第六十三話 勇者さま、怒鳴る
翌朝、小雪が目を覚ますと、窓の外にはすでに日が昇っていた。
遠くの山肌は、春の柔らかな緑に覆われている。姿の見えない鳥たちの囀りが、歌うように微かに耳へ届いた。
閉じきらなかった窓板の隙間から薄い朝の光が差し込み、床の上に細長い帯を作っている。
小雪は毛布の中で静かに息を吐いた。
世界は滅びていない。
山の家も壊れていない。
そして、ベルもいる。
寝室の外から、薪を動かす硬い音が聞こえた。続いて、竈の奥で火が弾ける小さな音がする。
小雪が身体を起こすと、肩まで引き上げられていた毛布が膝へ落ちた。
昨夜、眠りにつく前にはなかった一枚だった。
夜中にベルが追加したのだろうか。
冬のある日、寒くありません、と言った小雪に、ベルは「お前が寒くなくても、俺の心臓が寒い」と答えた。
そこへ「ベルは補填されませんね」といつものように小雪が軽口を挟むと、「では大事にしろ」と怒られた。
その会話を思い出し、小雪は膝へ落ちた毛布を見つめた。
大事にする。
それは、どのようにすればよいのだろうか。
分からない。
寝台から下り、乱れた白髪を簡単に背中へ流す。床板が小さく軋んだが、今日は何枚目の板が鳴ったのか確認しようとは思わなかった。
居間へ出ると、ベルは竈の前へしゃがみ込み、昨夜の煮込みが残った鍋を温めていた。
「起きたか。」
振り返らないまま言う。
「はい。」
「顔を洗ってこい。もう少しでできる。」
「はい。」
いつも通りの朝だった。
少しだけ声が硬く、互いの動きを意識しすぎていることを除けば。
小雪は外の水場で顔を洗い、戻ってきた。
食卓には、昨夜の煮込みへ豆と水を足して味を整えたものと、火の近くで焼き直されたパンが並んでいる。
ベルは皿を置き終えた後も、しばらく自分の椅子の前に立っていた。
「食え。」
「ベルは。」
「食う。」
「座らないのですか。」
「座る。」
言いながら、ベルはようやく椅子を引いた。
二人で向かい合い、匙を取る。
煮込みをすくう音。
パンを割る音。
竈の火が弾ける音。
昨夜よりも、沈黙は少しだけ軽くなっていた。
けれど、何もなかったことになったわけではない。
ベルは時折、小雪の手を見ていた。
正確には、見ていないふりをしながら、何度も視線を落としていた。
裂け目で切り落とされ、何事もなかったように元へ戻った左手。
小雪は気づいていたが、何も言わなかった。
言葉にすれば、まだ薄くつながっている何かが、再びひび割れるような気がした。
食事を終えると、ベルは皿を重ねて流し台へ運んだ。
小雪も椅子から立つ。
「手伝います。」
ベルは断ろうとしたのか、一瞬だけ口を開いた。
しかし昨日、自分一人で何もかも行おうとして、小雪に何度も食い下がられたことを思い出したのだろう。結局、短く息を吐いた。
「……皿を拭けるか。」
「できます。」
「落とすなよ。」
「落としません。」
「本当だな。」
「おそらく。」
「おそらくをつけるな。」
小雪は差し出された布を受け取った。
今朝はベルが皿を洗い、小雪が水気を拭う。拭き終えた皿を、順番に棚へ戻していく。
ただそれだけの作業だった。
それだけのことを、二人で行った。
最後の皿を洗い終えた後も、ベルはしばらく両手を水の中へ入れたまま動かなかった。
「ベル。」
「何だ。」
「手が冷えます。」
「ああ。」
ベルはようやく水から手を引き上げ、布で拭った。
小雪は、その手を見つめた。
火を起こす手。
水車を作り、銅線を巻き、工具を扱い、小雪の髪へ櫛を入れる手。
一昨日、その手は水瓶を落とした。
今朝も、わずかに震えている。
「今日は。」
ベルが手を拭きながら言った。
「髪を整える。」
小雪は少しだけ瞬きをした。
「髪整え文明ですか。」
「変な名前をつけるな。」
「記録上の名称です。」
「記録するな。」
「します。」
「するな。」
「します。」
ベルは諦めたように息を吐いた。
いつものやり取りだった。
ただし、声には僅かな硬さが残っている。
「自分で雑に切ってただろ。」
「はい。」
「毛先がひどい。」
「機能には問題ありません。」
「ある。」
「ベルの心に。」
「そうだよ。」
ベルは反射的に答えた後、自分の言葉へ顔を顰めた。
以前なら、そのまま赤くなって騒いでいただろう。
今日は騒がなかった。
小雪は、その違いを見た。
「やめますか。」
「やめねぇ。」
「怖いですか。」
「怖い。」
