第六十五話 勇者さま、戦場に立つ
西大陸の空は、赤かった。
夕焼けではない。遠くの地平に、炎の柱が何本も立ち上っている。地面は広い範囲にわたって黒く焼け、そのところどころに青白い光が染みつくように残っていた。
焦げた草。砕けた石。溶けた金属。血。薬草。汗。熱を持った魔石。
それらの匂いが混じり合い、乾いた風に乗って流れてくる。
小雪は、足元を満たしていた転移装置の光が消えるのを待ってから、ゆっくりと目を開いた。
転移先として指定されていたのは、西大陸中央部に位置する一国の後方陣地だった。王城から同行した魔導士たちが次々と転移陣から姿を現し、その周囲では、何人もの兵士や軍務官が息を詰めて小雪を見ている。
巨大な天幕が並ぶ陣地には、前線から負傷者が絶え間なく運び込まれていた。治癒魔法を使う者、包帯を巻く者、薬湯を飲ませる者、切断された腕を押さえて泣き叫ぶ者。馬は血と魔法の匂いに怯えて嘶き、兵士たちは担架を避けながら怒鳴り合っている。
魔物はいない。
魔族もいない。
鎧を着た人間。杖を持った人間。命令を出す人間。命令に従う人間。そして、人間の手によって傷つけられ、倒れ、運ばれていく人間だけがいた。
「勇者殿。」
王城から同行した老魔導士が、掠れた声で小雪を呼んだ。
「こちらが前線後方陣地です。敵軍の主力は北西の平野へ展開中。現在は双方が広域防御術式を維持しながら、小規模な攻撃魔法を撃ち合っております。」
小雪は答えず、前方へ目を向けた。
遠い平野の上空に、巨大な魔法陣がいくつも浮かんでいた。幾何学模様の輪。重なり合う文字。青い光。赤い光。金色の線。何十人、何百人という魔導士が声を合わせ、互いの術式を押し合っている。
美しい。
一瞬、そう思った。
そしてすぐに、それは殺すための美しさなのだと理解した。
魔法も科学も、戦争へ持ち込まれれば同じなのだろう。どれほど遠くまで届くか。どれほど広い範囲を焼けるか。どれほど効率よく壊せるか。どれほど多くの命を奪えるか。
人間は、それを真面目に考え、研究し、改善する。
魔法であっても、科学であっても、恐らく変わらない。
空の一角が白く光った。
遅れて轟音が届き、地面が大きく揺れる。陣地に張られた天幕が震え、積まれていた木箱が倒れた。
魔法が着弾した丘から、無数の魔素の粒が吹き上がる。
火花のように。雪のように。夜の蛍のように。
それらは空へ散り、世界へ戻ろうとして、戻りきれずに流れていく。熱となったもの。音となったもの。衝撃となったもの。大地の歪みとなったもの。世界の裂け目へ向かう細い流れ。
小雪には、その全てが見えた。
この戦場は、人間の命だけではなく、世界そのものを削っている。
「勇者殿、こちらを。」
別の魔導士が、戦場を簡略化した地図を差し出した。
赤い印が一方の軍。青い印がもう一方の軍。黒い印が魔力兵器。太い丸で囲まれた場所が、主力魔導士団と指揮陣地だった。
「敵軍は、魔石炉を利用した増幅術式を三基展開しております。現在は条約で使用を禁じられている大型広域破壊魔法を発動するため、魔力の蓄積を進めているものと見られます。」
「こちら側は。」
小雪が尋ねると、軍務官が僅かに言葉を詰まらせた。
「我が方も、防御を目的とした広域術式の準備を進めております。」
「防御だけですか。」
「……敵が大型術式を発動した場合には、その発動地点を破壊する必要がございます。」
「同じものを準備しているのですね。」
「目的が異なります。」
「魔素の消費量も違いますか。」
軍務官は答えなかった。
