第六十九話 三下くん、勇者さまを迎えに行く
千年間、この世界から星の外へ伸びていた道は消えた。
そこには初めから何もなかったように、ただ遠い空だけが残っていた。
王城上空を覆っていた巨大な魔法陣も、役目を終えた外縁から静かに崩れ始める。幾重にも重なっていた白い円環は一つずつ輪郭を失い、その間へ刻まれていた黒い文字も、意味を失った順に細かな光の粒へ変わっていった。
世界を終わらせるはずだった魔法は、もう世界へ向いていない。
召喚路も、外部座標も、二つの世界を結んでいた透明な道も、どこにも残っていなかった。
それでも、小雪だけはまだ空にいた。
最後の円環の中央で両腕を下ろし、何もなくなった星の彼方を見つめている。風に揺れる白く長い髪は、片側だけが整えられ、もう片側は不揃いなまま残されていた。
ベルが、途中まで整えた髪だった。
「小雪……!」
ベルは、壊れた天文塔の中央から呼びかけた。
観測路はすでに消えている。声を小雪のもとまで運んでいた白金の光も、もうない。
呼びかけは天文塔の崩れた天井を抜け、ただの人間の声として風へ散っていった。
届いたかどうかは分からない。
小雪は動かなかった。
その身体を支えていた白い風が、少しずつ薄くなっていく。足元に残っていた最後の円環も透け始め、その向こうに青い空が見えていた。
「小雪!おい、大丈夫か!?」
ベルがもう一度叫ぶ。
小雪の顔が僅かに下を向いた。
遠く離れた天文塔を見たのか。それとも、声のした方角へ反射的に顔を動かしただけなのか。ベルには判断できなかった。
次の瞬間、小雪の足元から光が消えた。
白い身体が、空に取り残される。
ほんの一瞬だけ静止した後、小雪は倒れるようにして、王城へ向かってゆっくりと落ち始めた。
落ちる速度が少しずつ上がっている。残存魔力が尽き始めているのだ。
「小雪っ!」
ベルは駆け出した。
天文塔の最上階は、すでに半分以上が形を失っている。座標保持環は割れ、天文環も多くが軸から外れ、巨大な金属の輪だったものが白い光の破片となって部屋の中を漂っていた。
塔の中央には、さらに上へ続く細い螺旋階段がある。観測機構の調整や、結晶天井の外側へ設置された上部環を点検するための階段なのだろう。人一人が通れるほどの幅しかなく、壁と一体になった石段が、塔の頂上へ向かって急角度で巻き上がっていた。
その階段にも、すでに何本もの亀裂が走っている。
「待て!」
ドライエンの声が背後から飛んできた。
ベルは振り返らなかった。
「塔の上部は、もう保たん!」
「小雪が落ちる!」
「見れば分かる!だから、残っている魔力でこちらへ引き寄せる!」
「観測路は消えただろうが!」
「ならば、作り直す!」
「間に合わねぇだろっ!」
ベルは螺旋階段の最初の一段へ足をかけた。
その瞬間、塔全体が大きく傾く。石段から細かな欠片が剥がれたが、それらは下へ落ちず、重力を忘れたように宙へ浮かんだ。そのまま残された白い光へ触れ、柔らかな粒となって天井の外へ流れていく。
背後でドライエンが何かを怒鳴っている。
頭上では金属が軋み、石壁の割れる音が絶え間なく響いていた。
ベルには空を飛ぶ魔法がない。風を操ることも、足場を作ることも、落ちる人間を遠くから引き寄せることもできない。
割れた石を踏み越え、斜めに傾いた階段へ身体を預け、血の滲んだ手で壁を掴む。
左腕が痛んだ。
椅子へ縛られ、それを無理やり壊した時についた傷が開いている。手のひらも切れ、王都まで馬を走らせ続けた脚には、もうほとんど力が残っていなかった。
頭上の壁が崩れ、青い空が覗く。
その空を、小雪が落ちている。
紺碧の外套が風に広がり、不揃いな髪が上方へ流れていた。
