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第六十二話 家へ帰って、飯を食べる

 馬車が山道へ入ると、窓の外を流れる景色は、少しずつ見慣れたものへ変わっていった。


 整えられた街道が途切れ、車輪の下から伝わる振動が大きくなる。道の両側には柔らかな色をした春草が広がり、その向こうでは、芽吹いたばかりの木々が淡い緑色の枝を揺らしていた。


 ベルは向かい側の座席へ深く身体を預け、目を閉じている。


 眠っているわけではないらしい。馬車が大きく揺れるたびに僅かに眉を寄せ、時折、胸の辺りを押さえるように手の位置を変えていた。


 魔王城からの転移で受けた圧迫感が、まだ完全には抜けていないのだろう。


「ベル。」

「大丈夫だ。」


 小雪が声をかけると、ベルは目を閉じたまま答えた。


「まだ違和感がありますか。」

「……まあ、普通に考えれば有り得ない装置だからな。身体の方が驚いてるんだろ。」

「顔色が悪いです。」

「元から色白だ。」

「いつもより三段階ほど白いです。」

「俺の顔色に段階を作るな。」


 言葉には、いつもの力が戻りつつあった。


 小雪はそれ以上何も言わず、再び窓の外へ目を向けた。


 緩やかな坂道を上りきったところで、木々の間から小さな屋根が見えた。


 二人の家だった。


 煙突から煙は上がっていない。留守にしていたのだから当然である。それでも、斜面へ沿うように建つ石と木の家、その脇を流れる小川、ゆっくりと回り続ける水車が見えた瞬間、小雪の胸の奥へ張りつめていたものが、僅かに緩んだ。


