第六十一話 魔王城での一夜
魔王城へ着く頃には、薄ぼんやりと曇っていた空の一部が赤く染まり始めていた。
斜陽を受けた古い城壁は、昼間よりもさらに明暗を深めている。崩れかけた塔の片側だけが赤く照らされ、その裏側には、夜を先取りしたような濃い影が落ちていた。
ベルは、帰り道からほとんど口を開かなかった。
小雪も、声をかけなかった。
先を歩く少年魔王役が、時折、足元の石へ悪態をついたり、今日も夕食は干し肉だとぼやいたりする。その軽口だけが、三人の間へ落ちた静寂を、かろうじて薄めていた。
少年は魔王城へ入ると、そのまま二人を古い回廊の奥へ案内した。
「今日は部屋を貸してやる。地下の転移装置も、明日の朝には使えるようにしておくから、もう休め。」
そう言って一枚の扉を示し、疲れたように肩を回す。そのまま去ろうとした少年を、ベルがすぐに呼び止めた。
「おい。待て。」
「あ?」
「俺の部屋は。」
「だから、そこを使えって言っただろ。」
「いや、ここは小雪の部屋だろ?」
少年は心底面倒そうに顔を顰めた。
「二人で使えばいいだろ。なにせ古い城だ。前に勇者が使っていたこの部屋以外、普通に寝られる場所なんか残ってない。」
「二人で?」
「同じ家に住んでるんだろ。」
「部屋は別だ!」
「知らん。」
少年は眇めた目で小雪を見た。
「普通の人間じゃあるまいし、こいつも気にしねぇよ。なあ、勇者。」
――普通の人間じゃあるまいし。
少年にとっては、何気ない一言だったのだろう。
実際、その通りだった。
小雪は普通の人間ではない。身体の構造も、この世界の人間とは異なる。
その上自分の腕や脚を道具として使い、世界の燃料として切り刻み、色も、大きさも、かつての姿から変わってしまった。
それでも今は、その言葉が妙に目立って聞こえた。
きっと、ベルが、小雪の真実を知ってしまった後だったから。
「ええ。私は構いません。」
小雪はベルの方を見ずに答えた。
「ほらな。嫌なら、お前は廊下で寝ろ。」
「何で廊下なんだよ。」
「では、屋根のない部屋。」
「それを部屋と呼ぶな!」
ベルの抗議を捨て置き、少年は薄暗くなり始めた回廊の向こうへ去っていった。
ベルがこちらを見ているのが分かった。
けれど、小雪はその視線を受けることができなかった。何も言わずに扉を開け、部屋の中へ入る。
一年半ほど前にも使ったことのある客室だった。
石造りの壁。小さな卓。二脚の椅子。古い棚。そして、部屋の奥に置かれた大き目の寝台一つ。
以前と何も変わっていない。
それなのに、妙に冷たく、簡素な場所に感じられた。
この一年で、家というものがどれほど温かく、明るく、落ち着く場所なのかを知ってしまったせいだろうか。
火の音がある。
料理の匂いがある。
窓の外では木々が柔らかく風に揺れ、穏やかな川のせせらぎが耳を打つ。
そして、ベルが台所から小雪を呼ぶ。
いつの間にか、誰かと共に過ごす場所を、知ってしまった。
だから、かつては何とも思わなかった石の部屋が、今ではひどく寒く見えた。その変化を、今だけはよいことだと思えなかった。
温かさを知らなければ、失うことを恐れずに済んだだろうに。
少し遅れて、ベルが部屋へ入ってきた。扉が閉まる。二人きりになると、静寂が急に重くなった。
小雪は鞄を床へ下ろし、明日の移動に必要なものを確認した。ベルも少し離れた場所で外套と剣帯を外している。
旅装を解いて就寝のために上着を整えていると、寝台へ腰を下ろしていたベルが顔を上げた。
一瞬だけ、視線が重なる。
ベルはすぐに顔を背けた。
小雪は自分の寝衣へ目を落とした。
生成り色の簡素な服だ。首元も腕も隠れている。特におかしなところはない。
それでも、もしかして見たくないと思われたのだろうか。
あの話を聞いた後だ。
白い髪。
色を失った肌。
切り刻まれ小さくなった身体。
小雪は長い髪を片側へ寄せ、鞄の前へ座り込んだ。
「……食事、どうする。」
先に口を開いたのはベルだった。
「火を使える場所があるなら、軽く作るか。」
小雪は少し俯いたまま、首を横へ振った。
「不要です。食べなくても、欠けた分は補填されますから。」
自分でも分かるほど、声が硬くなった。
