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第七十話 世界は、もう勇者を呼べない

 静かな時間は、長くは続かなかった。


「いつまでその姿勢でいるつもりだ、馬鹿ども。」


 崩れた階段の向こうから、疲れ切ったドライエンの声が聞こえた。


 小雪はベルの胸へ頭を預けたまま、声のした方へ目を向ける。半壊した石壁の隙間から、包帯代わりの布を巻いた手で壁を掴み、ドライエンがゆっくりと上ってきていた。


 第一王子の礼装は見る影もない。上着の袖には焦げ跡が残り、髪も乱れ、額から流れた汗が頬へ張りついている。王族らしい整った姿とは程遠かったが、ベルを上部へ送り出し、落下した二人を受け止めるため、最後まで壊れかけた術式を支えていた結果だった。


「人を馬鹿呼ばわりする前に、もう少し感謝を示せ。」


 ベルは床へ仰向けになったまま言った。


「誰が誰に感謝するというのだ。塔を半壊させた上、私に残っていた魔力を一滴残らず使わせたのは貴様らだろう。」

「世界は残っただろ。」

「それは貴様の功績ではない。」

「何だと。」

「勇者の助手としての当然の責務だ。」

「……助手の仕事が広すぎるだろ。」

「勇者の助手だぞ。それくらい当然だろう。」


 言い合う二人を、小雪はベルの胸の上から眺めていた。


 普段どおりだった。


 世界と世界を結ぶ道が失われ、千年間続いた制度が崩壊した直後だというのに、ベルとドライエンは以前と同じように、互いを心底不愉快そうに見ている。


 それが、不思議なほど安心できた。


 召喚の道は消えた。


 もう、この世界は以前と同じ日常へ戻ることはできない。魔法を無尽蔵に使い続ければ、いずれ同じ魔素不足へ陥る。別の世界から人間を奪って補うという逃げ道も、もう残されてはいない。


