第六十六話 王城天文塔
西大陸の空は、白いままだった。
小雪の魔法が、戦場全体を覆っている。
兵士たちは動けず、魔導士たちは魔法を発動できない。魔石炉は沈黙し、増幅器の結晶は曇り、空へ浮かんでいた広域術式は、すでに一つ残らずほどけていた。
炎もない。
雷もない。
氷の槍も、風の刃もない。
数刻前まで人間同士が殺し合っていた平野に、今は何万人もの息遣いだけが残っている。恐怖に震える息。怒りを押し殺す息。助かったのだと、まだ理解できずに詰まる息。
その中央に設けられた簡素な卓を挟み、二つの国の代表者が向かい合っていた。
どちらの側にも、武器はない。
正確には、持ってきた武器を手放したのではなかった。小雪の術式によって、剣も杖も魔導具も、その場から動かせないよう差し押さえられている。
敵対していた二国の軍務官は、互いの顔よりも、その少し離れた場所に立つ小雪を何度も見ていた。
小雪は何も言わず、卓上へ置かれた停戦合意書へ目を通していた。
即時停戦。
両軍の前進停止。
大型広域魔法の使用禁止。
捕虜及び負傷兵の相互返還。
国境付近における軍事行動の一時停止。
三日以内に、中立国を交えた正式な協議を開始すること。
書かれている一文一文を、小雪は静かに確認した。
紙が人間を止めるとは思わない。
署名が戦争をなくすとも思わない。
けれど、今ここで戦闘を再開させないためには、形が必要だった。
「両国の署名を確認しました。」
小雪が告げると、二人の代表者が同時に身を強張らせた。
「本合意の成立により、兵士及び魔導士に対する身柄拘束を解除します。」
二人の表情に、僅かな安堵が浮かぶ。
「ただし、魔石炉、増幅器、魔導砲、術式塔及び大型魔法へ接続される魔力供給路については、三日間、差し押さえを継続します。」
「三日間も、でございますか。」
友好国側の軍務官が、思わず声を上げた。
「正式な協議を開始するために必要な期間として、そちらが提示した日数です。」
「しかし、その間に敵軍が通常兵器を用いて進軍した場合、我が軍には対抗する手段が。」
「双方の武器を停止させます。」
「通常兵器もですか。」
「はい。」
「ですが。」
「停戦したのではありませんか。」
小雪が問うと、軍務官は口を閉じた。
戦争を止めるための合意をした直後にもかかわらず、彼はすでに、相手が合意を破った時に自分たちだけが優位に立つ方法を考えている。
反対側の軍務官も同じなのだろう。
相手を信用していない。
相手もまた、自分たちを信用していない。
だから武器を持つ。
そして相手がより強い武器を持てば、さらに大きな武器を作る。
それをどちらも、自分たちは防御のためだと言う。
「三日後、差し押さえは自動的に解除されます。」
小雪は合意書を卓へ戻した。
「それまでに協議を開始してください。再び戦闘行為を確認した場合、次も同じ処分で済むとは限りません。」
声は平坦だった。
脅しているつもりはなかった。
事実を伝えただけだった。
しかし、二人の軍務官は青ざめ、深く頭を下げた。
「承知いたしました。」
「必ず、協議を開始いたします。」
「では、戻ってください。」
二人が兵士に伴われ、別々の方向へ去っていく。
小雪はその背中を見送らなかった。
右手を僅かに上げる。
「判決付随処分――身柄拘束、解除。」
戦場を走っていた白銀の線が、一斉に光を弱めた。
兵士たちの腕が動き始める。宙で止まっていた足が地面へつき、前脚を上げたまま固定されていた馬が、驚いたように嘶いた。
何万人もの人間が、長い息を吐く。
けれど、誰も武器を取ることはできなかった。
剣も、槍も、弓も、地面や荷台へ縫い止められたように動かない。杖へ魔力を流しても反応はなく、魔導兵器の刻印にも光は戻らなかった。
小雪は戦場を囲んでいた透明の境界を一部だけ開き、負傷者と治療師、食料や医薬品を運ぶ者だけが行き来できる道を作った。
これで、小雪にできることは終わった。
「勇者殿。」
