第六十八話 三下くん、勇者さまを止める
世界へ下されるはずだった判決が、ゆっくりと星の外へ向き直った。
王城上空に広がっていた白い円環のうち、最も内側にある一つが大きく傾き、空の彼方へ伸びる透明な召喚路の周囲へ重なっていく。続いて二つ目の円環が反対側から寄り添い、三つ目、四つ目も、それぞれ異なる角度から巨大な道を囲み始めた。
光を内側へ閉じ込めた、透明な柱。
雲を貫き、青い空を抜け、星々の間を越えて、小雪の故郷へ伸びている千年の道。
世界そのものへ向けられていた莫大な力が、その一本へ集中し始めたことで、王都を覆っていた重圧が僅かに緩んだ。空中へ持ち上げられていた小石がゆっくりと高度を下げ、球状に浮かんでいた噴水の水も、細かな雨となって石畳へ降り注いでいく。
しかし、術式が静まったわけではない。
むしろ世界全体へ分散していた力が一つの場所へ集められたことで、召喚路の周囲では、それまでとは比較にならないほど激しい魔素の渦が生まれていた。
白い円環の内側で、透明な道が低く軋む。
音ではない。
空気の振動でもない。
それでも、その場にいる全ての者が、何か巨大なものが耐え切れずに悲鳴を上げているのだと理解した。
◇ ◇ ◇
王城天文塔では、座標保持環が激しく震えていた。
千年間、一度も定められた位置から動かなかった巨大な金属環が、目に見えるほど左右へ揺れている。環を支える複数の軸からは白い火花が散り、床へ刻まれた二つの術式を結ぶ線が、明滅を繰り返しながら一本ずつ浮き上がっていた。
ベルは座標保持環の間近に立ち、空へ向きを変えた魔法陣と、床を走る魔力の流れを交互に見ていた。
「最外周を反対へ回せ。」
「どれだ。」
制御台へ両手を押しつけたまま、ドライエンが叫ぶ。魔力消費が激しいのだろう。額から流れた汗が頬を伝い、手の傷から滲んだ血が王家の紋章へ広がっていた。
「空の一番外側だ。今のままじゃ、同じ方向へ引っ張ってるだけだ。片側を逆へ回して、両方から絞る。」
「術式を直接見られない私に、空を回せと言うのか!」
「お前が見てる金色の線があるだろ!右側の環へ入ってる方を逆流させろ!」
「逆流などさせれば、座標保持環が耐えられんぞ!」
「耐えさせろ!」
「本当に簡単に言うな、貴様は!」
ドライエンが怒鳴りながら、制御台の上を走る金色の線へ指を滑らせる。
王家の魔力が術式へ流れ込んだ。
頭上の巨大な天文環が、耳を塞ぎたくなるほどの金属音を響かせて止まり、次の瞬間、これまでとは反対方向へ回転し始める。
空でも、最外周の白い円環がゆっくりと向きを変えた。
「動きました。」
小雪の声が観測路を通じて天文塔へ届く。
「次は何を。」
声はまだ細い。
けれど、世界を終わらせようとしていた時の、どこまでも遠い声ではなかった。
ベルは床へ視線を落とした。
二つの円形術式の間を流れていた光が、座標保持環の直前で複数に枝分かれしている。その中の一部は、世界中を巡る魔素循環へつながっていた。残る線が、空の召喚路へと伸びている。
「世界の循環へ戻る線は触るな。外へ伸びてる道だけを、術式の中へ引き込め。」
「外部接続だけを抽出する、ということですか。」
「そうだ。世界を流れる魔素は残す。川まで止めるな。召喚に使ってる水路だけを分けろ。」
「分かりました。」
小雪が両手を動かす。
その指先が、白い光へほどけ始めた。
皮膚が崩れ、爪が消え、指の輪郭が魔素の粒となって空へ散っていく。しかし、失われた場所へすぐに光が集まり、半透明の骨格が作られ、その上へ肉と皮膚が重なるようにして新しい手が再構成された。
失う。
補填される。
再び魔素へ変える。
小雪の身体そのものが、世界規模の術式へ力を送り込む弁のように、白い明滅を繰り返している。
補填は止まっていない。
けれど、その速度を上回るほどの力を送り続ければ、いつまで身体が耐えられるかは分からなかった。
「小雪、大丈夫か。」
「は、い。」