ベルは、今度は間を置かずに答えた。
「でも、やる。」
「はい。」
「嫌なら言え。」
「嫌ではありません。」
「本当か。」
「はい。」
ベルは小雪の顔をしばらく見つめ、ようやく小さく頷いた。
棚から櫛と小さな鋏を取り出す。
鋏は以前、鍛冶師のガドに研いでもらったものだった。刃は細く、よく手入れされている。
ベルは竈の前へ椅子を運び、その下へ大きな布を敷いた。
湯浴みの後に髪を乾かす時と同じ場所だった。
小雪は椅子へ腰を下ろし、長い白髪を背中へ流した。
腰の辺りまで伸びた髪は、毛先が不揃いになっている。勇者として旅をしていた頃、自分で適当に刃を入れ続けた名残だった。
ベルは小雪の後ろへ立った。
櫛を持つ手が、髪へ触れる直前で止まる。
「ベル。」
「何だ。」
「止まっています。」
「分かってる。」
「やめますか。」
「やめない。」
小雪は前を向いた。
竈には、朝食を温めた火がまだ小さく残っている。橙色の炎が薪の間で揺れ、時折、乾いた音を立てた。
やがて、ベルの櫛が髪へ触れた。
ゆっくりと、白い髪の間を通っていく。
いつもより遥かに慎重だった。
途中で櫛の歯が小さな絡まりへ引っかかると、ベルはすぐに動きを止めた。
「痛いか。」
「痛くありません。」
「本当にか。」
「はい。」
「……痛くなくても、何かあったら言え。」
「分かりました。」
ベルは絡まりを指先でほどき、再び櫛を通した。
髪の間を櫛と指が滑る。
小雪は、その感触を知っていた。
湯浴みの後。
雨に濡れた日。
雪の中を歩いた夜。
ベルは何度も、この髪へ触れてきた。
白くなった理由など知らず、ただ綺麗だと言って、絡まないよう丁寧に梳いていた。
今は全てを知っている。
それでも、手つきだけは以前と変わらず優しかった。
ベルは何度も櫛を通し、髪全体を整えた。
普段よりもずっと長い時間をかけた後、ようやく毛先を一束取る。
「切るぞ。」
「はい。」
「少しだけだ。」
「はい。」
「動くなよ。」
「動きません。」
鋏の刃が、白い毛先へ触れた。
小雪は前を向いたまま、竈の火を見つめた。
ちょきり。
小さな音がした。
切り離された白い毛先が、ベルの指の間から落ちる。
床へ触れる前に、ベルが反射的に手のひらを差し出した。
髪は、その掌の上へ収まった。
けれど、そこへ留まることはなかった。
一本一本の輪郭が淡く光り、毛先から細かな粒へほどけていく。
白い光は、ベルの手の上で静かに崩れた。
燃えるのではない。
灰になるのでもない。
切り離された小雪の一部が、魔素として世界へ還るように。
光の粒は指の隙間からこぼれ、風もないのにゆっくりと浮かび上がる。
やがて、最後の一粒まで消えた。
ベルの掌には、何も残らなかった。
髪一本すら。
小雪は振り返らなかった。
けれど、ベルの呼吸が止まったことと、鋏を持つ手が動かなくなったことは分かった。
竈の火が、ぱちりと鳴った。
その小さな音が、急に広くなった室内へ響く。
ベルの呼吸は、まだ戻らなかった。
「……毎回、こうだったのか。」
ベルの声が、すぐ後ろから聞こえた。
「はい。」
「髪を切るたびに。」
「はい。」
「全部、消えてたのか。」
「髪ですから、痛みはありません。」
「痛いかどうかを聞いてるんじゃねぇ。」
ベルの声が低くなる。
小雪は膝の上へ置いた自分の手を見た。
「では、何を聞いているのですか。」
ベルは答えなかった。
空になった掌を見つめたまま、ゆっくりと指を閉じる。
「……減っていくみたいで、嫌だ。」
小雪の指先が動いた。
ベルはそれ以上何も言わなかった。
けれど、その一言だけで十分だった。
昨日から積み重なっていたものが、小雪の中で大きく揺れた。
「髪です。」
「分かってる。」
「また伸びます。」
「それも分かってる。」
「ならば、問題ありません。」
「……俺にはある。」
ベルの声が強くなった。
「お前が裂け目で自分の腕を切った時、俺は本当に怖かった。」
鋏を握った手が震えている。
「次は何を削るつもりなんだって思った。」
「……。」
「そのうち、お前自身が飛び降りるんじゃないか。そう思った。」
小雪は何も答えられなかった。
「お前自身が怖いんじゃない。」
ベルは、小雪がまだ何も言っていないうちに続けた。
「お前がなくなりそうで怖いんだ。」
「では。」
小雪は、自分の髪へ触れた。
「私を、憐れだと思いますか。」
「小雪。」
