第六十話 旅の終わり
王城を出る時、召喚の鐘は鳴らなかった。
小雪は、それだけを確認した。
王は召喚陣の一時停止を命じた。
一時停止。
緊急措置。
世界会議への報告。
どこまでも、この世界の言葉だった。
やめる、ではない。
謝罪する、でもない。
償う、でもない。
状況に応じて、今は止めておく。ただ、それだけだった。
小雪はその言葉を胸の中で繰り返しながら、少年の後について、王城地下の転移装置へ向かった。
少年は気楽そうに歩いていた。
黒い髪に青白い肌、小さな角。後ろから見れば、十歳ほどの子供にしか見えない。それでも、その足取りには迷いがなかった。
何代も選ばれてきた魔王役。
大地の裂け目を監視し、人間側へ異常を報告するための窓口。
小雪はしばらく、少年の小さな背中を見ていた。
「……この制度は、千年も前からあるんですか。」
少年は振り返らなかった。
「おおよそ千年前、だな。」
小雪は、足を止めかけた。
「なぜ私達の世界に。」
「世界の魔素が大きく不足する前の時代のことだ。人間どもが異界へ穴を開けた。観測中に偶発的に起こった事象らしいが、こちら側に始点を作って、たまたま終点がつながったのが、お前たちの世界だったらしい。」
少年は歩きながら、指を折るような仕草をした。
「その後、色々あって、世界魔素保全会議だか何だかで正式な制度になった。ヴァルクレスト王国が召喚の実務を担い、各国が費用と物資を出し合う。俺たち魔族側は裂け目の状態を観測して、そろそろ危ないぞと伝える。」
「百年に一度。」
「大体な。今回までで十回前後はやってるんじゃないか。」
「十回。」
「世界側から見れば、実績のある制度だ。」
少年は何でもないことのように言った。
「何度も世界を救ってきた。そういう扱いだな。」
小雪は、言葉を失った。
千年。
その時間の長さを、うまく想像することができなかった。
小雪が生まれるずっと前。
父も母も、祖父母も、そのまた祖父母も生まれていなかった頃から、地球の誰かがこの世界へ呼ばれていた。
その人たちも、帰れると言われたのだろうか。
勇者と呼ばれ、世界を救ってほしいと手を握られ、戦わなくてもよいのだと優しく説明されたのだろうか。
誰かは家族を残していた。
誰かは、まだ子供だった。
誰かは、仕事や学校へ向かう途中だった。
そして、全員が死んだ。
身体も、流れた血も、何もかも光へ変わり、この世界を巡る魔素になった。
その一人一人が、ここでは実績と呼ばれている。
「顔、怖いぞ。」
少年が言った。
「怖くしているつもりはありません。」
「じゃあ、元からか。」
小雪は少年を見た。
「斬りますよ。」
「すみません。」
少年は素直に謝った。
小雪はそれ以上、何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
転移の光が消えると、二人は魔王領の地下へ戻っていた。
装置は一方通行にしか開かない。王城からの転移装置で到着したのは、魔王城ではなく、そこからほど近い魔王領の近くだった。
ひび割れた石床には古い魔法陣が刻まれ、湿った冷たい空気が漂っている。
王城の清潔な白い石とは違い、こちらの床は黒ずみ、ところどころに苔まで生えていた。
少年は台座から降り、大きく伸びをした。
「ああ。やっぱり王城は肩が凝る。」
「あなたにも肩が凝るんですか。」
「あるぞ。見た目は子供でも、中身は結構古いからな。」
「何歳なんですか。」
「もう数えるのをやめた。」
少年は軽く答えた。
「魔王役は少し長持ちする。裂け目の近くにいすぎると、時間の流れも妙になるんだよ。」
「便利ですね。」
「お。仕返しか?」
「はい。」
「結構、根に持つ性格なんだな。」
「持ちます。」
「怖いな、勇者候補。」
「勇者ではありません。」
「では、何だ。」
小雪は答えなかった。
勇者候補。
異界人。
高濃度魔素体。
二千名弱のうちの一人。
燃料。
どれも自分を指す言葉ではあったが、どれも自分そのものではないように思えた。
では、自分は何なのかと問われても、答えは見つからなかった。
少年はしばらく待っていたが、それ以上は尋ねなかった。
二人はそこから、数日かけて魔王城まで戻った。途中に魔族の村もあった。痩せた土地で身を寄せ合うようにして暮らす魔族たちは、やはりどう見ても王国や教会が説明する狂暴な魔族とはかけ離れた姿をしていた。ただ、皆が小雪を恐れるように遠巻きに見ていた。誰も近づいてはこなかった。
人間。
勇者候補。
高濃度の魔素を持つ異界人。
彼らにとって小雪は恐怖なのだろうか。
資源なのだろうか。
それとも、珍しいものなのだろうか。
小雪には分からなかった。
少年は慣れた様子で周囲を見て回っていた。慕われている様子を見るに、確かに魔族の長としてそれなりの月日を過ごしているようであった。
王城に到着すると、少年は小雪を連れてすぐに大地の裂け目へ向かった。
「本当に、覚悟はできてるんだな。」
魔王城の裏手へ出ると、やはり風が強かった。