空を覆っていた黒い文字がほどけ、無数の細い線となって透明な召喚路の周囲へ集まっていく。それまで世界中の大地や海へ接続していた白い円環が、必要な箇所だけを残して縮小し、星の外へ伸びる巨大な道を何重にも囲み始めた。
外から見れば、それは一本の透明な綱へ白い糸を巻きつけているようだった。
一重。
二重。
三重。
円環は召喚路の周囲を回りながら、次第に間隔を狭めていく。
王都の上空に、強い風が生まれた。
雲が渦を巻き、王城の尖塔へ掲げられていた旗が、召喚路の方角へ真横に引かれる。天文塔の結晶天井にも新たな亀裂が走り、外れた結晶片が床へ落ちることなく空中で静止した。
ベルは足元の揺れを堪えながら、座標保持環の光を追った。
「まだ締めるな。」
「もう円環は、固定されかけています。」
「分かってる。けど、今切ったら片側が残る。」
「片側。」
「この世界側の装置を壊しただけじゃ駄目だ。道の向こうまで露出させる。両側を一度に切って、二度と同じ場所へつながらないようにする。」
小雪は、巨大な召喚路の先を見た。
星の外。
肉眼では見えないほど遠く離れた、小雪の故郷。
「接続を、強めるのですか?」
「一瞬だけだ。」
「繋げばまた召喚が起きる可能性があります。」
「起こさせねぇ。その前に切る。」
「もし、何かがこちらへ引かれたら。」
「安心しろ。俺が道を見てる。もし何か来たら、押し返せばいい。」
ベルは即座に答えた。
「……はい。」
小雪は短く息を吸い、透明な召喚路へ向けて右手を伸ばした。
「外部座標、完全開示。」
空の白い円環が一斉に輝く。
透明な道の内部を、これまでとは逆方向へ光が走った。
この世界から小雪の故郷へ。
そして、その向こう側から、この世界へ。
千年間、一方通行として固定されてきた召喚路が、ほんの一瞬だけ両側へ開かれた。
世界が大きく揺れた。
王都の建物が倒れることはなかった。
人々の身体が空へ投げ出されることもなかった。
それでも、全ての者が足元から重さを奪われたような感覚に襲われた。石畳の上に落ちていた木の葉がふわりと浮き、家々の煙突から昇っていた煙が、風向きとは無関係に召喚路へ吸い寄せられていく。
海では、水面が遠くの空へ引かれるように盛り上がった。
山では、岩肌から細かな砂が浮き上がった。
世界中の魔素が、開かれた道へ反応していた。
「来るぞ!」
ベルが叫んだ。
座標保持環の中心へ、向こう側から強い光が押し寄せてくる。
新たな勇者候補が引き寄せられたのか。
ベルはそう考え、環を閉じるための経路へ手を伸ばした。
けれど、光は召喚路の向こうから来たものではなかった。
この世界の中から、集まっていた。
最初は、一粒だった。
天文塔の床を巡る白い魔素の中から、僅かに青みを帯びた光が抜け出す。
「な、に……。」
それは小雪の補填へ向かわなかった。
座標保持環へ入り、透明な召喚路の内部を、星の外へ向かって上昇していく。
「何だ、今の光は。」
ドライエンが問う。
「分からねぇ。」
ベルは環を流れる光を見つめた。
次に二粒。
五粒。
十粒。
白い魔素の流れから、色の異なる小さな光が次々と抜け始める。
王都から。
大地から。
海から。
森から。
魔族領から。
古い戦場から。
勇者候補たちが倒れ、遺体も残らず魔素へ変えられた場所から。
数え切れないほどの光が、世界中から空へ昇ってくる。
それらは小雪の周囲へ一度集まり、彼女の身体へ入ることなく、白い魔法陣の線へ沿って流れ始めた。
崩れかけた円環の一部を支えるように。
途切れそうになった術式の線を、次の光へつなぐように。
まるで、小雪一人へ全てを背負わせまいとするかのように。
「この光……。」
小雪の声が震えた。
「知っているのか。」
ベルが尋ねる。
「魔素ではあります。けれど、この世界にもともと存在していたものとは、質が少し違います。」
小雪の目には、世界中から集まってくる光の一粒一粒が見えていた。