王城から同行した老魔導士が、何度も足元を確かめながら近づいてくる。小雪の魔法へ不用意に触れないよう、必要以上に距離を取っていた。
「停戦合意の成立を確認いたしました。勇者殿のお力により、多くの命が救われました。」
「そうですか。」
小雪は答えた。
自分の声が、ひどく遠くから聞こえる。
感謝されても、胸の内側には何も浮かばなかった。安堵も、喜びもない。
かといって、完全に感情が失われたわけではない。
先ほど軍務官が口にした言葉は、今も耳の奥へ残っている。
――まさか、勇者がこれほどの戦力になるとは。
思い出すたび、心臓は微かに脈打つ。
けれど、その反応が何を意味するのか、小雪にはもう上手く分からなかった。怒りなのか、恐怖なのか、絶望なのか。感情と名前の間に、薄い膜が一枚挟まっている。
補填によって、身体のどこかだけではなく、また心の一部まで欠けたのだろうか。
分からない。
調べる気にもなれなかった。
小雪は静かになった平野を見渡した。
兵士たちは動き始めていた。
負傷者を運び、倒れた仲間へ駆け寄り、互いの無事を確かめている。
戦争は止まった。
しかし、戦争を起こした人間は消えていない。
命令も、欲も、恐怖も、憎しみも、国境も、王座も残っている。
三日後、武器は再び動く。
その時までに和平が成立しているかもしれない。
あるいは、三日後にはまた殺し合いが始まるのかもしれない。
今回だけは、小雪が止めた。
次も止められる。
その次も、小雪が生きている間ならば止められるのだろう。
だから人間は、恐らくこれからも小雪を使う。
そして、小雪が消えれば次の勇者候補を呼ぶ。
魔王を倒すためではない。
人間同士の戦争で使うために。
勇者の軍事転用。
それはきっと、多くの人間が正しいと考える選択になっていく。
救っても。
止めても。
脅しても。
署名を残しても。
人間は、そこから新しい利用方法を見つける。
小雪が世界を滅ぼすと脅している間は、確かに召喚を止められるかもしれない。
けれど、小雪の身体は永遠ではない。
小雪が消えた後には、誰も次の召喚を止められない。
ならば。もう。
――この世界へ次の機会を与える必要はないのではないか。
その言葉は、自然と、胸の底で形を取った。
怒りに任せた考えではない。
激情もなかった。
長い計算の末に残った答えのように、冷たく、揺るぎなくそこにあった。
小雪は袖へ手を伸ばさなかった。
そこに鈴がないことを、もう知っている。
水車。
コイル。
スープ。
散髪の途中で置かれた櫛。
温かい家。
それらは今も山の中に残っている。
けれど、小雪は自分から離れた。
ベルへ来るなと言った。
自分はこの世界の人間ではないと告げた。
捕縛し、置き去りにした。
ベルが伸ばした手を、自分で振り払った。
もう呼ばない。
だから、呼ぶための鈴も必要ない。
「勇者殿。」
老魔導士が、恐る恐る声をかけた。
「王城へ戻られますか。」
「はい。」
「こちらの術式は、勇者殿が離れた後も維持されるのでしょうか。」
「判決として固定しました。三日間は、私が離れても解除されません。」
老魔導士は、理解できないものを見る目で小雪を見た。
「そのようなことまで。」
「可能です。」
「……承知しました。転移装置を準備いたします。」
彼は深く頭を下げ、後方陣地へ戻っていった。
小雪も歩き始める。
兵士たちが道を空けた。
深く頭を下げる者。
祈るように手を組む者。
怯えて後ずさる者。
小雪を見つめる目には、感謝と恐怖が入り混じっている。
誰も、小雪が右腕を失った時の痛みを知らない。
脚を失い、肺がなくなり、心臓に近い場所まで輪郭がほどけたことも知らない。
しかし知ったところで、何も変わりはしないだろう。
何万人もの命と、一人の勇者の身体。
秤へ載せれば、答えは最初から決まっている。
転移装置の前には、王城から来た管理官と魔導士たちが待っていた。
小雪を見るなり、一斉に頭を下げる。