荒野は灰色に沈み、遠くには大地の裂け目が黒く横たわっている。
「先に言っておくけど。」
少年が歩きながら言った。
「俺は止めないぞ。」
「何をですか。」
「お前が、自分の身体を削ること。」
小雪は少年を見た。
少年は前を向いたまま続けた。
「止めてもやるだろ。だったら、止めるだけ無駄だからな。」
「優しいんですね。」
「違う。面倒なだけ。」
「そうですか。」
「それから、俺はお前に同情していない。」
小雪は、わずかに目を細めた。
少年は淡々と話した。
「お前から見れば、この世界は最低だろうとは思う。でも、俺たちからすれば、魔素が戻れば土地が少しはましになる。狂う奴も減るし、作物も育つ。この世界が少しでも延命するなら、俺たちは助かる。それだけだ。」
「分かっています。」
「怒らないのか。」
「怒っています。」
少年が横目で小雪を見た。
「静かすぎて分からん。」
「では、怒鳴れば満足ですか。」
「いや。鼓膜に悪いから、静かなままでいい。」
少年はそう言い、足元に落ちていた欠けた石を蹴った。
小雪は、その横顔を見た。
軽い。
本当に、どこまでも軽い。
この少年は小雪を慰めない。
かわいそうだとも言わない。
地球人の犠牲を尊いものに変えようとしないし、自分たちにも罪があると殊勝な顔をすることもない。
ただ、自分たちにとっては、世界が助かる方がよいと認めている。
それが、不思議と王国の言葉よりはましだった。
王国の者たちは、尊い犠牲だと言った。
世界のためだと言った。
痛ましいと言った。
小雪の怒りは理解すると言った。
それでも、やめるとは言わなかった。
少年は、最初から何一つ美しくしない。
だからこそ、小雪は、この少年をまだ殺していないのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
裂け目の縁へ着いた時、空は鈍い赤色へ染まり始めていた。
大地は、見渡す限り割れている。
近くで見ると、それは崖というより、世界に開いた傷のようだった。底は見えず、ただ深い闇だけが続いている。時折、そこから冷たく乾いた風が吹き上げていた。
小雪は縁へ立ち、下を覗いた。
長く立っているだけで、身体の中の魔力が少しずつ削り取られていく。足元から、自分の中身を吸われているような感覚があった。
「ここへ落とすんですね。」
「そう。」
少年は裂け目の縁へしゃがんだ。
「世界で一番、魔素が薄い場所だ。ここへ直接補填すれば、周辺から少しずつ広がっていく。水源に水を入れるようなものだな。」
「どれくらい必要ですか。」
「分からん。」
「分からない。」
「正確に測れるなら、最初から苦労していない。今までの補填は、死んだ勇者候補の魔素が各地から自然に世界へ散る形だった。お前のように、生きたまま同じ身体を何度も落とす奴はいなかったからな。」
「では、何日かかるのかも。」
「分からん。」
小雪は少年を見た。
「本当に役に立つんですか、あなた。」
「案内役としては優秀だろ。あと、滞在中の部屋を貸してやる。」
「それだけですか。」
「それだけだな。」
少年は悪びれずに答えた。
小雪は短く息を吐いた。
「では、どう始めればいいんですか。」
「削ればいい。」
あまりにも簡単な言葉だった。
小雪は、自分の手を見た。
何度も傷つき、何度も元へ戻った手だった。
隼人の身体を抱いた腕。
エリーズを引き上げられなかった指。
瑞希の手を、消えるまで握っていた手のひら。
「腕一本、落とすか?」
少年が言った。
小雪は少年を見た。
「言い方。」
「量としては分かりやすいだろ。」
「分かりやすければ、何を言ってもよいと思っていますか。」
「この作業に情緒を持ち込むと、やりづらいぞ。」
少年は真顔だった。
小雪は一瞬、返す言葉を失った。
それから、ほんの少しだけ笑いそうになった。
笑わなかった。
けれど、喉の奥で何かが微かに揺れた。
「最低ですね。」
「そうか?」
小雪は外套を脱いだ。
裂け目から吹き上げる風が、薄い衣服の上から肌に触れた。寒かった。身体の中の魔力がざわつき、胸の奥も落ち着かなかった。
痛みは怖い。
何度経験しても、怖い。
小雪は死にたくなかった。
今も、死にたくない。
死んだ先に、家族は待っていない。
光になれば、この世界へ吸収されるだけだ。
それでも、ここで止まれば召喚は続く。
王国はやめない。
世界会議もやめない。
各国は、自分たちの豊かさを手放さない。
誰も悪くないという顔をして、また地球から誰かを呼ぶ。
だから、小雪がやるしかない。
小雪は左手の指先へ意識を集中させた。
短剣で皮膚を切る必要は、もうほとんどなかった。
黒い峡谷で初めて身体の一部を魔力へ変えて以来、何度も同じことを繰り返した。今では、どこへ力を集中させれば身体の一部がほどけるのか、感覚として分かるようになっていた。
指先に熱が集まる。
直後、鋭い痛みが走った。
小雪は奥歯を噛み締めた。
声は出さなかった。