記憶はない。
名前もない。
人間としての姿も、人格も、もう残ってはいない。
長い年月をかけ、この世界の魔素へ溶け、混ざり、燃料として使われ続けてきたもの。
それでも、完全には失われなかった部分があるのか。
魂の最も深い場所へ刻まれていた、故郷の座標へ。
元の世界へ帰っていくように。
「……これは、おそらく勇者候補達の魂質です。」
ドライエンの顔が強張る。
「勇者候補たちの魂だというのか。」
「……正確には分かりません。」
小雪は静かに答えた。
「魂と呼べるほどのものが残っているのか。記憶や人格が存在しているのか。私には、もう確認できません。」
青みを帯びた光が、さらに数を増していく。
何百。
何千。
細い光の線が世界中から王城上空へ集まり、透明な召喚路の内部を、星の彼方へ向かって流れていた。
「しかし、一方通行だった道が、今この瞬間双方向へ開いたから。」
小雪は光の行方を見つめた。
「帰る方向を、思い出したのでしょうか。」
「帰ってるのか。」
ベルが呟く。
「千年間、帰れなかった人間たちが。」
「断定はできません。」
「それでも。」
ベルは鈴を握った。
「帰る場所だけは、忘れてなかったのかもしれねぇな。」
その言葉に応えるように、一際大きな光の流れが小雪の周囲を巡った。
白い魔法陣の一部が限界を迎え、黒い文字が崩れ始める。
小雪が手を伸ばすよりも先に、青白い光が崩れた場所へ入り込み、途切れた線をつなぐ。
偶然かもしれない。
ただ同じ経路へ吸い寄せられているだけかもしれない。
けれど、その光景は、自ら故郷へ帰ろうとする光たちが、小雪の術式を支えているようにしか見えなかった。
「補填の負担が、下がっています……。」
小雪が自分の右手を見る。
先ほどまで指先から何度も崩れていた身体が、今は安定していた。世界に属する魔素は、これまでどおり失われた身体を補填している。
しかし、異世界由来の魂質は、小雪の身体へ使われていなかった。
それらは自らを選り分けるように、透明な道をあちらの世界を目指して流れていく。
「この世界へ属する魔素と、異世界へ属する魂質が分離してる。」
ベルは座標保持環の動きを見た。
環の片側では、この世界の魔素が小雪の身体と世界の循環へ戻っている。
もう片側では、青白い光が星の外へ向かっている。
千年間混ざり合っていた二つの流れが、召喚路を境に分かれ始めていた。
「今なら切れる。」
ベルは言った。
「待ってください。」
小雪が召喚路の向こう側へ目を凝らす。
星の外へ渡った光は、そのまま消えてはいなかった。
透明な道の向こう。
小雪の故郷側にある接続点へ集まり、薄い膜のようなものを作り始めている。
一粒の光が膜へ重なる。
さらに一粒。
無数の光が幾重にも重なり、透き通った壁となって、二つの世界の境界を塞いでいく。
「向こう側に、何かが形成されています。」
「新しい術式か。」
ドライエンが制御台の表示を見つめる。
「違います。」
小雪は目を見開いた。
その現象を、知っている。
失われたものの輪郭を読み取り、周囲の魔素を集め、欠ける前の状態へ戻す力。
「補填です。」
「何を補填してる。」
ベルが尋ねる。
「世界の境界を。」
小雪は息を呑んだ。
「召喚によって開けられた穴を、向こう側から埋めています。切れた場所を塞ぐのではありません。最初から道など存在しなかった形へ、境界そのものを戻そうとしています。」
ベルは透明な召喚路を見上げた。
こちら側では、小雪の巨大な術式が道を締め上げている。
向こう側では、帰っていった光が世界の境界へ重なり、召喚路の出口を塞いでいく。
両側から閉じる。
装置を壊すだけではない。
座標を隠すだけでもない。
道の存在そのものを消し、二つの世界の間に、再び越えられない境界を作る。
「こちらも急ぐぞ。向こう側が閉じる前に切る!」
ベルは座標保持環へ手を置いた。
「小雪、外周の円をさらに締めろ。」
「はい。」
