第六十七話 勇者さま、世界を滅ぼしかける
王城地下の転移室に、白い光が満ちた。
床へ刻まれた魔法陣から幾重もの光柱が立ち上がり、冷たい石壁と天井を照らしていく。普段は黒ずんで見える古い紋様が、一つずつ輪郭を取り戻し、転移装置の内部を走る魔力経路が白い血管のように浮かび上がった。
光の中央に、小雪の姿が現れる。
白い髪。細い肩。紺碧の外套に包まれた小さな身体。
西大陸から同行してきた魔導士たちは、数歩遅れて周囲へ転移した。誰の顔にも疲労と緊張が濃く残っている。戦場全体を覆った白い魔法。動きを封じられた何万人もの兵士。沈黙した魔導士団と、機能を失った無数の兵器。
あれを間近で見た者は、王城へ帰還した後も、すぐには小雪へ声をかけられなかった。
転移装置の管理官だけが、職務に背中を押されるように前へ進み出る。
「勇者殿。西大陸の状況は。」
「戦闘行為は停止しました。両軍の代表者に停戦合意書へ署名させ、武器及び魔力供給路は三日間、使用不能にしています。」
「三日間……。」
「正式な協議を始めるには十分でしょう。以降は、人間同士で話し合ってください。」
「は、はい。国王陛下へ直ちにご報告を。」
「不要です。」
管理官が顔を上げた。
「報告は、同行した方々からお願いします。」
「勇者殿は、陛下のもとへ向かわれないのでしょうか。」
「はい。」
小雪はそれだけ答え、転移陣から歩き出した。
管理官が何かを言おうとしたが、続く言葉は出なかった。周囲の魔導士たちも黙って道を空ける。西大陸で小雪が何をしたのかを知る者には、彼女の前へ立ち塞がることなどできなかった。
白い魔法の残滓が、小雪の髪の周囲で薄く揺れている。
片側だけが整えられ、もう片側は不揃いなまま残った髪。
続きを切ることは、もうない。
小雪は地下から続く階段を上った。
足音が、硬い石壁へ一定の間隔で反響する。
王城の地下は冷えていたが、寒いとは感じなかった。指も動く。脚も身体を支えている。呼吸も、魔回路の流れも正常だった。
それでも、自分の身体が、自分からどこか遠く離れてしまったように感じる。
補填によって何を失ったのかは分からない。外見にはほとんど変化がなく、きっと調べても明確な欠損が見つかるわけでもないだろう。
けれど、感情とそれを表す言葉の間には、薄い霧がかかっていた。
怒っているのか。
悲しいのか。
恐ろしいのか。
虚しいのか。
もう何も感じていないのか。
考えても、答えは出ない。
ただ一つ、決めたことだけは明瞭だった。
――この世界を終わらせる。
それ以外を、もう考える必要はなかった。
小雪は階段を上り切り、王城の廊下へ出た。
白い石の床。壁に並ぶ燭台。天井から垂れる金の装飾。王家の紋章が刻まれた柱。
遠くから慌ただしい足音が聞こえている。西大陸からの報告が届いたのだろう。戦争が止まったことを知らせる声。命令を求めて走る兵士。各国へ送る書状を準備する事務官たち。
この世界は、今日も書類を作る。
いつ、誰が、どの命令を出し、何が起きたのか。
責任の所在を記録し、同時に細かく分割していく。
そして結局全て有耶無耶になる。
小雪は王のいる会議室へ向かわなかった。
報告をする必要はない。
許可を求める必要もない。
これから処分を受ける者へ、判決を下してよいかと尋ねる裁判官はいない。
王城中央部を抜け、上層階へ続く大階段を上る。
一階。
二階。
三階。
窓の外に見える王都の屋根が、少しずつ低くなっていった。市場へ集まる人々。石畳を走る馬車。店先で品物を並べる商人。広場で遊ぶ子供たち。
誰も、これから何が起きるのかを知らない。
この人々が、勇者召喚の真実を知っているわけではない。
