第六十四話 勇者さま、西へ向かう
王家の使者は頭を下げたまま、慎重に言葉を続けた。
「王より、勇者様へ至急ご相談申し上げたいことがあるとのことでございます。詳細につきましては、王城にて直接ご説明させていただきたいと。」
相談。
その言葉が何を意味するのか、小雪には聞き返すまでもなかった。
西大陸で戦端が開かれた。
昨日、魔王城で少年が警告したばかりの戦争が、すでに始まっている。この時機に王が勇者へ求める相談など、一つしかない。
「戦争に介入しろ、ということですね。」
使者の肩が僅かに揺れた。
「わ、私の口からは、まだ何とも。」
「否定はしないのですね。」
「王城にて、直接陛下よりご説明がございます。」
それで十分だった。
小雪は白と金の馬車へ目を向けた。
「分かりました。向かいます。」
「俺も行く。」
すぐ後ろから、ベルの声がした。
小雪が振り返ると、ベルは鋭い目つきで使者の男を見遣っていた。小雪の目線に気付くと、僅かに目線が和らげられる。朝の喧嘩で熱を持った琥珀色の目が、真っ直ぐに小雪を見た。
「あなたは来ないでください。」
「いや、俺も行く。」
「王から相談を聞くだけです。」
「どうせ戦争の話だろ。聞くだけで済むわけがない。」
「実働があるかは、まだ分かりません。」
「だから、一緒に行くって言ってるんだよ。」
ベルは険しい顔つきを少し緩め、小雪へ歩み寄ろうとした。
しかし、小雪は静かに一歩後ろへ下がった。
ベルの動きが止まる。
「不要です。あなたがいても何も変わりません。」
「……一緒に考えるって、言っただろ。」
「最早考えてどうにかなる次元ではありません。」
「それでも俺は行く。」
「連れてはいけません。」
小雪の返答に、ベルの眉間へ深い皺が寄った。
「何でだよ。」
「危険です。」
「知ってる。」
「この先、何があるか分かりません。」
「それはお前も同じだろ。」
「私は補填できます。」
「それで何回でも削っていいことにはならねぇって、さっきから言ってるだろ!」
ベルの怒声に、使者がびくりと身体を震わせた。馬車の傍らに控えていた御者も、手綱を握ったまま視線の置き場を失っている。
小雪はベルを見つめた。
彼の言うことは正しい。
自分が補填されるからといって、身体を使ってよい理由にはならない。小雪自身も、もうそれを望んではいない。
けれど、正しい言葉だけで戦争は止まらない。
それは、紛れもない事実だった。
「……王城へ行って、王と話す。」
ベルは少しだけ声を抑えた。
「俺だって、この国の公爵家の人間だ。どんな手を使ってでも、お前を戦場だけには連れて行かせない。」
「綺麗事では済まない状況です。分かりませんか。」
「お前こそ、さっきの今で、どうしてそんなに冷静でいられる。」
琥珀色の目が、苦しそうに細められた。
小雪の言葉が彼を傷つけている。それは分かっていた。
分かっていても、もう止められない。
「あなたはこちら側の人間ではありません。来てはなりません。」
「駄目だ。一人では行かせられねぇ。」
ベルは、小雪へ手を伸ばした。
その手を見て、小雪は裂け目の前で震えていた彼の指を思い出した。
切り落とされた左手を見た時。
今朝、その掌の上で白い髪が光へ変わった時。
ベルがどれほどの衝撃と苦痛を胸に受けたのか、もう小雪には理解できていた。
もし戦場で魔法を使うことになれば、恐らく片腕だけでは済まない。
大規模破壊魔法が使用される可能性のある戦場だ。一度戦闘が始まれば、腕も、腹部も、脚も、自ら削って補填へ回すことになるだろう。
そのたびにベルがどのような思いに駆られるのかも、もう想像できてしまう。
