↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
59/71

第五十九話 誰も悪くない世界

 魔王城の地下には、古い転移装置が残されていた。


 石で造られた丸い台座の周囲には複雑な紋様が刻まれていたが、ところどころが欠け、全体に厚く埃を被っている。長い間、まともに使われていなかったことは一目で分かった。


 少年は台座の上へ乗ると、片足で石床を軽く叩いた。


「動くかな、これ。」


 小雪は短剣を握り直した。


「動かないんですか。」

「いや、たぶん動く。たぶん。」

「たぶん。」

「昔、電報魔法が発展する前は、定期連絡用に使ってたらしいぞ。魔王役と召喚担当国の窓口を直接つなぐ装置。こっからの一方通行だけど、便利だろ。」

「便利という言葉を、今はあまり聞きたくありません。」

「あ、はい。」


 少年はすぐに黙り、台座の中央へ片手を置いた。


 黒に近い魔力が指先から石の紋様へ流れ込み、長く眠っていた線を一本ずつ起こすように、淡い光が足元へ広がっていく。


 小雪は反射的に一歩下がりかけた。


「逃げるなよ。」

「逃げません。」

「初めてだと結構気持ち悪いからな。内臓だけ、その場へ置いていかれるような感じがする。」

「そういうことは、もっと早く言ってください。」

「今言った。」


 足元の光が少しずつ強くなっていく。


 小雪は少年を睨んだまま、短剣から手を離さなかった。


「王国へ着いたら、あなたは逃げますか。」

「逃げない。俺は定期連絡の相手だし、向こうも俺の顔くらいは知ってる。」

「では、証言してください。」

「するする。俺が知ってる範囲のことならな。ただし、あまり期待するなよ。」

「何をですか。」

「謝罪。」


 少年は軽い声で言った。


「多分、ないぞ。」


 小雪は答えなかった。


 足元から立ち上った光が二人の視界を覆い、次の瞬間、世界が白く潰れた。




   ◇ ◇ ◇




 再び目を開けた時、小雪は石造りの部屋へ立っていた。


 魔王城の地下とは違い、壁には魔法灯が等間隔に並び、床には清潔な白い石が敷かれている。部屋の中央には、小雪たちが立っているものと同じ形の転移陣があり、その周囲では数人の神官と魔法師が、驚いた顔でこちらを見ていた。