鞄の中を探っていたベルの手が止まる。
「お前。」
低い声だった。
「さっきの話を聞いた直後の俺に、それを言うか。普通。」
小雪は答えなかった。
普通。
また、その言葉だった。
小さく嘆息する音が聞こえる。
やがて、小雪の目の前へ固形パンの袋が差し出された。
「明日の朝には戻るんだろ。食っておけ。」
「……ありがとうございます。」
小雪は素直に受け取り、袋を開いた。
乾燥したパンを口へ運ぶ。硬い。噛むたびに生地が細かく崩れ、ぼそぼそとした食感が口の中へ広がった。
何とか食べ進めたものの、すぐに水分が足りなくなる。
寝台の端で同じパンを食べていたベルが、小雪の様子に気づいたらしい。鞄から水の入った瓶を取り出し、小雪の前へ差し出した。
「ほら。」
小雪は片手を伸ばした。
瓶を受け取ろうとした時、指先が一瞬だけベルの指へ触れた。
その瞬間、ベルの身体が強張った。
指が震え、瓶が手から落ちる。鈍い音とともに石床へ落ちた瓶は、割れることなく、そのまま卓の脚まで転がっていった。
「悪い。」
ベルはすぐに瓶を拾った。
今度は小雪へ手渡さず、その前の床へ置く。そして逃げるように寝台へ戻り、何事もなかったように固形パンを口へ運んだ。
――避けられた。
胸の奥で、大きな音が鳴った。
指が触れた瞬間、身体を強張らせた。
手を引いた。
触れなくて済むように、床へ置いた。
分かっていたことだった。
覚悟していたはずだった。
ベルが真実を知れば、小雪のことをどう思うのか。何度も考え、理解していたつもりだった。
先ほどの少年の言葉が、もう一度頭の中へ響く。
普通の人間ではない。
その通りだ。
小雪は、この世界の人間とは身体の作りから違う。死んでも死体すら残らない。
それだけではない。
自分の腕を切り離し、脚を削り、身体を燃料として裂け目へ落とし続けた。
ベルが美しいと褒めた白い髪も。
彼が何度も触れていた細い身体も。
その行為の代償として形づくられたものだった。
それを今日知られてしまった。
――ベルは、小雪のもとを去ってしまうかもしれない。
そう考えた瞬間、今まで経験したことのないほど強い衝撃が、小雪の身体を駆け抜けた。
彼がいなくなる。
毎日、小雪のために温かな食事を作るベルが。
白い髪を解き、水気を拭うベルが。
小雪の行動へ怒り、狼狽え、呆れ、笑うベルが。
鈴を鳴らせば、どこにいても駆けつけるベルが。
いなくなる。
ぞっとした。
そう思った自分自身にも、絶望した。
自分が、あの温かく明るい場所へいてよいはずがないと思っていた。
いつか判決を下さなければならない。
世界を壊すかもしれない。
山の家での生活は、それまでの短い猶予にすぎない。
そう考えていたはずなのに。
小雪は、ずっと続く未来を、いつのまにか願ってしまっていた。
「小雪。」
静寂の中へ落とされた声に、思考がふっと浮上した。
顔を上げる。
寝台の端へ腰掛けたベルが、小雪を見ていた。
静かな琥珀色の目だった。
「最初に俺を選んだ理由は、分かった。」
ベルは膝の上で両手を組んでいた。
「俺が魔法を使えないから、傍に置くには丁度良かった。」
「はい。」
「それは、もういい。」
小雪は僅かに目を動かした。
「いい?」
「俺が魔法を使えない理由が、世界の魔素不足が原因だったとしても、今さら何かが変わるわけじゃない。」
ベルは自分の手へ目を落とした。
いつものように、少しだけ顔を顰める。
けれど、小雪はその表情をまともに見ることができなかった。
「でも。」
ベルの声が続く。
「この一年、俺とやってきたことは、本当に意味がなかったのか。」
小雪は答えられなかった。
「俺が魔法なしで何ができるか確かめて、世界を残すかどうか判断するためだけに、ずっと一緒にいたのか。」
「……。」
「……俺は、確かにお前の過去の苦しみも、痛みも、まだ理解できてない。」
ベルの声は落ち着いていた。
「分かるなんて言える立場でもない。俺だって、この世界の貴族として魔法の恩恵を受けて生きてきた。」
琥珀色の目が少し伏せられる。
「お前と俺が同じだなんて、簡単には言えねぇ。」
その言葉で、小雪は悟った。
ベルは自分の出生について、もう受け入れ始めている。その上で、この世界の側に立とうとしている。