「……あなたには。」
小雪の声が小さくなった。
ベルの手が止まる。
「何だよ。」
「あなたにだけは、見せられない。」
ベルの表情から、怒りが一瞬だけ消えた。
代わりに、深い痛みが浮かぶ。
「お前、やっぱり行く気なのか。西大陸に。」
小雪は答えなかった。
「行くな。これは、この世界の問題だ。お前が関わる必要はどこにもない。」
「行かなければ、魔素が大量に消費されるだけです。」
「それも、この世界の責任だ。」
「召喚が再開されれば、連れて来られるのは、私の世界の人間です。」
ベルは口を閉じた。
誰も否定できないだろう。
小雪が行かなければ、戦争によって魔素は減る。魔素が減れば、この世界はまた地球から人間を呼ぶ。
十五歳の小雪と同じように。
何も知らない誰かを。
「それでも。」
ベルは歯を食いしばるように言った。
「それでも、お前一人が行く理由にはならねぇ。」
「理由はあります。」
「ない。」
「あります。」
「駄目だ。絶対に行かせない。」
ベルが、もう一度手を伸ばした。
その瞬間、小雪は指先を僅かに動かした。
白い術式が、二人の間の地面を走る。
「何――」
山の家の開いた扉の奥で、食卓の椅子が大きな音を立てて動いた。床板の上を滑るように飛び出し、ベルの背後へ回り込む。
次の瞬間、強い風がベルの胸を押した。
「うわっ!」
ベルの身体が椅子へ倒れ込む。
同時に白い光の帯が椅子の背や脚へ絡みつき、ベルの胸、腰、両腕、両脚を瞬く間に固定した。
鋏が手から落ち、乾いた音を立てて床を滑る。
「おい、小雪!」
「捕縛魔法です。」
「見れば分かる!くそっ、ほどけ!」
「数時間すれば、自動的に解除されます。」
ベルは腕へ力を込めた。白い帯が僅かに軋むような光を放ったが、緩む様子はない。
「行くな!こんなの間違ってる!」
「綺麗事で、世界は変わりません。」
「勇者は世界を救う存在なんだろ!戦場で使っていい道具じゃねぇ!」
「道具。」
小雪は、ほんの僅かに目を伏せた。
「私たちは、道具ですらありません。使い切れば消える燃料です。」
「やめろ。違う。お前は燃料なんかじゃない。」
「それ以上動かないでください。怪我をします。」
「どうでもいい!」
「あなたは補填されません。」
その言葉に、ベルの動きが一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに椅子ごと身体を捩り始める。
「補填されるからいいんじゃない!お前だから駄目なんだ!どうして分からない!」
「もう行きます。」
「小雪!」
小雪は使者へ向き直った。
「馬車を出してください。」
「よ、よろしいのでございますか。」
「早く。」
「は、はい。」
使者はそれ以上何も言えず、慌てて馬車の扉を開けた。
小雪が馬車へ向かう背後で、椅子の脚が床板を激しく擦った。
「小雪!」
呼ばれて、足が止まる。
振り返れば、行けなくなるかもしれない。
それでも小雪は、ゆっくりと振り返った。
最後かもしれない、目に焼き付けたいと、思ってしまったのかもしれなかった。
ベルは椅子へ縛りつけられたまま、眇めた目でこちらを見ていた。暗い炎のような揺らめきが、琥珀色の瞳に宿っている。
「行くな。お前は必ず後悔する。」
ベルが言った。
「あいつらがお前に何をさせるつもりなのか、もう分かってるんだろ。」
小雪は答えなかった。
「二人で、しばらくどこかに身を隠してもいい。」
ベルの声が、僅かに掠れた。
「頼むから。」
春の風が、不揃いな白髪を揺らした。
小雪は、片側だけ短くなった毛先へ触れた。