左手の指先が、白い光へほどけていく。
皮膚も、肉も、骨も、そこから滲みかけた血さえ地面へ落ちる前に細かな粒へ変わり、雪のように裂け目へ吸い込まれていった。
白い光が、闇の底へ落ちる。
しばらくして、裂け目からごく微かに、先ほどまでとは違う風が吹き上げた。
少年が身を乗り出した。
「お。」
小雪は荒い息を吐いた。
失った指先は、すでに戻り始めている。白い光の中へ半透明の輪郭が生まれ、その内側を満たすように、骨と肉が少しずつ編み上げられていた。
痛みは、まだ残っている。
けれど、以前より速かった。
小雪の身体は、もう戻り方を覚えていた。
「効いていますか。」
「たぶん。」
少年は裂け目の底を覗きながら答えた。
「ほんの少しだけな。」
「少し。」
「指先だけで世界が元へ戻るなら、千年前に誰かがやってる。」
「そうですね。」
小雪は、戻りかけた左手をゆっくり握った。指先はまだ冷たく、触れた感覚も曖昧だった。
「次は。」
「少し休んだ方がいいんじゃないか。」
「どれくらい。」
「一日。」
「そんなには待てません。」
「では、一時間。」
「長いです。」
「お前、加減という言葉を知っているか?」
少年が呆れたように言った。
小雪は返事をしなかった。
左手が完全に戻ると、今度は手首までを光へ変えた。
◇ ◇ ◇
一日目、小雪は三度だけ身体を削った。
最初は指先。
次は手首。
最後には、左腕の肘から先を裂け目へ落とした。
そのたびに白い光が闇へ吸い込まれ、そのたびに小雪の身体は元の形へ戻った。
けれど、何も変わっていないわけではなかった。
再生を終えるたび、何かがわずかに薄くなるような気がした。
髪の黒。
肌の血色。
指先に宿る温度。
痛みの直前、胸の奥へ生じていた震え。
その変化が何を意味するのか、小雪にはまだ分からなかった。
少年は、裂け目のそばへ座って計測を続けていた。
日が完全に沈む頃、石の上へ置いた簡素な測定具を眺めながら言った。
「まだ全然足りないな。」
「でしょうね。」
「ただ、朝より風がましになってる。北側の吹き上げも、少し弱くなった。」
「それは、よいことですか。」
「よいことだな。」
「では、続けます。」
「今日はもうやめろ。」
「なぜ。」
「死ぬぞ。」
「死んでも戻るかもしれません。」
「戻らなかったら困るだろ。」
「あなたが?」
「俺も多少は困る。お前自身も困れ。」
小雪は答えなかった。
少年は深くため息を吐いた。
「お前、本当に危ないな。」
「今さらです。」
「それを便利な返事にするな。」
一日目の夜、小雪は裂け目の近くにある石小屋で眠った。
眠ったというより、粗末な寝台へ横になった途端、意識を失った。
夢を見た。
地球の夢だった。
雨の日の通学路を歩いていた。傘を叩く雨の音が聞こえる。少し先から母の声がし、父が何かを言って笑っている。
妹は、くだらないことで泣いていた。
弟は小雪の鞄を勝手に開け、母に怒られていた。
どれも、特別な思い出ではなかった。
だからこそ、夢の中では、本当に家へ帰れたような気がした。
目を覚ますと、朝だった。
小雪はしばらく石の天井を見つめ、それからゆっくりと身体を起こした。
最初に、隼人の住所を口にした。
県名。
市の名前。
駅。
マンションの色。
近くのコンビニ。
部屋番号。
全て、言うことができた。
次に、覚えている名前を一人ずつ呼んだ。
エリーズ。
亮。
マーク。
ユナ。
ダニエル。
瑞希。
オリバー。
林佳慧。
ルカ。
まだ、全部覚えている。
小雪は寝台から立ち上がった。
まだ、大丈夫だった。
◇ ◇ ◇
十日目には、少年が大きな石板へ簡単な表を作っていた。
裂け目から吹き上げる風の強さ、周辺の魔素濃度、魔族や魔物の凶暴化件数、水源と作物の状態を毎朝確認し、日ごとの変化を線で記していく。
「南東は少し改善。北側は変化なし。底からの風は昨日より弱い。凶暴化は昨日が二件で、今日は一件。」
「役所のようですね。」
「魔王役は、実質的には裂け目役所だからな。」
「嫌な役所です。」
「苦情窓口も兼ねてるぞ。人間からも魔族からも怒られる。」
「同情はしません。」
「してくれてもいいんだぞ。」
「しません。」
「冷たいな。」
少年はそう言いながら、石板へ新しい線を刻んだ。
十日目には、小雪の黒髪へ、明らかに白いものが増えていた。
身体の再生速度も、繰り返すほど上がっていった。
最初は腕一本が戻るまで半日近くかかり、足を失えば一日を要した。それが三十日を過ぎる頃には、腕一本であれば、一時間ほどで元の形を取り戻すようになった。
切り離す。
戻る。
戻ったら、また切り離す。
痛みは消えなかった。
けれど、小雪が痛みから呼吸を整えている間にも、身体はすでに再生を始めている。
指が生まれる。
腕が伸びる。
骨も肉も皮膚も、失われる前と同じ形を作り直す。
まるで、身体の方が小雪を置き去りにして、この作業へ適応していくようだった。
初めの頃、小雪は身体を削るたび、痛いと思った。