違わないのだろう。
大勢を焼くためであっても、大勢を守るためであっても、使われる魔素は同じように失われる。
「勇者殿には、敵主力魔導士団および魔石炉の無力化をお願いしたく存じます。可能であれば、中央陣地の指揮官も。」
「無力化。」
「はい。」
「指揮官を討てば、戦争は終わりますか。」
軍務官は、一瞬だけ安堵したような顔をした。
「戦闘継続が困難となる可能性は高いかと。」
「つまり、殺せということですね。」
誰もすぐには答えなかった。
風が天幕を大きく揺らす。遠くで再び魔法が落ち、轟音と共に誰かの悲鳴が上がった。
「結果として被害を抑えるためには、やむを得ない犠牲も。」
軍務官は慎重に言った。
「やむを得ない。」
小雪は顔を上げた。
「随分、便利な言葉ですね。」
軍務官は黙り込んだ。
小雪は渡された地図を折りたたみ、彼へ返した。
「殺しません。」
周囲の人間たちが、僅かにざわめいた。
「しかし、勇者殿。」
「どちらの軍も殺しません。どちらか一方を勝たせるつもりもありません。」
「それでは、敵軍の進行を止めることが。」
「敵軍ではありません。」
小雪は地図へ記された青と赤の印を見た。
「双方を止めます。」
「双方を。」
「兵士、魔導士、指揮官、魔力兵器、魔石炉。戦闘を続けるために必要なものを、全て同時に止めます。」
軍務官の表情に、困惑が浮かんだ。
「戦場全域を、という意味でしょうか。」
「はい。」
「いかに勇者殿とはいえ、そのような規模の術式は。」
「可能です。」
小雪は短く答えた。
その一言は、陣地を満たす喧噪から奇妙なほど浮いて聞こえた。
周囲の魔導士や兵士たちが、小雪を見ている。恐怖。期待。疑い。祈り。いくつもの感情が混じった目だった。
小雪は、それらを見ないようにした。
「私が術式を開始した後は、魔法を使わないでください。」
老魔導士が眉を寄せた。
「我々も補助を。」
「不要です。」
「ですが、これほど広い戦域を一人で覆うには。」
「私の魔法へ干渉すれば、あなた方の術式も処分対象になります。」
「処分。」
「敵味方を区別しません。」
小雪は陣地の先へ向かって歩き始めた。
兵士たちが慌てて道を空ける。負傷者も、治療師も、魔導士も、その小さな背中を見つめていた。
紺碧の外套。細い体。背中にたなびく白く長い髪は、毛先が不揃いだった。
西大陸の乾いた風が、それを揺らす。
ベルが途中まで整えた髪。止める彼を小雪は無理矢理縛って置いてきた。続きを切ることは、もう恐らくないだろう。
小雪は、その考えを頭の奥へ押し込めた。
前線へ近づくほど、音は大きくなった。
炎の柱。雷の網。空へ伸びる氷の槍。地面から突き上がる土壁。兵士の頭上を横切る風の刃。
魔法陣が重なり、砕け、すぐに別の形へ組み直される。その下を、兵士たちが盾を掲げ、剣を握り、槍を構え、命令に従い、人間へ向かって叫びながら進んでいた。
小雪は前線に配置された大型魔火砲の高射砲に上り、戦場を見渡した。
人間として見れば、数が多すぎた。
顔が多すぎる。
命が多すぎる。
誰が誰を憎み、どちらが先に攻撃し、誰が命令され、誰が家族のもとへ帰りたいと願っているのか。その全てを見ることなどできない。
だから、小雪は目を切り替えた。
人間の輪郭が薄くなる。
代わりに、魔素の濃淡が浮かび上がる。魔力反応。術式の流れ。魔石炉の熱。増幅器の脈動。指揮陣を覆う防御術式。兵士たちの装備へ刻まれた小さな魔法。馬の体内にある微かな魔力。負傷者の命が揺れる光。
全てが線となり、点となり、流れとなった。