西大陸へ小雪を送ると決めたわけでもない。
次の勇者候補を呼べと命じたわけでもない。
けれど、この世界は彼らの暮らしを守るため、異世界の人間を燃やしてきた。
魔素が足りなければ、誰かを呼ぶ。
希望を持たせるふりをして、死地へ向かわせる。
死ねば、世界の燃料にする。
そして今後は、人間同士の戦争の兵器として利用するかもしれない。
多くの人間は、知らないまま恩恵だけを受ける。
知らなかったから罪はないのか。
知らされなかった者まで裁いてよいのか。
ほんの少し前までなら、小雪は迷ったのかもしれない。
今は、もう迷わなかった。
個人を裁くのではない。
制度を作った王だけを処刑するのでもない。
神殿や召喚担当国だけを滅ぼすのでもない。
それらを必要とし、存続させ、壊しても何度でも同じ仕組みを作り直す世界そのものへ、判決を下す。
小雪は王城上層の回廊へ出た。
高い窓から、春の風が入り込んでいる。
空は淡い青色だった。
西大陸の赤い空も、白く封じられた戦場も知らないような、穏やかな空。
小雪は窓の前で足を止め、王都を見下ろした。
ベルと歩いた街がある。
舞踏会へ向かった道がある。
初めてドレスを着せられ、慣れない靴で歩いた夜がある。
けれど、今見えるのは思い出の場所ではなかった。
この罪深い世界を構成する、人間の街だった。
小雪は窓を開いた。
高所の風が廊下へ流れ込み、白い髪を大きく揺らす。指先へ魔力を集めると、足元へ白い光が広がり、流れ込んだ風が小雪の身体を包んだ。
「勇者殿!」
廊下の向こうから、誰かの声がした。
振り返らなかった。
窓枠へ足をかけ、そのまま外へ一歩踏み出す。
身体は落ちなかった。
白い風が足元を支え、小雪を王城の壁に沿って上昇させる。回廊を越え、尖塔を越え、風に揺れる王旗よりも高い場所へ。
王都の空へ。
小雪は、王城の真上で静かに止まった。
最初に異変へ気づいたのは、尖塔に配置されていた見張りだった。
「王城上空に魔力反応!」
叫び声が響く。
兵士たちが窓へ駆け寄り、魔導士たちが杖を手に外へ飛び出した。
王城の上に、白い影が立っている。
勇者。
小さな身体。
白い髪。
けれど、そこから立ち上る魔素は、もはや一人の人間が持ち得る量ではなかった。
小雪は両腕を静かに開いた。
体内の魔回路を限界まで開き、自らの意識を世界中へ巡る魔素の流れへ接続する。
大気。
大地。
海。
山脈。
人間の街。
魔物の森。
魔族領。
千年の間に使われ、失われ、補われながら、この世界を循環し続けてきた魔素が小雪の意識へ流れ込んでくる。
白い光が、小雪の身体の内側と、世界のあらゆる場所から集まり始めた。
最初の円が描かれる。
小さな円ではない。
王城の尖塔を、丸ごと囲むほどの大きさだった。
続いて、その外側に二つ目の円が現れる。
三つ目。
四つ目。
幾重もの巨大な円環が空で重なり、異なる角度と速度でゆっくりと回転し始めた。
白い線の間へ、黒い文字が浮かび上がる。
人間の魔導士には読めない文字。
小雪が八年間の旅で学んだ魔法。
裂け目で百日以上を過ごし、自らの身体を削りながら理解した魔素の流れ。
少年から聞いた世界の構造。
異世界人の魂が、死後この世界の魔素へ変質させられる過程。
補填によって、自分という器を魔素へ変換する方法。
その全てが、一つの術式へ組み込まれていく。
魔法陣は王城を覆った。
王都を覆った。
街の外壁を越え、周囲の草原を越え、遠くに霞む山脈へ届くほどに広がっていく。
王都の人々が、次々と空を見上げた。
白い円環。
黒い文字。
その中心に立つ、一人の少女。
意味を理解する者はいない。
けれど、あれが人間のために放たれる祝福ではないことだけは、誰にでも分かった。