 白い神官服。

 銀色の刺繍。

 召喚担当国の紋章。


 その服を見た瞬間、小雪の胸の奥が冷えた。


 白い石の床で目を覚ました、最初の日を思い出した。


 知らない言葉に囲まれ、額へ指を触れられ、優しい声で勇者候補様と呼ばれた。


 少年が片手を上げた。


「よ。」


 神官の一人が息を呑んだ。


「魔王役殿。」

「定期連絡じゃない。臨時。」


 少年は親指で小雪を示した。


「こいつが王に話があるって。」


 その場の空気が凍った。


 神官たちの視線が、小雪の腕輪へ集まる。勇者候補の証であるそれを見て、何人かがはっきりと顔色を変えた。


「勇者候補様……?」


 若い神官が呟いた。


 小雪は、その声を聞いた。


 様。

 今さら、様。


 小雪が短剣を抜くと、神官たちは一斉に後ずさった。少年が慌てて両手を広げ、小雪との間へ入る。


「待て待て待て。お前、王に会いに来たんだろ。ここで全員斬ったら、話が早く終わりすぎる。」

「邪魔をするなら斬ります。」

「分かる。分かるけど、まずは話せ。な?」


 少年は神官たちへ向き直った。


「王か、魔素保全局の上の奴を呼べ。あと魔法院長。できれば世界会議の記録官も。」

「なぜ、そのような方々を。」

「勇者候補が、全部知った。」


 少年の声は軽かった。


 けれど、その一言で、部屋の温度が変わった。


 神官たちは互いの顔を見合わせた。

 誰も、何を知ったのかとは尋ねなかった。


 その反応を見て、小雪は理解した。


 知っている。

 この者たちは、何かを知っている。


 全てではないのかもしれない。自分が担当する範囲だけ、断片的に聞かされているのかもしれない。


 それでも、小雪が何を知り、何に怒っているのかを察する程度には、知っている。


 そのことが、吐き気がするほど不快だった。


 小雪は、王城の奥にある会議室へ向かった。

 丁重に案内されたわけではない。少年に先導され、警備を無視して進んだだけだった。


 何度か近衛兵が前を塞いだが、小雪がそのたびに足元の石床へ白い光を走らせると、二度目の制止を試みる者はいなくなった。


 誰も殺してはいない。

 けれど、誰も小雪を止めることはできなかった。


 着いた先は、小雪が想像していたほど仰々しくはなかった。


 中央には長い楕円形の卓があり、壁一面に書棚が並んでいる。卓の上には大きな世界地図が広げられ、壁へ掛けられているのは一国の紋章ではなく、複数の国家の印を組み合わせた旗だった。


 そこに、王がいた。


 年老いた男だった。


 豪奢な冠は被っておらず、深い青色の上着を着て、卓の奥へ静かに座っている。その隣には痩せた宰相らしき男と、白髪の魔法院長、数人の神官、それから世界会議の記録官と思われる者がいた。


 誰も笑ってはいなかった。

 けれど、誰も怒鳴らなかった。


 魔王役を伴って王城へ侵入し、近衛兵の足元を破壊しながらここまで来た小雪を、誰一人として罵らなかった。


 ただ、困った事態が起きたという顔をしていた。


 王が口を開いた。


「春野小雪様。」


 小雪は、わずかに眉を動かした。


「私の名前を知っているんですね。」

「勇者候補の名簿は、全て保管されております。」

「亡くなった者の名前も。」

「全て。」

「では、佐野隼人くんも。」


 王の表情が、わずかに動いた。


 けれど、それだけだった。


「存じております。」

「十歳でした。」

「記録では、そのように。」

「お母さん、と言って死にました。」


 会議室へ、重い沈黙が落ちた。


 誰かが小さく息を呑んだが、誰も謝らなかった。


 王は目を伏せた。


「痛ましいことです。」


 痛ましい。


 その言葉は、恐らく間違ってはいない。


 王は本当に痛ましいと思っているのかもしれない。


 それでも、小雪にはあまりにも遠い言葉だった。


「痛ましい、ですか。」

「幼い候補者が召喚対象に含まれたことは、我々としても大変遺憾に思っております。」

「遺憾。」


 小雪が繰り返すと、白髪の魔法院長が口を開いた。


「しかし、召喚対象を完全に選別する技術は、現在も確立されておりません。異なる世界同士をつなぐだけでも、現在の技術では極めて困難なのです。」


 小雪は、魔法院長へ視線を向けた。


 知的で、穏やかな顔をした老人だった。


「年齢、健康状態、社会的立場、家族構成。そうした条件を細かく絞り込みすぎると、召喚の門が不安定になります。結果として、召喚そのものにより多くの魔素を消費し、制度全体の効率が落ちるのです。」


 小雪は、しばらく言葉が出なかった。


 制度。

 効率。


 隼人の命が、その言葉の中へ組み込まれていた。


「あなたは。」


 小雪が声を発すると、魔法院長は口を閉じた。


「十歳の子供が死んだ話をしていると、分かっていますか。」


 老人は、わずかに眉を寄せた。


「分かっております。」

「では、なぜ効率の話をするんですか。」

「それが、我々に求められている役割だからでございます。」


 魔法院長の声は静かだった。


「感情だけでは、魔素欠乏の問題は解決できません。」


 小雪の指が、短剣の柄を握った。


 隣で少年が、小さく言った。


「な。腹立つだろ?」


 小雪は答えなかった。


 王が、ゆっくりと口を開いた。


「小雪様。まず、誤解を解かせていただきたい。」

「誤解?」

「勇者召喚は、我が国の独断で行われているものではございません。」


 王は、卓上に広げられた地図を指した。


 そこには大陸と海が描かれており、小雪を召喚したこの国は、世界全体から見れば小さな国にすぎなかった。


 魔法技術に特化した、小国。


「千年以上前、世界魔素保全会議において、各国代表の合意により、異界召喚を利用した魔素補填制度が定められました。我が国は当時から世界でも有数の、いえ、最も高い魔法転移技術を有しておりました。そのため、実務担当国として召喚の運用を任されたのです。」

