第五十九話 誰も悪くない世界
魔王城の地下には、古い転移装置が残されていた。
石で造られた丸い台座の周囲には複雑な紋様が刻まれていたが、ところどころが欠け、全体に厚く埃を被っている。長い間、まともに使われていなかったことは一目で分かった。
少年は台座の上へ乗ると、片足で石床を軽く叩いた。
「動くかな、これ。」
小雪は短剣を握り直した。
「動かないんですか。」
「いや、たぶん動く。たぶん。」
「たぶん。」
「昔、電報魔法が発展する前は、定期連絡用に使ってたらしいぞ。魔王役と召喚担当国の窓口を直接つなぐ装置。こっからの一方通行だけど、便利だろ。」
「便利という言葉を、今はあまり聞きたくありません。」
「あ、はい。」
少年はすぐに黙り、台座の中央へ片手を置いた。
黒に近い魔力が指先から石の紋様へ流れ込み、長く眠っていた線を一本ずつ起こすように、淡い光が足元へ広がっていく。
小雪は反射的に一歩下がりかけた。
「逃げるなよ。」
「逃げません。」
「初めてだと結構気持ち悪いからな。内臓だけ、その場へ置いていかれるような感じがする。」
「そういうことは、もっと早く言ってください。」
「今言った。」
足元の光が少しずつ強くなっていく。
小雪は少年を睨んだまま、短剣から手を離さなかった。
「王国へ着いたら、あなたは逃げますか。」
「逃げない。俺は定期連絡の相手だし、向こうも俺の顔くらいは知ってる。」
「では、証言してください。」
「するする。俺が知ってる範囲のことならな。ただし、あまり期待するなよ。」
「何をですか。」
「謝罪。」
少年は軽い声で言った。
「多分、ないぞ。」
小雪は答えなかった。
足元から立ち上った光が二人の視界を覆い、次の瞬間、世界が白く潰れた。
◇ ◇ ◇
再び目を開けた時、小雪は石造りの部屋へ立っていた。
魔王城の地下とは違い、壁には魔法灯が等間隔に並び、床には清潔な白い石が敷かれている。部屋の中央には、小雪たちが立っているものと同じ形の転移陣があり、その周囲では数人の神官と魔法師が、驚いた顔でこちらを見ていた。
白い神官服。
銀色の刺繍。
召喚担当国の紋章。
その服を見た瞬間、小雪の胸の奥が冷えた。
白い石の床で目を覚ました、最初の日を思い出した。
知らない言葉に囲まれ、額へ指を触れられ、優しい声で勇者候補様と呼ばれた。
少年が片手を上げた。
「よ。」
神官の一人が息を呑んだ。
「魔王役殿。」
「定期連絡じゃない。臨時。」
少年は親指で小雪を示した。
「こいつが王に話があるって。」
その場の空気が凍った。
神官たちの視線が、小雪の腕輪へ集まる。勇者候補の証であるそれを見て、何人かがはっきりと顔色を変えた。
「勇者候補様……?」
若い神官が呟いた。
小雪は、その声を聞いた。
様。
今さら、様。
小雪が短剣を抜くと、神官たちは一斉に後ずさった。少年が慌てて両手を広げ、小雪との間へ入る。
「待て待て待て。お前、王に会いに来たんだろ。ここで全員斬ったら、話が早く終わりすぎる。」
「邪魔をするなら斬ります。」
「分かる。分かるけど、まずは話せ。な?」
少年は神官たちへ向き直った。
「王か、魔素保全局の上の奴を呼べ。あと魔法院長。できれば世界会議の記録官も。」
「なぜ、そのような方々を。」
「勇者候補が、全部知った。」
少年の声は軽かった。
けれど、その一言で、部屋の温度が変わった。
神官たちは互いの顔を見合わせた。
誰も、何を知ったのかとは尋ねなかった。
その反応を見て、小雪は理解した。
知っている。
この者たちは、何かを知っている。
全てではないのかもしれない。自分が担当する範囲だけ、断片的に聞かされているのかもしれない。
それでも、小雪が何を知り、何に怒っているのかを察する程度には、知っている。
そのことが、吐き気がするほど不快だった。