次には、この痛みがあとどれほど続くのだろうと考えた。
やがて、痛みを気にかける必要があるのか分からなくなった。
痛い。
だから何なのだろう。
どうせ戻る。
戻れば、また使うことができる。
痛みに慣れたのか。
それとも、痛みを自分にとって重要なものだと思えなくなったのか。
小雪自身にも、次第に区別がつかなくなっていた。
◇ ◇ ◇
三十日目、王国から使者が来た。
少年が予想していた通り、王国は約束を守っているように見えた。
召喚陣は停止。
新たな勇者候補の召喚は行われていない。
世界会議へ緊急報告。
大型魔法の一部使用制限。
魔法炉の出力抑制。
転移門の使用回数制限。
使者は、それらを一つずつ丁寧に読み上げた。
小雪は裂け目から少し離れた岩へ腰掛け、黙って聞いていた。
「一部。」
使者の声が止まった。
「はい?」
「大型魔法の一部を制限した、とおっしゃいました。」
「はい。全面的な停止には、各国の合意形成が必要でございまして。」
「合意形成。」
「都市結界の即時停止は民心への影響が大きく、転移門も医療物資や食糧の流通に関わっております。現在は、段階的な削減案を協議しているところです。」
「分かりました。」
小雪がそう答えると、使者の表情がわずかに明るくなった。
小雪は続けた。
「では、召喚陣だけは、二度と動かさないでください。」
「それは、もちろん。現時点では。」
「現時点。」
使者は黙った。
少し離れたところで石板を整理していた少年が、小さな声で言った。
「役人ってすごいよな。どこの世界も。」
小雪は使者を見た。
「次に召喚の鐘が鳴ったら、私はこの世界への補填をやめます。」
使者の顔から血の気が引いた。
「それは。」
「一言一句、そのまま報告してください。」
小雪は立ち上がった。
「次の鐘が鳴った時点で、私はこの世界を敵と判断します。」
使者は深く頭を下げ、ほとんど逃げるように去っていった。
少年は、その背中を見送りながら言った。
「お前、外交には向いてないな。」
「向きたくありません。」
「だろうな。」
三十日目。
小雪の中には、まだ熱を持った怒りがあった。
◇ ◇ ◇
五十日目を過ぎる頃から、小雪はあまり話さなくなった。
必要なことは言える。
今日は身体のどこを削るのか。
失った部位が、どれほどの時間で戻ったのか。
裂け目から吹き上げる風は、昨日と比べてどう変化したのか。
魔族や魔物の凶暴化は減ったのか。
王国から報告は来たのか。
作業と観測に必要な言葉は、問題なく出てきた。
それ以外の言葉だけが、少しずつ遠くなった。
怒っているはずなのに、怒りは薄い膜の向こう側にあった。
悲しいはずなのに、悲しみは胸へ届く前に、どこかで形を失った。
身体の痛みも、空腹も、寒さも認識できる。
必要なら食べ、眠り、外套を着る。
けれど、それらを不快だと感じる部分だけが、少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
小雪は、その変化に気づいていた。
だから毎朝、隼人の住所を唱えた。
県名。
市。
駅。
マンションの色。
近くのコンビニ。
部屋番号。
その後に、覚えている名前を一人ずつ呼んだ。
エリーズ。
亮。
マーク。
ユナ。
ダニエル。
瑞希。
オリバー。
林佳慧。
ルカ。
ほかにも、名前を知らないまま消えた人がいた。
名前を覚えていたはずなのに、すでに音が曖昧になっている人もいた。
顔の輪郭が薄れ、声を思い出せなくなった者もいる。
ある朝、それを聞いていた少年が言った。
「全部、覚えてるのか。」
「全部ではありません。」
小雪は最後の名前を唱えてから答えた。
「名前を知らなかった人もいます。覚えていたはずなのに、顔や声が薄くなった人もいます。」
「そうか。」
「でも、忘れれば、本当に燃料になります。」
少年は黙った。
「私が覚えていなければ、この世界には数字しか残りません。」
少年は珍しく軽口を返さず、その日の記録を石板へ刻み始めた。
人の名前や顔は、少しずつ遠ざかっていた。
それでも、制度が何をしたのかは忘れなかった。
地球人が呼ばれた。
騙された。
死んだ。
魔素にされた。
そして、この世界は、それを合理的な制度として続けようとした。
細かな記憶が削られるほど、その事実だけが硬く残った。
怒りは熱を失っていった。
けれど、憎しみまで消えたわけではなかった。
憎しみは、判決文のように冷たく、動かしがたい結論へ変わっていった。
◇ ◇ ◇
七十日目。
裂け目の周辺に、目に見える変化が現れ始めた。
荒野の端へ、淡い緑が戻った。
魔族たちの畑には小さな芽が出て、水汲み場の水量も増えた。夜になると凶暴化して暴れていた魔族の若者が、何日か続けて穏やかに眠れたという。
少年は石板を確認しながら言った。
「かなり戻ってきてる。」
「足りますか。」
「いや。まだだな。」
「では、続けます。」
「そう言うと思った。」
少年は顔を上げ、小雪を見た。
小雪の髪は、ほとんど白くなっていた。