「そう言われて、私はどうすればよいのですか。髪を切らなければ、減らないのですか。」
「そういうことじゃ――」
「食べれば戻るのですか。」
声が、僅かに震えた。
「昨日、ベルは、食べれば成長するかもしれないと言いました。」
「それは。」
「食べれば、元の身体へ戻るのですか。十六、七歳に見えるこの身体が、本来の二十四歳の姿へ戻るのですか。」
「俺は、ただ。」
「このまま食べ続ければ、ベルと同じように年を取れるのですか。」
ベルが息を呑んだ。
小雪は椅子に座ったまま、膝の上で両手を強く握った。
「私にも分かりません。」
「小雪。」
「この身体が、あと何年保つのかも分かりません。勇者候補が長く生きた前例はない。明日消えるのか、百年後まで変わらないのか、ベルと同じように老いるのか、ずっとこの姿のままなのか、何一つ分かりません。」
口を開くたび、昨日まで言葉にならなかったものが溢れ出した。
「小雪、落ち着け。」
「落ち着いています。」
「落ち着いてねぇだろ。」
「では、どうすればよいのですか!」
声が家の中へ響いた。
ベルが固まる。
小雪自身も、自分の声の大きさに驚いた。
それでも、止まらなかった。
「世界の魔素が足りなければ、私は補填できます。身体がなくなるまでは。」
「だから、それはさせねぇって――」
小雪は立ち上がった。
白い髪が背中で揺れる。片側だけ毛先が短くなり、もう片側はまだ不揃いなままだった。
「村が魔物に襲われたら。」
「小雪。」
「公爵領で魔素不足による災害が起きたら。」
「今はその話じゃない。」
「同じ話です。」
小雪は振り返った。
ベルの手には、まだ鋏が握られている。
空になったもう一方の掌を、固く握り締めていた。
「皆が困り始めても、身体を削るなと言い続けられますか。」
「当たり前だ。」
「私が削らず、召喚も止めて、その結果、死人が出始めても?」
「それでも、お前が身体を犠牲にする必要はない!」
今度は、ベルの声が響いた。
「俺は、お前が欠けていくのを見たくないんだよ!綺麗事なのは分かってる。それでも嫌だ!」
「私だって嫌です!」
小雪は怒鳴った。
喉の奥が痛んだ。
痛い。
大きな声を出したのは、いつぶりだろう。
分からない。
記憶も欠けてしまっている。
これから先、もっと多くのものが欠けていくのかもしれない。
ベルと過ごした、この一年も。
「私だって、欠けさせたいわけではありません!」
ベルの琥珀色の目が大きく開かれる。
「なら、何でそんな簡単に身体を使おうとするんだよ!」
「他に方法がありますか?この身体がどうできていて、あと何年保つのか、私にも分かりません。何もできないまま、ある日突然消えてしまえば、もっと早く召喚の鐘が鳴らされる。この世界は、確実にそれを選びます。」
「一緒に考えればいい。この一年、お前と俺が目指してきたことを続ければ――」
「魔法があるのに?召喚ができるのに?人間は、そんな生き物ではありません。」
「それでも俺は嫌だ!」
小雪の呼吸が止まった。
ベルは怒っていた。
それでも、目の奥にあるのは怒りだけではない。
怯えていた。
小雪が消えることに。
小雪は、それを見てしまった。
「……全部、ベルのせいです。」
言葉が落ちた。
ベルの表情が止まる。
「何を言って――」
「あなたのせいで。」
声が震えた。
「あなたのせいで、私はただの小雪に戻りたくなった。」
ベルは何も言わなかった。
「勇者のままでいれば、身体がなくなるまで補填すればよかった。世界を滅ぼしても、私が消えても、どうでもよかった。」
「小雪。」
「あなたがいなければ、何も怖くなかった!」
金色の髪。
琥珀色の目。
温かい手。
小雪のために料理を作り、髪を拭き、怒り、笑う青年。
「……あなたと同じように年を取りたいと、思ってしまった。」
声が詰まる。
それでも、小雪は言葉を押し出した。
「ずっとここで暮らしたいと思ってしまった。明日も、来年も、その先も、あなたとの未来を想像してしまった。」
「……。」
「なのに、私は、あなたと同じ時間を生きられるのかも分からない!」
何かが頬を伝った。
一昨日と同じ、涙だった。
けれど今日は、なぜ出ているのかが少し分かった。
「私は。」
小雪は息を吸った。
「私は、ただの小雪がよかった!」
山の家の中へ、声が響いた。
「勇者になんかなりたくなかった!」
言った。
八年間、誰にも言わなかった言葉だった。
死んだ仲間たちの前でも。