小雪は、王城の奥にある会議室へ向かった。
丁重に案内されたわけではない。少年に先導され、警備を無視して進んだだけだった。
何度か近衛兵が前を塞いだが、小雪がそのたびに足元の石床へ白い光を走らせると、二度目の制止を試みる者はいなくなった。
誰も殺してはいない。
けれど、誰も小雪を止めることはできなかった。
着いた先は、小雪が想像していたほど仰々しくはなかった。
中央には長い楕円形の卓があり、壁一面に書棚が並んでいる。卓の上には大きな世界地図が広げられ、壁へ掛けられているのは一国の紋章ではなく、複数の国家の印を組み合わせた旗だった。
そこに、王がいた。
年老いた男だった。
豪奢な冠は被っておらず、深い青色の上着を着て、卓の奥へ静かに座っている。その隣には痩せた宰相らしき男と、白髪の魔法院長、数人の神官、それから世界会議の記録官と思われる者がいた。
誰も笑ってはいなかった。
けれど、誰も怒鳴らなかった。
魔王役を伴って王城へ侵入し、近衛兵の足元を破壊しながらここまで来た小雪を、誰一人として罵らなかった。
ただ、困った事態が起きたという顔をしていた。
王が口を開いた。
「春野小雪様。」
小雪は、わずかに眉を動かした。
「私の名前を知っているんですね。」
「勇者候補の名簿は、全て保管されております。」
「亡くなった者の名前も。」
「全て。」
「では、佐野隼人くんも。」
王の表情が、わずかに動いた。
けれど、それだけだった。
「存じております。」
「十歳でした。」
「記録では、そのように。」
「お母さん、と言って死にました。」
会議室へ、重い沈黙が落ちた。
誰かが小さく息を呑んだが、誰も謝らなかった。
王は目を伏せた。
「痛ましいことです。」
痛ましい。
その言葉は、恐らく間違ってはいない。
王は本当に痛ましいと思っているのかもしれない。
それでも、小雪にはあまりにも遠い言葉だった。
「痛ましい、ですか。」
「幼い候補者が召喚対象に含まれたことは、我々としても大変遺憾に思っております。」
「遺憾。」
小雪が繰り返すと、白髪の魔法院長が口を開いた。
「しかし、召喚対象を完全に選別する技術は、現在も確立されておりません。異なる世界同士をつなぐだけでも、現在の技術では極めて困難なのです。」
小雪は、魔法院長へ視線を向けた。
知的で、穏やかな顔をした老人だった。
「年齢、健康状態、社会的立場、家族構成。そうした条件を細かく絞り込みすぎると、召喚の門が不安定になります。結果として、召喚そのものにより多くの魔素を消費し、制度全体の効率が落ちるのです。」
小雪は、しばらく言葉が出なかった。
制度。
効率。
隼人の命が、その言葉の中へ組み込まれていた。
「あなたは。」
小雪が声を発すると、魔法院長は口を閉じた。
「十歳の子供が死んだ話をしていると、分かっていますか。」
老人は、わずかに眉を寄せた。
「分かっております。」
「では、なぜ効率の話をするんですか。」
「それが、我々に求められている役割だからでございます。」
魔法院長の声は静かだった。
「感情だけでは、魔素欠乏の問題は解決できません。」
小雪の指が、短剣の柄を握った。
隣で少年が、小さく言った。
「な。腹立つだろ?」
小雪は答えなかった。
王が、ゆっくりと口を開いた。
「小雪様。まず、誤解を解かせていただきたい。」
「誤解?」
「勇者召喚は、我が国の独断で行われているものではございません。」
王は、卓上に広げられた地図を指した。
そこには大陸と海が描かれており、小雪を召喚したこの国は、世界全体から見れば小さな国にすぎなかった。
魔法技術に特化した、小国。
「千年以上前、世界魔素保全会議において、各国代表の合意により、異界召喚を利用した魔素補填制度が定められました。我が国は当時から世界でも有数の、いえ、最も高い魔法転移技術を有しておりました。そのため、実務担当国として召喚の運用を任されたのです。」