まだ遠い。
もっと上へ行かなければ届かない。
ベルが次の段へ足をかけた瞬間、背後の階段が大きな音を立てて崩れた。石段は地上へ落ちず、無数の光へ変わりながら塔の内側へ散っていく。
戻る道がなくなった。
「ヴェルヴァルド!」
階下から、ドライエンが叫ぶ。
「十息だ!」
「何がだ!」
「上部環が完全に崩れるまでだ! それ以上は、塔そのものが保たん!」
「十分だ!」
「十分なわけがあるか!」
ドライエンの声と同時に、塔の下部から金色の光が走った。壊れかけた壁と螺旋階段の外周を結ぶように、細い術式が一本ずつ点灯していく。
崩壊を止められるほどの力はない。それでも、ベルが走っている場所だけは、辛うじて形を保ち始めた。
ドライエンが、残された王家の制御権限を使って塔を支えている。
「九!」
「数えんな!」
「数えなければ長くなるとでも思っているのか!」
ベルは歯を食いしばり、さらに上った。
階段は途中で途切れていた。
崩れた先には、上部観測環を支えていた細い足場がある。そこへ渡るには、壁の亀裂によって生まれた空間を越えなければならない。
「八!」
ベルは助走をつける余裕もなく、途切れた階段を蹴った。
足元が空になる。
身体が一瞬だけ宙へ浮き、次の足場へ胸からぶつかった。左手が辛うじて縁を掴む。傷口が開き、指の間から血が流れた。
「っ、くそ……!」
右腕を足場へかけ、身体を引き上げる。
塔の外が見えた。
王都の屋根が遥か下に広がり、街の上には、先ほどまでの異常な重力の名残が残っている。細かな水滴や木の葉が、白い光の中をゆっくりと降りていた。
そのさらに上から、小雪が落ちてくる。
「七!」
まだ距離がある。
ベルは足場を走った。
金属の環は途中から大きく歪み、外側へ向かって傾いている。足を置くたびに低く軋み、留め具が一つずつ外れていった。
「六!」
小雪の顔が見えた。
目は開いている。
けれど、焦点が合っていない。
世界規模の術式を身体へ通し続けたことで、意識も魔回路も限界に達しているのだろう。右手が僅かに動き、新たな風の魔法を作ろうとするように指先へ白い光が集まったが、術式の形になる前に散ってしまった。
「小雪!」
ベルの声に、小雪の目が動く。
ゆっくりと、ベルを見た。
「ベル……?」
微かな声だった。
観測路を通しているわけでもないのに、ベルには聞こえた気がした。
「五!」
上部環の先に、塔の最も高い展望台が残っている。半円形の石床を囲んでいた欄干は半分以上が崩れ、空へ向かって大きく開いていた。
ベルは最後の足場を蹴り、展望台へ飛び移った。
着地した瞬間、石床へ新たな亀裂が走る。
「四!」
小雪は、もうすぐそこまで落ちていた。
白い髪。
細い肩。
小さな身体。
手を伸ばせば届きそうに見える。
けれど、まだ遠い。
ベルは展望台の端まで走った。
「三!」
意識が途切れかけているのか、小雪の目が閉じようとしていた。
「二!」
小雪の身体が展望台の上へ差しかかる。落下を遅らせていた風魔法が、完全に切れたのが分かった。
ベルは両腕を広げた。
「小雪!」
落ちてきた白い身体を、寸前のところで受け止める。
小雪は、ベルが想像していたよりも軽かった。以前抱き上げた時の重さを知っているはずなのに、それよりもずっと軽くなってしまったように感じる。
けれど、落下の勢いまで軽いわけではない。
衝撃がベルの両腕から肩、背中へ突き抜け、足が石床を滑る。踵が展望台の端へぶつかった。
ベルは小雪の頭を胸へ抱き込み、自分の身体を下へ向けた。
その直後、足元の展望台が崩れた。
「一!」
石床が割れ、ベルと小雪の身体が塔の内側へ投げ出される。