糸が切れる。彼が離れていく。
小雪の中で、何かが暗転した。
――失いたくない。
脳が痺れるほどの強い衝動が、全身を駆け巡った。
駄目だ。
彼は、小雪の傍にいるべきだ。
彼は、小雪とともにいなければならない。
絶対に逃がしてはならない。
この蜘蛛の糸の先には、ベルがいなければならない。
「いいえ。」
小雪は、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたは被害者です。」
ベルが顔を上げる。
「私と同じです。」
そうだ。
心の奥で、低い声が囁いた。
逃がしたくないのなら、逃れられない状況にしてしまえばいい。
自分以外を選べないようにすればいいのだ。
ベルが戻る場所を。
守ろうとする国を。
小雪以外へ向けられる全てを。
なくしてしまえばいい。
「この先も魔法が使われ続けるなら、あなたはいつまでも無能と罵られるでしょう。」
小雪は、寝台の端へ座るベルへ歩み寄った。
「だから。あなたの努力も、価値も、存在も認めない世界を、私が壊します。」
「小雪?」
「そして、二人で新しい世界を作りましょう。」
魔法のない世界。
誰もベルを卑下しない世界。
誰も彼を小雪から奪わない、二人だけの楽園。
千五百の屍の上へ、二十億の屍を重ねて。
彼と二人で立つのだ。
新しい世界に。
二人だけの楽園に。
そうすれば、ベルは小雪のもとを離れられない。
恐れ、怯えながらでも、小雪の手を掴むしかない。
それでよい。
愛されなくてもよい。
失うよりは、ずっとよい。
ベルは困惑したように眉を顰め、小雪を見詰めていた。
小雪はその両膝の間へ入った。片膝を寝台へ乗せ、続いてもう片方も。
ベルの脚の間で膝立ちになり、その身体へ乗り上げる。
「おい、何して――」
ベルが息を呑んだ。
小雪は両腕を伸ばし、彼の首の後ろへ掌を回した。
僅かに上を向いた琥珀色の目を見つめる。
困惑した表情。
それでも目元と頬が、仄かに赤く染まっていた。
小雪の身体を押し退けようとはしない。
そのことに、酷く安堵した。
「二人で生きましょう。」
小雪は囁いた。
「私たちを踏みにじった者を、全て消して。」
ベルの顔が近い。
金色の髪。
焦げた飴のような琥珀色の瞳。
熱を帯びた頬。
僅かに開いた唇。
「もし、頷いてくれるのなら。」
小雪はベルの首へ腕を回したまま、さらに身体を近づけた。
「今夜、私を抱いても構いません。」
「なっ……!」
琥珀色の目が大きく見開かれた。
ベルの顔が、一気に赤く染まる。
それでも、拒まれなかった。
よかった。
小雪はゆっくりと上体を倒した。
長い白髪が肩から滑り落ち、ベルの頬と胸元へ触れる。
目を閉じる。
柔らかそうな唇を食もうと、さらに顔を近づけた。
「む。」
唇へ、温かく、しかし骨ばった硬いものが当たった。
小雪は驚いて目を開いた。
二人の間へ、ベルの手のひらが差し込まれている。
焦げた飴のような琥珀色の目が、小雪をむっとしたように見つめていた。
「……小雪。」
ベルは片手で口づけを止めたまま、もう一方の手を小雪の肩へ置いた。
「正気に戻れ。」
両肩を掴まれ、ゆっくりと身体を引き離される。
「俺は、初心なハートを持った三下オカン乙女チワワだぞ。」
小雪は瞬きをした。
「三下オカン乙女チワワ。」
「復唱するな。」
ベルは小雪を自分の上から降ろし、寝台の横へ立たせた。そして自分は再び寝台へ座り、深く俯いた。
両肘を膝へつき、頭を抱える。
「いや、俺は何をしてるんだ。」
低い呟きが始まった。
「こんな、二度とないかもしれない機会を、自分で止めた。正気か。いや、正気じゃない。俺は全く正気じゃない。」
ベルが大変混乱している。
呟きが止まらない。
「俺は馬鹿なのか?据え膳だぞ。好機どころか、料理が皿と食器を持って俺の口元まで来てんだぞ。食うだろ、普通。」
ベルは頭を抱えたまま、さらに深く俯いた。
「逆に、こんな状況で手を出さないなら、いつ出せるんだよ。いや、でもやっぱりおかしい。どう考えてもおかしい。まだ告白も、文通も、庭園での逢瀬も、ピクニックも、馬での遠乗りも、小旅行も、触れそうで触れない三か月もこなしてない。」