人間ではなくなる。
そうしなければ、この数を止められない。
小雪は静かに息を吸い、右手を開いた。
作り替えられた身体の奥から、僅かな魔力を魔回路へ流す。大気中に漂っていた魔素が、小雪の周囲へ集まり始めた。
青白い粒。
銀色の光。
戦場で散らされ、行き場を失っていたものが、強い流れに引かれるように集まってくる。
それだけでは足りない。
戦場全域を覆うには。
何万人もの人間と、数えきれない魔力兵器を同時に止めるには。
最初から分かっていた。
足りなければ、補填するしかない。
ベルが見ればきっと怒るに違いない。
怒り、喚き、そんな使い方をするなと言うだろう。
小雪は、袖の内側へ触れかけた。
何もない。
鈴は山の家へ置いてきた。
呼べない。
いや。
もう、呼ばない。
小雪は手を下ろし、揺れる魔素の向こうへ視線を向けた。
魔法は、大規模になればなるほど、繊細で揺るぎないイメージを必要とする。術者が最も確かに思い描ける形へ落とし込み、曖昧な力に輪郭と秩序を与えなければならない。
小雪の魔法は、裁判の形式を取った。
誰も裁かないなら、自分が裁くしかない。
世界の真実を知った日から、今も変わらず小雪の中に残る、唯一揺らぐことのない意志だった。
「開廷。」
小雪が静かに告げた。
周囲へ集まっていた魔素が、一斉に動きを止める。散っていた光の粒が、それぞれ決められた位置へ収まり、戦場を囲むように巨大な円を描き始めた。
「本戦域における交戦行為について、審理を開始する。」
声は大きくなかった。
けれど、その言葉は魔素を通じ、戦場の端から端まで届いた。
詠唱していた魔導士が顔を上げる。剣を振るっていた兵士が、一瞬だけ動きを止める。両軍の指揮官が、何が起きたのかと空を見た。
小雪は右手を前へ差し出した。
「証拠保全――戦域封鎖。」
空が歪んだ。
平野の周囲に、巨大な透明の境界が立ち上がる。増援も、撤退も、戦場の外へ向けた広域魔法も許さない、閉ざされた空間。
境界が完成する直前、小雪の右手の指先が白く光った。
爪。皮膚。指。掌。手首。
そこにあった輪郭が、肘へ向かってほどけていく。
血は出ない。
骨が折れる音もない。
ただ、小雪の右腕が白い魔素の粒へ変わり、戦場を囲む境界へ吸い込まれていった。
肘から先を失った右腕が、重さを失って僅かに持ち上がる。
切り離される瞬間の痛みはあった。
身体の内側から、熱した針を何千本も引き抜かれるような痛み。
けれど、小雪は声を上げなかった。
戦域を囲む透明な壁が閉じる。
その直後、固有能力が働いた。
――補填。
右肘の先へ白い光が集まり、新しい骨と肉、皮膚の輪郭を作っていく。指が一本ずつ形を取り、爪まで元通りに整えられた。
小雪は新しい右手を一度だけ握った。
指が動き始めるまで、僅かな遅れがあった。
見た目には、先ほどまでの腕と何も変わらない。外套の袖から覗く指先の位置にも、違いはなかった。
けれど、身体のどこかが、また僅かに欠けたのかもしれない。
小雪はもう一度手の感触を確かめ、腕を下ろした。
前線の魔導士たちは、戦域の外へ向けて魔法を撃とうとしていた。
光の塊が透明な境界へ衝突し、激しい音と共に弾ける。
外へは出ない。
逃げられないと理解した兵士たちが、再び互いへ武器を向ける。
「当事者双方。」
小雪は、右手と左手を重ねた。
「身柄拘束。」
白銀の線が、大地を走った。
敵軍。
友好国軍。
その区別なく、無数の光が兵士たちの足元から立ち上がる。