 それでも、すべてが失われたわけではなかった。


 ドライエンは二人のそばまで来ると、小雪の顔を注意深く確認した。


「勇者殿。意識は明瞭ですか。」

「はい。今のところ、身体にも大きな欠損はないと思います。」

「思います、では困ります。すでに医師を呼んであります。歩けますか。」

「歩けると思います。」

「駄目だ。」


 ベルが即座に遮った。


「身体に不具合は感じません。」

「さっき意識も飛んでただろ。」

「ベルも怪我をしています。」

「かすり傷だ。」

「先ほど、起き上がるのに失敗しました。」

「あれは背中の位置が悪かっただけだ。」

「納得できる説明ではありません。」

「二人とも黙れ。」


 ドライエンが深く息を吐いた。


「ここで再び痴話喧嘩を始めるなら、二人まとめて担架へ縛りつける。」

「誰が痴話喧嘩だ。」

「愛を確認し合っていたのは聞こえていた。」


 ベルの顔が一気に赤くなった。


「聞いてたのかよ!」

「聞こえたのだ。壊れた塔の中で大声を出すな。」


 小雪はドライエンを見た。


「ドラえもん殿下。」

「……ドライエンです。」

「ベルと私は愛し合っていると思いますか。」

「……どう反応すればよいのだ。」

「小雪。俺の外聞が死ぬ。」

「大変です。鈴を鳴らしますか。」

「目の前にいるだろ!」


 ドライエンは疲れ切った顔で目を閉じた。


「仲がよいのは結構だが、今は下へ降りましょう。」


 彼が手を上げると、崩れた階段の一部へ淡い金色の光が走った。完全に修復できるほどの魔力は残っていないらしく、亀裂の入った石段を一時的に固定しているだけだった。


 ベルは痛みに顔をしかめながら上体を起こし、小雪の背と膝へ腕を回した。


「ベル、駄目です。傷が悪化します。」

「おまえを歩かせるよりましだ。」

「重いのでは。」

「いや、軽すぎる。もっと飯を食わせねぇとな。」

「オカンベル。」

「やめろ。」

「顔が赤いですよ。」

「うるせぇ。」


 小雪は少し考えた後、諦めてベルの首へ腕を回した。


 ベルの怪我が心配だった。それでも、今は離れたくないという感情も、きちんと分かった。


「……怪我が悪化しても知りませんよ。」

「今日は素直だな。」

「反省していますから。」

「いつまで続くか見ものだ。」

「敬語。」

「いつまで続くのか見ものですね。」

「変です。」

「知ってる。」


 ベルに抱えられたまま、小雪は壊れた天文塔を下りた。


 階段の多くは形を失い、星図を刻んだ環も、透明な結晶も、白い光へ変わり続けている。地上へ落ちる危険のあるものは、残された魔法へ触れるたびに粒子となり、春の風に乗って外へ流れていった。


 塔は壊れていた。

 それでも、そこに破壊の激しさはもうなかった。


 千年間の役目を終えた巨大な機構が、静かに解体されていくような光景だった。


 比較的損傷の少ない下層観測室へ降りると、兵士と宮廷魔導士たちが待ち構えていた。王城の医師も数人おり、ベルの腕の中にいる小雪を見た途端、一斉に近づこうとする。


「待て。」


 ベルが小雪を抱えたまま身体を引いた。


「診察です。」

「分かってる。でも俺も一緒だ。」

「一緒、とは。」

「ここに信用できる奴ばかりがいるとは限らないからな。」

「ベルチワワ。威嚇。」

「今はやめてくれ。」


 小雪は少し首を傾げた。


 医師たちは対応に迷い、最終的にドライエンへ視線を向けた。


「まずは報告だ。」


 ドライエンは、観測板を抱えた宮廷魔導士を呼び寄せた。


 魔導士の顔は青ざめている。観測板の表面には幾つもの亀裂が入り、その一部は白く濁っていた。


「状況を。」

「はっ。」


 魔導士は一度喉を鳴らし、記録を読み上げた。


「王都及び周辺地域の人的被害を確認しておりますが、現在まで死者の報告はございません。浮遊していた瓦礫の大半は、落下前に魔素へ変換されたようです。軽傷者は複数名おりますが、いずれも避難時の転倒などによるものです。」


 部屋に満ちていた緊張が、ほんの僅かに緩んだ。


「世界の魔素循環は。」

「一時的に大きく乱れましたが、現在は安定へ向かっております。各地の魔導灯や転移装置の一部は停止しておりますが、地脈及び主要な循環路に致命的な損傷は確認されておりません。ただし、世界全体の遊離魔素濃度は、術式発動前より明らかに低下しています。」

「召喚関連は。」


 魔導士の指が震えた。


「王城天文塔の外部座標観測機構は完全に停止しました。座標保持環は崩壊し、記録されていた異世界座標も失われています。神殿地下の召喚陣は中央から割れ、術式核が消失しました。旧魔王領の固定点、世界会議が保管する補助術式、各国の予備観測石にも応答はありません。」

「修復の可能性は。」

「装置の破損だけではありません。」


 魔導士は、声を震わせながら続けた。


「外部世界を示す座標そのものが、どの観測機構からも認識できなくなっています。別の装置を作り直したとしても、接続はおろか観測さえ叶わないと思われます。これまで使用されていた経路の痕跡も、完全に消失いたしました。」