周囲では、階段も、壁も、巨大な観測環も崩れていた。
けれど、落ちているのは瓦礫ではない。
石も、金属も、結晶も、残された白い魔法へ触れた瞬間に形を失い、無数の光となって二人の周囲を流れていく。
まるで、光の雪の中へ落ちているようだった。
「……ベル。」
抱きかかえた腕の中から、微かな声がこぼれた。
「ここにいる。」
ベルは小雪を強く抱き込んだ。
自分の背中を下へ向ける。
小雪の身体には、傷をつけたくなかった。
補填されるからではない。
傷が消えるからでも、痛みが残らないからでもない。
ただ、傷つけたくなかった。
「鈴を……鳴らしていません。」
途切れかけた声で、小雪が言った。
「知ってる。」
「それでも、来たのですか。」
「鳴らさなくても来るって言っただろ。」
塔の下方で、金色の光が強く輝いた。
「馬鹿ども!」
ドライエンの怒号が響く。
残っていた術式が一斉に作動し、天文塔の内部へ幾重もの金色の輪を作った。
落下するベルの背中が、最初の輪へ触れる。
柔らかなものではなかった。
硬い膜へ叩きつけられたような衝撃が走り、肺の空気が押し出される。
「ぐっ……!」
それでも、落下速度は僅かに緩んだ。
二つ目の輪へぶつかる。
三つ目。
輪へ触れるたびに金色の光が砕け、二人の身体は少しずつ減速していった。
最後の輪を突き抜けた後、ベルは壊れた天文環の傾斜へ背中から落ちる。そのまま金属板の上を滑り、先に残っていた石床へ、二人一緒に転がり込んだ。
ベルの背中が床へ叩きつけられる。
肺の中の空気がすべて抜け、視界が白くなった。
「っ……痛ぇ……!」
呻きながらも、腕は緩めなかった。
◇ ◇ ◇
温かな鼓動と、よく馴染んだ落ち着く体温、それに優しい香りが、遠のいていた小雪の意識をゆっくりと引き戻した。
――ベル。
はっとして目を開けた。
確か、術式が終わった直後、魔回路が動かなくなった。風魔法を維持しなければならないと思ったのに、指先へ力が届かず、そのまま意識が途切れた。
小雪は慌てて上体を起こした。
小雪は、ベルの胸の上にいた。
深い金色の髪。琥珀色の目。痛みに耐えているのか、僅かに歪んだ眉。
小雪は目の前の顔を見つめた。
「ベル……!」
「大丈夫だ。」
「私たち、生きています。」
「ああ。」
「成功、したのですね。」
思わず目を見開いた小雪に、ベルは眉を顰めたまま答えた。
「当たり前だ。」
「やはり、あなたは有能です。」
「……この状態で言うな。初心な心臓まで瀕死になる。」
声はいつもどおりだった。
けれど、呼吸が浅い。
「怪我をしましたか。」
「問題ない。かすり傷だ。」
小雪はベルの胸へ手を置いた。
鼓動を確かめる。
速い。
乱れている。
それでも、確かに動いていた。
補填されることのない、普通の人間の心臓。
傷つけば痛み、止まれば二度と動かない心臓。
それが今、小雪の手の下で懸命に動いている。
先ほどまで、小雪には世界が壊れることさえ遠く感じられていた。王都が消えることも、大陸が砕けることも、自分が世界と一緒に失われることも、ただ判決の結果として受け入れられた。
けれど、ベルが動かなくなるかもしれないと思った瞬間だけは、ひどく恐ろしかった。
この心臓が止まることが。
この体温が失われることが。
鈴を鳴らしても、二度と来なくなることが。
「……ベル。」
「何だ。」
「ごめんなさい。」
ベルはしばらく目を閉じ、小さく息を吐いた。
「反省したか。」
「……しました。」
「なら、もう次から置いていくな。」
「はい。」
「あと。」
ベルは上着の内側へ手を入れた。
取り出したのは、小さな銀色の鈴だった。