剣を振り上げていた者の腕が止まり、槍を突き出そうとした者の身体が宙で固定される。馬が前脚を上げたまま動きを失い、車輪を回していた攻城兵器が大きく軋んで止まった。
何万という人間の動きを一度に押さえ込む力が、小雪の魔回路を逆流する。
左脚へ鋭い痛みが走った。
足首から白い光が上がり、脛、膝へと輪郭をほどいていく。
左脚が、膝の下から消えた。
身体の均衡を失い、小雪が地面へ倒れかける。右足で踏みとどまろうとしたが、広域術式を維持しているため、身体へ力が入らない。
小雪の左膝が土へ触れる直前、補填の光が生まれた。
新しい脚が形を取り、足裏が地面へつく。
けれど、最初の一歩では体重を支えきれなかった。
小雪の身体が大きく傾く。
誰かが遠くで叫んだ。
勇者が倒れたと思ったのかもしれない。
小雪は右手を地面へつき、すぐに立ち上がった。新しい左脚へ感覚が戻るのを待ち、足首を一度だけ動かしてから戦場を見た。
兵士たちの身体は止まっている。
声までは奪っていない。
何が起きたのか分からず怒鳴る者。魔法を解けと叫ぶ者。神へ祈る者。敵の術式だと思い込み、互いを罵る者。
小雪は、その全てを無視した。
人間を止めただけでは、戦争は終わらない。
兵器が残っている。
魔石炉が動いている。
すでに発動準備へ入っていた広域魔法が、使用者の意思を離れて完成へ近づいている。
空に浮かぶ巨大な魔法陣が明滅した。
敵軍側の三基。
友好国側の二基。
どちらも、止めなければならない。
「兵器及び魔力供給路。」
小雪は空へ向け、指を伸ばした。
「差押え。」
白い線が、戦場全体へ張り巡らされた。
魔石炉。増幅器。術式塔。地下に埋められた魔力蓄積器。魔導砲。兵士の杖。指揮陣から延びる命令伝達術式。
全ての魔力経路が、小雪の意識へ流れ込んでくる。
一つずつ止めていては間に合わない。
炉心を破壊すれば、爆発によって周囲の人間が死ぬ。魔石を砕けば、蓄えられた魔力が一度に放出される。
だから、術式の接続だけを外す。
力を流す道を切り離す。
小雪は、同時に全ての経路へ干渉した。
右脇腹へ激しい痛みが走った。
衣服の下で、身体の輪郭が崩れる。
皮膚。筋肉。肋骨。
腹部の右側が、内側から抉られるように白い光へ変わった。空洞になった衣服が、失われた身体へ落ち込む。
肺の一部まで輪郭がほどけ、一瞬、小雪の呼吸が止まった。
声を出そうとしても、空気がない。
それでも術式は止めなかった。
魔石炉の光が一基ずつ消える。増幅器の結晶が曇り、魔導砲へ刻まれた文字が白く浮かび上がって剥がれ落ちる。
空の巨大な魔法陣が揺らぎ始めた。
敵軍側の術式だけではない。友好国軍が準備していた広域魔法も、同じように解体されていく。
「何をしている!」
後方から軍務官の声が響いた。
「我が軍の術式まで止める必要はない!」
小雪は返答しなかった。
返答するための肺が、まだ戻っていない。
補填の光が、欠けた腹部へ集まり始める。肋骨が形を取り、内臓が再構成され、最後に皮膚が薄い光をまとって閉じた。
小雪はゆっくりと息を吸った。
新しく作られた肺が、最初の空気を上手く取り込めず、乾いた咳が一つ漏れる。
それでも、顔は上げたままだった。
「双方と、申し上げました。」
声が僅かに掠れていた。
空に浮かんでいた最後の魔法陣が崩れ、水滴と生温い風になって平野へ降り注ぐ。
魔石炉の光は全て消えた。
魔力兵器は、ただの鉄と石の塊になった。
兵士は動けない。
魔導士は魔法を発動できない。
それでも、戦争を続けようとする意思だけは戦場に残っていた。