 そこで魔導士は一旦言葉を切り、戸惑うように小雪を見た。


「……勇者召喚システムは、完全に崩壊しました。」


 下層観測室へ、重い沈黙が落ちる。


 当然だった。


 これから、この世界が背負わなければならないものは、あまりにも大きい。千年間使い続けてきた逃げ道が、完全に消えたのだ。


 魔素が足りなくなっても。

 魔族が飢えても。

 魔物が増えても。

 人間の子供へ魔力が宿らなくなっても。

 王が命じても。

 神殿が祈っても。

 世界会議が再び合意しても。


 もう、別の世界から勇者候補を連れてくることはできない。


 小雪は静かに息を吐いた。


「終わったのですね。」

「……はい。」


 魔導士は深く頭を下げた。


「世界は残り、召喚だけが失われました。」


 その時、観測室の入口が騒がしくなった。


 側近や護衛を伴い、王が入ってくる。急いで身支度を整えたのだろうが、その顔からは血の気が失われていた。


 王は壊れた塔の内部を見回し、ドライエンの傷ついた手を見た後、ベルに抱えられた小雪へ視線を移した。


「勇者殿。」


 声は掠れていた。


 小雪はベルの腕の中から王を見た。


「陛下。」

「世界は……。」

「今回は、滅ぼしませんでした。」


 王の肩が僅かに下がる。


「では、我々は――」

「ただし。」


 王の言葉が止まった。


「勇者殿。」

「この世界は、もう以前のように魔法を使い続けることはできません。」


 王は唇を動かした。


 謝罪をしようとしたのか。あるいは、これまでの行為を正当化する言葉を探したのか。


 小雪には分からなかった。

 分かる必要もなかった。


「私は、決してこの世界を許したわけではありません。」


 王の顔が強張る。


「この世界がこれから何を選び、どう変わろうとするのか、私は見届けます。」


 観測室にいた誰も動かなかった。


「また、誰か一人へ全ての犠牲を押しつけようとするなら。」


 小雪は真っ直ぐ王を見た。


「次も、今回のように滅ぼさずに済むとは限りません。」


 脅しではなかった。


 怒鳴り声も、見せつけるような魔力もない。


 ただ、小雪が一度は世界を終わらせる術式を完成させた事実を、ここにいる全員が知っていた。


 王は返事をしなかった。


 長い沈黙の後、ドライエンが父王の前へ進み出る。


 乱れた礼装。

 血と焦げ跡の残る手。

 疲労を隠すこともできない姿。


 それでも、その場にいる誰よりも背筋を伸ばしていた。


「父上。」

「ドライエン。」

「勇者召喚制度に関する全記録を公開するべきです。」


 王の表情が歪んだ。


「何を言っている。各国との協議もなく、そのようなことをすれば。」

「協議は必要です。しかし、事実を隠すための協議であってはなりません。」

「王家だけの責任ではない。」

「承知しております。」


 ドライエンは一歩も退かなかった。


「神殿にも、世界会議にも、召喚へ同意してきた各国にも責任があります。だからこそ、王家が先に記録を開示し、調査を始めるのです。」

「急にそのようなことをすれば、国が混乱する。」

「急ではありません。」


 ドライエンは父王を見つめた。


「千年、遅すぎたのです。」


 王は息を呑んだ。


「召喚という逃げ道は失われました。今後の魔素不足も、魔法の衰退も、魔物への対処も、我々自身で受け止めなければなりません。各国は責任を押しつけ合い、神殿は沈黙し、貴族は利権を守ろうとするでしょう。民も不安に怯えます。」

「分かっているなら。」

「それでも、始めなければなりません。」


 ドライエンの声は僅かに震えていた。


 恐れていないわけではない。


 それでも、言葉を止めなかった。


「問題を、これ以上先送りにはできません。反発を受けようが、責められようが、事実と今後の選択を説明し、その責任を引き受けるのが王家の本来の役目でしょう。隠匿の先に未来はありません。」


 王は、しばらく息子を見つめていた。


 やがて視線を落とす。


 その場で明確な承諾を口にすることはなかったが、否定の言葉も続かなかった。


 ドライエンはそれ以上迫らず、小雪へ向き直った。


「勇者殿。王家として、今ここで許しを求める資格がないことは理解しています。」


 小雪は答えなかった。


「ただ、今後については、私が責任を持って動きます。」

「一人で背負わないでください。」


 ドライエンが意外そうに目を上げた。


「あなたまで一人で全てを背負えば、同じことになります。」

「……肝に銘じます。」


 小雪は小さく頷いた。


 その直後、身体から力が抜けた。


 ベルが慌てて抱える腕へ力を込める。


「小雪。」

「少し、眠いです。」

「少しじゃねぇだろ。」


 王城の医師たちが、今度こそ一斉に近づいた。




     ◇ ◇ ◇




 小雪は王城内の小さな休憩室へ運ばれ、長椅子へ寝かされた。


 ベルは隣の椅子へ座り、背中へ薬を塗られながらも、小雪の手を離そうとしなかった。医師が何度か診察のために離すよう求めたが、決して従わなかったため、最終的には小雪の反対側から診察することで妥協された。