王城の魔導士たちが叫ぶ。
「王都防御陣を起動しろ!」
「すでに起動しています!」
「ならば、なぜ術式を遮断できない!」
「干渉を受け付けません!防御陣そのものが、あの術式の内側へ取り込まれています!」
「観測範囲は!」
「王都全域を超えました!さらに拡大中です!」
王城の廊下を、混乱が駆け抜ける。
第二会議室では、西大陸から届いた報告が読み上げられていた。
停戦が成立したこと。
両軍の兵士が生存していること。
勇者による三日間の武装差押え。
戦争が止まったという知らせを聞き、王がようやく息を吐いた、その直後だった。
窓の外が白く染まった。
会議室にいた全員が顔を上げる。
魔導士が扉を押し開け、転がるように飛び込んできた。
「陛下!」
「何事だ。」
「勇者殿が、王城上空にて超広域術式を展開しております!王都防御陣は干渉不能。観測範囲は現在も拡大中です!」
「何の術式だ。」
「不明です。ただし、世界を巡る魔素循環そのものへ接続し、それ自体を引きずり出しています。」
王の顔から血の気が引いた。
椅子を蹴るように立ち上がり、窓へ駆け寄る。
巨大な魔法陣が空を覆っていた。
白い円環がゆっくりと回り、その間を埋める黒い文字が、王城の上空で脈を打つように明滅している。
その中心に、小雪がいた。
王はようやく理解した。
今まで勇者が世界を滅ぼさなかったのは、できなかったからではない。
しなかっただけだ。
「止めろ。」
掠れた声が、王の口から漏れた。
「魔導士団を集めろ。防御陣の出力を上げろ。何でもよい、止めろ!」
誰も返事をしなかった。
止められる者などいない。
王自身、それを誰よりも分かっていた。
小雪は王城の上空で、世界を見下ろしていた。
人間の街や山々の輪郭が、次第に薄くなっていく。
代わりに、世界を巡る魔素の流れが浮かび上がった。
川のように。
血管のように。
大地へ張り巡らされた、巨大な根のように。
魔素は空を通り、大地を巡り、海へ溶け、山脈の内部を抜けている。魔族領へ流れ、魔物の森を包み、人間の街を通り、神殿へ集まり、王城地下へとつながっていた。
そして、その一部が、王城の遥か上空へ向かっている。
普段は目に見えないほど細く、巧妙に隠された流れ。
千年前に作られた、異世界へ手を伸ばすための道。
召喚路。
今は閉じられている。
けれど、消えてはいない。
停止したふりをして、世界の内側へ残り続けている。
魔素が不足すれば、また開く。
各国が合意すれば、また開く。
必要だと誰かが言えば、また開く。
ならば、世界の魔素循環ごと焼き切ればよい。
世界が壊れれば、召喚路も壊れる。
誰も呼べない。
誰も使われない。
誰も、この世界の燃料にはならない。
小雪は目を閉じた。
怒りではなかった。
憎しみでもなかった。
長い旅の果てに積み重なった、深く冷たい疲労だった。
小雪は右手を上げる。
「開廷。」
声は大きくなかった。
それでも、世界を覆う魔素へ乗り、王城から遠く離れた場所にまで響いていった。
空の巨大な円環が、一斉に動きを止める。
「本世界の存続について、最終審理を開始する。」
白い魔法陣が強く輝いた。
王都全体が小さく震える。
建物が揺れているのではない。
その下を流れる魔素の脈動が、空の術式へ呼応していた。
「証拠開示――過去千年間における、異世界接続履歴。」
小雪が告げた瞬間、空へ無数の線が浮かび上がった。
一本ではない。
何百。
何千。
細い光の筋が、王都上空から四方へ広がっていく。
成功した召喚。
途中で途切れた召喚。
座標がずれ、何も引き寄せられなかった接続。
異世界人をこの世界へ落とした道。