「……私は、この世界の人間ではありません。」
ベルの瞳が見開かれた。
その先を見ていられず、小雪は身を翻して馬車へ乗り込んだ。
「小雪!」
扉が閉まる直前まで、ベルの声が聞こえていた。
御者が手綱を動かす。
王家の馬車はゆっくりと進み始め、やがて山の家を離れていった。
小雪は一度も振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
王都へ向かう馬車の中で、小雪は一人、窓の外を見ていた。
春の山道を抜けると、やがて小さな村が現れた。畑では人々が土を耕し、街道の脇では荷車へ野菜を積んだ男が御者と談笑している。道端で遊んでいた子供たちは、王家の紋章をつけた馬車を見つけ、珍しそうに手を振っていた。
いつも通りの日常を生きる人々。
一人一人を見れば、悪い人間ではないのだろう。
畑を耕し、子供を育て、今日の食事を作る。明日の天気を心配し、家族の帰りを待つ。それぞれの場所で、それぞれの日常を懸命に生きている。
嘘偽りなく。
けれど、その人々が国となり、制度となり、世界となれば、誰かを犠牲にすることを厭わなくなる。
王は、世界会議が決めたと言う。
世界会議は、人々のためだから仕方がないと言う。
民衆は何も知らない。
そして、誰も自分が殺したとは思わないまま、勇者候補だけが死んでいく。
誰も、自分を悪人だとは思っていない。
それでも人間は、こうして醜い選択をする。
自分の手を汚さずに済む方法があれば、誰かが代わりに傷つく方を選ぶ。
窓硝子には、白い髪の少女が映っていた。
片側だけが整えられ、もう片側は不揃いなままの髪。
途中で止まった散髪。
途中で止まった喧嘩。
途中で止めた、ベルの言葉。
そのすべてを山の家へ残し、小雪は一人で王城へ向かっていた。
膝の上へ置いた左手を見つめる。
今のところは、どこも欠けていない。
補填の力も、まだ切れる様子はなかった。
この身体は、一体どこまで保つのだろう。
あと何度身体を削ることに耐えられるのか。
耐えられなくなった時、何が起こるのか。
腕がなくなるのだろうか。
脚がなくなるのだろうか。
あるいは全身が一度にほどけ、何も残さず消えるのかもしれない。
いや。
欠けた姿をベルに見られるくらいなら、むしろ、その方がよいのだろうか。
小雪は笑おうとした。
けれど、口の端は全く動かなかった。
もし小雪が消えたら、ベルはどうするだろう。
怒るだろうか。
泣くだろうか。
いつものように大声で喚くのだろうか。
きっと、忘れることはない。
小雪にも、それは分かっていた。
それでも時間が経てば、いつか痛みは薄れ、小雪は彼の過去に残る傷の一つになる。
ベルは前向きな人間だ。
これまでそうしてきたように、日々を磨きながら生きていくだろう。
そして、いつか小雪ではない誰かと食卓を囲み、その人と同じように年を取り、同じ時間を生きていく。
小雪は、傷ですらなくなる。
遠い過去の思い出の一つになる。
昔、勇者と一年暮らしたことがあったのだと、誰かに聞かせる物語の一つになる。
胸が痛んだ。
深く考えてはならないと、脳が警鐘を鳴らす。
それでも、考えることを止められない。
ベルが。
この世界で唯一の救いであり、罪であり、後悔である彼が、小雪のいない世界で、小雪ではない誰かと生きていく。
――痛い。
助けて。
無意識に袖の内側へ手を入れかけ、そこで止めた。
鈴がない。
置いてきてしまった。
いつも外へ出る時には持ち歩くようにしていたのに、突然の出来事に忘れてしまった。
もう、取りには戻れない。
最期だけは、あの鈴を抱いていたかったのに。
小雪は小さく唇を噛んだ。