「任された。」
「はい。その通りです。」
王は頷いた。
「制度を決定したのは、決して我が国だけではありません。世界各国の合意の下に始められ、現在も世界会議の承認によって運用されています。」
宰相が、その言葉を引き取った。
「むしろ我が国は、各国のために最も重い役割を担っております。召喚の実務、候補者の管理、講習、補償、魔素還元地の記録。そして制度への批判の多くも、我が国が直接受け止めてきました。」
宰相の声には、疲れがあった。
そして、わずかな苛立ちも含まれていた。
「他国は、魔素が安定することによる恩恵を受けます。農地が保たれ、都市結界が維持され、魔物被害が減る。ですが、実際に異界人と接し、彼らの混乱や怒りを受け止めるのは我々です。」
小雪は宰相を見た。
「だから、あなた方も被害者だと?」
宰相は、一瞬だけ口を閉じた。
「そのような言い方は、一面的です。」
少年が小さく吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。
小雪は笑わなかった。
「私たちを呼んで、死なせて、魔素へ変えている側が。」
小雪は一語ずつ、確かめるように言った。
「一面的。」
宰相の表情が強張った。
「決して、あなた方の犠牲を軽んじているわけではありません。」
「犠牲。」
「世界を維持するための、尊い犠牲です。」
小雪の胸の奥で、何かが冷えた。
尊い犠牲。
勇敢な候補。
女神の祝福。
世界を救う旅。
何度聞いただろう。
全てが、同じ箱の中へ入れられている。
エリーズも。
瑞希も。
隼人も。
死ねば、尊い犠牲という名前に変えられる。
「では、教えてください。」
小雪は、卓の向こうへ並ぶ人々を見渡した。
「なぜ、これほど回りくどいことをするんですか。」
王が、わずかに眉を寄せた。
「回りくどい、とは。」
「私たちを呼び、勇者候補と名づけ、魔王を倒せば帰れると教える。戦い方を覚えさせ、武器や防具を与え、地図と資金を持たせて世界中へ旅立たせる。」
小雪は静かな声で続けた。
「死んで魔素になってもらうことが目的なら、召喚した直後に殺せばいい。なぜ、わざわざ勇者の物語を作ったんですか。」
会議室の中へ、短い沈黙が落ちた。
誰も、その問いを想定していなかったわけではないのだろう。
ただ、誰が答えるべきかを決めかねているように見えた。
最初に口を開いたのは、魔法院長だった。
「制度の初期には、そのような運用も検討されました。」
彼の声は静かだった。
まるで、昔の研究記録を説明しているような口調だった。
「召喚直後の異界人を拘束し、一定の場所で魔素へ還元する。現在よりも簡素で、費用も少なく済む方式です。しかし、召喚された方々の中には、極めて強力な祝福を持つ者もおりました。事情を察した候補者が抵抗し、施設を破壊した例もあります。制度の試験運用中には、兵士や神官だけでなく、王族を含む多数の死者が出ました。」
小雪は、自分の手を見た。
何度壊れても戻り、身体を削れば岩壁さえ砕く手だった。
召喚された直後から、この力を扱えた者がいたのなら。
拘束しようとした人間を殺すことは、難しくなかったのかもしれない。
「そのため、候補者自身の協力を得る方式へ改められました。」
今度は、宰相が答えた。
「元の世界へ帰還できる可能性を示し、世界を救う役割を与え、必要な知識と装備を提供する。候補者が自ら旅立つ形にすれば、拘束や監視に必要な人員を大幅に減らすことができます。候補者が反乱を起こす危険も、格段に低くなりました。」
「帰れるという嘘を教えて。」
小雪が言うと、宰相は一瞬だけ目を伏せた。