黒かった瞳も少しずつ色を失い、灰色に近づいている。肌は血の気を失い、薄い光を透かすように白かった。
少年はしばらく小雪を眺めていた。
「なあ。」
「何ですか。」
「お前、前と姿が変わってないか。」
「そうですか。」
「全体的に白くなってる。それに、少し小さくなってないか。」
小雪は自分の身体を見下ろした。
外套の裾が、以前より長くなっているような気はした。
「鏡は持っていないのか。」
「持っていません。」
「確認しないのか?」
「それは、意味のある行為ですか。」
少年は眉を寄せた。
「人間の女って、もう少し自分の容姿を気にするものじゃないのか。」
人間。
女。
その二つの言葉が、どこか遠くに聞こえた。
自分を指しているようには思えなかった。
小雪は、戻りかけている腕を見た。
では、自分は何なのだろう。
化け物。
道具。
燃え滓。
残滓。
魔素。
燃料。
どれも違うようで、今では人間や女という言葉より、自分に近いような気がした。
「お前。」
少年の声がした。
小雪は顔を上げた。
「何か、おかしくなってないか。」
「何がですか。」
「前は、もっと怒ってた。寡黙なのは今と変わらないけど、もっと痛がったし、苦しがった。俺の言ったことにも、いちいち腹を立ててた。」
「それに、何か意味がありますか。」
「意味って。」
少年は言葉に詰まった。
「感情というのは、意味があるから持つものではないだろ。」
「感情。」
小雪は、ほとんど元通りになった手を胸元へ置いた。
心臓は動いていた。
呼吸もしている。
身体の機能に問題はない。
王国が召喚を再開すれば、この世界を壊す。
その判断も特に変わっていない。
「お前……。」
少年の顔から、初めて軽さが消えた。
「まさか、祝福を使うたびに、身体だけじゃなくて、心や記憶まで材料にされてるんじゃないか。」
少年の声には、わずかな怯えが混じっていた。
小雪はそう認識した。
けれど、そのことに対して何を感じればよいのかは分からなかった。
どうでもよかった。
小雪は裂け目へ右手を伸ばした。
腕を光へ変え、切り離す。
「おい。」
白い光が、裂け目へ落ちる。
続けて、左腕も上げた。
「待て。」
もう一本の腕も光へほどけた。
裂け目の縁へ座る小雪の身体から、両腕が消えた。底の見えない大地の傷の上で、白い二本の足だけが静かに揺れている。
肩の先から、すぐに再生が始まった。
戻る。
戻れば、また落とす。
「もうやめろ。」
もっと速くしなければならない。
王国がいつ召喚を再開するか分からない。
世界会議が、どのような決定を下すかも分からない。
ならば、できるだけ早く、できるだけ多く、自分を世界へ落としておく必要がある。
早く。
もっと早く。
小雪は伸び始めた腕を見つめた。
少年が何かを言っている。
声は聞こえていた。
けれど、言葉の意味は、小雪の中まで入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
八十日目。
隼人の部屋番号が、一瞬だけ出てこなかった。
小雪は、その場から動けなくなった。
朝の薄い光の中、裂け目のそばへ立ち尽くす。
県名は分かる。
市の名前も。
駅も。
マンションの色も。
近くにあるコンビニも覚えている。
けれど、その先に続く数字だけが、白い霧の中へ沈んでいた。
心臓が、どくりと激しく鳴った。
痛みではなかった。
おそらく、恐怖だった。
忘れてしまう。
隼人を。
小雪は、その場へ膝をついた。
地面へ両手をつき、何度も頭の中を探った。
違う。
違う。
これは違う。
忘れては、いけない。
あの子は、確かにいた。
十歳だった。
塾の帰りだった。
肉まんの話をしていた。
父親と母親の話をした。
「なんで。どうして。違う。」
魔素ではない。
数字ではない。
燃料ではない。
佐野隼人という名前があり、帰るはずだった場所があった。
小雪の腕の中で、消えていった。
最後に、お母さんと、呼んでいた。
「おい、どうした。」
少年の怪訝そうな声がした。
小雪は顔を上げなかった。
「思い出せない。思い出せないんです。」
「何が。」
「部屋番号。」
少年は、しばらく黙っていた。
やがて、小雪のそばへ来てしゃがみ込む。
「……お前、毎朝言ってただろ。」
「あなたは、覚えていますか。」
「……覚えてる。」
小雪は顔を上げた。
少年は少し気まずそうに頬を掻いた。
「毎日聞かされたら、さすがに覚える。」
「言ってください。」
「……いいのか。」
「言って。早く。」
少年は、隼人の住所を最初から口にした。
県名。
市の名前。
駅。
マンションの色。
近くのコンビニ。
最後に、部屋番号を言った。
その数字を聞いた瞬間、小雪の中を覆っていた霧が晴れた。
思い出した。
隼人が何度も話していた。
人に教えたら危ないんだよと言いながら、それでも小雪にだけは教えてくれた。
小雪は、長く息を吐いた。
頬を、涙が一筋だけ伝った。でももう、それがなぜかはよく分からなかった。