足を抱え、膝へ額をつけるようにして身体を丸める。
痛い。
寂しい。
帰りたい。
けれど、もうどこへ帰ればよいのかも分からなかった。
馬車は静かに、それでもどこか急くように、王都へ続く街道を進んでいった。
◇ ◇ ◇
王城では、すでに多くの人間が小雪を待っていた。
王。
数人の事務官。
軍務官。
宮廷魔導士。
転移装置の管理官。
そして、大きな地図と何冊もの書類を抱えた兵士たち。
小雪が会議室へ入ると、全員が一斉に頭を下げた。
「勇者殿。」
王の声は、相変わらず慎重だった。
敬意と怯え。その奥には、責任を負いたくない人間の迷いが薄く混ざっている。
小雪は礼を返さなかった。
「説明を。」
短く告げると、王の傍らに控えていた事務官が、慌てて大きな地図を卓上へ広げた。
西大陸の地図だった。
国境、街道、山脈、河川。その上に赤と青の印がいくつも書き込まれ、すでに戦闘が行われた地域は黒く塗り潰されている。
「西大陸中央部において、二国間の軍事衝突が発生いたしました。当初は国境付近の小規模な衝突と見られておりましたが、三日前、西方大国アルテリアが同盟国への支援を表明し、軍を進めております。それに対し、周辺諸国も動員を開始いたしました。」
「このままでは、世界へ戦火が拡大する、と。」
小雪が言うと、事務官は顔を強張らせた。
「……そのように見られております。」
別の軍務官が書類を開く。
「現在はまだ、条約違反に該当するような大型広域破壊魔法の使用は確認されておりません。しかし、それもいつ破られるか。」
「つまり、間もなく大規模な魔素消費戦が始まる、と。」
「……おそらく。」
今度は、宮廷魔導士が答えた。
「戦域が拡大すれば、消費量はさらに増加いたします。各国の魔導炉が同時に稼働し、広域術式が連続して使用されれば、魔族領のみならず、人間の居住域にも早期に影響が現れる可能性がございます。」
「魔物の増加。作物への影響。魔力欠乏。大地の裂け目の拡大。」
「……おっしゃる通りです。」
「それで、私を呼んだ。」
部屋が静かになった。
誰も小雪の目を見なかった。
王だけが、青ざめた顔で椅子に座っている。
「勇者殿。」
王が口を開いた。
「今回お願い申し上げたいのは、いずれかの国家への加勢ではございません。ただ、勇者殿のお力を示すことにより、各国へ停戦を促し、大規模魔法による魔素消費を抑えることが目的です。」
「力を示す。」
「はい。勇者殿が戦場へ赴かれるという事実だけでも、各国への大きな抑止となり得ます。」
「抑止力、ですか。」
小雪は地図へ目を落とした。
「これほどの規模の戦争を、私一人で止めろと。死人が出ますよ。」
「……決して殺戮を求めているわけではございません。」
「同義です。」
軍務官の喉が動いた。
「……被害の拡大を防ぐため、やむを得ない場合には、致し方ないと、事前に理事国の合意は得ております。」
「やむを得ない、か。」
小雪は、その言葉を小さく繰り返した。
勇者召喚も、やむを得なかったと彼らは言った。
何も知らない人々を無理やり別世界から連れてきたことも。
希望を与えるふりをして、残酷に死へ追いやったことも。
燃料として火にくべるために、大勢を地獄の底へ落としたことも。
全て、世界を守るためにやむを得なかった。
今度は、人間が始めた戦争を止めるために、その燃料を使おうとしている。
「私が拒否した場合は。」
小雪が尋ねると、事務官たちの顔が一斉に強張った。
王はしばらく沈黙した後、慎重に答えた。
「……現在、世界会議において、魔素消費の急増に備えた緊急対策が協議されております。」