「見えました。」

「ああ。」


 ベルも目を開け、身体を起こした。


 窓の外へ顔を向けると、疲れの残る表情が少しだけ和らぐ。


「水車は動いてるな。」

「異常はなさそうです。」

「遠目じゃ分からねぇ。着いたら軸と水路を確認する。」

「まず休んでは。」

「何日か空けたんだから、先に見るところがあるだろ。」


 予想通りの返答だった。


 馬車は家の前にある小さな空き地へ入り、ゆっくりと速度を落とした。馬の蹄が湿った土を踏み、車輪が一度大きく軋んで止まる。


 先にベルが降り、御者へ礼を告げた。


 小雪もその後へ続く。


 王都を出た時よりも日は高くなり、山の空気にも柔らかな温かさが混じっていた。風が長い白髪を持ち上げ、外套の裾を揺らしていく。


 御者が馬車の後方から荷物を下ろし始めると、ベルもすぐに手を貸した。


「それは私が持ちます。」


 小雪が大きな鞄へ手を伸ばす。


「いい。俺が持つ。」

「ベルは疲れています。」

「お前に持たせるほどじゃねぇよ。」

「では、魔法で運びます。」

「やめろ。」


 ベルは荷物を抱えたまま、すぐに小雪を睨んだ。


「家へ帰って最初にやることが、魔法の無駄遣いか。」

「この程度であれば、ほとんど消費しません。」

「そういう話じゃねぇ。」


 抱えていた荷物を片腕へ寄せ、ベルは空いた手で小雪の額を軽く押した。


「荷物を運ぶ程度のことで、魔法を使うな。」


 低い声だった。


 小雪は、額へ触れている指先を見上げた。


 以前から、同じようなことは何度も言われている。


 魔法を使うな。

 無茶をするな。

 身体を大切にしろ。


 それでも、ベルが全てを知った後では、その言葉は少しだけ違って聞こえた。


「分かりました。」

「本当か。」

「少なくとも、今は。」

「信用できねぇ。」


 ベルは小雪の返事へ顔を顰めたものの、それ以上は追及せず、荷物を抱えて家の扉へ向かった。


 鍵を開ける。

 木の扉が重い音を立てて内側へ開くと、留守にしていた家特有の、冷えた空気が流れ出した。


 小雪も後へ続いて中へ入る。


 数日前に出たばかりだというのに、家の中は妙に静かだった。


 火の消えた竈。

 整えられた食卓。

 壁際に置かれた工具。


 魔王領にも、王城にも、世界の裂け目にもない、二人だけの生活の跡だった。


「小雪、窓を開けてくれ。まず空気を入れ替える。」

「はい。」


 ベルの声が家の中へ響く。

 それだけで、静まり返っていた空間が、急にいつもの家へ戻ったように思えた。


 小雪は窓辺へ向かい、木製の留め具を外した。

 窓を押し開けると、外から春の風と水車の音が入ってくる。冷えていた空気が動き、白いカーテンが大きく膨らんだ。


 その間に、ベルは荷物を床へ置き、外套を脱いで壁の金具へ掛けていた。


「外套、貸せ。」


 小雪が振り返ると、ベルが片手を差し出している。

 小雪は留め具を外し、外套を肩から滑らせた。


 受け渡す時、ベルの指が小雪の手へ僅かに触れる。


 ベルの肩が、小さく揺れた。


 昨夜、水の瓶を落とした時ほどではない。それでも、琥珀色の目が一瞬だけ泳いだのを、小雪は見逃さなかった。


「触れても問題ありません。」

「何が。」

「私に触れることです。」

「俺はまだ警戒してるからな。」

「ベルチワワ、警戒する。」

「やめろ。」


 ベルは小雪の外套を受け取ると、自分のものと並べて壁へ掛けた。裾についた埃を手で払い、皺を伸ばし、ずれないよう金具へ掛け直す。


 結局、扱いは以前と何も変わっていない。


 小雪はその横顔を見ていたが、ベルが振り向きかけたため、何事もなかったように視線を逸らした。


「一段落したら、少し水車を見てくる。」

「私も行きます。」

「いや、お前は荷物を出しておいてくれ。」

「一緒に行きます。」

「いいって。戻ったらすぐ食事を作るから、豆と根菜と干し肉、あと香草を出しておいてくれ。」

「疲れていませんか。」

「作るって馬車の中で言っただろ。」


 ベルは靴を履き直し、工具箱を手に取った。


「しかし、体調も悪そうです。」

「お前の方が心配だ。」

「私は問題ありません。」

「駄目だ。家で休んでろ。」


 ベルは小雪が椅子へ座り、鞄を開いたのを確認してから、ようやく扉を開けて外へ出ていった。


 その背中が見えなくなるまで、小雪は静かに横目で追った。


 いや、明らかに過保護になっている。


 以前から世話を焼かれてはいたが、今のベルは、小雪が何かをするたびに、それが消失へつながるのではないかと警戒しているように見えた。