「王都への座標を固定いたしました。」
「始めてください。」
「はい。」
小雪は転移陣の中央へ立った。
白い髪が、西大陸の乾いた風に揺れる。
片側だけが整えられ、もう片側は不揃いなまま残った髪。
続きを切ることは、もうない。
王都へ戻る。
王城へ戻る。
そして、終わらせる。
何をどのように終わらせるのか、その手順はすでに頭の中にあった。
八年に及び積み上げられた、勇者候補たちの残滓。
この世界へ散り、循環を続けている魔素。
そして、小雪自身を構成している莫大な魔素。
世界全体へ判決を執行するには、十分な量だった。
召喚の制度だけを壊しても、人間はまた作る。
装置を壊しても、記録が残っていれば再現する。
ならば、制度を生み、守り、何度でも再生させる世界そのものを、術式の対象へ収めればよい。
世界をつなぎ止めている魔素の流れへ干渉し、その接続を焼き切る。
大地も。
空も。
海も。
王城も。
神殿も。
勇者召喚を正しいと認めた全ての国も。
この世界そのものへ、判決を下す。
審判の時は来た。
千年の間、燃料として消費されてきた全ての魂に、この世界の屍を弔いの華として捧げよう。
足元から転移の光が立ち上る。
小雪は目を閉じた。
もういい。
やっと、全てを終わらせられる。
この旅も。
この身体も。
夢見てしまった未来も。
小雪の世界に、もう鈴はない。
◇ ◇ ◇
ベルが王都へ着いた時、日は傾き始めていた。
長時間走らされた馬は全身へ汗を浮かべ、ベル自身も埃と泥にまみれている。金色の髪は風に乱され、外套の裾には乾いた土が跳ねていた。前腕へ巻きつけた布は赤く染まり、肩を動かすたびに鈍い痛みが走る。
それでも、王城の門へ向かう足は止まらなかった。
「止まれ。」
城門を守る兵士が、槍を交差させた。
「何者だ。」
ベルは馬から飛び降りた。
着地した衝撃が肩へ響き、一瞬だけ顔を歪める。それでも姿勢を正し、はっきりと名乗った。
「グランツ公爵家次男、ヴェルヴァルド・グランツ。至急、国王陛下へ取り次げ。」
兵士たちの顔色が変わった。
公爵家の名は、それだけで王城の門を開けさせるだけの力を持っている。
普段のベルなら、その力を使うことへ抵抗を覚えたかもしれない。
今は、ためらわなかった。
「しかし、現在王城は非常態勢にあり、陛下は西大陸情勢について緊急会議中でございます。」
「中断させろ。」
「それは。」
「世界が滅ぶ。」
兵士が言葉を失った。
「冗談でこんな格好をして王城まで来ると思うか。」
ベルが血の滲んだ腕を示すと、一人の兵士が慌てて城内へ走った。
待っている時間さえ惜しい。
小雪はまだ西大陸にいるのか。
すでに戦争を止めたのか。
人間たちが、戦場で使える兵器として自分を見る瞬間を、目にしてしまったのか。
小雪なら気づく。
勇者制度がこれからどのように形を変えていくか。
魔王を倒すためではなく、人間同士の戦争の道具として、異世界の人間が使われる未来に。
そして、それを知った小雪が次に何を選ぶのか、ベルにはもう分かっていた。
小雪は、この世界を滅ぼすと言った。
当然だ。
ベルが同じ立場でも、きっと同じ選択をする。
小雪の世界の人間たちが、兵器として軍事利用されることを防ぐために。
城門が開いた。
「こちらへ。」
案内の兵士に続き、ベルは王城へ入った。
白い石の廊下。
磨かれた床。
高い天井。
壁へ掲げられた王家の紋章。
全てが整っている。
美しく、清潔で、静かな場所だった。
この城で、何人もの勇者候補が説明を受けたのだろう。
魔王を倒せば帰れる。
死んでも、元の世界へ戻れる。
希望だけを与えられ、この美しい城から残酷な死地へ送られた。
燃料として、世界へ供給されるために。
ベルは込み上げる吐き気を押し殺した。
「陛下はどこだ。」
「第二会議室にて、各国から届いた報告を確認されております。」
「会わせろ。」
「ただちに許可を。」
「許可を待ってる時間はねぇ。」