小雪の術式を破ろうと、何人もの魔導士が身体の内側から無理やり魔力を引き出している。固定されたまま指揮官が命令を叫び、兵士たちが拘束から逃れようと身体を捩る。
今止めているのは、身体と兵器だけだ。
人間の意思は止まっていない。
小雪は、白い光に包まれた戦場を見渡した。
戦争の原因を裁くことはできない。
国境。歴史。資源。王の野心。民衆の恐怖。
それらを一度の魔法で消すことはできない。
小雪にできるのは、今ここで続けられている行為へ、結論を下すことだけだった。
「審理終結。」
小雪は静かに告げた。
戦場を覆う白銀の線が、一斉に光を強める。
「主文。」
兵士たちの叫びが弱くなる。
敵味方の指揮官が、小雪へ顔を向ける。
「本戦域における、全ての戦闘行為を禁ずる。」
空気が大きく震えた。
「両軍は直ちに武装を解除し、停戦協議を開始せよ。」
何人かの魔導士が、小雪の命令へ抗うように再び術式を組もうとした。
指揮官の一人が、勇者へ従うなと叫ぶ。
小雪は目を伏せた。
「判決執行。」
左肩に痛みが走った。
「――戦闘行為、全面停止。」
左腕が、肩口から白い光へ変わった。
外套の左側が支えを失い、大きく垂れ下がる。
肩。鎖骨。胸の一部。
心臓へ近い場所まで、輪郭がほどけていく。
胸の奥で、鼓動が一度途切れた。
世界から音が遠ざかる。
白い光が戦場を満たした。
剣が兵士たちの手から落ちる。槍が地面へ倒れる。杖に刻まれていた術式が消え、指揮官の命令を伝える魔法が途切れる。
陣地に立てられていた軍旗が、風を失ったように垂れ下がった。
全てが止まった。
魔法の轟音。
金属が打ち合う音。
馬の蹄。
車輪の軋み。
詠唱。
怒号。
戦場を満たしていた全ての音が、一つずつ消えていく。
最後に残ったのは、何万人もの人間の呼吸だけだった。
補填の光が、小雪の左肩へ集まり始める。
失われた腕が、ゆっくりと形を取り戻していく。
けれど、今回は遅かった。
骨が作られ、肉がつき、指の輪郭が生まれるまで、これまでより長い時間がかかった。
新しい左腕が完成した時、小雪の身体は僅かに揺れた。鼓動はまだ不規則で、左手の指先が小さく震え、すぐには止まらない。
小雪は、その腕を外套の内側へ隠した。
見た目には、戦場へ着いた時とほとんど変わらない。外套の袖から覗く腕も、白い髪に囲まれた顔も、同じように見える。
それでも、外套の裾が一瞬地面に着いた。
靴の中にも、極僅かな余りが生まれたように感じる。
測れば、誤差だと言われる程度なのかもしれない。
補填された。
全て元の形に見える。
けれど、何も失っていないわけではない。
戦場全体が、静まり返っていた。
何万人もの兵士たちが、立ったまま動きを失っている。
敵も味方もない。
全員が、小雪を見ていた。
空が白くなった。
魔法が消えた。
足が動かなくなった。
兵器が沈黙した。
そして全員が理解していた。
自分たちは勝ったのではない。
生かされているだけだ。
小雪が殺すつもりであれば、この平野に立つ者は、すでに一人も残っていない。
「勇者……。」
誰かが呟いた。
祈りのように。
恐怖のように。
小雪は、その声を聞かなかったことにした。
戦争は止まった。
少なくとも、今この瞬間は。
両軍の兵士は動けない。魔導士は魔法を発動できない。兵器は使えず、指揮官がどれほど命令しても、それを実行する手段がない。
小雪は戦域全体を固定したまま、後方陣地へ向き直った。
「両軍の代表者を集めてください。」
声は静かだった。
「この術式を維持している間に、停戦協議を始めます。」