「当時の文書では、帰還の可能性を完全には否定できない、と整理されております。」
「確認したことはないのに。」
「はい。」
宰相は否定しなかった。
「また、勇者召喚という形式は、制度に必要な資金や物資を各国から集める上でも有効でした。世界を救う勇者のためであれば、各国政府だけでなく、貴族、商会、神殿、一般の民からも協力を得やすい。召喚、教育、装備、宿舎、移送には、実際多額の費用が必要となります。」
「だから、勇者という名前をつけた。」
「制度を維持するために必要な、世界共通の物語でした。」
宰相は、そう答えた。
悪びれてはいなかった。
誇ってもいなかった。
ただ、そうしなければ運用できないのだと説明しているだけだった。
「各地へ旅立たせる理由は。」
小雪は尋ねた。
「候補者を死なせるだけなら、一か所へ集めておく方が簡単です。なぜ、ダンジョンや討伐地へ送り出すんですか。」
卓の端へ座っていた記録官が、手元の書類へ視線を落とした。
「勇者候補の身体から解放された魔素は、やがて世界全体へ拡散します。しかし、最も濃く還元されるのは、候補者が亡くなった地点の周辺です。」
小雪は黙って、その先を待った。
「魔素欠乏の程度は、地域によって異なります。農地の衰えが著しい地域、魔物の凶暴化が進んだ地域、結界の維持が困難になった都市。各国は、自国領内への魔素還元を求めます。そのため、候補者の旅程や任務地は、各地域の不足量を考慮して配分されます。」
「配分。」
「はい。」
「人間を。」
記録官の唇が、わずかに止まった。
「魔素還元の機会を、です。」
「同じことです。」
小雪は言った。
ダンジョン。
森。
遺跡。
廃坑。
峡谷。
地下墓所。
古塔。
名簿へ記されていた、勇者候補たちの最終報告地。
小雪が旅の中で見てきた、地図とは違う道。
安全だと説明されながら、強力な魔物が待っていた場所。
多くの勇者候補が消えた土地ほど、その後には魔物の被害が減っていた。
小雪が集めてきた記録は、間違っていなかった。
候補者は、魔王を倒すために世界中へ散らされていたのではない。
死んだ時に放たれる魔素を、世界中へ行き渡らせるために運ばれていた。
「では、戦わなかった人は。」
小雪が尋ねると、会議室の中で何人かの視線が動いた。
「戦闘を拒否した候補者です。王都や近隣の町で暮らせる。住居も仕事も用意する。補償金も支払う。そう説明されていました。」
誰も、すぐには答えなかった。
小雪は、一人の名前を口にした。
「ヘレン・ウォード。」
記録官の顔が、わずかに強張った。
「三十代半ばの女性です。十四歳の娘がいました。戦うことを拒み、パン工房で働くために王都近郊の町へ移りました。四か月後、馬車事故で死亡したと、名簿に記録されていました。」
小雪は記録官を見た。
「本当に、事故だったんですか。」
記録官は王へ視線を向けた。
王は目を閉じ、短く息を吐いた。
「公式な記録上は、馬車事故です。」
「記録ではなく、事実を聞いています。」
小雪の声は大きくなかった。
それでも、記録官は肩を強張らせた。
王が、静かに答えた。
「計画された処置です。」
その言葉を聞いた瞬間、小雪の中から音が消えた。
窓も。
扉も。
卓を囲む人々の呼吸も。
何もかもが遠ざかり、王の声だけが耳の奥に残った。
「処置。」
「非戦闘を選んだ候補者であっても、最終的には魔素補填へ供する必要があります。召喚した方を、そのまま天寿まで保護し続ければ、制度の目的を果たすことができません。」
「殺したんですね。」
「はい。」
王は否定しなかった。
「事故に見せかけて。」
「本人や周囲へ不要な恐怖を与えず、他の候補者の動揺を避けるためです。」
「不要な恐怖。」
小雪は、その言葉を繰り返した。
ヘレンは、帰れるまでパンを焼いて待つと言っていた。
娘のところへ必ず帰るのだと笑っていた。