「合っています。」
「だろうな。」
少年は軽い調子で言った。
「俺、記憶力はいいんだよ。見た目より年寄りだから。」
「ありがとうございます。」
少年が、少し驚いた顔をした。
「お前、まだ礼を言えたんだな。」
「斬りますよ。」
「戻った。戻った。」
少年は安心したように笑った。
小雪は、その笑みを見た。
隼人を覚えているのは、自分だけではない。
自分が忘れても、この少年が覚えている。
そのことを、小雪はこの時、初めて知った。
そして、ほんの少しだけ、この少年を殺さなくてよかったと思った。
それが、小雪の中から外へ現れた、最後に近い安堵だった。
◇ ◇ ◇
百日目。
裂け目から吹き上げる風は、最初の日とは明らかに変わっていた。
冷たさは残っている。
魔素の薄さも残っている。
けれど、身体の内側を削り取るような感覚は、随分と弱まっていた。
荒野の端には緑が増え、遠くでは魔族の子供たちが、畑へ出た小さな芽を囲んでいた。
王国から届いた報告でも、魔物による被害は減少し、水源の異常がいくつかの地域で改善しているという。世界全体の魔素濃度も、少なくとも急激な低下は止まったらしい。
少年は、百日分の記録を刻んだ石板を確認した。
「もういい。」
小雪は裂け目を見た。
「本当に?」
「本当に。」
「あと少し。」
「やめろ。」
少年の声が、珍しく鋭かった。
小雪は顔を上げた。
「できるだけ補っておかなければ。」
「駄目だ。」
少年は小雪の言葉を遮った。
「これ以上続けたら、お前が本当に戻らなくなるかもしれない。」
「でも。」
「もういい。」
少年は真顔だった。
「俺はお前に同情していない。お前の世界の人間に対して、深い罪悪感があるわけでもない。だがな。」
少年は石板を叩いた。
「百日もかけて管理した作業が、最後に全部無駄になるのは嫌だ。作業管理者として命令する。終わりだ。」
小雪は、しばらく少年を見ていた。
「それは、優しさですか。」
「違う。作業管理上の判断だ。」
「そうですか。」
「そうだ。」
小雪は再び、裂け目へ目を向けた。
底は、相変わらず見えない。
大地の臍。
世界の穴。
魔王と呼ばれていたもの。
小雪は長い間、暗い底を見つめた。
やがて両手を下ろした。
「分かりました。今日のところは。」
「今日のところは、か。」
少年が、大きくため息を吐いた。
◇ ◇ ◇
百日を少し過ぎた頃、少年が手のひらほどの薄い板を持ってきた。
小雪は石小屋の前へ座り、その日も裂け目を見ていた。
「ほら。」
少年が板を差し出した。
「これは何ですか。」
「鏡。」
「不要です。」
「知ってる。」
「では、なぜ持ってきたんですか。」
「作業はもう終わっただろ。他の人間に見られて驚かれる前に、自分で今の姿を確認しておいた方がいい。」
作業。
終わった。
小雪はその言葉を聞いた。
意味は理解できた。
けれど、二つの言葉がうまくつながらなかった。
少年は、半ば無理やり小雪の手へ鏡を押しつけた。
「いいから、一度見ろ。」
「必要性を感じません。」
「そう言うと思った。」
少年は呆れたように息を吐いた。
それから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、住所と名前はもう言わなくていいのか?」
「住所?」
少年の動きが不自然に止まった。
それから少し呆れたように小雪を見る。
「……いや、最近朝唱えてないだろ。流石に飽きたのか?」
小雪は少年を見た。
裂け目から大きく生暖かい風が吹き上げた。
食後に漏らす、満足した吐息のような、ひどく生き物がかった一吹きだった。
「何をですか。」
少年の表情が固まった。
ほんの少し前まで呆れていた顔から、何かが消えた。
赤紫色の目が驚いたように見開かれ、小雪を見つめている。
「お前。」
少年は何かを言いかけた。
開いた口が、僅かに歪み、それからゆっくりと引き締められる。
少年はそのまま視線を伏せ、しばらく口を閉じてから、小さく言った。
「……いや。やっぱり、何でもない。」
「何ですか。」
「何でもないから。」
少年は小雪から顔を逸らした。
眉は顰められていた。なぜか、どこか苦しそうな様子にも見えた。
「……もういい。忘れろ。」
そう言い残し、少年は少し早い足取りで魔王城の方へ戻っていった。
小雪は、その背中を見送った。
なぜ、あのような顔をしたのだろう。
よく、分からなかった。
それよりも、先ほど何をするように言われていたのだったか。
小雪は、自分の手元を見た。
薄い板がある。
何に使うものなのだろう。
少し考えてから、表面を自分へ向けた。
知らない女が映っていた。
真っ白な髪。
灰色の瞳。
透けるように白い肌。
おそらく以前より細く、少しだけ小さくなった身体。
召喚されてから、八年に届こうとしていた。
春野小雪は、二十三歳になっている筈だった。
けれど、鏡の中に映る姿は、十六、七歳ほどの少女に見えた。
幼くなったのではない。
削られたのだ。