軍務官たちは、しばらく動かなかった。
小雪がもう一度視線を向けると、ようやく我に返ったように走り始める。
王城から同行した老魔導士が、青ざめた顔で小雪のそばへ近づいた。
「勇者殿、お身体は。」
「問題ありません。」
いつもの答えだった。
老魔導士の視線が、恐ろしげに小雪へ向けられる。
まるで、化け物を見るかのような目だった。
小雪は心の中で嘆息した。
確かに、自分はもう人間ではないのかもしれない。
しかし、人間ではないなら何なのか。
化け物か。
燃料か。
燃え残った灰か。
それとも、都合のよい道具か。
「まさか、本当に全戦線を一人で。」
後ろにいた若い魔導士が、呆然と呟いた。
「敵味方の魔導士団も、全ての兵器も……。」
「勇者殿がいれば。」
別の軍務官が言った。
その声には、恐怖よりも安堵があった。
「勇者殿が中立の立場で戦場へ立たれるのであれば、今後どの国も広域魔法を使用できなくなる。」
「各国へ勇者殿の介入を制度として認めさせれば、戦争そのものを抑止できるかもしれません。」
「これほどの力であれば、大国も従わざるを得ない。」
誰も、悪意を持っていなかった。
大勢の兵士が死なずに済んだ。
都市が焼かれずに済んだ。
世界規模の戦争が始まる前に止められた。
彼らは心から安堵し、救われたと思っている。
その時、軍務官の男が、吐息と共にぽつりと呟いた。
「まさか、勇者がこれほどの戦力になるとは。」
「戦力……?」
軍務官は、小雪の視線を受けて慌てて口を閉じた。
けれど、もう遅かった。
は、と僅かに息が漏れた。
――お前は必ず後悔する。
ベルの押し殺したような声が、頭の奥に蘇った。
彼が何を恐れていたのか、小雪は今になって理解した。
今この瞬間。
小雪は、ただ戦争を止めたのではない。
勇者を戦場へ投入すれば、戦争を止められると、自ら証明した。
小雪は、勇者が人間同士の戦場でも使えるという、前例を作ってしまったのだ。
この先に予測される事態が、連鎖的に頭の中へ浮かんでくる。
人間は、いくらでも正しい名目を作ることができる。
戦争を抑止するため。
広域破壊魔法を禁じるため。
国境紛争を終結させるため。
国際秩序を維持するため。
人的損害を少しでも抑えるため。
どれも正しく見え、誰もが納得できる理由を作るだろう。
今、彼らが見ているのは、魔王を倒す物語の勇者ではない。
――一国の軍隊を凌ぐ戦力。兵器。
確かに合理的だ。
最もらしい口上で何も知らない勇者候補を前線へ立たせる。人殺しの兵器として使う。或いは勇者同士で戦わせる。
彼らは死ねばこの世界の燃料となる。
あまりにも便利で、あまりにも都合がよい道具。
小雪が存在している間は、恐怖によって召喚の門を閉じることができるだろう。
しかし、小雪が消えた後は、どうか。
もう魔王や魔素の補填の物語すらいらない。
戦争の道具として消費するために、異世界の人間を連れて来る。
この世界は今、勇者候補を召喚するための新しい理由を手に入れた。
小雪は、無意識に袖の内側へ指を入れた。
鈴はない。
ベルはいない。
自分で置いてきた。
ベルは言った。
――勇者は、戦場で使ってよい道具ではない。
小雪は、使い切れば消える燃料だと答えた。
心臓がどくりと脈打った。冷や汗が、背中と額へじわりと滲んでいく。
それでも、補填を一度に使用しすぎた結果なのか、感情が上手く言葉にならない。思考と感情が正しく線を結ばない。
また、心が、欠けたのか。どこか靄のかかったような遠い思考の中で思う。