戦わなくてもよいと信じ、剣を持たず、王国が用意した馬車へ乗った。
その時点で、行き先は決まっていた。
「彼女を町へ送り出した神官も、知っていたんですか。」
「いいえ。」
答えたのは、宰相だった。
「召喚、説明、教育、移住支援、最終処置は、それぞれ異なる部署が担当します。候補者と直接接する神官や、受け入れ先の町、雇用する工房には、処置について知らせません。」
「なぜ。」
「知れば、態度へ表れます。候補者が疑念を持つ可能性も高くなる。何より、現場の者へ不必要な精神的負担を負わせることになります。」
小雪は目を伏せた。
最初に出会った女性神官の顔を思い出した。
ヘレンを見送った者たちの顔も。
皆、本当に優しかった。
新しい町で暮らせることを喜び、よい仕事が見つかるように祈り、手紙が届くのを待っていた。
彼らは、何も知らなかった。
知らないまま、自分の役割だけを果たしていた。
召喚する者。
帰還について説明する者。
戦い方を教える者。
町へ送り出す者。
事故を装って殺す者。
名簿へ、事故死と記す者。
一人一人は、自分が制度の全てを行っているとは思わない。
自分が担当する仕事を、必要な手順として処理しているだけだった。
「そうやって。」
小雪は、ゆっくりと顔を上げた。
「誰も、自分が殺したとは思わなくて済むようにしたんですね。」
宰相は答えなかった。
王も、魔法院長も、神官たちも黙っていた。
その沈黙を破るように、王が口を開いた。
「この世界の人口は、およそ二十億です。」
小雪は顔を上げた。
「魔素欠乏が進めば、まず大地の裂け目周辺で魔族と魔物が荒れます。次に農地が痩せ、水源が不安定になる。病を癒やす魔法が効きにくくなり、都市結界が落ち、魔物被害が広がる。魔力を持たずに生まれる子供も増えるでしょう。」
王の声は淡々としていた。
「二十億人の命と暮らしが、少しずつ崩れていくのです。」
「だから、千人以上を。」
「現時点では、千五百名を超えております。今回の召喚規模は、最終的に二千名弱を見込んでおります。」
宰相が訂正した。
小雪は宰相を見た。
数字を正すために口を挟んだのだと理解した瞬間、怒りより先に吐き気がした。
「二千名弱の異界人による魔素補填で、今後三十年から四十年程度の安定が見込まれております。」
宰相は、書類を見ることもなく言った。
恐らく、何度も会議で口にしてきた数字なのだろう。
「かつては、一度の補填によって百年近い安定が得られました。しかし、近年の魔法需要増大によって安定期間は短くなっており、その点については世界会議でも問題視されております。」
小雪は、宰相の言葉を聞いていた。
二千名弱。
三十年から四十年。
魔法需要。
安定期間。
そこには、隼人がいなかった。
エリーズもいなかった。
名前が消え、家族が消え、痛みが消え、最後には数字だけが残っていた。
「小雪様。」
王が言った。
「あなたのお怒りは、理解しております。」
小雪は王を見た。
「本当に?」
「本当に。」
王は静かに頷いた。
「しかし、我々は二十億の民を預かっています。異界の二千人と、この世界の二十億。王であるならば、どちらを選ぶべきかは明白でしょう。」
小雪は、ゆっくりと息を吸った。
不思議なほど、怒鳴る気にはならなかった。
王の言葉は、間違っていない。
この世界の王としては。
二十億の民を預かる統治者としては。
知らない世界の二千人と、自分たちの世界の二十億。どちらを選ぶのかと問われれば、答えは明らかだった。
小雪にも、理解できてしまった。
理解できてしまったことが、一番つらかった。
「やめるつもりは、ないんですね。」
小雪は言った。
王はすぐには答えなかった。
代わりに、宰相が口を開いた。
「急激な制度停止は、世界全体へ深刻な混乱をもたらします。」