「勇者召喚の再開ですか。」
「もちろん我が国は、勇者殿とのお約束に基づき、再開へ、強く、反対しております。」
「それが難しくなる。」
「……はい。戦争が長期化し、魔素量が危険水準を下回った場合、各国から再検討を求める声を抑えることは、現状、非常に困難です。」
小雪は王を見た。
「……私が戦場へ行かなければ、次の勇者を呼ぶ。そういうことですね。」
「そのような意図ではございません。」
「意図ではなく、構造の話です。」
王は言葉を失った。
誰も否定できない。
小雪は卓上の地図を見つめた。
赤い印。
青い印。
国境。
軍隊。
人間が自分たちで引いた線を守るために、人間同士が魔法を撃ち合う。
その結果、魔素が足りなくなれば、別の世界から犠牲を呼ぶ。
それを止めたければ、小雪に戦線へ出ろと言う。
「魔素を減らしたくないなら、人を殺せ、と。」
「勇者殿。」
「人を殺すことを拒めば、次の勇者候補を召喚する。」
「そのような――」
「いかにも、都合のよい話です。」
小雪の口元へ、笑みのようなものが浮かんだ。
笑ったわけではなかった。
やはり、ここへ戻る。
世界を滅ぼすと脅しても。
召喚を認めないと宣言しても。
人間は、自分たちが起こした問題の代償を、別の誰かへ渡そうとする。
ただ、その方法が変わっただけだった。
以前は、次の勇者候補だった。
今回は、小雪自身だった。
「召喚は絶対に認めません。」
小雪は言った。
王が息を呑む。
「次の勇者候補を呼ぶことだけは、絶対に認めません。」
「承知しております。」
「……西大陸へ向かいます。」
誰かが安堵の息を吐いた。
小雪が顔を向けると、その事務官は慌てて視線を伏せた。
勇者が戦場へ投入される。
人間同士の戦争だ。
魔物との戦いとは違う。大勢が命を落とすことになるかもしれない。
しかし彼らは、そのことよりも、自分たちが責任を取る決断を選ばずに済んだことへ安堵していた。
誰も、自分を悪人だとは思っていない。
それでも、自分の手を汚さずに済む方法があれば、誰かが代わりに傷つく方を選ぶ。
「ただし、条件があります。」
安堵しかけた室内が、再び静まり返った。
「私は、いずれの国の軍にも属しません。特定の国家を勝利させるためにも戦いません。目的は停戦と、大規模魔法の使用停止です。」
「承知いたしました。」
「私へ攻撃を加える者がいた場合、反撃によって生じる被害は保証しません。」
軍務官の顔が青ざめた。
「各国へ、そのように伝えます。」
「そして、今回の出征が私個人の判断によるものではないことを、正式な文書へ残してください。」
事務官が顔を上げた。
「文書、でございますか。」
「王家、および今回の要請に関与した各国から、勇者へ正式に戦争介入を要請したと記録すること。人間への力の行使を含む可能性を承知した上での要請であり、その責任を勇者個人へ押しつけないこと。」
「しかし、各国の署名を今すぐ集めることは。」
「世界会議から届いた要請書があるのでは?」
事務官の表情が固まった。
小雪は、それを見逃さなかった。
「ありませんか。」
「……ございます。」
「添付してください。」
「はい。」
「さらに、私が西大陸へ向かっている間、勇者召喚の準備を一切開始しないこと。召喚術式の点検、魔力の蓄積も含みます。」
「それは――」
「もし少しでもその兆しがあれば、私は戦争への介入を即座に中止します。」
王が顔を上げた。
「勇者殿、我々としても――」
「では、ここで今すぐ、皆様が二度と召喚について話せない状態にしましょうか。」
誰も口を開かなかった。
「記録できますか。」