小雪は、もう一度白い光に包まれた戦場を見渡した。
多くの人間が安堵している。
この場の犠牲が少なく済んだことを喜んでいる。
勇者という強力な兵器によって、この場の殺戮が止んだことに安堵している。
戦争はたしかに止まった。
代わりに、勇者を人間同士の戦場へ向かわせる道が、今日、この世界の前へ開いてしまったのだ。
◇ ◇ ◇
東の街道を、一頭の馬が走っていた。
馬の蹄が乾いた土を蹴り、春の風がベルの短い金色の髪を後ろへ流している。
麓の村へたどり着いたベルを見た瞬間、ロイは大きく眉をひそめた。
「その腕、どうしたんですか!」
白いシャツの袖には血が滲み、前腕へ巻きつけた布も赤く染まっていた。肩を動かすたびに鈍い痛みが走る。
「王都へ行く。馬を貸してくれ。」
「何があったんです。」
「詳しくは後で説明する。」
ロイは戸惑った様子で、もう一度ベルの肩と腕の傷を見やった。
「勇者さまは?」
「連れていかれた。」
「連れていかれた!?勇者さまが!?」
「ああ。だから取り戻しに行く。」
「どこに?」
「この世界からだ。」
そこまで言って、肩に走った痛みに息が止まった。
ベルが顔を歪めると、ロイはそれ以上聞かなかった。
すぐに村長の家へ走り、馬を一頭出させる。さらに革袋へ水と干し肉を詰め、ベルへ押しつけた。
「何があったかは分かりませんが、助手さんを置いていくなんて。」
「そうだな。まったく酷い勇者さまだ。」
「ご武運を。」
ロイは馬の手綱を渡しながら言った。
「……あいつを必ず連れて帰る。」
ベルは一言だけ告げて馬へ跨がり、王都へ続く街道へ向けて走り始めた。
留学先でも、馬術の稽古は続けていた。最後に馬へ乗ったのは一年半前だったが、感覚は身体に十分残っている。
身体を前へ傾け、少しでも速く進むよう、馬の呼吸へ自分の動きを合わせた。
王都へ行く。
しかし、それから先が問題だった。
王城の転移装置を使って、小雪を追って西大陸へ向かうことはできるだろう。
しかし、これから先は恐らく、物理的に小雪を連れ戻せばいいだけの話ではない。
今回無理やり連れて帰ったとしても、魔素が減れば世界はまた勇者召喚を口にして彼女を脅すだろう。
世界のため。
やむを得ない。
前例がある。
会議で決まった。
皆のため。
誰も責任を取らないまま。
それに。
ベルは馬上で小さく悪態を吐いた。
恐らく今回の戦争で、勇者を戦争の兵器として用いる有用性が、証明されてしまった筈だ。
小雪も、きっと既に気付いてしまっているだろう。
気付いた先の彼女が、この世界に対して何を選ぶことになるのか。もう想像に難くない。
「……単に召喚陣を壊すだけじゃ駄目だ。」
ベルは馬上で低く吐き捨てた。
「仕組みそのものを止めるしかねぇ。」
この世界の問題は、この世界の人間が解決するべきだ。
魔素が足りないなら、魔法以外の手段を増やせばよい。
水車でも。
炉でも。
滑車でも。
銅線でも。
足りないなら作ればよい。
自分の尻くらい、自分で拭けばよい。
他所の世界から人間を奪う理由には、絶対にならない。
戦争も、そんなにやり合いたいなら、自分たちだけで壊れていけばいいのだ。
勇者は、戦争の道具として使ってよいものではない。
「どうすれば、止められる。」
勇者召喚は千年続いた仕組みだと小雪は言っていた。
王城地下の召喚陣を一枚壊せば終わるほど、単純なものではない。
術式を記した記録を燃やしても、別の国に複写があるかもしれない。術者を捕らえても、新しい術者が育てられる。召喚担当国だけを止めても、世界が必要と判断すれば、別の場所で再現しようとするだろう。