「任された。」

「はい。その通りです。」


 王は頷いた。


「制度を決定したのは、決して我が国だけではありません。世界各国の合意の下に始められ、現在も世界会議の承認によって運用されています。」


 宰相が、その言葉を引き取った。


「むしろ我が国は、各国のために最も重い役割を担っております。召喚の実務、候補者の管理、講習、補償、魔素還元地の記録。そして制度への批判の多くも、我が国が直接受け止めてきました。」


 宰相の声には、疲れがあった。


 そして、わずかな苛立ちも含まれていた。


「他国は、魔素が安定することによる恩恵を受けます。農地が保たれ、都市結界が維持され、魔物被害が減る。ですが、実際に異界人と接し、彼らの混乱や怒りを受け止めるのは我々です。」


 小雪は宰相を見た。


「だから、あなた方も被害者だと?」


 宰相は、一瞬だけ口を閉じた。


「そのような言い方は、一面的です。」


 少年が小さく吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。


 小雪は笑わなかった。


「私たちを呼んで、死なせて、魔素へ変えている側が。」


 小雪は一語ずつ、確かめるように言った。


「一面的。」


 宰相の表情が強張った。


「決して、あなた方の犠牲を軽んじているわけではありません。」

「犠牲。」

「世界を維持するための、尊い犠牲です。」


 小雪の胸の奥で、何かが冷えた。


 尊い犠牲。

 勇敢な候補。

 女神の祝福。

 世界を救う旅。


 何度聞いただろう。


 全てが、同じ箱の中へ入れられている。


 エリーズも。

 瑞希も。

 隼人も。


 死ねば、尊い犠牲という名前に変えられる。


「では、教えてください。」


 小雪は、卓の向こうへ並ぶ人々を見渡した。


「なぜ、これほど回りくどいことをするんですか。」


 王が、わずかに眉を寄せた。


「回りくどい、とは。」

「私たちを呼び、勇者候補と名づけ、魔王を倒せば帰れると教える。戦い方を覚えさせ、武器や防具を与え、地図と資金を持たせて世界中へ旅立たせる。」


 小雪は静かな声で続けた。


「死んで魔素になってもらうことが目的なら、召喚した直後に殺せばいい。なぜ、わざわざ勇者の物語を作ったんですか。」


 会議室の中へ、短い沈黙が落ちた。


 誰も、その問いを想定していなかったわけではないのだろう。


 ただ、誰が答えるべきかを決めかねているように見えた。


 最初に口を開いたのは、魔法院長だった。


「制度の初期には、そのような運用も検討されました。」


 彼の声は静かだった。


 まるで、昔の研究記録を説明しているような口調だった。


「召喚直後の異界人を拘束し、一定の場所で魔素へ還元する。現在よりも簡素で、費用も少なく済む方式です。しかし、召喚された方々の中には、極めて強力な祝福を持つ者もおりました。事情を察した候補者が抵抗し、施設を破壊した例もあります。制度の試験運用中には、兵士や神官だけでなく、王族を含む多数の死者が出ました。」


 小雪は、自分の手を見た。


 何度壊れても戻り、身体を削れば岩壁さえ砕く手だった。


 召喚された直後から、この力を扱えた者がいたのなら。


 拘束しようとした人間を殺すことは、難しくなかったのかもしれない。


「そのため、候補者自身の協力を得る方式へ改められました。」


 今度は、宰相が答えた。


「元の世界へ帰還できる可能性を示し、世界を救う役割を与え、必要な知識と装備を提供する。候補者が自ら旅立つ形にすれば、拘束や監視に必要な人員を大幅に減らすことができます。候補者が反乱を起こす危険も、格段に低くなりました。」