指の間から、苦悩に満ちた声が漏れる。
「順番が違う。流石に、この近道はやっちゃ駄目なやつだ。これは絶対に正しい。感覚的に正しい。でも感情的には全く正しくない。正気の沙汰じゃない。俺は正気じゃない。でも小雪も正気じゃない。俺も小雪も正気じゃない。」
ベルが壊れかけている。
小雪は、はっとした。
これは緊急事態だ。
急いで鞄へ手を伸ばし、鈴を取り出す。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ベルが勢いよく顔を上げた。
「何だ!どうした!」
「非常事態です!」
「何が!」
「ベルが壊れました!」
ベルは暫し動きを止め、無言のまま小雪を見た。
いつもの空気が流れた。
「お前のせいだよ!」
「敬語。」
「お前様のせいですよ!」
「変です。」
「知ってるよ!」
小雪は、思わずいつものように合いの手を入れてしまった。
身についた習慣とは恐ろしい。
ベルはそこで何かに気づいたように、深い深いため息をついた。魂まで出ていきそうな、長いため息だった。
「終わったな。人生最初で最後かもしれない機会が。」
「危機ですか。鳴らしますか。」
「いや、だから目の前にいるだろ!何なんだよ。鈴に鎮静効果でも付与されてんのかよ!」
「うちのチワワ限定で、正気に戻す効果があります。」
「……よく分からんが、大丈夫だ。もう正気に戻った。」
ベルは寝台の端へ座ったまま、力なく肩を落とした。
「……しかし後悔は残った。」
そこでやっと顔を上げる。眇められた琥珀色の瞳が、小雪を見上げた。
「で、お前は。正気に戻ったか。って、どうした!?」
「何がですか。」
「泣いてる。」
そこで初めて、自分の頬が濡れていることに気づいた。
ベルはすぐに寝台から立ち上がると、小雪の顔を覗き込んだ。
心配する顔。
いつも通りの。
また瞳から、ぽろりと雫が落ちた。
「うわっ。どうした!やっぱり調子が悪いのか!?」
「分かりません。」
「分からない?どこか痛いとかはないのか?」
「身体は問題ありません。そもそも何かあっても、すぐ補填されます。」
「だから、もうそれが怖いから。俺の心臓が代わりに削られるから。」
ベルはゆっくりと小雪の頬を両手で包んだ。親指で、頬を伝った涙の跡を拭う。
「疲れてんだよ。」
その声は、先ほどまでの狼狽が嘘のように穏やかだった。
「明日も早いし、もう寝ろ。また家に帰って、一緒に考えればいい。」
一緒。
ベルは、当然のようにそう言った。
「一緒に?」
「何だよ。」
「ベルも、家に帰るんですか。」
「え?」
ベルは怪訝そうに眉を寄せた。
「俺、ここに置いていかれる予定だったの?」
「いえ……。」
「じゃあ、何だよ。」
小雪は、頬を包むベルの手を見た。
「私のこと、怖くないんですか。」
「何で?」
ベルは即座に聞き返した。
それから少し考え、顔を顰める。
「……いや、さっきのは怖かった。」
「さっき。」
「世界を滅ぼして、新しい世界を二人で作るって何だよ。怖すぎるだろ。俺、魔王になるつもりは一切ないんだけど。」
「さすが三下。小物ですね。」
「言い方……。」
ベルはもう一度、深く息を吐いた。
「……はあ。もういい。俺は疲れた。心臓も初心なハートも、今日だけで何回も死んだ。」
「鈴を。」
「もういいから!」
小雪が鈴へ手を伸ばすと、ベルは慌ててその手首を掴んだ。
「とりあえず家に帰って、うまいものを食べる。全部それからだ。」
「何の結論も、解決もしていませんが。」
「いいんだよ。」
ベルは小雪の手首を離し、乱れた金色の髪を掻き上げた。
「人生なんて、そんなもんだろ。世界の前に、今日の飯だ。」
「……。」
「疲れて、腹が減って、眠い時に深刻なことを考えるな。碌なことにならねぇ。飯を食って寝る。続きは明日だ。」
「……そうですか。」
「そうだよ。」
ベルは少しだけ視線を逸らした。
何かを言いかけては止め、落ち着かない様子で指先を組み替える。
やがて、意を決したように一度咳払いをした。
「あと、その。」
「どうしました。」
「言うぞ。」
「はい。」
ベルの視線が、また彷徨う。
「俺は!……この一年、すごく楽しかった。」
小雪は瞬きをした。