「身体の欠損は確認できません。」


 小雪の診察を終えた医師が、戸惑った顔で告げた。


「骨格、内臓、脈拍、呼吸、いずれにも明らかな異常はございません。ただし、全身の魔回路が極度に疲弊しております。通常の魔力枯渇とは異なり、非常に大きな力を何度も通したことで、回路そのものが熱を持った後のような状態です。」

「治るのか。」


 ベルが尋ねる。


「魔力操作を避け、十分な休息を取れば、徐々に回復すると思われます。ただ、勇者殿のお身体は、我々の医学では判断できない部分も多く……。」

「要するに、飯を食わせて寝かせればいいんだな。」

「医学的には、もう少し慎重な説明になります。」

「結論は同じだろ。」

「食事と睡眠は必要です。しかし、数日は王城で経過を観察していただいた方が。」

「山の家へ帰る。」


 ベルは即答した。


「ヴェルヴァルド様。」

「ここより家の方が、小雪も落ち着くだろ。」

「はい。早く帰りたいです。」


 小雪も目を閉じたまま同意する。


「勇者殿まで……。」

「ここは人が多すぎます。」

「よし。帰るか。」


 ベルは医師を見た。


「必要な薬と注意事項を書け。何かあれば、グランツ家から医師を呼ぶ。」


 医師は困ったようにドライエンへ助けを求めた。


 部屋の入口に立っていたドライエンは、小さく肩をすくめる。


「馬車を用意しろ。できるだけ揺れの少ないものを。」

「殿下。」

「この二人を留めれば、次は王城の別の場所が壊れる。」

「誰が壊すんだよ。」

「貴様らのどちらかだ。」

「否定はできません。」

「小雪は否定しろ。」


 医師たちは諦めたように、薬と診察記録の準備を始めた。


 ドライエンはベルの隣へ移動し、声を落とす。


「ヴェルヴァルド・グランツ。」

「何だ。」

「今後、魔法に頼らず動く仕組みが必要になる。」


 ベルの表情から、僅かにふざけた色が消えた。


「これまでと同じようにはいかないだろうな。」

「水車、風車、排水装置、炉、軸受け、線引き、絶縁、歯車。貴様が留学先で見たものと、勇者殿とこれまで作り上げたもの。今後のために使える情報が欲しい。」

「今日は無理だ。」

「落ち着いてからでいい。」

「必要なものはまとめておく。」

「十分だ。」

「ただし、俺が協力するのは、小雪を二度と世界の尻拭いに使わせないためだ。王家のためじゃねぇ。」

「動機は問わん。必要なのは結果だ。」

「嫌な言い方だな。」

「お互い様だ。」


 ドライエンは少し考えた後、付け加えた。


「正式な技術顧問としての任命については、後日書面を送る。」

「断る。」

「グランツ公へ先に話す。」

「卑怯だぞ。」

「王族だからな。」

「便利な言葉にすんな。」


 小雪は長椅子の上で薄く目を開いた。


「ベル。」

「何だ。」

「技術顧問になるのですか。」

「寝てろ。」

「三下技術顧問。」

「その役職名だけは絶対に認めねぇ。」


 ドライエンが無表情で答えた。


「王家としても、その名で採用する予定はない。」

「当たり前だ!」


 小雪は満足したように目を閉じた。


 その後まもなく、グランツ家の馬車が王城へ到着した。


 王家の馬車をベルが断ったため、用意されたのはグランツ家が普段使っている馬車だった。座席には厚い敷物が追加され、揺れを抑えるため、車輪にも調整が施されている。


 ベルは小雪を抱き上げたまま、王城の廊下を歩いた。


 すれ違う者たちは一斉に道を空けた。


 魔王を倒し、世界を救った勇者として見ている者。

 先ほど世界を滅ぼしかけた存在として恐れている者。

 戦を停止させた英雄として敬意を向ける者。