「帰れるという嘘を教えて。」


 小雪が言うと、宰相は一瞬だけ目を伏せた。


「当時の文書では、帰還の可能性を完全には否定できない、と整理されております。」

「確認したことはないのに。」

「はい。」


 宰相は否定しなかった。


「また、勇者召喚という形式は、制度に必要な資金や物資を各国から集める上でも有効でした。世界を救う勇者のためであれば、各国政府だけでなく、貴族、商会、神殿、一般の民からも協力を得やすい。召喚、教育、装備、宿舎、移送には、実際多額の費用が必要となります。」

「だから、勇者という名前をつけた。」

「制度を維持するために必要な、世界共通の物語でした。」


 宰相は、そう答えた。


 悪びれてはいなかった。

 誇ってもいなかった。


 ただ、そうしなければ運用できないのだと説明しているだけだった。


「各地へ旅立たせる理由は。」


 小雪は尋ねた。


「候補者を死なせるだけなら、一か所へ集めておく方が簡単です。なぜ、ダンジョンや討伐地へ送り出すんですか。」


 卓の端へ座っていた記録官が、手元の書類へ視線を落とした。


「勇者候補の身体から解放された魔素は、やがて世界全体へ拡散します。しかし、最も濃く還元されるのは、候補者が亡くなった地点の周辺です。」


 小雪は黙って、その先を待った。


「魔素欠乏の程度は、地域によって異なります。農地の衰えが著しい地域、魔物の凶暴化が進んだ地域、結界の維持が困難になった都市。各国は、自国領内への魔素還元を求めます。そのため、候補者の旅程や任務地は、各地域の不足量を考慮して配分されます。」

「配分。」

「はい。」

「人間を。」


 記録官の唇が、わずかに止まった。


「魔素還元の機会を、です。」

「同じことです。」


 小雪は言った。


 ダンジョン。

 森。

 遺跡。

 廃坑。

 峡谷。

 地下墓所。

 古塔。


 名簿へ記されていた、勇者候補たちの最終報告地。


 小雪が旅の中で見てきた、地図とは違う道。

 安全だと説明されながら、強力な魔物が待っていた場所。


 多くの勇者候補が消えた土地ほど、その後には魔物の被害が減っていた。

 小雪が集めてきた記録は、間違っていなかった。


 候補者は、魔王を倒すために世界中へ散らされていたのではない。

 死んだ時に放たれる魔素を、世界中へ行き渡らせるために運ばれていた。


「では、戦わなかった人は。」


 小雪が尋ねると、会議室の中で何人かの視線が動いた。


「戦闘を拒否した候補者です。王都や近隣の町で暮らせる。住居も仕事も用意する。補償金も支払う。そう説明されていました。」


 誰も、すぐには答えなかった。


 小雪は、一人の名前を口にした。


「ヘレン・ウォード。」


 記録官の顔が、わずかに強張った。


「三十代半ばの女性です。十四歳の娘がいました。戦うことを拒み、パン工房で働くために王都近郊の町へ移りました。四か月後、馬車事故で死亡したと、名簿に記録されていました。」


 小雪は記録官を見た。


「本当に、事故だったんですか。」


 記録官は王へ視線を向けた。


 王は目を閉じ、短く息を吐いた。


「公式な記録上は、馬車事故です。」

「記録ではなく、事実を聞いています。」


 小雪の声は大きくなかった。


 それでも、記録官は肩を強張らせた。


 王が、静かに答えた。


「計画された処置です。」


 その言葉を聞いた瞬間、小雪の中から音が消えた。


 窓も。

 扉も。

 卓を囲む人々の呼吸も。


 何もかもが遠ざかり、王の声だけが耳の奥に残った。


「処置。」

「非戦闘を選んだ候補者であっても、最終的には魔素補填へ供する必要があります。召喚した方を、そのまま天寿まで保護し続ければ、制度の目的を果たすことができません。」

「殺したんですね。」

「はい。」


 王は否定しなかった。


「事故に見せかけて。」

「本人や周囲へ不要な恐怖を与えず、他の候補者の動揺を避けるためです。」

「不要な恐怖。」


 小雪は、その言葉を繰り返した。


 ヘレンは、帰れるまでパンを焼いて待つと言っていた。

 娘のところへ必ず帰るのだと笑っていた。

 戦わなくてもよいと信じ、剣を持たず、王国が用意した馬車へ乗った。


 その時点で、行き先は決まっていた。


「彼女を町へ送り出した神官も、知っていたんですか。」

「いいえ。」


 答えたのは、宰相だった。


「召喚、説明、教育、移住支援、最終処置は、それぞれ異なる部署が担当します。候補者と直接接する神官や、受け入れ先の町、雇用する工房には、処置について知らせません。」