 まるで、少し力を加えれば壊れてしまうものを扱うような慎重さだった。


 仕方がないのかもしれない。

 この数日間で、ベルは小雪に関する全てを知ってしまった。


 小雪は左の掌を見た。


 裂け目で、ベルの目の前で切り落とした手。


 今は以前と何も変わらない形をしている。指も動き、皮膚には温度がある。


 それでもベルは知っている。


 この手も、腕も、脚も、髪も、世界の燃料として切り離すことができる。

 失われたものは魔素となり、世界へ薄く広がっていく。


 小雪は一度だけ静かに息を吐き、床へ置かれた鞄へ向き直った。


 旅の途中で使ったものを、順番に取り出していく。


 残った固形パン。

 空になりかけた水瓶。

 予備の布。

 鈴。


 小雪は最後に取り出した鈴を掌へ載せた。


 昨夜、この音を聞いたベルは、いつも通り小雪へ怒鳴った。


 あの時、なぜ涙が出たのかは、まだ分からない。


 ただ、掌の上にある小さな鈴を見ていると、胸の奥へ残っていた冷たいものが、少しだけ薄くなる気がした。


 小雪は鈴をいつもの場所へ戻し、食料を入れた戸棚へ向かった。


 豆の入った袋。

 根菜。

 乾燥させた香草。

 干し肉。


 言われたものを卓上へ並べる。


 帰ってきた家は、以前と何も変わっていないように見えた。


 風に揺れる木々の葉擦れ。

 山の春を彩る鳥や虫の声。

 近くの川から響く、規則的な水音。


 どれも知っている音だった。


 その穏やかな音の中へ、少年の言葉が唐突に蘇る。


 ――放っておけば、八十年ぶりの世界戦争になる。


 大規模破壊魔法。

 大量に失われる魔素。

 勇者召喚を再開するための、格好の理由。


 小雪は手にしていた干し肉を見つめた。


 戦争を止めろと王へ告げた。

 もし勇者召喚を再開すれば、その前に世界を壊すとも伝えた。

 王は世界会議へ伝えると言った。


 けれど、各国が素直に戦争を止めるとは思えない。


 彼らはいつも、誰かへ責任を移す。


 決めたのは自分たちではない。

 始めたのは他国だ。

 止められないのは制度のせいだ。


 そして最後には、仕方がなかったと言って、また別の世界から人間を攫う。


 しかし。


 もし村が、再び魔素欠乏症の魔物に襲われたら。

 公爵領が魔素不足による天変地異に見舞われたら。


 この世界に暮らす人々が、目に見える形で困り始めた時にも、小雪は召喚をするなと銃口を向け続けられるのだろうか。


 小雪がいる間なら、まだ補填できる。

 ベルに怒鳴られても、泣かれても、身体が尽きるまでは裂け目へ落とし続けることができる。


 けれど、その後は。


 小雪がいなくなれば、この世界は何事もなかったように召喚を再開するのではないか。

 いや、確実にするだろう。


 それだけは、許すわけにはいかなかった。


「水車は問題なかった。火を入れるぞ。」


 扉が開き、工具箱を抱えたベルが戻ってくる。


 額には薄く汗が浮かび、金色の髪が少し乱れていた。疲れているはずなのに、表情は王城にいた時よりも明らかに生き生きしている。


「豆、出したか。」

「はい。」

「根菜は。」

「こちらです。」

「干し肉、多くないか。」

「美味しいものを作ると言いました。」

「肉を入れれば何でも美味くなるわけじゃねぇぞ。」

「多い方が美味しいと思います。」

「子供か。」


 ベルは干し肉の半分を袋へ戻し、残りを手に取った。


 竈へ薪を入れ、火打ち石を鳴らす。


 乾いた音の後、小さな火が生まれた。


 ベルが細い枝を重ね、息を吹き込むと、炎は少しずつ大きくなっていく。やがて竈の奥で薪がぱちりと弾け、家の中へ橙色の光が広がった。


 冷えていた室内が、ゆっくりと温まり始める。


「小雪、水を汲んでくれ。」


 ベルは小雪の方を見ないまま、炉の中を確認しながら言った。


 緋色の炎が、琥珀色の瞳の中で揺れている。


 柔らかで、静かな色だった。


 小雪は素直に桶を持ち、家の脇を流れる水路へ向かった。


 水を汲んで戻ると、ベルはすでに根菜の皮を剥き始めていた。包丁がまな板へ当たるたび、軽快な音が響く。


 小雪は水を鍋へ移し、空いた椅子へ座った。


「何か手伝いますか。」

「いや、大丈夫だ。座ってろ。」

「豆の確認は。」

「もう俺が見た。」

「根菜を切ります。」

「座ってろ。」

「火を見ます。」

「小雪。」

「はい。」

「休め。」


 ベルは包丁を止め、少し険しい目で小雪を見た。


「分かりました。」


 小雪は諦めて椅子へ深く座り直した。


 ベルは切った野菜と干し肉を鍋へ入れ、木べらで軽く混ぜる。香草を一つまみ加え、蓋を閉じた。