ベルが進もうとすると、兵士が困惑しながら前へ回り込んだ。
「グランツ卿、どうかお待ちください。」
「待ってる間に小雪が戻ったら、全部終わる。」
「勇者殿が?」
その時、廊下の向こうから声がした。
「騒がしいな。」
ベルは振り向いた。
白と金の礼装を身につけた第一王子ドライエンが、数人の側近を伴って立っていた。整えられた金髪と、王族らしい端正な顔。舞踏会で見た時と変わらない姿だったが、その目には苛立ちだけでなく、何日も眠っていないような疲労が浮かんでいる。
「ヴェルヴァルド・グランツ。」
ドライエンはベルの姿を上から下まで見た。
「また勇者殿の使い走りか。」
ベルの目が細くなる。
以前なら、その言葉に拳を握って黙るしかなかった。
第一王子。
王位継承第一位。
自分よりも遥かに高い身分を持つ者。
今は、そんなことはどうでもよかった。
「お前でもいい。面を貸せ。」
ベルは言った。
「貴様、王族を何だと。」
「御託を垂れてる暇はねぇんだよ。今すぐ止めるぞ。」
「何を。」
「世界の滅亡をだ。」
ドライエンの顔から、嫌味が消えた。
「……何だと。」
「小雪が帰ってくるまで、恐らくそんなに時間はない。勇者召喚の仕組みを止めて、小雪を止める。」
「一体、何を言っている。」
「お前、まさか知らねぇのか。」
ベルは遮った。
「勇者召喚の本当の目的を。」
ドライエンの目が鋭くなる。
「目的?」
「勇者候補たちは、魔王を倒すためだけに呼ばれてるんじゃない。死んで、この世界の魔素として消費されるために呼ばれてる。」
側近たちがざわめいた。
ドライエンは、一瞬だけ表情を失った。
「馬鹿な。」
「本当に、馬鹿みてぇな話だよな。」
「そのような制度を、王家が把握していないはずがない。」
「陛下は知ってる。お前が知らされてないだけだ。」
ベルは低く答えた。
「父上が。」
ドライエンの声が僅かに掠れる。
「私に隠していたと?」
「魔素は魔法の使用によって減っていく。勇者召喚は、それを定期的に補うための制度だ。王家と神殿、世界の首脳陣だけが実態を把握してる。」
「証拠は。」
「お前は、自分の父親の姿に一度でも疑念を持ったことはねぇのか。」
ベルは一歩近づいた。
「小雪に異様なほど怯える、あの姿を。」
ドライエンの顔が歪んだ。
怒りだけではない。
事実を言い当てられた時の、悔しさのようなものが隠し切れず滲んでいた。
「気づいてねぇなら、とんだ馬鹿息子だな。」
「黙れ。」
ドライエンが言った。
「小雪はこの世界を壊すつもりだ。勇者召喚を止めるために。」
「それが事実だとして、なぜ今なんだ。」
「西大陸で戦争が始まった。」
「知っている。」
「小雪が呼ばれた。」
「それも知っている。」
「魔物相手じゃない。人間相手だ。」
ドライエンは黙った。
「だから何だ。戦争を止めるためだろう。」
「なぜそこで思考を止める。」
ベルはドライエンを睨んだ。
「この世界は今、異世界の人間を戦争の道具にしようとしてるんだぞ。魔王を倒す勇者じゃない。必要な戦場へ投入する兵器としてだ。」
「有り得ない。今回の介入は一度限りのものだ。」
「なぜ、そうと言い切れる。」
ドライエンは答えなかった。
ベルはその沈黙を見て、奥歯を噛んだ。
「言い切れねぇのは、お前も分かってんだろ。」
「現時点で、ありもしない将来の話を。」
「ありもしない話だったら、小雪は今、西大陸へ送られてねぇ。」
ドライエンの表情が険しくなる。
「勇者殿は、自ら戦場へ向かわれたと聞いている。」
「次の勇者候補を呼ぶって脅されてな。」
側近たちが息を呑む。
「同郷の人間たちを使われたくないなら、小雪を使わせろ。そう言われたのと同じだ。あいつが自分から選んだと思ってるなら、おめでたいにもほどがある。」
ドライエンは何も言わなかった。
「小雪にとっては、この世界を滅ぼす理由として十分だろうな。」
ベルは続けた。