王の前でも。
魔王の前でも。
裂け目の前でも。
言っても何も変わらないから、言わなかった。
「こんな身体になりたくなかった!」
声が割れた。
「こんな私を、ベルに見られたくなかった!」
ベルが一歩近づいた。
小雪は反射的に後ずさった。
「触らないでください。」
ベルの足が止まった。
言った小雪の胸の方が、強く痛んだ。
ベルの手の中で、鋏が小さな音を立てた。
「……分かった。」
低い声だった。
小雪は、その返事を聞いてさらに苦しくなった。
怒ってほしかった。
違うと否定してほしかった。
抱き締めてほしかった。
思考と感情が矛盾していた。
小雪は壁へ掛けられていた外套を掴んだ。
「どこへ行く気だ。」
「外です。」
「その髪でか。」
「問題ありません。」
「片方しか切ってねぇだろ。」
「機能には支障がありません。」
「そういう話じゃない。」
ベルの声が、再び強くなる。
小雪は外套を肩へ掛け、留め具を閉じた。
「冷えるぞ。」
「どうせ補填されます。」
言った瞬間、ベルの顔が痛そうに歪んだ。
小雪は、それ以上ここにいられないと思った。
言葉を出すたびにベルを傷つける。
そこにいるだけで、彼を怯えさせる。
「小雪。」
「来ないでください。」
ベルの動きが止まる。
「今度こそ。」
小雪は扉へ向かった。
手を掛ける。
背後から追いかける足音は聞こえなかった。
扉を開くと、春の朝の空気が家の中へ流れ込んだ。
少し冷たい。
小雪は外へ出た。
背後で、扉が静かに閉じる。
当てがあったわけではなかった。しばらくその場に立ち尽くした後、川辺へ向けてゆっくりと歩き始める。
草の上には朝露が残り、外套の裾を微かに濡らした。
片側だけ先の短くなった白髪が、風に煽られて頬へ触れる。
小雪は川辺へ着くと、平らな石へ腰を下ろし、水面を見遣った。
川はいつもと同じように、微かな水音を立てながら流れていた。
世界のことも。
召喚のことも。
小雪の身体のことも。
ベルがどのような顔で、空になった掌を見つめていたのかも。
何も知らずに、ただ流れている。
来ないでくださいと言った。
今度こそ、とも言った。
だから、ベルは来ない。
当然のことだった。
それなのに小雪は、山の家の扉が開く音を何度も待ってしまった。
鈴は持っていない。
家の中へ置いてきた。
鳴らしたところで、今のベルが来るのかも分からない。
「全部、ベルのせいです。」
小雪は、小さく呟いた。
ベルがいるから、失うことを怖いと思う。
ベルがいるから、ただの小雪として生きたいと思う。
ベルがいるから、自分の身体がいつまで続くのかを知りたいと思う。
どれも、ベルと出会う前には必要のなかった恐怖だった。
水が流れている。
この世界の本当の形も、そのために何が犠牲になっているのかも知らないまま、ただ流れている。
この世界で、何も知らずに日々を送る人々と同じように。
蹄の音が聞こえたのは、太陽が少し高くなった頃だった。
近くで回る水車の音とは異なる、硬く規則的な音が、山道の下から近づいてくる。
小雪は顔を上げた。
木々の間から、一台の馬車が姿を現す。
白い車体。
金の縁取り。
扉には、王家の紋章が掲げられていた。
小雪は川辺から立ち上がり、蹄の音を追うように山の家へ続く道を戻った。
木立を抜けると、白と金の馬車が家の前へ止まるところだった。
ほとんど同時に、家の扉が開く。
ベルが外へ出てきた。
金色の髪は少し乱れたままで、その手には、まだ小さな鋏が握られている。
二人の視線が重なった。
ベルは、小雪の片側だけ先の短くなった白髪を見た。
小雪は、彼の手に残った鋏を見た。
どちらも何も言わなかった。
散髪も。
喧嘩も。
互いへ伝えなければならない言葉も。
何一つ終わっていなかった。
王家の使者は、そんな二人の間に残るものなど知らないまま馬車を降り、深く頭を下げた。
静かに家の前まで戻った小雪を、どこか恐れるような目で伺うと、少し躊躇うように口を開く。
「勇者様。」
その呼び名を聞いた瞬間、小雪の表情から感情が消えた。
もう、先ほどまで泣き、怒鳴っていた小雪の顔ではなかった。
ベルの眉が、僅かに歪んだ。
「王より、至急王城へお越しいただきたいとの命を、承っております。」
小雪は使者を見た。
「西大陸ですか。」
使者は、顔を上げなかった。
「……西大陸にて、戦端が開かれました。」
春の風が、小雪の不揃いな白髪を揺らした。