「お前の横で、色々考えて、色々作って、一緒に食べて、怒って、笑って。」
ベルは俯いたまま、言葉を探すようにゆっくり続けた。
「多分、今まで生きてきて一番楽しかった。」
「そうですか。」
「それで、その。」
耳の先まで赤くなっている。
「こんなのが、ずっと続けばいいなと思ってる。多分。」
「多分?」
「いや、だって、これから先はお前の判断もあるし。」
「判断。」
「あ、いや、世界を滅ぼすとか、そういう話じゃなくてだな。」
「滅ぼす。」
「違う!今はそこじゃない!」
ベルは完全に混乱していた。
「いや、もういい。今日は寝る。俺はもう寝るぞ。とりあえず!」
顔を赤くしたまま一人で狼狽え、寝る場所を探すように部屋を見回す。
そこで、ようやく寝台が一つしかないことを思い出したらしい。
ベルは固まったまま寝台を見つめた。
小雪も隣で同じものを見つめる。
「一緒に寝――」
「やめろ!最後まで言うな!俺の初心なハートがまた死ぬ!」
「寝台は広いです。」
「広いけど。」
「床は硬いです。」
「硬いけど。」
「私は構いません。」
「いや、さっきあんなことを言っておいて、今それを言うか!?」
「あなたこそあんなこと言っといて何を恐れる必要があるんですか。むしろ二十歳の健全な男がこんなに初心なんて冗談も程々にしてください。」
「お前のせいだろ!」
ベルは寝台から目を逸らし、部屋の隅の椅子を指差した。
「とにかく、俺は椅子で休む。お前が寝台を使え。」
「ベルは補填されません。大切にする必要があります。」
「一晩くらい平気だ。」
「逆らう場合は、寝台へ縛りつけます。」
「……。」
「物理的に。」
「分かったよ!」
ベルは頭を抱えた。
「ただし、真ん中に毛布を挟む。絶対にこっちへ来るなよ!」
絵面としては、絶対に台詞が逆であるはずなのに、妙に違和感がない。不可思議過ぎる。
そうして二人は、同じ寝台へ横になった。
もちろん、真ん中には毛布がこんもりと積まれている。
「お前、絶対こっちへ来るなよ。」
「やはり、どう考えても台詞が逆ではありませんか。」
「さっき信用を失うような実績を積み上げた奴が言うな!」
ベルは小雪に背を向けると、頭まで布団を被って隠れた。
小雪も目を閉じる。
静かな部屋へ、二人分の呼吸が落ちた。
少しして、布団の向こうから、ぼそりと声が聞こえる。
「……おやすみ。」
「……おやすみなさい。」
「どこにも行かねぇから、安心して早く寝ろ。」
小雪は、自分の口元が自然と微笑みの形を作るのを感じた。
状況は、何も変わっていない。
魔素の不安定化。
西大陸で高まりつつある戦の気配。
勇者召喚の停止も、未だ恒久的なものではない。
審判を下す日が必ず来ることも分かっている。
けれど、ベルは全てを知ってもベルのままだった。
いつものように怒り、狼狽え、赤くなり、オカンで、乙女で、チワワで、小雪の助手のままだった。
一緒に考えると言った。
どこにも行かないと言った。
家に帰って、美味しいものを食べると言った。
それなら、今日だけは何も考えなくてもよいのかもしれない。
余程疲れていたのか、こちらを向いた背は、すでに微かな上下を繰り返している。
広く、温かそうな背中。
条件など関係なく、本当に一線を越えてもよかったのに。
小雪は、とりあえず間にあった毛布を足で蹴り落とした。
◇ ◇ ◇
朝、小雪は温かなものに包まれて目を覚ました。
最初に見えたのは、淡い金色だった。
顔のすぐ近くに、柔らかな金髪がある。
ベルの髪だった。
小雪は静かに瞬きをした。
ベルは横向きになって眠っている。
起きている時には不機嫌そうに寄っている眉も、今は力が抜けていた。
長い睫毛。
まっすぐに通った鼻筋。
薄く閉じられた唇。
顎から首へ続く線も整っており、窓から差し込む朝の光の中では、彫刻のように見えた。
ベルの容姿が優れていることは、以前から認識していた。
背が高く、均整の取れた身体をしている。
魔法が使えない分、幼い頃から鍛え続けたのだろう。寝衣の布越しにも肩と胸には十分な厚みがあり、細身に見える腰との間に、男性らしい線ができている。
襟元は少し開き、鎖骨から胸元へ続く肌が覗いていた。