「なぜ。」

「知れば、態度へ表れます。候補者が疑念を持つ可能性も高くなる。何より、現場の者へ不必要な精神的負担を負わせることになります。」


 小雪は目を伏せた。


 最初に出会った女性神官の顔を思い出した。

 ヘレンを見送った者たちの顔も。


 皆、本当に優しかった。


 新しい町で暮らせることを喜び、よい仕事が見つかるように祈り、手紙が届くのを待っていた。


 彼らは、何も知らなかった。

 知らないまま、自分の役割だけを果たしていた。


 召喚する者。

 帰還について説明する者。

 戦い方を教える者。

 町へ送り出す者。

 事故を装って殺す者。

 名簿へ、事故死と記す者。


 一人一人は、自分が制度の全てを行っているとは思わない。


 自分が担当する仕事を、必要な手順として処理しているだけだった。


「そうやって。」


 小雪は、ゆっくりと顔を上げた。


「誰も、自分が殺したとは思わなくて済むようにしたんですね。」


 宰相は答えなかった。


 王も、魔法院長も、神官たちも黙っていた。


 その沈黙を破るように、王が口を開いた。


「この世界の人口は、およそ二十億です。」


 小雪は顔を上げた。


「魔素欠乏が進めば、まず大地の裂け目周辺で魔族と魔物が荒れます。次に農地が痩せ、水源が不安定になる。病を癒やす魔法が効きにくくなり、都市結界が落ち、魔物被害が広がる。魔力を持たずに生まれる子供も増えるでしょう。」


 王の声は淡々としていた。


「二十億人の命と暮らしが、少しずつ崩れていくのです。」

「だから、千人以上を。」

「現時点では、千五百名を超えております。今回の召喚規模は、最終的に二千名弱を見込んでおります。」


 宰相が訂正した。


 小雪は宰相を見た。


 数字を正すために口を挟んだのだと理解した瞬間、怒りより先に吐き気がした。


「二千名弱の異界人による魔素補填で、今後三十年から四十年程度の安定が見込まれております。」


 宰相は、書類を見ることもなく言った。


 恐らく、何度も会議で口にしてきた数字なのだろう。


「かつては、一度の補填によって百年近い安定が得られました。しかし、近年の魔法需要増大によって安定期間は短くなっており、その点については世界会議でも問題視されております。」


 小雪は、宰相の言葉を聞いていた。


 二千名弱。

 三十年から四十年。

 魔法需要。

 安定期間。


 そこには、隼人がいなかった。

 エリーズもいなかった。


 名前が消え、家族が消え、痛みが消え、最後には数字だけが残っていた。


「小雪様。」


 王が言った。


「あなたのお怒りは、理解しております。」


 小雪は王を見た。


「本当に?」

「本当に。」


 王は静かに頷いた。


「しかし、我々は二十億の民を預かっています。異界の二千人と、この世界の二十億。王であるならば、どちらを選ぶべきかは明白でしょう。」


 小雪は、ゆっくりと息を吸った。


 不思議なほど、怒鳴る気にはならなかった。


 王の言葉は、間違っていない。


 この世界の王としては。

 二十億の民を預かる統治者としては。


 知らない世界の二千人と、自分たちの世界の二十億。どちらを選ぶのかと問われれば、答えは明らかだった。


 小雪にも、理解できてしまった。


 理解できてしまったことが、一番つらかった。


「やめるつもりは、ないんですね。」


 小雪は言った。


 王はすぐには答えなかった。


 代わりに、宰相が口を開いた。


「急激な制度停止は、世界全体へ深刻な混乱をもたらします。」

「つまり、やめない。」

「段階的な魔素消費削減については、すでに議論が行われています。」

「やめない。」

「大型魔法の一部制限についても、各国間で意見交換が。」

「やめない。」


 宰相は黙った。


 魔法院長が言った。


「一度豊かさを得た社会は、簡単には後退できません。都市結界を失えば、国境沿いの民が危険へ晒される。転移門を閉じれば、流通が滞る。魔法炉を止めれば工房も病院も動かなくなる。天候制御をやめれば、不作になる地域も生じるでしょう。」