「つまり、やめない。」
「段階的な魔素消費削減については、すでに議論が行われています。」
「やめない。」
「大型魔法の一部制限についても、各国間で意見交換が。」
「やめない。」
宰相は黙った。
魔法院長が言った。
「一度豊かさを得た社会は、簡単には後退できません。都市結界を失えば、国境沿いの民が危険へ晒される。転移門を閉じれば、流通が滞る。魔法炉を止めれば工房も病院も動かなくなる。天候制御をやめれば、不作になる地域も生じるでしょう。」
「だから、二千人を燃やす方が簡単。」
小雪が言うと、部屋の空気が揺れた。
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
小雪は、その沈黙を見て理解した。
この人たちは、やめない。
隼人の最後を話しても。
エリーズの名前を叫んでも。
ヘレンが騙されて殺されたことを認めても。
小雪がこの場で泣き崩れても。
きっと、やめない。
なぜなら、合理的だからだ。
二千人の異界人で、二十億人の数十年間が守られる。
豊かな魔法生活が維持され、飢饉が減り、病が癒やされ、都市が守られ、国々の秩序が続く。
使わない理由がない。
この世界の人間なら。
この世界に生まれ、この世界で暮らし、この世界の家族を守りたいのなら。
きっと使う。
小雪は、そのことを理解してしまった。
理解した瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れた。
「分かります。」
小雪は言った。
王の表情がわずかに緩み、宰相も神官たちも小さく息を吐いた。
小雪が納得したと思ったのだろう。
小雪は続けた。
「だから、絶望しました。」
王の顔から表情が消えた。
「あなた方は、きっとやめない。」
小雪の声は静かだった。
「自分たちが悪いとは思っていないから。」
「それは違います。」
王が言った。
「罪悪感がないわけでは、決してありません。我々とて、人の心は持っています。」
「でも、やめない。」
「難しい問題なのです。どうか、ご理解いただきたい。」
「同じです。」
小雪は王を見た。
「罪悪感があっても、やめないのなら同じです。」
誰も言い返さなかった。
小雪は少しだけ笑った。
笑ったつもりだった。
けれど、喉から出たのは掠れた息だけだった。
「私はずっと考えていました。誰が悪いんだろうって。」
王も、宰相も、神官も、魔法院長も黙っている。
「魔王が悪いのか。魔族が悪いのか。王国が悪いのか。神官が悪いのか。召喚陣を作った人が悪いのか。魔法を使い続ける人たちが悪いのか。」
小雪は、卓上に広げられた地図を見た。
国々の境界線。
山脈。
河川。
海。
その全てに、二十億人が暮らしている。
「でも、皆さんは言うんですね。」
小雪は顔を上げた。
「自分は悪くないと。」
王が何かを言おうとしたが、小雪は遮った。
「世界のため。制度だから。昔から行われているから。国際合意だから。我が国だけの責任ではないから。他に方法がないから。豊かさを捨てることはできないから。」
言葉にするほど、胸の奥が冷えていった。
昔、地球で読んだ本の内容が頭を掠めた。
アイヒマン。
権威への服従。
命令と分業。
巨大な仕組みの中で、自分は与えられた仕事をしただけだと言う人々。
一人一人は、残酷な顔などしていない。
優しい神官もいる。
家族を大切にする役人もいる。
候補者の死に、本当に心を痛める者もいる。
それでも制度は動き、地球から呼ばれた人間は死ぬ。
誰も、自分の手で全員を殺したわけではない。
だから誰も、自分が殺したとは思わない。
「では、悪いのは、この世界の前提ですね。」
会議室の空気が凍った。
少年だけが、わずかに目を細めた。