勇者候補が魔王討伐へ向かい、死んで魔素へ変えられた道。
千年分の傷跡が、巨大な蜘蛛の巣となって空を埋め尽くす。
王都の人々は、声もなくそれを見上げていた。
光の線の一本一本に、人間がいた。
名前があり、生活があり、帰るはずだった世界があった。
けれど、この世界の人間は知らない。
空を埋める線が何を意味するのか、誰にも分からない。
小雪だけが知っていた。
「損失算定――消費魔素及び、異世界人魂質。」
世界を巡る魔素が、色を変えた。
大地へ残る薄い欠損。
魔法によって熱や衝撃へ変えられ、循環へ戻らなかった魔素。
その不足を埋めるため、この世界へ流し込まれた勇者候補たちの魂。
記憶も、名前も、人としての輪郭も失われ、今は世界の魔素へ混じっているもの。
裂け目で小雪自身が流し込んだ魔素。
戦争で再び失われたもの。
全てが白と黒の層となって空へ積み上がっていく。
観測水晶が一斉に砕けた。
王城地下の転移装置が低く軋む。
神殿では祭壇の文字が勝手に光り始め、各地の魔術塔では地脈を示す針が限界を超えて回転した。
王都の魔導灯が、端から一つずつ消えていく。
広場の小石が僅かに浮き、噴水の水面が、風もないのに空へ引かれるように盛り上がった。
人々の身体が浮き上がるほどではない。
けれど、誰もが足元の感覚が薄くなるのを感じた。
重さそのものが、揺らぎ始めているのだ。
世界の骨がその体から引きずり出されるように、激しく脈打ち変化している。
王城最上部にある天文塔でも、巨大な座標保持環が激しく震え始めていた。
◇ ◇ ◇
ベルは、床へ描かれた二つの円形術式の間に立っていた。
先ほどまでゆっくりと回転していた頭上の天文環が、突然速度を上げている。金属同士が擦れ合う低い音が円形の部屋へ満ち、座標保持環を巡る淡い光が、脈を打つように明滅していた。
「何が起きている。」
ドライエンが環を見上げる。
「小雪だ。」
ベルは即座に答えた。
結晶で覆われた天井の向こうに、巨大な白い魔法陣が見える。
王城の上空を覆い、さらに遠くまで広がり続ける円環。
その中央に、小さな影が立っている。
小雪。
遠くても分かる。
青い外套。
白い髪。
細い体。
「もう術式が動き始めている。これは止められない。間に合わなかったか……。」
ドライエンの声が掠れる。
「まだだ。勝手に諦めんな!」
ベルは座標保持環へ目を向けた。焦りに額にじわりと汗が滲む。
環の内部を、これまで見たことのないほど強い光が流れている。小雪が世界の魔素循環へ干渉したことで、千年間隠されていた召喚路まで剥き出しにされようとしていた。
空へ集まっている魔素の量を、ベルは数値として測ることができない。
それでも分かった。
以前魔物を討伐した時とは比べ物にならない出力。
おそらく、西大陸の戦争で使われた全ての魔法すら小さく見えるほどの力が、集められている。
これは世界を滅亡に追いやるための術式だ。
世界そのものを焼き切るほどの力があるに違いない。
「……そうか。」
ベルは、小さく息を詰めた。
座標保持環の自己修復を上回り、千年間固定され続けた召喚路を一度に切断するために必要な力。
これだ。
今、王城の上空へ集められている、この桁違いの威力。
「あった。」
ベルが呟いた。
「何がだ。」
「召喚路を切断するための力だ。」
ドライエンがベルを見る。
「あの術式は、世界を滅ぼすものだろう。」
「ああ。」
「それを使えるというのか。」
「何かを壊すための力であることは同じだ。流す場所だけを変えればいい。」
「そんなことが可能なのか。」
「小雪なら、恐らくできる。」
「この状態の勇者殿が、こちらの言葉を聞くと思うのか。」
「聞かせる。」