「……記録いたします。」
「今、ここで。」
事務官は震える手で紙を取り出した。
ペン先が紙を擦る音だけが、会議室へ響く。
正式要請。
人間への力の行使。
責任の所在。
召喚準備の禁止。
小雪は一文字ずつ確認した。
紙が人間を止めるとは思わない。
署名が責任を生むとも思わない。
都合が悪くなれば、燃やされるかもしれない。
それでも、小雪の身体のように何も残さず消えるよりはよかった。
せめて、誰が命じ、誰が勇者を人間の戦場へ送ったのかだけは、形として残しておかなければと思った。
「署名を。」
文書を渡された王の肩が揺れた。
「勇者殿。」
「署名を。」
王はしばらく小雪を見つめた後、諦めたようにペンを取った。
王の名が記され、王家の印章が押される。
続いて軍務官、宮廷魔導士、担当事務官が証人として連署した。最後に、世界会議から届いた正式な要請書が添えられる。
小雪は全てを確認し、複写を自分の懐へ入れた。
「これで構いません。」
王は何か言いたそうに口を開いた。
けれど、小雪は待たなかった。
「転移装置へ案内してください。」
◇ ◇ ◇
山の家では、ベルが椅子へ縛りつけられたまま、白い捕縛帯を睨んでいた。
小雪を乗せた馬車の音は、とうに聞こえなくなっている。
「後悔するって言っただろ。」
低く吐き捨て、両腕へ力を込めた。
白い帯は光を強めるだけで、切れる様子はない。腕を捩り、手首を抜こうとしても、僅かな隙間すら生まれなかった。
ベルは一度動きを止め、呼吸を整えた。
魔法そのものを解くことはできない。
術式を読むことも、魔力を流してそれに干渉する力もない。
けれど、捕縛魔法はベルだけを宙へ固定しているわけではなかった。光の帯は椅子の背と脚へ巻きつき、それを支点として身体を縛っている。
「……やるしかねぇな。」
ベルは足へ力を入れ、椅子を僅かに傾けた。
「椅子ごと壊す。」
体重を左右へ移し、椅子ごと跳ねさせるように動く。
一度。
二度。
椅子の脚が床板を擦り、少しずつ壁へ近づいた。
背中が壁へ触れる。
ベルは息を吸い、勢いをつけて身体を後ろへ倒した。
椅子の背が、壁へ激しくぶつかった。
「っ!」
肩から腕へ、鋭い痛みが走る。
椅子は壊れなかった。
ベルは歯を食いしばり、もう一度前へ身体を倒す。
そして再び、壁へ叩きつけた。
鈍い音が家の中へ響く。
椅子の背が軋んだ。
「まだ、か。」
三度目。
今度は壁へ当たる直前に腰を捻り、片側へ強く衝撃を集中させた。
乾いた破砕音がした。
椅子の背の一部が割れ、鋭い木片がベルの前腕へ食い込む。
「ぐっ……!」
白いシャツの袖へ、赤い血が滲んだ。
それでもベルは止まらなかった。
折れた背もたれへ体重をかけ、さらに押し広げる。木片が皮膚を擦り、傷口から流れた血が手首へ伝った。
一滴が床へ落ちる。
赤い血は光へ変わらなかった。
魔素の粒にもならなかった。
木目の上へ小さな丸い染みを作り、ただそこに残った。
――あなたは補填されません。
小雪の声が、頭の中で蘇った。
「だから、一緒に考えるって、言っただろ。」
誰もいない家の中で、ベルは低く答えた。
もう一度、壊れかけた椅子を壁へぶつける。
「くそっ!」
背もたれが完全に折れた。
椅子の形が崩れたことで、胸を固定していた白い帯が僅かに緩む。
ベルは傷ついた腕を無理やり捩じ込み、隙間へ肩を押し込んだ。皮膚が擦れ、さらに血が流れる。
「いってぇ……。」
息を切らしながら、身体を前へ押し出す。
「さすがに強力すぎるだろ。」
右腕が抜けた。
自由になった手で折れた木片を掴み、残った椅子の枠を押し広げる。腰を固定していた帯が支点を失い、光が大きく揺らいだ。