「だから、世界の破滅も、小雪の消失も止める。そのために、勇者召喚の方を止める。この世界が二度と、小雪や異世界の人間たちの血肉を啜れないようにする。」
「その結果、この世界はどうなる。」
ドライエンの声は低かった。
嫌味ではない。
ベルを試すような声だった。
「この世界は魔法を捨てる。」
ベルは息を吸った。
「魔法がなくても生きていける世界に変えるんだ。」
「科学とやらでか。」
「ああ。」
ベルは真っ直ぐにドライエンを見る。
「俺たちは、魔法がなくても生きていける。」
「簡単な道ではない。」
「当たり前だ。」
「人間は、一度覚えた安定や秩序を簡単には捨てられない。」
「それでも変える。人間は、そうやって文明を育ててきた。」
「理想論だ。」
「理想論じゃなきゃ、千年も続いた仕組みなんか壊せねぇだろ!」
ベルの声が廊下へ響いた。
「やるしかねぇんだよ。世界と一緒に滅びてぇのか!」
ドライエンは言葉を失った。
ベル自身、自分が乱暴なことを言っているとは分かっている。
魔法のない世界云々以前に、召喚を止める確実な方法さえ、まだ見つかっていない。
魔法理論も、召喚路がどこからどこまで伸び、何によって固定されているのかも知らない。
けれど、止められるだろう原理だけは見えている。
構造の全てを壊す必要はない。
力が伝わる道だけを断てばよい。
世界を壊すのではなく、二つの世界をつなぐ接続だけを成立できなくする。
「召喚の仕組みを確認する必要がある。」
ベルは言った。
「細かい資料を読んでる時間はねぇ。実際に動いてる装置を見せろ。」
「お前に見せて、何が分かる。」
「王城地下の転移装置を以前見た。召喚術式が同じ構造なら、恐らく分かるはずだ。」
「魔法文字も読めないお前がか。」
「魔法を見るんじゃない。装置を見るんだ。」
ベルは一歩も引かなかった。
「魔法だって、この世界の理から完全に外れることはできない。力を集め、通し、何かを動かす。そこは機械と同じだ。」
「随分と自信があるんだな。」
「ああ。有能だからな。」
ドライエンは目の前の男を見つめた。
出会った時から気に入らなかった。
高い理想を持ち、真っすぐで、努力家で、一目でものの神髄を見抜く。
王族である自分が欲しても持ち得なかったものをもつ人間。
しばらくして、ドライエンはゆっくり息を吐いた。
「お前の話を全て信じたわけではない。」
「だろうな。」
「だが、万が一にも事実であるならば、動かないわけにはいかない。」
「嫌な言い方だな。」
「黙れ。」
ドライエンは側近へ顔を向けた。
「父上は、今どこにいる。」
「第二会議室にて、西大陸情勢について協議中でございます。」
「これからのことは、父上へ知らせるな。」
「で、殿下、それでは。」
「今知らせれば、恐らく止められる。このまま動く。」
側近たちが顔を見合わせた。
「しかし、国王陛下の許可なく、召喚に関わる場所へ入ることは。」
「王位継承第一位としての命だ。」
ドライエンの声が低くなる。
「世界滅亡と王城の規則。天秤の重さを、わざわざ説明させるつもりか。」
側近は青ざめ、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。」
ドライエンはベルへ向き直った。
「ついて来い。」
「どこへ。」
「王城最上階だ。」
ベルの眉が動く。
「そこに何がある。」
「王城天文塔。」
ドライエンは歩き始めた。
「歴代の国王と神殿上層部、そして一部の王族だけが管理する場所だ。私は成年を迎えた際に、一度だけ入った。」
「召喚陣か。」
「召喚陣そのものは神殿地下にある。」
ベルもその隣へ並ぶ。
「では、天文塔には何がある。」
「異世界の座標を観測し、召喚路の向かう先を固定する装置だ。」
「座標。」
「元々は、この世界の外側に別の世界が存在するかを調べるための観測装置だったと聞いている。千年以上前、天文環が偶然、異世界の座標を捉えた。」
ドライエンは前を向いたまま続けた。