「ドライエン、保持環を開放しろ。」
「開放すれば、この塔は保たん。」
「もう保たせる必要はねぇ。道が切れるまで持てばいい。」
ドライエンは一瞬だけ目を閉じ、短く息を吐いた。
「王城を壊すなよ。」
「壊れても誰も死なせねぇ。」
「貴様が言う台詞ではない。」
それでも、ドライエンは制御台の中央へ両手を置いた。
「王位継承第一位、ドライエン・アルシュタインの権限により命じる。」
王家の紋章が強く輝く。
「異世界座標固定術式、全制限を解除。座標保持環を開放する。」
巨大な金属環を巡っていた金色の光が消えた。
千年間、一定の形へ固定され続けてきた術式が、初めて自由になる。
同時に、天文塔全体が大きく傾いた。
壁へ刻まれた星図が剥がれ、巨大な石片となって空中へ浮かび上がる。支えを失った天文環が一つ、軸から外れ、ゆっくりと床へ倒れ始めた。
ベルは身構えた。
しかし、金属環は床へ激突する直前に白い魔法陣へ触れ、無数の光片へ変わった。
砕けた石材も、外れた結晶も、地上へは落ちない。
全てが白い光へ変わり、天文塔の壊れた天井から、雪のように王都へ降っていく。
王都の人々は逃げることも忘れ、空を見上げていた。
世界が壊れている。
けれど、瓦礫は誰も傷つけない。
崩れたものが、光となって降ってくる。
恐ろしいほどに美しい光景だった。
「小雪!」
「準備できています!」
透明な召喚路の周囲へ巻きついた白い円環が、反対方向へ回転を始める。
上側の円環は右へ。
下側の円環は左へ。
巨大な透明の綱が、両側からねじられていく。
最初は、何も起こらなかった。
召喚路は千年間、世界の魔素を受けながら固定され続けてきた。数え切れないほどの勇者候補を通し、何度も修復され、世界の構造の一部として根を張っている。
「さらに締めろ!」
「これ以上は、世界循環へ影響が出ます!」
「俺が分ける。お前は巻け!」
ベルは床へ浮かび上がった魔力線へ両手を伸ばした。
触れても魔法を動かすことはできない。
けれど、どの線がどこへつながっているかは分かる。
「左から二番目を外せ!それは地脈だ!」
「外し、ました。」
「次は上の円を半周遅らせろ。力が片側へ偏ってる!」
「調整、します……!」
「保持環が割れるぞ!」
ドライエンが叫ぶ。
「割らせろ!今切らなきゃ全部元へ戻る!」
座標保持環へ、最初の亀裂が走った。
細い白い線だった。
環の外周から内側へ伸び、千年間刻まれた古い文字を一つずつ横切っていく。
透明な召喚路の内部にも、同じ形の亀裂が生まれた。
世界の外で、巨大な硝子へ傷が入ったような光。
「小雪、今だ!」
小雪は両手を召喚路へ向けた。
身体が白く輝く。
右腕が魔素へ変わり、同時に補填の光が輪郭を作り直していく。
青白い魂質の流れが小雪の周囲を巡り、魔法陣へ沿って星の外へ駆け上がっていった。
まるで、彼女の背中を押すように。
まるで、最後の一人まで故郷へ帰るため、小雪と共に道を閉じようとしているかのように。
小雪は目を閉じた。
出会うことすらなかった者。
名前を知っていた者。
共に戦った者。
腕の中で消えていった者。
この世界で死に、燃料へ変えられ、千年間帰れなかった全ての者へ向けて、心の中で告げる。
――遅くなりました。
――もう二度と、誰も、連れて来させません。
小雪は目を開いた。
「主文変更。」
空を覆う黒い文字が、一斉に並び替わる。
「被告――異世界召喚路。」
透明な道へ、巨大な白い円環が食い込んだ。
「本世界と外部世界を結ぶ全ての接続について、その存続を認めない。」
召喚路の亀裂が大きく広がる。
「外部世界に対する観測、座標固定、召喚及び魂質干渉に関する一切の権限を、剥奪する……!」
神殿地下の召喚陣が中央から割れた。
王城地下の転移装置から、異世界座標へ伸びていた線が消える。
世界会議によって管理されていた補助術式が、一つずつ応答を失っていく。