何を止めればいいのか。
ベルは手綱を強く握った。
頭の中に、王城地下で見た転移装置が蘇る。
床一面へ刻まれた巨大な魔法陣。
左右に向かい合う、よく似た形。
その間をつないでいたいくつもの線。
王城側の装置。
旧魔王領側の装置。
始点と終点を固定する。
余計な空間からの干渉を排除する。
大量の魔力を流す。
許可された場所だけを、一時的につなぐ。
一方通行にしか動けない。
片側だけでは、つながらない。
「恐らく、勇者召喚も原理的には同じだ。」
ベルは呟いた。
この世界にある召喚陣だけで、別の世界から人間を連れて来られるはずがない。
呼び出す側。
呼び出される側。
二つの世界の位置を示す何か。
その間をつなぐ道。
大量の魔力。
接続を成立させる条件。
それらが揃って初めて、召喚は動く。
ならば、全部を壊す必要はない。
どれか一つを成立しなくすればよい。
行き先を固定できなくする。
魔力を流さない。
二つの世界をつなぐ道を遮る。
召喚を許可する部分を、二度と動かなくする。
水車が回っていても、革紐を外せばドリルは動かない。
川を止める必要はない。
水車を壊す必要もない。
回転が目的の場所へ伝わらなければ、機械は仕事をしない。
「伝えなきゃいいのか。」
ベルは前を見たまま呟いた。
世界の魔素循環そのものを止める必要はない。
二つの世界を壊す必要もない。
召喚へ力が伝わる道だけを、通らなくすればよい。
銅線を紙で包み、その上へ蜜蝋を塗れば、隣り合っていても電気は互いへ漏れない。
通したい道だけを通り、別の場所へは流れない。
絶縁。
二つの世界が存在していても、召喚に必要な経路だけを遮断できれば。
ベルは息を呑んだ。
止め方の原理の方向性は見えた。
全てを壊すのではない。
二つの世界をつなぐ条件のどこか一つを、成立しない形へ変える。
けれど、どこを。
召喚陣のどの線が、始点を固定している。
どの部分が、異世界の位置を指定している。
何を使えば、世界をつなぐほどの力を遮ることができる。
一度遮った接続を、二度と修復されない形にするには、どうすればよい。
そこから先の答えは、まだなかった。
「やはり、王城だ。」
実際に召喚が行われる場所を、この目で確かめるしかない。
ベルは前を見た。
道の先に王都は見えない。
まだ遠い。
それでも、進むべき場所だけは分かっている。
王城の転移装置。
転移先を固定するもの。
許可を与える人間。
現地で確認して、論理を組み上げる。
そうして、魔法を使える者たちが千年守ってきた仕組みを、魔法を使えない自分が止める。
無謀に違いない。
分不相応とも言えるかもしれない。
公爵家の次男でありながら他国へ出、戻るなり山で工具と鍋を手にしていた男が、世界規模の制度を止めようとしている。
ベルは笑おうとした。
けれど、笑いにはならなかった。
「……三下には、ちょうどいいだろ。」
外套の内側で、小さな音が鳴った。
ちりん。
馬の揺れによって、鈴が鳴ったのだ。
小雪が鳴らしたわけではない。
彼女は今、遠い西大陸にいる。
それでもなぜか、呼ばれているように聞こえた。
「分かってる。」
ベルは手綱を握り直した。
「呼ばれなくても、必ず行く。だから待ってろ。」
馬がさらに速度を上げる。
まだ方法は確立していない。
それでも、止めるべきものの形は見えた。
二つの世界をつなぐ道。
その接続を、断つ。
王都へ向かう街道に、小さな鈴の音が何度も響いた。