「だから、二千人を燃やす方が簡単。」


 小雪が言うと、部屋の空気が揺れた。


 誰も否定しなかった。

 否定できなかった。


 小雪は、その沈黙を見て理解した。


 この人たちは、やめない。


 隼人の最後を話しても。

 エリーズの名前を叫んでも。

 ヘレンが騙されて殺されたことを認めても。

 小雪がこの場で泣き崩れても。


 きっと、やめない。


 なぜなら、合理的だからだ。


 二千人の異界人で、二十億人の数十年間が守られる。


 豊かな魔法生活が維持され、飢饉が減り、病が癒やされ、都市が守られ、国々の秩序が続く。


 使わない理由がない。


 この世界の人間なら。


 この世界に生まれ、この世界で暮らし、この世界の家族を守りたいのなら。


 きっと使う。


 小雪は、そのことを理解してしまった。


 理解した瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れた。


「分かります。」


 小雪は言った。


 王の表情がわずかに緩み、宰相も神官たちも小さく息を吐いた。


 小雪が納得したと思ったのだろう。


 小雪は続けた。


「だから、絶望しました。」


 王の顔から表情が消えた。


「あなた方は、きっとやめない。」


 小雪の声は静かだった。


「自分たちが悪いとは思っていないから。」

「それは違います。」


 王が言った。


「罪悪感がないわけでは、決してありません。我々とて、人の心は持っています。」

「でも、やめない。」

「難しい問題なのです。どうか、ご理解いただきたい。」

「同じです。」


 小雪は王を見た。


「罪悪感があっても、やめないのなら同じです。」


 誰も言い返さなかった。


 小雪は少しだけ笑った。


 笑ったつもりだった。


 けれど、喉から出たのは掠れた息だけだった。


「私はずっと考えていました。誰が悪いんだろうって。」


 王も、宰相も、神官も、魔法院長も黙っている。


「魔王が悪いのか。魔族が悪いのか。王国が悪いのか。神官が悪いのか。召喚陣を作った人が悪いのか。魔法を使い続ける人たちが悪いのか。」


 小雪は、卓上に広げられた地図を見た。


 国々の境界線。

 山脈。

 河川。

 海。


 その全てに、二十億人が暮らしている。


「でも、皆さんは言うんですね。」


 小雪は顔を上げた。


「自分は悪くないと。」


 王が何かを言おうとしたが、小雪は遮った。


「世界のため。制度だから。昔から行われているから。国際合意だから。我が国だけの責任ではないから。他に方法がないから。豊かさを捨てることはできないから。」


 言葉にするほど、胸の奥が冷えていった。


 昔、地球で読んだ本の内容が頭を掠めた。


 アイヒマン。

 権威への服従。

 命令と分業。


 巨大な仕組みの中で、自分は与えられた仕事をしただけだと言う人々。


 一人一人は、残酷な顔などしていない。


 優しい神官もいる。

 家族を大切にする役人もいる。

 候補者の死に、本当に心を痛める者もいる。


 それでも制度は動き、地球から呼ばれた人間は死ぬ。


 誰も、自分の手で全員を殺したわけではない。


 だから誰も、自分が殺したとは思わない。


「では、悪いのは、この世界の前提ですね。」


 会議室の空気が凍った。


 少年だけが、わずかに目を細めた。


「地球人を燃料にしなければ保てない、この世界そのものが問題なら。」


 小雪は言った。


「世界ごと壊すしかありません。」


 近衛兵たちが動こうとした。


 小雪は短剣を振った。


 皮膚が裂け、爪が剥がれる。