 竈の火が鍋底を舐める。


 しばらくすると、水が温まる小さな音が聞こえ始めた。やがて鍋の縁から細い湯気が立ち上り、豆と肉の匂いが部屋の中へ広がっていく。


 魔王城で思い出していた光景だった。


 火の音がある。

 料理の匂いがある。

 窓の外では水車が回り、ベルが台所にいる。


 帰れば、誰かがいる。


 小雪は料理をするベルの背中を見つめながら、何度か鍋の方へ目を向けた。


「まだできないぞ。」

「見ているだけです。」

「腹減ってんのか。」

「そうかもしれません。」

「良いことだ。」


 ベルは少しだけ笑った。


「もう少し待て。」


 鍋の底から、僅かに焦げたような匂いが立つ。


 ベルがすぐに蓋を開け、木べらで中身を混ぜた。


「火が強いな。」


 ――焦げる。


 その言葉に、少年の声が再び蘇った。


 大規模な魔法戦になれば、土も、街も、人間も焼ける。

 魔素が失われる。

 また召喚が必要になる。


「小雪。」


 突然名前を呼ばれ、思考がふっと途切れた。


「もうできた。皿を出してくれるか。」

「はい。」


 小雪は棚から二人分の深皿を取り出し、食卓へ並べた。


 ベルが鍋を運び、豆と根菜の煮込みを注ぐ。湯気の向こうに、柔らかく煮えた野菜と、小さく切られた干し肉が見えた。


 固くなっていたパンも薄く切り、火の近くで焼き直されている。


 二人は向かい合って座った。


「いただきます。」

「うむ。」


 小雪は匙で煮込みをすくい、口へ運んだ。


 柔らかな豆。

 肉の塩気。

 根菜の甘み。

 香草の匂い。


 熱が舌から喉を通り、身体の内側へ落ちていく。


「美味しいです。」

「普通の煮込みだけどな。」

「魔王城の固形パンより、非常に美味しいです。」

「比較対象が低すぎる。」

「王城の料理よりも美味しいです。」

「それは言いすぎだろ。」

「本当です。」


 ベルは少しだけ照れたように視線を逸らし、自分の煮込みを口へ運んだ。


「……まあ、温かいだけでも違うか。」

「ベルが作ったことも重要です。」


 ベルの動きが一瞬止まった。


「……そうかよ。」

「はい。」

「なら、冷める前に食え。」


 顔を伏せたベルの耳が、僅かに赤くなっている。


 小雪はもう一口、煮込みを口へ運んだ。


 食べ進めるうちに、身体へ残っていた硬さが少しずつ抜けていった。


 向かい側では、ベルも黙々と匙を動かしている。王城を出た直後より、顔色も戻っていた。


「王は、戦争を止めるでしょうか。」


 小雪が尋ねると、ベルの手が僅かに止まった。


「西大陸の戦争だ。大国二つのうち、一つは過去にも同盟を結んでいた友好国ではある。だが、この国だけで止めるのは無理だろうな。」

「そうですか。」

「この国は魔法技術こそ優れてるが、国土も人口も、西大陸の強国に比べればかなり少ない。国際的な影響力も限定的だ。」


 ベルは匙を皿へ置いた。


「それでも小国のまま一定の発言力を保ってこられたのは、勇者召喚を担う唯一の国として、各国から保護と便宜を受けてきたからだ。」

「勇者召喚によって。」

「ああ。」


 ベルは眉を寄せた。


「召喚を止めれば、今までと同じ立場ではいられない。大国から守られる理由も、世界会議で意見を聞かれる理由も、少なくなるかもしれない。」

「戦争へ巻き込まれる可能性もありますか。」

「ないとは言えねぇ。」


 短い沈黙が落ちた。


 窓の外では、水車が変わらぬ速さで回っている。


「だからといって。」


 ベルが低い声で続けた。


「お前がまた削られる理由にはならねぇけどな。」


 小雪は顔を上げた。


「召喚もなし。お前が裂け目へ身体を落とすのもなしだ。」

「しかし。」

「なしだ。」


 ベルは言い切った。


「国の立場も、戦争も、世界会議も、本来はお前一人が背負うことじゃない。」

「ですが、私以外には補填できません。」

「できるからって、やっていいことにはならねぇだろ。」

「魔素が尽きれば、困る人間が出ます。」

「分かってる。」

「村が魔物に襲われても、公爵領で災害が起きてもですか。」

「分かってるって言ってるだろ。」


 ベルの声が少し強くなった。


「それでも、お前が全部なくなるまで削ればいいなんて話にはならない。絶対にだ。」


 小雪は答えなかった。


 ベルは小雪の顔をしばらく見ていたが、やがて小さく息を吐き、自分の皿へ視線を戻した。


「今日は、とりあえず家に帰ってきた。それで十分だ。」

「十分。」

「ああ。だから、できるだけ食え。」

「もう食べています。」

