「そうか?滅亡させようとしたの、お前だけどな。」

「そこは詳細をぼかしましょう。」

「ぼかせるか。」

「三下が勇者になるとは……。下剋上もいいところですね。いえ、むしろ立身出世と言うべきでしょうか?」

「違うだろ。ていうか俺、何回でも言うが公爵家の次男なんだけど。」

「ああ、またまたそのチャラ設定ですか。」

「だから設定じゃなくて出自だって……。」


 ベルは静かにパンを置いた。


 少し黙る。


 小雪はスープを飲みながら、その沈黙を待った。


 風に木々の葉が揺れる音。

 川を流れる水の音。

 竈ではぜる火の音。

 賑やかな鳥の声。


 山の家の朝。


 ベルは、少しだけ視線をそらして言った。


「……俺は別に、勇者じゃなくていいんだけど。」

「三下のままがよいのですか。」

「いや。」


 ベルの耳が赤くなり始めた。


「恋人、がいいんだけど。」


 小雪は匙を止めた。


「恋人。」

「勇者の、恋人。」


 ベルは、かなり勇気を出している顔をしていた。


「そろそろ、助手から格上げしてくれてもいいだろ。」


 小雪は少し考えた。


「なるほど。」

「何だよ。」

「では、私は三下の恋人ですか。」

「変な言い方すんな。」

「では、勇者の恋人の恋人。」

「遠回りすんな。」

「三下技術顧問の恋人。」

「肩書きを増やすな。」

「公爵家次男の恋人。」

「それはそれで、何か嫌だな。」

「難しいですね。」

「普通に、ベルの恋人でいいだろ。」


 小雪はベルを見た。


「ベルの恋人。」


 ベルの顔が完全に赤くなった。


「……そうだよ。」

「そうですか。」

「そうですか、じゃねぇ。」

「はい。」

「……で。」

「何ですか。」


 ベルは一度咳払いをした。


「返事は。」


 小雪は首を傾げた。


「敬語。」

「今かよ!」

「大事です。」

「ここでかよ!」

「はい。」

「お前、本当に最後の最後まで。」

「最後ではありません。これからも続きます。」


 ベルは言葉に詰まった。


 それから、顔を赤くしたまま、背筋を少し伸ばした。


 公爵家次男らしい、整った姿勢。


 しかし耳は赤い。


 小雪はそれをしっかりと見た。


 ベルは深く息を吸った。


「愛しております。」


 声が少し震えていた。


 けれど、逃げなかった。


「私の恋人になっていただけないでしょうか。」


 小雪はベルを見た。


 焦げた飴のような色の目。


 怒る目。

 怖がる目。

 泣きそうになる目。

 逃げない目。


 山の家へ来てから、ずっと見てきた目。

 世界の上空で、小雪を見つけた目。

 鈴を鳴らさなくても、迎えに来た目。


 小雪はゆっくりと息をした。


 勇者さまではなく。

 観測者でもなく。

 審判者でもなく。

 世界を滅ぼす者でもなく。


 ただの小雪として。


 言った。


「私も愛していますよ、三下くん。」


 ベルの顔が、さらに赤くなった。


 けれど、彼は逃げなかった。


 少しだけ笑い、答えた。


「ありがとうございます、勇者様。」


 その呼び方は、もう世界が小雪へ押しつけたものではなかった。


 ベルが、小雪へ向けて呼ぶものだった。


 敬意と、怒りと、愛情と、少しの照れが混ざった呼び方。


 小雪は立ち上がった。


 食卓を回り、ベルの前へ行く。


 ベルが不思議そうに見上げた。


「何だ。」

「恋人になりましたので。」

「お、おう。」

「確認行為です。」

「何の。」


 小雪は少し身をかがめた。


 そして、ベルの唇へ、そっと口付けた。


 ほんの短い。

 触れるだけの口付け。


 けれど、効果は絶大だった。


 ベルは完全に固まった。


 目を見開き、耳まで赤くなり、しばらく息をすることも忘れている。


 小雪は顔を離し、じっと観察した。


「ベル。」

「……。」

「ベル。」

「……はい。」

「生きていますか。」

「多分。」

「鈴を鳴らしますか。」

「目の前にいる……。」

「そうですね。」

「心臓が。」

「刺さりましたか。」

「……刺さり、ました。」


 不意な口付けは、初心なハートを無事に撃ち抜いたらしかった。


 小雪は笑った。


 山の家では、これからも三下くんと勇者さまの日常が続いていく。


 科学文明は始まったばかりだ。


 先はまだまだ長いだろう。


 それでも、きっと二人が共に在り続けることは変わらない。


 小雪はもう一度ベルに静かに口付けた。今度はベルもその背をゆっくりと抱き寄せた。


 今日は科学文明も生活文明も発展の兆しは無さそうだ。


 ただ、恋愛文明だけは、記録が追い付かないほど躍進する。


 かもしれない。




 『三下くんと勇者さま』  完。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。