時間も。
血色も。
身体の厚みも。
感情も。
春野小雪という一人の人間を形づくっていたものが、少しずつ魔素へ変わり、この世界へ落ちていった。
小雪は鏡をわずかに傾けた。
補填を繰り返したため、色が抜けたらしい。
身長も少し低くなった。
顔も以前より幼く見える。
そう認識した。
それだけだった。
悲しいとは思わなかった。
怖いとも感じなかった。
自分の姿が別人のように変わっていることにも、大きな意味を見いだせなかった。
まあ、どうでもよい。些末なことだ。
小雪は鏡を身体の横へ置いた。
それから立ち上がり、裂け目へ向かった。
作業は終わった。
たしかそのように言われた気がする。
けれど、作業をしないのであれば、何をすればよいのだろう。
分からなかった。
小雪は裂け目の縁へ座った。
両腕を上げる。
光へ変え、切り離す。
二本の腕が白い粒となり、暗い穴の中へ落ちていった。
すぐに、肩の先から再生が始まる。
戻る。
切り離す。
また戻る。
それはもう、世界を救うために考えて行うことですらなかった。
身体が戻る。
ならば使う。
使えば、裂け目へ落ちる。
そうするものだった。
「何をしてる!」
暫くして、背後から少年の声がした。
小雪は振り返った。
少年が走ってくる。
伸びかけた小雪の腕を掴もうとして、まだ手がないことに気づき、外套の肩口を強く引いた。
「作業は終わったって言っただろ!」
「そうでしたか。」
小雪は答えた。
少年の顔が、歪んだ。
「そうでしたか、じゃない。」
「では、やめます。」
小雪は素直に裂け目から離れた。
少年は何も言わず、小雪を見ていた。
裂け目を後にする。
ふと、何かが頭を掠める。
そういえば、ここで、少し前に、何かを忘れかけた。
たしか、ひどく、怖かったような、気がする。
けれど、何を、忘れかけたのだったか。
全く、思い出せなかった。
けれど、どうでもよかった。
もうすぐ、全てが終わる。
――みんな、これでようやく旅を終えられる。
小雪は、そう考えた。
そのあとで、ふと、疑問が浮かんだ。
みんな。
誰だっただろう。
名前は出てこなかった。
顔も、声も、思い出せない。
それでも、小雪は、次の誰かをこの裂け目へ落としてはならない。
そのことだけは、残っていた。
そのことだけが、残っていた。
それは心が囁く声ではなかった。
家族のもとへ帰りたかった十五歳の小雪が、八年の旅の果てに辿り着いた、ひどく論理的な帰結だった。
細かな記憶も、感情の温度も失われていく中で、その結論だけが、小雪の中心へ焼きついていた。
◇ ◇ ◇
王国は、召喚陣の停止を継続すると発表した。
世界会議も緊急声明を出した。
異界召喚制度の一時停止。
魔素消費削減に関する国際協議。
大型魔法の段階的制限。
裂け目周辺の観測強化。
一時。
協議。
段階的。
観測。
小雪は、そのどれも信じなかった。
信じるには、あまりにも多くのものを見てきた。
固有名詞のいくつかを失っても、制度が嘘をついたことは覚えている。
誰の顔だったか思い出せなくても、腕の中から誰かが消えていった感覚は残っている。
人としての怒りは、以前のように胸を焼かなかった。
けれど、憎しみは消えていなかった。
熱を失った憎しみは、むしろ判断を曇らせなくなった。
この世界が変わるなら、存続を認める。
変わらないのなら、壊す。
それは感情的な衝動ではなく、すでに確定した審理の方針だった。
小雪は大地の裂け目を離れた。
王城へ戻るつもりはない。
勇者として称えられるつもりも、補填者として保護されるつもりもなかった。
少年は、魔王城の門まで小雪を見送りに来た。
「どこへ行くんだ。」
「見ます。」
「何を。」
「この世界が、変われるかどうか。」
「変わらなかったら?」
「壊します。」
「即答かよ。」
少年は呆れたように言った。
「まあ、多分変わらないぞ。」
「でしょうね。」
「分かっているのに、なぜ見る。」
小雪は少し考えた。
「知らない人たちがいるからです。」
少年は黙った。
「この世界にも、何も知らずに生きている人たちがいます。家族がいて、食事をして、子供の熱に慌てて、雨が降れば喜ぶ人たちがいる。」
小雪は、旅の途中で会った人々を思い出そうとした。
顔は、もう全てぼやけていた。
名前も、憶えていない。
それでも、誰かが毛布を貸してくれた。
誰かが、小さな手袋を差し出した。
誰かが、温かい食事を出してくれた。
その事実は覚えていた。
「それを、見てしまったので。」
「面倒だな。」
「はい。」
「全部、見なかったことにすれば楽なのに。」
「そうですね。」
少年は小雪を見上げた。
見た目は子供でも、その目だけはやはり古かった。
「お前、本当に勇者に向いてないな。」
「勇者ではありません。」
「では、何なんだよ。」
小雪は答えなかった。
以前にも、同じことを尋ねられた気がする。
その時、自分が何を考えたのかは、もう覚えていなかった。
少年は肩をすくめた。