旧魔王領の裂け目へ結ばれていた固定線も、白い光の中で焼き切れた。
座標保持環は、すでに半分以上が割れている。
「ベル。」
「何だ!」
「最後の執行を行います。」
「ああ。」
「……失敗すれば、接続が暴発する可能性があります。」
「失敗させねぇ。」
「……ベル。怖い。怖いです……。」
小雪の声が、僅かに震えた。
ベルは鈴を強く握った。
「大丈夫だ。俺がついてる。」
「一緒に、いてください。」
「……ここにいる。ずっと、一緒だ。」
ベルは透明な道の先に立つ小雪を、真っ直ぐに見た。
「お前が切れ。俺が最後まで道を支える。」
小雪は小さく頷いた。
世界中から昇ってきた青白い光が、最後にもう一度、小雪の周囲を大きく巡った。
「判決を、執行っ……!」
白い円環が最大まで締まる。
「刑を執行する――絶縁……っ!」
召喚路が、ねじ切れた。
音は、すぐには届かなかった。
透明な道の中央に白い亀裂が走り、そこから無数の割れ目が枝分かれしていく。光を閉じ込めていた巨大な柱は、一瞬だけ形を保ち、次の瞬間、数え切れないほどの透明な破片へ砕けた。
その後で、音が来た。
世界の外側で、空よりも大きな硝子が割れたような音だった。
王都の空が震える。
雲が大きく割れ、青い空のさらに向こうに、暗い星々が一瞬だけ姿を現した。
透明な召喚路の破片は地上へ落ちなかった。
故郷へ帰っていく青白い光と重なり、星の彼方へ向かって流れていく。
一片。
また一片。
千年間、この世界と小雪の故郷をつないでいた道が、無数の光となって崩れていく。
天文塔の座標保持環も、召喚路と同じように割れた。
巨大な金属の輪が幾つもの破片へ分かれ、床へ落下する前に白い光へ変わる。頭上で回転していた天文環も一つずつ軸から外れ、金、銀、黒鉄の輪郭を保ったまま崩れ、王都の空へ光の花びらとなって散っていった。
王城の尖塔が一部崩れる。
神殿の古い塔にも亀裂が走る。
けれど、落ちるはずだった瓦礫は全て白い円環へ触れ、柔らかな光へ変わった。
王都へ降ったのは、石でも金属でもなかった。
雪のように静かな光だった。
人々は手を伸ばした。
光は掌へ触れ、何の熱も、冷たさも残さず消えていく。
それでも誰もが、何か途方もなく長く続いていたものが、今、終わったのだと理解した。
召喚路の向こう側では、帰っていった青白い光が最後の隙間を埋めていた。
透明な壁が閉じていく。
その向こうに、一瞬だけ、小雪は見た。
青い空。
この世界にはない住宅街。
赤と白の光が流れる夜の道路。
あるいは、ただの記憶だったのかもしれない。
召喚路の残した幻だったのかもしれない。
けれど、小雪はそれを故郷だと思った。
最後の光が、境界の向こうへ渡る。
誰のものだったのかは分からない。
誰かの魂が本当に帰れたのかも、分からない。
それでも、その光は途中で迷うことなく、故郷側へ流れていった。
透明な壁が閉じる。
星の外へ伸びていた道の痕跡が消えた。
座標も。
観測路も。
千年間、世界の内側へ刻まれていた外部世界への傷も。
全てが、最初からそこには何もなかったように補填されていく。
小雪の魔法陣が、外側から静かに崩れ始めた。
白い文字が一つずつ意味を失い、光の粒となって空へ溶ける。巨大な円環も輪郭を失い、世界を覆っていた力が、穏やかな魔素の流れへ戻っていった。
世界は壊れなかった。
大地は残っている。
海も、山も、人間の街も、魔族領も残っている。
けれど、二つの世界を結んでいた道だけは、もうどこにもなかった。
ベルは、光を失った座標保持環の残骸へ手を置いた。
冷たい金属だった。
もう魔力は流れていない。
「終わったのか。」
ドライエンが床へ片膝をつき、掠れた声で尋ねる。
ベルは天文塔の壊れた天井から、何もない空を見上げた。
「ああ。これで、終わった。」
千年間、この世界から星の外へ伸びていた道は消えた。
そこには初めから何もなかったように、ただ遠い空だけが残っていた。