ベルは身体を捻り、椅子の残骸ごと床へ倒れ込んだ。
肩が床へ当たり、痛みに視界が白くなる。
それでも、もう一方の腕を引き抜く。
最後に脚を縛っていた帯から足を抜くと、捕縛魔法は行き場を失ったように明滅し、椅子の破片を巻き込んだまま空気へ溶けた。
ベルは床へ片膝をつき、荒い息を繰り返した。
前腕から血が流れている。
肩も痛む。
小雪が見れば、きっとひどく怒るだろう。
「……お前が縛ったんだろうが。」
呟きながら立ち上がった。
床には、折れた椅子と血の跡が残っている。
しかし、小雪の髪が消えた場所には、今も何もない。
その違いが、ベルにはたまらなく腹立たしかった。
見られたくない。
欠ける姿を見せたくない。
だから一人で行く。
どこまでも勝手な理屈だった。
腹が立つ。
「俺は、助手なんだろ。」
ベルは傷口を布で強く縛った。
「三下で、オカンで、乙女で、チワワな、お前の助手だろうが。」
痛みに顔を顰めながら、汗の滲んだ額を拭う。
食卓の上には、小雪が置いていった鈴があった。
小さな鈴。
鳴らせばベルが来ると、小雪が勝手に決めた鈴。
ベルはそれを手に取り、掌の中で握った。
最後に鳴らされたのは、魔王城の夜だった。
置いて行かれた鈴。小雪は、もう鳴らすつもりはないのかもしれない。
だからといって、それがベルが行かない理由には、もうならない。
ベルは外套を羽織り、その内側へ鈴をしまった。
「許さねぇ。勝手に決めつけやがって。」
返事はない。
手早く剣帯を身に着け剣を取る。肩へ走る痛みに一度だけ顔を歪めたが、そのまま扉へ向かった。
「待ってろ。」
山の家の扉を開く。
春の風が流れ込み、床に残った赤い血の跡を冷たく撫でた。
「どうせ、本当は鳴らしたいんだろ。」
◇ ◇ ◇
王城の地下転移室には、すでに王国の魔導士団が揃っていた。
師団長と思われる壮年の男の後ろには、十数名の魔導士たちが緊張した面持ちで控えている。
更にその後ろには、王室直属の白髪の老魔導士、救護の腕章を備えた数人が荷物を手に立っていた。
皆険しい顔つきで、誰も言葉を発しない。
全員が、西大陸へ同行する者たちだった。
小雪は、王国の魔導士団を示す紺碧の外套を身に着け、静かに転移室に入った。彼らは一斉に頭を下げた。
「勇者殿。」
小雪は短く頷き、転移装置の中央へ進んだ。
石板には、西大陸の地名が刻まれている。
この先は、人間同士の争いだ。
これまでの魔物との戦いとは違う。
人間の命を奪い合う場所。
この戦いが終わった後、果たして自分は今と同じ自分でいられるのだろうか。
身体へ何か影響が出るかもしれない。
腕が欠けるか。
脚が欠けるか。
化け物じみた姿になるかもしれない。
それとも。
もし人の命を奪うことになれば。
勇者候補たちの命を無残に奪った者たちと、似通った存在になってしまうのかもしれなかった。
小雪は袖の内側へは触れなかった。
そこに鈴がないことは、もう分かっている。
今回だけは小雪が止める。
次の勇者候補を呼ばせないために。人間たちが始めた戦争を。
しかし、人間が尚も同じ場所へ戻るのであれば、その時はもう与えるつもりはない。
身体も。
許しも。
次の機会も。
「……勇者殿。」
転移装置の管理官の遠慮がちな声が、耳を打った。
「準備が整いました。」
小雪はゆっくりと目を開けた。
「始めてください。」
床の魔法陣へ、青白い光が走る。
魔導士たちが杖を構え、低い詠唱を始めた。
光が足元から立ち上り、小雪の不揃いな白髪を揺らす。
白い光が地下室を満たした。
次の瞬間、小雪の姿は王城から消えた。