「まあ、いい。たまには顔を出せ。裂け目役所としては、お前の経過観察も必要だ。」
「考えておきます。」
「それ、来ない奴の返事だろ。」
「はい。」
「正直だな。」
少年は笑った。
小雪は、ほんの少しだけ頭を下げた。
そして、魔王城を後にした。
◇ ◇ ◇
魔王城を離れてから、それほど日が経たないうちに、小雪は王都へ入った。
王城へ戻るためではない。
世界がどの程度変わろうとしているのかを自分の目で確認し、これから暮らす場所と必要な物資を探すためだった。
王都の魔法灯は、以前と同じように美しく輝いていた。
使用制限が始まったとはいえ、全てが消えたわけではない。通りには光が満ち、魔法で動く荷車が走り、人々はこれまでと変わらない顔で買い物をしていた。
その光景を見ても、小雪は特に何も感じなかった。
ただ、観察した。
魔法灯の数。
荷車が動く頻度。
転移門へ並ぶ人の数。
この世界はまだ、魔法を手放していない。
それだけを記憶した。
王都の外れにある古道具屋で、小雪は一つの道具を見つけた。
埃を被った棚の奥。
壊れた魔法具や、用途の分からない金属片に混じり、細い銅色の線が幾重にも巻かれた物が置かれていた。
中心には、鉄の棒が通っている。
店主は、それが何なのか知らなかった。
「昔の魔法具の一部でしょうな。魔力を流しても何の反応もありません。飾りにもなりませんし、買う方もおられません。」
小雪は、それを手に取った。
細い銅線。
幾重にも巻かれた形。
中心を貫く鉄芯。
人の名前や顔は、少しずつ失われていた。
自分のかつての家も、家族の声も、完全な形では思い出せない。
けれど、物の構造や数の関係、学校で学んだ知識は、不思議と残っていた。
銅線へ電流を流せば、その周囲に磁界が生じる。
線を輪の形へ巻き重ねれば、磁力は強くなる。
中へ鉄を通せば、鉄は磁石として働く。
電磁石。
言葉が、静かに浮かんだ。
理科室の白い机も、先生の顔も思い出せなかった。
それでも、仕組みは分かる。
これは魔法ではない。
魔素を消費せず、物を引きつけることができる力。
地球では、子供が学校の授業で触れるほど小さな仕組みだった。
小雪は銅線の巻かれた道具を見つめた。
この世界には、魔法がある。
火を起こすことも、水を運ぶことも、暗闇を照らすことも、重い物を動かすことも、全て魔法で足りていた。
だから、魔法以外の方法を育てる必要がなかった。
知らないだけなのかもしれない。
知らないから、選ぶことができないのかもしれない。
魔法を使わずに火を起こす方法。
魔法を使わずに力を伝える方法。
魔法を使わずに、光や熱を得る方法。
それらを知ったうえで、この世界は何を選ぶだろう。
便利な魔法文明を守るため、再び地球人を燃料にするのか。
それとも、不便と試行錯誤を受け入れ、別の道を選ぶのか。
小雪は、しばし考えた。
可能性というには、あまりにも細い。
希望と呼ぶには、小雪はその言葉を信じられなくなっている。
これは、検証だった。
審判者は、公平でなければならない。
代替手段を提示せず、変われなかったという理由だけで世界を壊すのは、公平ではない。
選択肢を与える。
知識を与える。
そのうえで、なお地球人を犠牲にする道を選ぶのなら。
その時こそ、判決を下せばよい。
小雪は銅線を持ったまま、次に必要なものを考えた。
まず、実験を行う場所。
材料。
工具。
図面を書く紙。
電気を起こす方法も必要になる。
水の流れ。
回転。
磁石。
銅線。
ただし、小雪に残っているのは、高校一年生の春までに身につけた知識だけだった。科学や工学へ特別な関心があったわけでもない。
知っていることと、実際に作れることは違う。
最近は物事を忘れることも増えている。
長い補填を終えたばかりの手は動くものの、細かな作業では時折感覚が遅れた。
ならば、助手が必要になるだろう。
手先がよく動き、文字が読めて、計算ができて、力があって、壊れにくい人間がいい。
小雪は店主へ代金を払い、銅線の巻かれた道具を受け取った。
店を出る時、扉につけられた小さな鈴が鳴った。
ちりん。
小雪は一度だけ、振り返った。
澄んだ音だった。
鐘。
召喚の鐘。
判決を告げる鐘。
あるいは、何かを呼び寄せるための、小さな鈴。
小雪は道具を抱え直し、また魔法の光に美しく照らされた街を歩き始めた。
魔法に彩られた、美しい街並み。美しい世界。
その陰で消費されていくかつて人だったもの。
この光の中にも、小雪の同胞が含まれているのだろうか。
「ああ。」
自分の口から声が漏れた。
声は平らだった。
喜びも、悲しみも、ほとんど含まれていない。
それでも、その奥には、失われなかったものがあった。
唯一残った、熱の無い感情。
「審判の日が、待ち遠しい。」
それまでは、しばらく鈴でも鳴らして遊んでいようか。
青銅の鐘か。
無間の鐘か。
どちらを鳴らすことになるのかは、この世界次第だった。
まだ肌寒さを残した春の風が、燃え残った灰のような白髪を静かに散らした。