「駄目だ。もっと食え。」

「なぜですか。」

「成長するかもしれないだろ。」


 言った直後、ベルの動きが止まった。


 明らかに、しまったという顔をしている。


 考えていたことが、つい口から出たのだろう。


「成長。」

「いや、違う。」

「何が違うのですか。」

「お前は細すぎるから、もっと食った方がいいって意味だ。」

「先ほどは成長すると。」

「言ってねぇ。」

「言いました。」

「忘れろ。」


 ベルは逃げるように煮込みを口へ運んだ。


 小雪は視線を落とし、皿の横へ添えた自分の手を見た。


 小雪は、本来なら二十四歳の女であるはずだった。


 けれど、身体を削り続けた今の姿は、十六、七歳の少女にしか見えない。


 食べれば成長するのだろうか。

 元の姿へ近づくのだろうか。


 この身体が、これから年齢に応じて変化するのかも分からない。そもそも、魔素で作り直された身体が、あとどれほど保つのかも不明だった。


 ベルは人間として年を取る。


 今は二十歳でも、十年が経てば三十歳になり、さらにその先へ進んでいく。


 小雪は、その隣で同じように時間を重ねられるのだろうか。


「小雪。」


 ベルの声に顔を上げる。


「また考えてるだろ。」

「はい。」

「今日は休め。」

「ベルもです。」

「俺は片づけが終わったら休む。」

「手伝います。」

「いい。」

「手伝います。」

「……分かった。」


 食事が終わる頃には、外の日差しが少し傾き始めていた。


 小雪が食器を洗い、ベルが布で水分を拭う。


 ベルは何度か欠伸を噛み殺していたが、手を止めようとはしなかった。


「眠いのであれば、先に休んでください。」

「お前に全部任せたら、棚へ戻す前に一枚くらい落としそうだから嫌だ。」

「信用がありませんね。」

「実績があるからな。」


 小雪が洗い終えた最後の皿を差し出すと、ベルは受け取って布で丁寧に拭った。


 小雪が次に何をすべきか考え、身体の向きを変える。


 その時、椅子の背へ垂れていた長い白髪が、木の継ぎ目へ引っかかった。


「待て。」


 ベルがすぐに手を伸ばした。


 髪を無理に引かないよう、指先で継ぎ目から外していく。


 長い白髪が、ベルの手の中を滑った。


「また伸びたな。」

「そうでしょうか。」

「伸びてる。前より絡みやすくなってるだろ。」


 ベルは解いた髪を一度手のひらへ載せ、毛先の長さを確かめた。


 いつもの仕草だった。


 小雪の髪が伸びれば、ベルが櫛を入れ、傷んだ部分を整え、邪魔にならない長さへ切る。


 これまでに何度も行ってきた。


 ベルは髪から手を離し、洗い終えた皿を棚へ戻した。


「そういえば、そろそろ髪を切らないとな。」


 何気ない口調だった。

 小雪の手が止まった。


 以前なら、何も考えずに了承していた。


 抜け落ちた白髪は、床へ落ちる前に細かな魔素へ変わり、光となって消える。


 小雪は、それを特に不思議だとも思っていなかった。

 ベルもこれまで、そういうものなのだと受け入れていた。


 けれど、今は違う。


 ベルは知っている。


 白くなった理由を。

 身体が小さくなった理由を。

 切り離された小雪の身体が、世界の魔素へ戻ることを。


「小雪?」


 返事がないことを不審に思ったのか、ベルが振り返った。


 小雪は自分の髪へ手を触れた。

 指の間を、細く柔らかな白い髪が通り抜けていく。


 次にベルがその光を見た時、どのような顔をするのだろう。


「嫌なら、別に今すぐじゃなくてもいいけど。」

「いいえ。」


 小雪は髪から手を離した。


「お願いします。」

「じゃあ、明日の朝でいいか。」

「はい。」

「今日はもう疲れた。」

「そうですね。」


 ベルは大きく欠伸をしながら、使い終わった布を竈の近くへ掛けた。

 それから炉の様子を確かめ、戸締まりを始める。


 いつもと変わらない夜の支度だった。


 小雪はその背中を見つめながら、もう一度、自分の髪へ指を通した。


 明日、ベルの手で切られた髪は、床へ残らない。

 それを知っている彼の前で、光となって消える。


 この身体は、世界の燃料として作り直されたものだ。


 もし仮に、世界を壊さず、ここで生きることを選んだとして。


 小雪は、ベルと同じように年を取り、同じだけの時間を生きられるのだろうか。


 ベルの隣で、この身体はあとどれほど人の形を保てるのだろう。


 火の消えた竈に残る灰が、今日はなぜか酷く寂しく見えた。

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