外套の内側で、小さな音が鳴った。
ちりん。
ベルは動きを止めた。
馬の揺れではない。
ベル自身が触れたわけでもない。
外套の内側にある鈴が、小雪の魔力へ応えるように、ひとりでに震えていた。
ちりん。
もう一度、鳴る。
小さな音だった。
けれど、天文環の金属音に埋もれることなく、ベルの耳へはっきりと届いた。
「……つながってる、のか?」
ベルは鈴を取り出した。
掌の上に載せられた、小さな銀色の鈴。
小雪が山の家へ置いていったもの。
ベルを呼ばないために、手放したもの。
その鈴へ、白い光が薄くまとわりついている。
空に展開された小雪の魔法。
天文塔の召喚路。
小雪の魔力を受けて作られた鈴。
三つが、同じ経路の中で共鳴していた。
「ドライエン。この塔から、外の魔法を観測する道はあるか。」
「観測路ならば、天文環の中央から外部座標へつながるはずだ。だが、起動方法までは知らない。」
「探せ。」
「無茶を言うな。私も成人の儀で一度見ただけだぞ。」
その瞬間、天文塔全体が大きく揺れた。
頭上の金属環が軸から僅かにずれ、隣の環へ衝突する。鐘のような重い音が響き、結晶の天井へ細い亀裂が走った。
床に落ちていた金属片が、ゆっくりと浮かび上がる。
ベルの外套も、風のない室内で上方へ引かれ始めた。
「時間がない!」
「言われなくても分かっている!」
ドライエンは頭上の環と床の術式を見回し、その視線を円形の部屋の奥にある制御台で止めた。
「恐らく、あれだ。」
壁際へ設置された石造りの台。
上面には王家の紋章と、星を模した複数の窪みが刻まれている。
ドライエンが駆け寄り、右手を紋章へ押し当てた。
王家の指輪が光る。
反応はない。
「血だ。」
「なぜ分かる。」
「王家の血統で使用者を固定してるんだ。最重要機密の装置だろ。恐らくそれくらいやってる。」
ドライエンは一瞬だけベルを睨んだが、すぐに腰の短剣を抜いた。
親指の先を浅く切り、滲んだ血を紋章へ押しつける。
石台の内部で、何かが動く音がした。
王家の紋章から細い金色の線が伸び、星形の窪みへ一つずつ光が灯っていく。
頭上の天文環が大きく傾いた。
円環の中央が、小雪のいる空へ向けられる。
「開いたぞ!」
天文環の中心から、一筋の白金の光が放たれた。
光は結晶の天井をすり抜け、王城上空の巨大魔法陣へ伸びていく。
小雪と天文塔を結ぶ、細い観測路。
「声を通せ。」
「観測するための道だ。通信術式など組まれていない。」
「道なら、何かは通る。音を通せ。」
「簡単に言うな!」
塔が再び揺れた。
壁へ刻まれた星図の一部が剥がれ、石片となって床から浮かび上がる。外れかけた天文環が大きく傾き、金属の軋む音がさらに強くなった。
ドライエンは制御台へ両手を置き、ぐっと魔力を流し込んだ。
金色の光が強まり、星形の窪みをつなぐ線が観測路へ集約されていく。
ベルには術式の文字は読めない。
それでも、どこへ力が流れているかは見えた。
「右から三つ目だ。光が二つに分かれてる場所へ流せ。」
「ここには音声伝達術式などないと言っている!」
「空気の振動でも、魔力の揺れでもいい。同じ形を向こうへ届けろ!」
ドライエンは指示された線へ、無理矢理術式を組み上げながら魔力を流した。
観測路の光が大きく震える。
ベルは鈴をその中心へ差し出した。
ちりん。
音が白金の光へ吸い込まれた。
◇ ◇ ◇
「被告指定――本世界。」
小雪が告げた。
空を覆っていた魔法陣の全てが、世界へ向けて傾いた。
王都の上空だけではない。
遠い山脈。
海。
魔族領。
魔物の森。
世界中の空へ、同じ白い円環の影が現れる。
魔素の流れが術式の内側へ取り込まれ、空も、大地も、海も、一つの対象として固定されていく。