山の家へ置いてきたもの。もう触れることはないと思っていたもの。
それをベルは、もう一度、小雪の掌へ戻した。
「忘れるな。おまえのものだろ。」
小雪は掌の中の鈴を見た。
ベルを呼ぶための鈴。
小雪が鳴らせなかった鈴。
それでも、ベルは来た。
鳴らさなくても。
追い返しても。
世界と一緒に消えようとしても。
小雪は鈴を握り、僅かに笑った。
「……はい。私のベルです。」
その瞬間、目尻から涙がこぼれた。
自分が泣いていることへ気づくよりも早く、次の一粒が頬を伝う。
「おい、大丈夫か。」
ベルが慌てて身を起こそうとし、背中の痛みに顔を歪めて再び床へ沈んだ。
「ベル。やはり怪我をしています。」
「俺は大丈夫だ。」
「大丈夫な動きではありません。」
「それより、おまえの方だ。」
ベルは眉を顰めたまま、小雪の頬を両手で包んだ。涙の筋を親指でゆっくりと拭われる。
「身体は大丈夫か。だいぶ削ったんだろ。」
「変わったように見えますか。」
小雪は自分の手を見る。
指もある。
皮膚も戻っている。
髪も、ベルが途中まで整えた時と同じ長さに見えた。
けれど、自分では分からないものが失われている可能性はあった。
身体の奥。
感情。
記憶。
ベルが知っていた小雪とは、もう違うものになっているのかもしれない。
ベルは少し視線を彷徨わせた後、まっすぐ小雪の目を見た。
「変わってねぇよ。」
「本当に。」
「ああ。」
ベルは頬へ触れたまま、言葉を続ける。
「それに、仮に何か変わってても、おまえはおまえだ。」
小雪は瞬きをした。
「補填で少し小さくなっても、白くなっても、感情が分かりにくくなっても、全部ひっくるめて小雪だろ。」
「……。」
「だから、迎えに来た。」
ベルは一度言葉を切った。
そのまま黙っていればよいのに、何かを言い足さなければならないと思ったらしく、耳を赤くしながら目をそらす。
「それに、いつもどおり可愛いし、綺麗だよ。」
自分で言った後、ベルの顔はさらに赤くなった。
小雪の胸の奥で、何かが音を立てて戻ってきた。
先ほどまで、感情と言葉の間には深い霧があった。何を感じても遠く、どの言葉へ結べばよいのか分からなかった。
けれど今は、ベルの言葉がその霧を押し退けていく。
温かい。
胸の奥がこそばゆい。
嬉しいのに、少しだけ恥ずかしい。
ずっと触れていたいと思う。
もう二度と、この体温を失いたくない。
「ベル。もう一度言ってください。」
「嫌だ。」
「観測に必要です。」
「何の。」
「恋愛文明です。」
「……今、人類の文明が滅びかけた直後だぞ。」
「滅びませんでした。」
「そういう問題じゃねぇ。」
天文塔は、今も二人の周囲で静かに崩れ続けている。
石壁から剥がれた欠片は、地上へ落ちる前に白い光へ変わり、壊れた天井から外へ流れていく。星図を刻んだ金属の輪も、召喚路とともに役目を終え、光の花びらのようにほどけていた。
もう、危険な崩壊ではない。
千年間動き続けた機構が、役目を終えて眠りにつくような、静かな崩壊だった。
「さすがに今回は駄目かと思った。」
ベルが小さく呟いた。
「私も不思議です。」
つい先ほどまで、小雪は世界を壊すつもりだった。
二度と鈴を鳴らすこともなく、ベルと話すこともないまま、この世界と共に消えるはずだった。
それなのに今は、ベルの胸の上で、勇者候補たちを連れ去り続けた召喚機構の終わりを見ている。
世界を滅ぼすことには、何も感じなかった。
けれど、ベルを失うことは恐ろしかった。
ベルが生きていることが嬉しかった。
触れられることが恥ずかしく、温かく、どうしようもなく離れ難かった。
もし、この恐怖と安堵と温かさを一つの言葉で表すなら。