温かく、血の気があり、傷つけば痛み、勝手には元へ戻らない生身の身体。
美しい。
小雪は冷静に分析した。
それから、自分たちの体勢を確認する。
小雪の頭は、ベルの肩と胸の境目へ乗っていた。
片手は、ベルの寝衣を掴んだまま。
もう片方の腕は、彼の腰へ回っている。
さらに、ベルの腕が小雪の背中へ回り、逃がさないように抱き寄せていた。
脚も毛布の下で触れ合い、互いの身体にはほとんど隙間がない。
ベルの胸から、穏やかな心音が伝わってくる。
これは、もしや良い機会なのではないだろうか。
小雪は、長い睫毛をもう少し近くで観察しようと、僅かに顔を上げた。
その動きで、ベルの目が開いた。
至近距離で視線が合う。
「……。」
「おはようございます。」
「……。」
ベルの目が、小雪の顔から、自分の胸元を掴んでいる手へ移った。
次に、小雪の腰へ回している自分の腕を見る。
最後に、互いの身体が密着している状況を理解した。
ベルの顔が、一瞬で赤く染まった。
「何で俺がここにいる!?」
勢いよく起き上がろうとしたが、小雪の腕が腰へ回っているため、途中で動きが止まる。
「分かりません。間の毛布が、なぜか落ちたようです。」
「何で!?」
「私たちへ遠慮したか、馬に蹴られた可能性があります。」
「何だそれ。意味が分からなさすぎて怖い。」
ベルは慌てて、自分と小雪の衣服を確認し始めた。
襟。
袖。
腰紐。
毛布の位置。
何も乱れていないと分かり、長く息を吐く。
「俺、何もしてないよな。」
「疑うのは、そちらですか。」
「おい。俺は別の心配をすべきなのか?」
「昨日の今日です。」
「やめろ。初心なハートがまた死ぬ!」
ベルは寝台の上で頭を抱えた。耳まで真っ赤になっている。
「とりあえず、同じ寝台で一夜を過ごした実績ができました。次は襲ってもよいですか。」
「誤解を招くような言い方をするな!よくない!」
ベルは文字通り飛び起きると、逃げるように支度を始めた。
◇ ◇ ◇
地下の転移室には、先日使った終点陣とは別の魔法陣が刻まれていた。
「ここから王城側の終点へ飛ぶ。」
少年魔王役が、崩れかけた石台へ手を置いた。
「こんなぼろいものを使って大丈夫なのか?」
ベルが嫌そうな顔で石室を見回す。
「嫌なら歩いて帰れ。」
「いや、またあの道のりを戻るのは、正直きつい。」
少年は鼻で笑い、それから小雪の方を見た。
「結論は出たか。」
「いいえ。」
「そうか。」
少年はあっさり頷いた。
「もし滅ぼすと決めた時は、早めに連絡をくれよ。俺たちは魔法をほとんど使ってないんだから、やるなら一番最後にしてくれ。身辺整理もしたいし、最後に美味いものも食いたい。」
「何か、お前は軽いな。」
「重く考えたところで、勇者が本気になったらどうにもならねぇからな。」
少年は小さく肩を竦めた後、少しだけ表情を改めた。
「それより、西大陸の件には注意しておいた方がいい。」
石台の上で、薄い光が瞬き始める。
「放っておけば、八十年ぶりの世界戦争になる。大規模破壊魔法も開発された今、消費される魔素はこれまでの比じゃない。」
「……召喚再開の、よい口実になるでしょうね。」
「ああ。」
少年の口元へ、皮肉げな笑みが浮かんだ。
「まあ、このまま放っておいても、あいつらは自分たちで世界を滅ぼすかもしれないけどな。」
魔法陣から立ち上る光が強くなる。
ぐらりと視界が揺らめいた。
次の瞬間、魔王城の石室は消えていた。
◇ ◇ ◇
白い光が一度大きく膨らみ、足元へ沈んでいく。
小雪が目を開くと、魔王城の崩れかけた石室は消え、磨かれた白灰色の床が視界に入った。
王城側の転移室だった。
壁に沿って並べられた魔法灯が、窓のない室内を青白く照らしている。魔王城の地下に漂っていた土埃や湿った石の匂いはなく、代わりに香油と、清掃された床石の乾いた匂いがした。
行きと帰りでは、同じ転移でも身体へかかる負荷が違った。
足元が固まった瞬間、隣でベルの呼吸が詰まった。
「っ……。」
小雪が振り向くと、ベルは片手で胸元を押さえ、もう片方の手を転移台の縁へついていた。顔色も僅かに悪い。
「ベル。」
「大丈夫だ。ちょっと、待て。」