 どの視線にも、小雪は応えなかった。


 ただ、ベルの胸へ静かに身体を預け、目を閉じていた。


 王城の外へ出ると、夕方の空が広がっている。壊れた天文塔の周囲には、まだ白い光が僅かに漂っていた。


 小雪は馬車へ乗る前に、一度だけ王城を振り返った。


「……本当に、終わったのでしょうか。」

「召喚はな。」

「……世界は、これからどうなるのでしょう。」

「それこそ、俺たちの仕事じゃねぇのか?」

「科学文明、ですか。」

「興すんだろ?」


 小雪は少し黙り、やがて頷いた。


「はい。目標はスマートフォンです。」

「……何だ、それ。」


 ベルは小さく笑い、小雪を地面へ降ろしてから、馬車の扉を開けた。


「歩けるか。」

「大丈夫です。」

「さっき長椅子から起きるだけでよろけただろ。」

「少しだけです。」

「無理するな。」


 結局、小雪は再びベルに支えられ、馬車へ乗った。


 ベルは向かい側ではなく隣へ座る。王城から持たされた毛布を小雪の肩へかけ、その上からもう一枚、馬車に備えつけられていた毛布を重ねた。


「寒くありません。」

「俺が心配なんだよ。」

「私も、ベルが心配です。」

「なら、大事にしてくれ。」

「……はい。」


 小雪が素直に答えると、ベルは一瞬黙った。


「……分かればいい。」


 耳が赤い。


 琥珀色の目が、少し照れたように窓の外へ逸らされた。


 馬車が動き始める。

 王城の門を抜け、王都の通りへ出た。


 街では、まだ多くの人々が空を見上げていた。魔導灯の消えた通りでは、店主たちが油灯を持ち出し、兵士や役人が状況を説明するため走り回っている。


 何が起きたのかを知る者は少ない。

 世界の外へ伸びていた道が消えたことも、千年間使われてきた制度が終わったことも、まだほとんどの人間には伝わっていない。


 これから王家と神殿と世界会議は、恐らく責任を巡って争うだろう。


 事実を隠そうとする者。


 自分たちは知らなかったと言う者。


 召喚が必要だったのだと、今までの行為を正当化する者もいるだろう。


 魔法の衰退を恐れ、召喚路を取り戻せと叫ぶ者さえ現れるかもしれない。


 それでも、もう呼べない。


 どれほど望んでも。


 どれほど祈っても。


 どれほど正しい理由を並べても。


 この世界は、もう勇者を呼べない。


 小雪は馬車の窓から、暮れ始めた空を見た。


 あの星々の、さらに向こうのどこかに、自分が生まれた世界が、確かにある。


 けれど、もう道はない。


 それでよい。


 小雪はもう、家族の声を聞くことも、住んでいた街を見ることも、二度とできない。千年間帰れなかった光が故郷へ届いたのだとしても、小雪自身はそこへ加わらなかった。


 それでも、小雪は一人ではない。


「ベル。」

「何だ。」

「私は、この世界を残したことを、いつか後悔するかもしれません。」


 ベルはすぐには答えなかった。


「これからも、許せないことはあると思います。」

「だろうな。」

「人間はまた争い、別の誰かを犠牲にしようとするかもしれません。」

「そうだな。」

「……また、滅ぼしたくなるかもしれません。」

「そん時は、まず俺の飯を食ってから考えろ。」


 小雪はベルを見た。


「毎回ですか。」

「毎回だ。」

「食後も滅ぼしたい場合は。」

「俺が寝かしつける。」

「翌朝も同じ場合は。」

「俺が気を逸らす。」

「それでも意見が変わらなければ。」

「一緒に、別の方法を考える。」


 ベルは窓の外を見たまま続けた。


「世界を滅ぼす以外の方法がねぇか、最後まで探す。それでも本当に何もなかったら、その時はまた二人で考える。」