「王家と神殿は、その座標を固定術式で縛り、長い年月をかけて細い経路をつなぎ続けた。その結果、異世界から人間を呼び寄せられるほどの召喚路が完成したらしい。詳しい原理までは、私も知らされていない。」
「十分だ。」
ベルは低く答えた。
座標。
固定。
道。
召喚路。
やはり転移装置の条件と一致している。
後は、実際の装置を見て確かめるだけだった。
王城の奥へ進むにつれ、人の姿が少なくなった。
華やかな装飾も消え、石造りの壁と狭い窓だけが続く。やがて、普段は閉ざされている塔への扉が現れた。
扉の前には、二人の衛兵が立っている。
「殿下、こちらは立入禁止区域です。」
「開けろ。」
「しかし、国王陛下の許可がなければ。」
「王位継承第一位として命じる。開けろ。」
衛兵たちは動かなかった。
ドライエンの目が細くなる。
「世界滅亡より規則を優先するというのなら、扉ごと私の炎で焼く。」
衛兵たちの顔色が変わった。
一人が腰から鍵束を外し、震える手で錠を開ける。
重い扉が、石を擦る音と共に開いた。
その向こうには、細い螺旋階段が続いていた。
王城の上へ。
空へ近づくように。
ベルは階段を見上げた。
高い。
最上部は暗く、ここからでは見えない。
ドライエンが先に足を踏み入れた。
ベルも後へ続く。
「ヴェルヴァルド。」
階段を上りながら、ドライエンが言った。
「何だ。」
「私は、最初に会った時からお前が気に食わなかった。」
「奇遇だな。俺もだよ。」
ドライエンは小さく、自嘲するように息を吐いた。
「まさか、このようにお前から正論を浴びせられる日が来るとはな。」
「気づけてよかったな。」
「口の悪さには、さらに磨きがかかったようだが。」
ドライエンは前を向いたまま続けた。
「仕方がない。世界が滅びるよりは、お前へ協力する方がまだましだ。」
「腐れ縁ってやつだな。」
「それは違う。」
「そうかよ。」
二人は螺旋階段を駆け上がった。
ベルの肩が、一段上るたびに痛む。
前腕の傷から、また血が滲み始めている。
それでも足は止めなかった。
長い階段の先に、再び扉が現れた。
今度の扉には鍵穴がない。
表面へ、王城地下の転移装置で見たものによく似た古い文字と幾何学模様が刻まれている。
ドライエンが右手を中央の紋章へ置いた。
王家の指輪が淡く光る。
重い音と共に扉が左右へ開いた。
冷たい風が流れ込んでくる。
天文塔の最上部は、巨大な円形の部屋だった。
高い天井の中央が開き、その向こうに夕暮れの空が見えている。壁にはいくつもの細長い窓が並び、橙色の光が斜めに差し込んでいた。
部屋の中央には、巨大な金属製の環が浮かんでいる。
一つではない。
大きさの異なる無数の輪が、複雑に重なり合っていた。金、銀、黒鉄。表面には細かな目盛りと古い文字が刻まれ、それぞれが異なる角度で、ゆっくりと回転している。
その下の床には、二つの巨大な円形術式が向かい合うように描かれていた。
一方は、王城地下で見た転移装置とよく似ている。
もう一方は、より複雑で、中心に深い闇のような渦が描かれていた。
二つの円の間を、何本もの細い線がつないでいる。
ベルは部屋へ入った瞬間、足を止めた。
「……やはり、同じだ。」
ドライエンが振り返る。
「何がだ。」
「王城地下の転移装置と、同じ構造になってる。」
ベルは床へ近づき、二つの術式を見比べた。
文字は読めない。
記号の意味も分からない。
それでも、何をしているのかは見える。
二つの場所。
それぞれを固定する円。
その間をつなぐ線。
外部からの干渉を防ぐ大きな輪。
中央へ力を集めるための放射状の経路。
「こっちが、この世界だ。」
ベルは片方の円を指した。
線の一部が床の下へ続いている。
神殿地下の召喚陣へつながっているのだろう。
「もう一つは。」
「異世界の座標を固定する術式だ。」
ドライエンは、中心に黒い渦が描かれた円を見た。
「天文環が捉えた座標は、そこへ刻まれていると説明された。」
「それで、二つをつないだ。」