小雪はもう、その名前を知っていた。
「ベル。」
「何だ。」
「愛しています。あなたを。」
ベルは、呼吸まで止めて固まった。
本当に微動だにしない。
小雪はベルの顔を見つめた。
返答がない。
大変だ。
小雪は掌の鈴を一度だけ鳴らした。
ちりん。
「っ、どうした!」
ベルが反射的に答える。
「ベル、大変です。回答がありません。」
「……今じゃなきゃ駄目か。」
「では、いつならよいですか。」
「初心な心臓が耐えられそうになった時。」
「それは、いつですか。」
「分からん。」
小雪は、ベルの琥珀色の目をじとりと睨んだ。
「乙女ベル。」
「知ってる。」
「三下チワワ。」
「悪かったな。」
「愛の力は、ベルの呼吸を停止させるものなのですか。」
「違う。多分、違う。」
ベルは観念したように息を吐き、小雪の頭をゆっくりと自分の胸へ引き寄せた。
「……俺も。」
そして、ぽつりと小さく呟いた。
「何がですか。」
「分かるだろ。」
「明確な言語化を要求します。」
「今は無理だ!」
「なぜですか。」
「おまえが急に言うからだ!」
「予告が必要でしたか。」
「必要だった!」
小雪は少し考えた。
「では、次回からは事前に通知します。」
「次回があるのか。」
「何度でも言うものではないのですか。」
ベルは再び固まりかけた。
しかし今度は、鈴が鳴らされる前に小雪の頭を強く抱き込み、その白い髪へ顔を埋める。
「……愛してる。」
くぐもった声だった。
それでも、確かに聞こえた。
小雪はベルの外套を握る指へ、少しだけ力を込めた。
「はい。」
「何でおまえの方が平然としてるんだ。」
「私は先ほど一度言いました。二度目は余裕があります。」
「一回で慣れるな。」
階下から、ドライエンの足音が聞こえてきた。崩れた階段を回り込み、二人のもとへ向かっているのだろう。遠くからは、兵士や魔導士たちの声も聞こえ始めている。
やがて、この場所へ大勢の人間が押し寄せる。
召喚路の消失を確認する者。
小雪の状態を調べる者。
王へ報告する者。
責任を探し、命令を求め、これからどうすべきかを話し合う者。
世界は再び騒がしくなる。
その前に、ベルは小雪の白い髪を一度だけ撫でた。
「とりあえず、家に帰ってゆっくりしよう。」
「山の家へ。」
「ああ。美味いものを作ってやる。しっかり食べて、風呂に入って、布団でちゃんと寝ろ。話はそれからだ。」
「愛についての検討も、それからですか。」
「もう答えただろ。」
「追加観測が必要です。」
「寝てからにしろ。」
「分かりました。」
小雪はベルの胸へ頭を預けたまま、壊れた天井の向こうを見上げた。
最後の白い光が、青い空へ溶けていく。
故郷へ向かった光が、本当に誰かのもとへ帰れたのかは分からない。記憶も名前も失った後で、それを帰還と呼べるのかも、小雪には断定できなかった。
それでも、あの光が帰るべき場所へ届いたのだと信じたかった。
かつて家族と呼んだ人たちの近くへ、ほんの僅かでも帰れたのだと。
小雪自身が、あちらの世界へ戻ることは、もう二度とない。
あの空に触れることも、家族の声を聞くこともない。
世界と世界を結んでいた道は、永久に閉じた。
けれど、帰る場所まで失ったわけではなかった。
山の家がある。
水車が回り、鍋から湯気が上がり、途中で止まった髪の続きを整えてもらえる場所。
そして、そこへ一緒に帰るベルがいる。
小雪は小さく息を吐き、温かな胸の上で目を閉じた。
まだ肌寒さを残す春の風が、壊れた天文塔を通り抜ける。
世界と世界を結ぶ道は、もうどこにもない。
それでも、山の家へ帰る道は、ベルの腕の中から静かに続いていた。