「地球人を燃料にしなければ保てない、この世界そのものが問題なら。」
小雪は言った。
「世界ごと壊すしかありません。」
近衛兵たちが動こうとした。
小雪は短剣を振った。
皮膚が裂け、爪が剥がれる。
白い光が床を走り、幾本もの帯となって、近衛兵と会議卓を囲む者たちの足元へ絡みついた。
光は靴と石床の間へ食い込み、縫い留めるように固まった。
誰も、一歩も動くことができなかった。
王の額に、大粒の汗が浮かぶ。
「小雪様。」
「あなた方は、選んだんですよね。」
小雪は王を見た。
「二十億人のために、二千人を。」
「それが、統治です。」
「では、私も選ぶことにします。」
王の顔が強張った。
「私の世界のために。」
小雪は言った。
「この世界を壊すことを。」
誰かが小さく悲鳴を上げた。
王は青ざめ、宰相は何かを言おうとして声を失った。
ここへ来て初めて、全員の目に恐怖が浮かんでいた。
ああ、と小雪は思った。
ようやく怖がった。
隼人が死んだ時ではなく。
エリーズが消えた時でもなく。
ヘレンを事故に見せかけて殺したと語った時でもなく。
二千名弱という数字を提示した時でもない。
自分たちの世界が切り捨てられるかもしれないと知った時、初めて。
この人たちは、怖がった。
「お前、本当に危ないな。」
少年が小さく言った。
場違いなほど、軽い声だった。
小雪はそちらを見た。
「今さらです。」
「まあな。」
少年は頭を掻いた。
「一応聞くけど、本当に今すぐ壊すのか。この世界。」
小雪は答えなかった。
今すぐ壊したいと思った。
召喚担当国も。
世界会議も。
召喚陣も。
魔法炉も。
転移門も。
魔法灯が照らす美しい街も。
何もかも。
けれど、その瞬間、小雪の脳裏へ別の顔が浮かんだ。
旅の途中で出会った宿屋の女将。
小さな手袋をくれた村の少年。
畑を守ろうとしていた老人。
魔物に怯え、泣いていた子供たち。
この世界にも、何も知らない人々がいる。
ただ、生きているだけの人間がいる。
地球の人間を燃料としていることなど知らず、魔法灯の下で夕食を囲み、子供の熱に慌て、雨が降れば喜び、明日も同じ日が来ると思って眠る者たちがいる。
小雪は、その人々を見てしまっていた。
だから、すぐには壊せなかった。
それが、悔しかった。
「他に方法があるとでも?」
小雪は少年へ尋ねた。
王たちではなく、少年へ。
「何の。」
「召喚を止める方法です。」
少年は少し考えた。
「制度そのものを止めるって意味なら、ここだけを脅しても無理だろ。さっきこいつらが言った通り、世界会議案件だ。召喚担当国に、最終的な決定権はない。」
「では、召喚を止める他の方法はないと。」
少年は、小雪の手をじっと見ていた。
皮膚が裂け、爪が剥がれ、それでもすでに白い光によって塞がり始めている手。
失われても補われる。超高濃度の魔素体で作られた身体。
「お前、さっきも自分の身体を使って、魔法を強化したな。」
「はい。」
「それなのに、もう戻り始めてる。回復魔法か?」
「祝福です。」
少年は顎へ手を当て、少し考えた。
「なるほど。随分と都合のいい祝福を与えたもんだな。」
「どういう意味ですか。」
「お前たちの身体は、もともと高濃度の魔素体だ。だから、お前は自分の身体を燃料にして、高出力の魔法を使える。」
少年は一度言葉を切った。
「だったら、その魔素を魔法へ使わず、裂け目へ直接落とせばいい。」
「落とす?」
「あの裂け目は、世界で最も魔素が薄い場所だ。そこへお前の身体から魔素を補えば、周辺が多少持ち直す。裂け目周辺の崩れを止めれば、世界全体にも少しは時間ができるはずだ。」
そこで少年は、自分で口にした方法を想像したのか、露骨に顔をしかめた。
「いや。これ、正気の沙汰じゃないな。自分の身体を削ぎ落として、裂け目へ落とすんだぞ。気持ち悪すぎる。やっぱり、今の話はなしで。」