 小雪は毛布の端を掴んだ。


「……ずっと一緒ですね。」

「嫌か。」

「世界の滅亡は、ベルによって防げますか。」

「何だか重いな。俺はただ、ずぼら女に飯を食わせて寝かせて、甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてるだけなんだが。」

「ずぼら女ではありません。最強勇者です。」

「そうだな。しかし、俺はただの三下なんだろ。」

「三下オカン乙女チワワです。」

「……それ、全部加える必要があるか。」

「重要です。」


 ベルは小さく笑い、小雪の頭を優しく撫でた。


 それから、几帳面に小雪の肩からずれかけた毛布を直す。


 さすがオカンである。


 馬車は王都を抜け、山へ続く道へ入っていった。


 春の夜はまだ冷える。窓の外では街の灯りが少しずつ遠ざかり、代わりに木々の影と淡い星明かりが広がっていく。


 揺れに身を任せているうちに、小雪の瞼が重くなった。


 ベルの肩へ、少しずつ身体を預ける。


「眠いなら寝ていいぞ。」

「眠くないです。」

「家に着いたら起こすから。」

「……分かりました。」


 小雪は目を閉じかけ、ふと何かを思い出して再び開いた。


「ベル。」

「どうした。」

「帰ったら。」

「ああ。」

「髪の続きをしてください。」


 ベルの手が止まった。


 小雪の白い髪は、片側だけが整えられ、もう片側は不揃いなまま残っている。


 途中で止まった作業。


 小雪が世界を滅ぼすため、一人で王城へ向かう前に残されたもの。


「そうだな。」


 ベルは短く答えた。


「切ったら、消えます。」

「知ってる。」

「怖くありませんか。」

「怖い。」

「嫌ですか。」

「嫌じゃない。だから、慣れるまで頑張る。」

「慣れますか。」

「……何十回もやれば、さすがに心臓に毛が生えるだろ。」


 ベルは小雪の白い髪を一房だけ手に取り、指先でゆっくりと整えた。


「やっぱり、綺麗な髪だな。最初に見た時、まるで雪みたいで、目が離せなかった。」

「一目惚れ、というものですか。」

「なっ……!」


 ベルは言葉を詰まらせ、視線を少し彷徨わせた後、静かに頷いた。


「まあ、そうだな。衝撃はあった。」

「物理的にもありましたしね。」

「……あったな。」


 小雪は僅かに目を細めた。


「では、髪はお願いします。」

「おう。任せとけ。」


 馬車が山道を進んでいく。


 やがて、風の向こうから微かな音が聞こえ始めた。


 かたん。

 ここん。

 かたん。


 山の家のそばで、水車が回っている。


 世界はこれからも、きっと騒がしい。


 争いも、憎しみも、悲しみも、なくなることはないだろう。人間は簡単には変わらず、また同じ過ちを繰り返しかけるかもしれない。


 それでも、人間は変わろうとすることができる。


 誰かと毎日食事をして、くだらないことを言い合って、笑い、時には喧嘩をし、それでも同じ家へ帰る。そんな小さな日々を重ねながら、昨日とは少しだけ違う生活を作っていくことができる。


 世界が本当に救われたのかは、まだ分からない。


 けれど、少なくとも三下の愛は、一人の勇者を世界の終わりから山の家へ連れ戻した。


 その勇者がこれから三下と共に、新しい文明を作り、この世界を少しずつ変えていくのなら。


 要するに。


 愛は、世界を救う。


 小雪は柔らかな眠気の中、ベルに優しく握られた手を、そっと握り返した。

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