「証拠採用。」
千年分の召喚履歴が、白い光を放った。
「本世界は、自らの存続を目的として、外部世界に属する人間を継続的に略取し、その生命及び魂質を消費した。」
黒い文字が空へ刻まれる。
「事実を隠蔽し、虚偽の帰還可能性を提示し、被召喚者へ魔王討伐を強制し、その命を略奪した。」
魔法陣の回転が速くなる。
「さらに今後、被召喚者を人間同士の戦争における兵器として使用し得ることを、自ら証明している。」
大地が低く鳴った。
世界を巡る魔素が、王城上空へ向けて流れ始める。
小雪の右手の指先が、白い粒へほどけた。
爪。
皮膚。
指。
掌。
けれど、失われた輪郭へはすぐに補填の光が集まり、新しい指と手が再構成されていく。
身体を魔素へ変える。
補填によって戻す。
再び使う。
世界全体へ判決を執行するため、小雪の身体を媒介として莫大な魔素が循環し始めていた。
王都の重力が、さらに揺らぐ。世界の骨が、ゆっくりと引きずり出される。
広場の小石が人の背丈ほどまで浮かび、噴水の水が無数の球となって空中へ漂った。王城の外壁から剥がれた石材がゆっくりと落下し始めたが、地上へ届く前に白い魔法陣へ触れ、細かな光の粒へ変わった。
瓦礫は降らない。
代わりに、雪のような光が王都へ舞い落ちていく。
美しい。
だからこそ、人々は余計に恐れた。
「審理終結。」
巨大な魔法陣が静止した。
世界が、息を止めたように静まり返る。
最外周の円環が一つ、固定された。
続いて、二つ目。
円環が固定されるたび、世界中の魔導灯が消え、空へ浮かんだ黒い文字が最後の主文を形作っていく。
小雪は目を開いた。
――この世界の存続を禁ずる。
――世界を構成する魔素循環を停止し、全ての接続を焼却する。
そう告げようとした瞬間だった。
――ちりん。
小さな音が聞こえた。
鈴の音。
たしかに鈴の音、だった。
手元にあるはずがない。
山の家へ置いてきた。
もう鳴らすことはないと決めた。
小雪の唇が止まった。
――ちりん。
もう一度、鈴が鳴る。
聞き間違いではない。
辺りを見回す。
巨大な魔法陣の外側から、細い白金の光が伸びていた。王城最上部にある天文塔から一直線に延び、世界を覆う小雪の術式へ接続している。
光を辿った先に、人影が見えた。
金色の髪。
血の滲んだ腕。
掌の中に、小さな鈴を握っている。
「小雪!聞こえるか!」
ベルの声が届いた。
魔法陣の中心で、小雪は小さく瞬きをした。
「ベル……。」
名前が、自然に口から漏れた。声は僅かに震えていた。
その途端、長い間息を止めていたことに初めて気づいたように、小雪の肺が大きく空気を吸い込む。
思考と感情を隔てていた霧が、一瞬だけ薄くなった。
驚き。
困惑。
恐怖。
そして、僅かな安堵。
いくつもの感情が同時に押し寄せ、胸の中で形にならないまま揺れた。
「……どうして、ここに。」
「来るって、言っただろ。」
「……私は、鈴を、鳴らしていません。」
「知ってる。でも、鳴らさなくても来る。」
外側から三つ目の円環が固定された。
空を覆う黒い文字が、低い音を立てて主文の空白を埋めていく。
「もう、遅いです。」
小雪は空へ視線を戻した。
「術式は執行段階へ入りました。消すことはできません。」
「消す必要はねぇ。」
小雪の目が、僅かに動いた。
「召喚を二度と成立させない方法を見つけた。」
ベルは座標保持環へ血の滲んだ手を置いた。
「ここを切れば、もうお前の世界から誰も呼ばれない。お前も、次の勇者候補も、二度とこの世界の犠牲にはならない。」
四つ目の円環が固定された。
天文塔の壁へ太い亀裂が走り、頭上の巨大な金属環が軸から外れかける。ドライエンが制御台へさらに魔力を流し込み、傾いた環を辛うじて支えた。