「そう聞いている。」
ベルは二つの円の間へしゃがみ込んだ。
つないでいる線は、無数にあるように見える。
けれど、よく観察すると、その全てが途中で一つの細い輪へ集約されていた。
輪を通った後、再び複数の線へ分かれている。
水車の回転を一本の軸へ集め、そこから革紐を使って別の機械へ伝える構造に似ている。
どれほど大きな装置であっても、力が通る場所は限られている。
ベルは指先で、輪の少し手前を示した。
「ここだ。」
「何がある。」
「全部の線が、一度ここへ集まってる。」
ドライエンが隣へ屈み込む。
「この環は、座標保持環と呼ばれていた。」
「座標を固定するためのものか。」
「恐らく。」
「なら、ここを通らなければ、行き先を固定できない。」
ベルは立ち上がり、頭上で回転する巨大な天文環を見上げた。
星の位置を測り、向かう先を縛り、その座標を床の術式へ与える。
神殿地下の召喚陣がどれほど魔力を集めても、接続先が固定されなければ道は開かない。
片側だけでは、つながらない。
転移装置と同じだ。
「壊すのか。」
ドライエンが尋ねた。
「壊すだけじゃ駄目だろうな。」
「なぜだ。」
「直されたら終わりだからだ。」
ベルは即座に答えた。
「ここを守ってきた連中は、この装置の作り方を知ってる。壊しても、時間をかければ作り直す。もっと隠しやすい場所へ同じものを作るかもしれねぇ。」
「では、どうする。」
「通らなくする。」
「何を。」
「力をだ。」
ベルは二つの術式をつなぐ線へ目を落とした。
「装置は残す。世界の魔素も止めない。神殿地下の召喚陣も、今は壊さない。ただ、召喚先を固定するための力だけを、ここから先へ伝えなくする。」
「絶縁する、ということか。」
「ああ。」
ドライエンが座標保持環へ目を向けた。
「そのようなことが可能なのか。」
「仕組みの上では、できるはずだ。」
「ずいぶんと曖昧だな。」
「止める場所は見えた。」
ベルは座標保持環を指した。
「問題は、どうやって切るかだ。」
「切ればよいのではないか。」
「簡単に言うな。」
ベルは環の表面へ顔を近づけた。
何重もの術式が織り込まれ、淡い光が細い血管のように巡っている。千年もの間、二つの世界の座標を結びつけ、周囲の魔素を取り込みながら形を保ち続けてきた装置だった。
「これは、ただの金属じゃねぇ。恐らく世界の循環を形取った模型のようなもんだ。これを破壊するんじゃなく、今は姿の見えない本体を直接壊さなきゃ意味がない。」
「つまり、破壊できないのか。」
「……破壊はできる。」
ベルは環を睨んだ。
「だが、それも少し壊す程度じゃ駄目だ。恐らく魔素による自動修復機能がある。自己修復が追いつかないほどの力で、座標を固定している部分だけを一度に焼き切る必要がある。」
「どれほどの力が要る。」
「分からねぇ。」
ベルは正直に答えた。
座標保持環へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
山の家で作った炉の熱でも、水車の力でも届かない。
この環は、千年間、二つの世界を結びつけ続けてきた。
それを一度に断つには、ベルがこれまで作ってきたどの装置よりも、遥かに大きな力が必要になる。
「止める場所は、ここだ。」
ベルは繰り返した。
「けど、今の俺には、切るための力がない。」
ドライエンは何も言わなかった。
切断する場所は見つかった。
仕組みも見えた。
けれど、実行するための力だけがない。
ベルは奥歯を噛んだ。
ここまで来て。
小雪が王城へ戻るまで、恐らくもう時間はほとんど残されていない。
外套の内側で、小さな音が鳴った。
ちりん。
馬で走っている間、何度も鳴っていた小雪の鈴だった。
ベルは外套の上から、鈴を強く握った。
「まだだ。」
低く呟く。
「ここまで来て、諦めるかよ。」
同じ頃。
王城地下の転移室では、西大陸から伸びた白い光が、次第に大きく膨らみ始めていた。