「どれくらい必要ですか。」
「そこで食いつくのか?」
「検討しているだけです。」
「普通の勇者候補一人なら無理だ。何百人、何千人と死ぬから、世界規模の補填になる。」
少年は、小雪の再生し続ける手を見た。
「ただ、お前が死なないまま身体を削り、戻して、また削ることを繰り返せるなら。」
少年は少し考え、会議卓の上にある数字へ目を向けた。
「今回予定されている、残り数百人分の不足くらいは埋められるかもしれない。」
会議室がざわめいた。
王国側の者たちが、明らかに反応した。
息を呑み、互いの顔を見た。
その反応だけで、小雪には分かった。
この人たちは今、考えた。
小雪を使える、と。
次の瞬間、小雪は床へ短剣を突き立てた。
白い光が卓の中央を走り、広げられていた巨大な世界地図を真っ二つに裂いた。
「勘違いしないでください。」
小雪の声は静かだった。
「私を新しい補填装置にしようとした瞬間、この王城から壊します。」
誰も動かなかった。
「私がやると決めた時だけ、私がやります。」
小雪は王を見た。
「これは、あなた方への協力ではありません。」
王は青ざめた顔で、小雪を見つめていた。
「猶予です。」
「猶予?」
「あなた方が召喚をやめられるかどうか。魔法の使用を減らせるかどうか。地球人を燃料にしない世界へ変われるかどうか。」
小雪は言った。
「それを見定めるための猶予です。」
少年が小さく口笛を吹いた。
「いい言い方するな。脅迫の別名としては、随分上品だ。」
「黙ってください。」
「はい。」
小雪は王へ向き直った。
「召喚陣を止めてください。」
「世界会議の承認なしには。」
「止めてください。」
「しかし。」
「次に召喚の鐘が鳴ったら。」
小雪は床から短剣を抜いた。
刃には、白い光が宿っていた。
「私は、この世界を敵とみなします。」
誰も言葉を発しなかった。
「世界会議へ伝えてください。」
小雪の声は、少しも震えていなかった。
「地球人を燃料にする制度は、今日で終わりです。」
王は椅子へ座ったまま、小雪を見ていた。
長い沈黙のあと、王は目を閉じた。
「……召喚陣を、一時停止せよ。」
宰相が息を呑んだ。
「陛下。」
「緊急措置だ。」
王は言った。
「世界会議には、我が国から報告する。」
小雪は、その言葉を聞いた。
一時停止。
緊急措置。
後ほど報告。
結局、そういう言葉なのだと思った。
完全な停止ではない。
制度を廃止するとも言わない。
世界会議へ判断を委ねるための、一時的な処置。
それでも、鐘は止まる。
少なくとも、今は。
小雪は短剣を鞘へ収めた。
少年が大きく伸びをした。
「じゃあ、裂け目へ戻るか。」
小雪は頷いた。
「案内してください。」
「落ちるなよ。」
「落ちません。」
「お前の場合、落ちても戻ってきそうだけど。」
小雪は少年を見た。
「笑えません。」
「俺は少し笑える。」
「斬りますよ。」
「すみません。」
少年は素直に謝った。
その軽さが、張りつめていた現実をほんの少しだけ遠ざけた。
会議室を出る前に、小雪はもう一度だけ、王たちを振り返った。
誰も謝らなかった。
誰も、自分が悪いとは言わなかった。
ただ、世界のためだと言った。
制度だと言った。
合意だと言った。
合理的だと言った。
だから小雪は、理解した。
この世界は、きっと簡単には変わらない。
ならば、変わるまで見張るしかない。
或いは、変わらないのであれば、壊すしかない。
小雪は歩き出した。
最後の勇者候補として、この世界へ最初で最後の猶予を与えるために。
誰も裁かないのであれば、自分が審判者になるしかない。
あの地獄の裂け目へ吸い込まれた千五百人。
そして、千年の制度の中で、名前さえ残されずに消えていった、それよりもはるかに多くの地球人たちのために。