 白い光が床を走り、幾本もの帯となって、近衛兵と会議卓を囲む者たちの足元へ絡みついた。


 光は靴と石床の間へ食い込み、縫い留めるように固まった。


 誰も、一歩も動くことができなかった。


 王の額に、大粒の汗が浮かぶ。


「小雪様。」

「あなた方は、選んだんですよね。」


 小雪は王を見た。


「二十億人のために、二千人を。」

「それが、統治です。」

「では、私も選ぶことにします。」


 王の顔が強張った。


「私の世界のために。」


 小雪は言った。


「この世界を壊すことを。」


 誰かが小さく悲鳴を上げた。


 王は青ざめ、宰相は何かを言おうとして声を失った。


 ここへ来て初めて、全員の目に恐怖が浮かんでいた。


 ああ、と小雪は思った。


 ようやく怖がった。


 隼人が死んだ時ではなく。


 エリーズが消えた時でもなく。


 ヘレンを事故に見せかけて殺したと語った時でもなく。


 二千名弱という数字を提示した時でもない。


 自分たちの世界が切り捨てられるかもしれないと知った時、初めて。


 この人たちは、怖がった。


「お前、本当に危ないな。」


 少年が小さく言った。


 場違いなほど、軽い声だった。


 小雪はそちらを見た。


「今さらです。」

「まあな。」


 少年は頭を掻いた。


「一応聞くけど、本当に今すぐ壊すのか。この世界。」


 小雪は答えなかった。


 今すぐ壊したいと思った。


 召喚担当国も。

 世界会議も。

 召喚陣も。

 魔法炉も。

 転移門も。

 魔法灯が照らす美しい街も。


 何もかも。


 けれど、その瞬間、小雪の脳裏へ別の顔が浮かんだ。


 旅の途中で出会った宿屋の女将。

 小さな手袋をくれた村の少年。

 畑を守ろうとしていた老人。

 魔物に怯え、泣いていた子供たち。


 この世界にも、何も知らない人々がいる。


 ただ、生きているだけの人間がいる。


 地球の人間を燃料としていることなど知らず、魔法灯の下で夕食を囲み、子供の熱に慌て、雨が降れば喜び、明日も同じ日が来ると思って眠る者たちがいる。


 小雪は、その人々を見てしまっていた。


 だから、すぐには壊せなかった。


 それが、悔しかった。


「他に方法があるとでも?」


 小雪は少年へ尋ねた。


 王たちではなく、少年へ。


「何の。」

「召喚を止める方法です。」


 少年は少し考えた。


「制度そのものを止めるって意味なら、ここだけを脅しても無理だろ。さっきこいつらが言った通り、世界会議案件だ。召喚担当国に、最終的な決定権はない。」

「では、召喚を止める他の方法はないと。」


 少年は、小雪の手をじっと見ていた。


 皮膚が裂け、爪が剥がれ、それでもすでに白い光によって塞がり始めている手。


 失われても補われる。超高濃度の魔素体で作られた身体。


「お前、さっきも自分の身体を使って、魔法を強化したな。」

「はい。」

「それなのに、もう戻り始めてる。回復魔法か?」

「祝福です。」


 少年は顎へ手を当て、少し考えた。


「なるほど。随分と都合のいい祝福を与えたもんだな。」

「どういう意味ですか。」

「お前たちの身体は、もともと高濃度の魔素体だ。だから、お前は自分の身体を燃料にして、高出力の魔法を使える。」


 少年は一度言葉を切った。


「だったら、その魔素を魔法へ使わず、裂け目へ直接落とせばいい。」

「落とす?」

「あの裂け目は、世界で最も魔素が薄い場所だ。そこへお前の身体から魔素を補えば、周辺が多少持ち直す。裂け目周辺の崩れを止めれば、世界全体にも少しは時間ができるはずだ。」