押し潰されるような圧迫感が、まだ胸の奥へ残っているらしい。ベルは何度か浅く息を繰り返した後、ようやく身体を起こした。
その間、室内で待っていた者たちは、誰一人として声をかけなかった。
転移台の正面には王が立ち、その後ろには数人の側近と、魔術師らしい濃紺の長衣をまとった者たちが控えていた。早朝から待機していたのだろう。整えられた衣服の下に、隠しきれない疲労と緊張が見える。
王は小雪と目が合うと、わずかに表情を引き締め、一歩前へ出た。
「勇者様。魔王領の状況は、いかがでしたか。」
声は落ち着いていたが、胸元で組まれた手には僅かに力が入っていた。
「少しだけ補填してきました。」
小雪が答えると、王の頬が引きつった。
後方に立つ魔術師の一人も、思わず足元の転移陣へ視線を落とす。
「そ、そうですか。」
「しかし、一時的なものでしょう。」
「なるほど……。」
王は小さく頷いた。
それ以上何を尋ねるべきか測りかねているのか、短い沈黙が落ちる。魔法灯の内部で燃える光だけが、微かな音を立てて揺れていた。
「それと。」
小雪は、横目で王の顔を見遣った。
「西大陸が、なにやら焦げ臭いようですね。」
王の肩が僅かに跳ねた。
後ろに並ぶ側近たちの間でも、ほんの一瞬だけ視線が交わされる。
「……魔王殿が、そう仰いましたかな。」
「知らぬ存ぜぬですか。」
小雪の声が冷えた。
王は唇を薄く結んだ。
「勇者様。」
「いつもの通り、責任の所在を薄めるのがお上手ですね。」
返事はなかった。
王は視線を逸らさなかったが、その表情には、否定も肯定も浮かばない。誰か一人の意志では止められないことを理由に、結局は誰も責任を引き受けない。小雪が何度も見てきた顔だった。
「大規模な魔法戦になれば、また魔素が失われます。」
「現在、我が国としても、和平へ向けた働きかけを行っております。」
「戦争を止めてください。」
王の表情が固まった。
室内の空気まで、ぴたりと止まったように感じられた。
「し、しかし、我が国だけで決められる問題では……。」
「分かっています。」
小雪は淡々と答えた。
「決める国が多いほど、誰も止められないのでしょう。」
王の背後で、一人の側近が僅かに俯いた。
「ですが、結果は同じです。戦争が始まり、大規模な魔法が使われれば、世界の魔素はさらに減ります。そして足りなくなれば、あなたたちは、また勇者を召喚しようとする。」
「そのようなことは……。」
「もし勇者召喚を再開すれば、戦争の決着がつく前に、この世界を壊します。」
王の顔から血の気が引いた。
側近たちの間にも、小さな動揺が走る。衣擦れの音が重なり、誰かが息を呑む音も聞こえた。
小雪は彼らを見渡した。
恐怖。
戸惑い。
警戒。
誰の顔にも、死んだ勇者候補たちへの痛みは見えない。
ただ、自分たちの世界が壊される可能性に怯えている。
それも、もう見慣れたものだった。
「必ず、世界会議へお伝えいたします。」
王は少し掠れた声で答えた。
「一言一句、そのまま。」
「承知しました。」
深く頭を下げる。
その姿勢のまま、王はしばらく顔を上げなかった。
小雪はそれ以上何も言わなかった。
「もう帰ります。馬車を出してください。」
「……承知しました。」
王がようやく顔を上げ、控えていた侍従へ目を向ける。
侍従はすぐに一礼すると、足音を抑えながら転移室を出ていった。
小雪たちも転移台を下りた。
ベルはまだ少し息苦しそうだったが、小雪が腕へ手を伸ばすと、軽く首を横へ振った。
「歩ける。」
「そうですか。」
「でも、もう今日は転移したくない。」
「同感です。」
二人が扉へ向かうと、並んでいた側近たちが左右へ道を空けた。
誰も小雪と目を合わせようとはしなかった。
重い扉が開く。
転移室の外には、朝の光が差し込む長い廊下が続いていた。
高窓から落ちる光の帯の中で、細かな埃が静かに舞っている。遠くからは、使用人たちが行き交う足音と、王城の一日が始まる気配が聞こえていた。
先ほど世界を壊すと宣言したばかりなのに、城の中では、いつも通り朝の仕事が始まっている。
人々は廊下を磨き、花を運び、書類を抱えて歩いていた。
世界は、何も知らない顔をして動き続けていた。
◇ ◇ ◇
王城の正面玄関を出ると、すでに馬車が用意されていた。