「けれど、この術式はもう止まりません。」
小雪の声が震えた。
「何かを破壊するまで、終わらない!」
「だから、それを使う。」
「なにを。」
「世界を壊す力を、召喚路へ流す。」
「そんな変更、私では。」
「一人じゃねぇ。」
ベルは鈴を握った。
「お前が力を動かせ。俺が道を作る。」
五つ目の円環が固定される。
王都の空へ浮かんでいた水滴と小石が、一斉にさらに高く引かれた。王城の尖塔から外れた石材が白い術式へ触れ、巨大な光の花となって弾ける。
世界滅亡の主文が、完成へ近づいていた。
「小雪。」
ベルは真っ直ぐに、空の上に立つ小雪を見詰めた。
「一緒なら、できる。大丈夫だ。」
小雪は、天文塔の内部へ視線を向けた。
二つの円形術式。
この世界を示す円。
小雪の故郷を示す円。
その間をつなぐ、無数の細い線。
そして、全ての線が一度集約される座標保持環。
「召喚の仕組みは、転移装置と同じだ。」
ベルの声が続く。
「二つの場所を固定して、その間へ道を作ってる。どれだけ魔力を集めても、行き先を固定できなければ召喚は成立しない。」
「装置を、壊すのですか。」
「違う。装置だけなら直される。」
ベルは首を振った。
「千年かけてつないだ道そのものを切る。二度と同じ座標を固定できないように、世界と世界の間を絶縁する。」
「そんなことが。」
「できる。」
ベルは断言した。
「お前の術式を、召喚路の切断へ転用する。」
最後から二つ目の円環が固定された。
世界が大きく軋んだ。
空に浮かぶ黒い文字のうち、執行対象を示す部分だけが強く輝いている。
小雪は、自分の作った魔法陣を見た。
世界を焼き尽くすために集めた力。
異世界から奪われた魂質まで混じり、千年を巡り続けてきた魔素。
小雪自身の身体。
全てが最後の執行を待っている。
「……もう、術式は組み上がっています。」
「大丈夫だ。」
ベルが言った。
「無理矢理すべてを変えようとすれば、恐らく暴走する。」
「では、どうすれば。」
「対象だけを変えろ。」
小雪は息を止めた。
「この世界全部じゃない。」
ベルは空を指した。
「お前の世界へ手を伸ばした、あの道だけを断て。」
小雪は、ベルが示した方向へ目を向けた。
空を埋め尽くしていた過去の召喚履歴。
無数の細い光の線。
それらを一つずつ遡っていく。
線は王城の上空へ集まり、さらに高く、高く伸びていた。
雲を貫く。
青い空を抜ける。
その先にある暗い星空すら越え、世界の外へ向かっている。
それは細い線ではなかった。
光を内側へ閉じ込めた、巨大で透明な柱だった。
千年をかけて二つの世界の間へ張り渡された、一本の透明な綱。
人間の目には見えないはずの召喚路が、小雪の魔法によって世界の空へ引きずり出されていた。
その向こう側に、小雪の故郷がある。
もう戻れない場所。
けれど、これ以上誰も奪わせてはいけない場所。
「世界ではなく。」
小雪が呟いた。
「世界と世界をつなぐ道だけを。」
「絶縁だ。」
ベルは鈴を握り締めた。
「世界を壊す力を、全部あれへ通せ。」
最後の円環が、固定されようとしていた。
小雪は巨大な透明の召喚路を見上げる。
世界を滅ぼすために回転していた魔法陣が、低い音を立てた。
白い円環の一つが、ゆっくりと角度を変える。
続いて、二つ目。
三つ目。
世界全体へ向いていた無数の術式が、空の彼方へ伸びる透明な道へ向かい始めた。
完成しかけていた主文の中で、執行対象を示す黒い文字が、一文字ずつ崩れていく。
代わりに、新しい文字が空へ刻まれ始める。
世界へ下されるはずだった判決が、ゆっくりと星の外へ向き直った。