 そこで少年は、自分で口にした方法を想像したのか、露骨に顔をしかめた。


「いや。これ、正気の沙汰じゃないな。自分の身体を削ぎ落として、裂け目へ落とすんだぞ。気持ち悪すぎる。やっぱり、今の話はなしで。」

「どれくらい必要ですか。」

「そこで食いつくのか?」

「検討しているだけです。」

「普通の勇者候補一人なら無理だ。何百人、何千人と死ぬから、世界規模の補填になる。」


 少年は、小雪の再生し続ける手を見た。


「ただ、お前が死なないまま身体を削り、戻して、また削ることを繰り返せるなら。」


 少年は少し考え、会議卓の上にある数字へ目を向けた。


「今回予定されている、残り数百人分の不足くらいは埋められるかもしれない。」


 会議室がざわめいた。


 王国側の者たちが、明らかに反応した。


 息を呑み、互いの顔を見た。


 その反応だけで、小雪には分かった。


 この人たちは今、考えた。


 小雪を使える、と。


 次の瞬間、小雪は床へ短剣を突き立てた。


 白い光が卓の中央を走り、広げられていた巨大な世界地図を真っ二つに裂いた。


「勘違いしないでください。」


 小雪の声は静かだった。


「私を新しい補填装置にしようとした瞬間、この王城から壊します。」


 誰も動かなかった。


「私がやると決めた時だけ、私がやります。」


 小雪は王を見た。


「これは、あなた方への協力ではありません。」


 王は青ざめた顔で、小雪を見つめていた。


「猶予です。」

「猶予?」

「あなた方が召喚をやめられるかどうか。魔法の使用を減らせるかどうか。地球人を燃料にしない世界へ変われるかどうか。」


 小雪は言った。


「それを見定めるための猶予です。」


 少年が小さく口笛を吹いた。


「いい言い方するな。脅迫の別名としては、随分上品だ。」

「黙ってください。」

「はい。」


 小雪は王へ向き直った。


「召喚陣を止めてください。」

「世界会議の承認なしには。」

「止めてください。」

「しかし。」

「次に召喚の鐘が鳴ったら。」


 小雪は床から短剣を抜いた。


 刃には、白い光が宿っていた。


「私は、この世界を敵とみなします。」


 誰も言葉を発しなかった。


「世界会議へ伝えてください。」


 小雪の声は、少しも震えていなかった。


「地球人を燃料にする制度は、今日で終わりです。」


 王は椅子へ座ったまま、小雪を見ていた。


 長い沈黙のあと、王は目を閉じた。


「……召喚陣を、一時停止せよ。」


 宰相が息を呑んだ。


「陛下。」

「緊急措置だ。」


 王は言った。


「世界会議には、我が国から報告する。」


 小雪は、その言葉を聞いた。


 一時停止。

 緊急措置。

 後ほど報告。


 結局、そういう言葉なのだと思った。


 完全な停止ではない。

 制度を廃止するとも言わない。

 世界会議へ判断を委ねるための、一時的な処置。


 それでも、鐘は止まる。


 少なくとも、今は。


 小雪は短剣を鞘へ収めた。


 少年が大きく伸びをした。


「じゃあ、裂け目へ戻るか。」


 小雪は頷いた。


「案内してください。」

「落ちるなよ。」

「落ちません。」

「お前の場合、落ちても戻ってきそうだけど。」


 小雪は少年を見た。


「笑えません。」

「俺は少し笑える。」

「斬りますよ。」

「すみません。」


 少年は素直に謝った。


 その軽さが、張りつめていた現実をほんの少しだけ遠ざけた。


 会議室を出る前に、小雪はもう一度だけ、王たちを振り返った。


 誰も謝らなかった。


 誰も、自分が悪いとは言わなかった。


 ただ、世界のためだと言った。

 制度だと言った。

 合意だと言った。

 合理的だと言った。


 だから小雪は、理解した。


 この世界は、きっと簡単には変わらない。


 ならば、変わるまで見張るしかない。


 或いは、変わらないのであれば、壊すしかない。


 小雪は歩き出した。


 最後の勇者候補として、この世界へ最初で最後の猶予を与えるために。


 誰も裁かないのであれば、自分が審判者になるしかない。


 あの地獄の裂け目へ吸い込まれた千五百人。


 そして、千年の制度の中で、名前さえ残されずに消えていった、それよりもはるかに多くの地球人たちのために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。