朝の空気にはまだ僅かに冷たさが残っている。白い石段の下では、二頭の馬が時折蹄を鳴らし、鼻から薄い息を吐いていた。
御者が扉を開け、深く頭を下げる。
小雪が先に乗り込み、その後からベルが続いた。
柔らかな座席へ腰を下ろした途端、ベルは全身の力を抜くように背凭れへ沈み込んだ。
「疲れました。」
小雪が言うと、向かいに座ったベルが薄く目を開けた。
「俺も疲れた……。早く帰りたい。」
馬車がゆっくりと動き始める。
車輪が王城前の敷石を越えるたび、規則的な振動が座席から身体へ伝わってきた。
ベルはまだ胸の辺りへ片手を置いている。魔王城からの転移で受けた圧迫感が、完全には抜けていないらしい。
顔色は先ほどより戻っていたものの、いつものような勢いはなかった。
「まだ苦しいですか。」
「少しな。行きより、帰りの方がきつかった。」
「装置の古さか、周囲の魔素の薄さが関係しているのかもしれません。」
「次に使う時までに、原因を調べる。」
疲れていても、ベルはすぐに原因の検討を始める。
小雪は窓の外へ目を向けた。
馬車は王城の門を抜け、王都の大通りへ入っていく。
朝の街は、すでに動き始めていた。
商店の前では、店主が木製の雨戸を外している。パン屋の煙突からは細い煙が上がり、開いた扉から焼きたてのパンの匂いが流れてきた。
荷車を引く男が、大きな声で通行人へ道を空けるよう呼びかける。
制服姿の子供たちは、鞄を抱えながら連れ立って歩き、その後ろを遅れまいと小さな子供が走っていた。
道端では、花売りの少女が桶へ水を足している。
誰も、西大陸で始まろうとしている戦争のことなど知らないように見えた。
勇者召喚の仕組みも。
魔素が失われ続けていることも。
小雪がほんの少し前に、この世界を壊すと王へ告げたことも。
何も知らず、今日の仕事へ向かい、今日食べるものを売り、子供たちを学校へ送り出している。
平和だった。
少なくとも、今、この瞬間は。
小雪は流れていく街並みを眺めた。
この人々が何も知らないということは、罪がないということなのか。
それとも、知らないまま恩恵を受けていることこそ、罰されるべきなのか。
考え始めれば、また底のない場所へ沈んでいきそうだった。
「何か買って帰りますか。」
小雪は視線を窓の外へ向けたまま尋ねた。
ちょうど馬車の横を、野菜を積んだ荷車が通り過ぎていく。籠の中には、土のついた根菜や、濃い緑色の葉物が山のように積まれていた。
「いや。」
ベルは目を閉じたまま答えた。
「今日は、もう家にあるもので作らせてくれ。」
「美味しいものを作ってくれますか。」
「それはもちろん。」
返事には、疲労が滲んでいた。
それでも、食事を作らないという選択肢はないらしい。
さすがオカンである。
「何を作りますか?」
「豆と野菜が残ってたはずだから、煮込みにする。あとは固いパンを焼き直す。」
「魚は?」
「魚はないが、干し肉を入れる。」
「楽しみです。」
「食う前から期待を上げるな。」
ベルは閉じていた目を開き、少しだけ口元を緩めた。
その表情を見て、小雪もそっと息を吐く。
馬車は大通りを外れ、少しずつ人通りの少ない道へ入っていった。
王都を囲む外壁が近づくにつれて、建物の間隔が広がり、窓から見える空も大きくなっていく。
城門を抜けると、車輪の音が石畳の硬い響きから、土の道を踏む柔らかな音へ変わった。
遠くには、春の薄い緑に覆われた丘が見える。
その向こうに、二人の家がある。
火の音がある。
水車が回っている。
作りかけの道具や、積み上げた木材や、ベルが整えた台所がある。
問題は、何一つ解決していない。
魔素は減り続けている。
西大陸では戦の気配が濃くなっている。
勇者召喚が再開される可能性も消えていない。
むしろ、考えなければならないことは増えた。
それでも、今は家へ帰る途中だった。
ベルと二人で。
窓から差し込む柔らかな日差しが、膝の上へ落ちている。馬車の揺れは一定で、向かい側からはベルの穏やかな呼吸が聞こえた。
小雪は背凭れへ身体を預け、しばし目を閉じた。
今日のところは、家へ帰り、美味しいものを食べればよい。
今は、それだけを考えていたかった。




