第五十八話 祝福の正体
小雪は、神官支部へ戻らなかった。
隼人の死を報告すれば、神官たちはきっと悲しそうな顔をするだろう。彼は元の世界へ戻られたことでしょうと言い、尊い犠牲でしたと祈り、小雪様のせいではありませんと慰める。
その全てに、もう耐えられなかった。
隼人は、まだ十歳だった。
塾の帰りにコンビニの前で母親を待っていた。肉まんを買ってもらえるかもしれないと、少し楽しみにしていた。父親は怖いけれど、一緒に遊ぶ時には本気で遊んでくれるのだと話していた。母親は怒ると話が長いのだと、困ったように笑っていた。
そんな子供が、この世界で光になった。
小雪の腕の中で、最後に母親を呼びながら。
そして小雪は、その隼人へ嘘をついた。
帰れる。家族に会える。怒られない。隼人は何も悪くない。
最後の一つだけは、本当だった。けれど、それ以外は、小雪が一度も確かめたことのない言葉だった。
それでも、あの時はそう言うしかなかった。
帰れないかもしれない。死んだ後に何が起きるのかも分からない。そう正直に伝えていたら、隼人は最後の瞬間まで恐怖の中にいたかもしれない。母親の顔を思い浮かべることもできず、ただ痛みと絶望だけを抱えて消えていったかもしれない。
だから、小雪は嘘をついた。
それが正しかったのか、間違っていたのかは、今も分からない。
分からないことばかりだった。
魔王を倒せば帰れる。
死んでも帰れる。
誰か一人が魔王を倒せば、召喚された全員が帰れる。
戦いたくなければ、戦わなくてもよい。
小雪たちは、ずっとそう教えられてきた。けれど、そのどれ一つとして、本当に確かめた人間はいなかった。
隼人を失ったあと、小雪は一人で北西へ向かった。
すぐに魔王城へ辿り着いたわけではない。
王国の地図だけを頼ることはせず、整備された補給路も避け、人の少ない道を選んだため、旅は遅かった。町へ立ち寄る時には勇者候補の腕輪を外套の下へ隠し、商人や猟師から道を聞いた。魔物の多い場所はなるべく避け、どうしても通らなければならない時には、何日も離れた場所から様子を見てから進んだ。
それまでの小雪は、いつも誰かと旅をしていた。
最初は亮たちと、そしてエリーズと。その後も、多くの人間と歩いた。
最後には、隼人と。
一人で進むことに慣れるまでには、随分と時間がかかった。
夜になると、一人であることを強く感じた。焚き火の向こうから声が聞こえない。見張りの順番を決める必要もなく、誰かの寝息を聞くこともない。朝になれば、小雪が起きなければ何も始まらない。
初めのうちは、その静けさが苦しかった。
けれど、誰かと一緒にいることも、もう苦しかった。
名前を知れば、覚えてしまう。
家族の話を聞けば、その人が消えた後にも思い出してしまう。
だから、小雪は一人で歩いた。
隼人の住所を忘れないように、朝になると必ず一度、声に出した。
県の名前から始め、市の名前、駅、マンションの色、近くのコンビニ、部屋番号まで、一つずつ順番に確かめる。夜、眠る前にも、同じ言葉をもう一度唱えた。
魔王を倒したら会いに来て。
隼人は、そう言った。
小雪は約束した。
だから、忘れることだけは決して許されなかった。
◇ ◇ ◇
幾つかの季節を越えた頃、小雪は黒い峡谷へ入った。
赤茶けた岩肌が長く続き、足元には砕けた骨のような白い石が散らばっている。頭上に見える空は細く、谷底を抜けていく風は冷たかった。
魔物が生息していることは分かっていた。
実際、峡谷へ入って間もなく、岩陰から蜥蜴に似た魔物が這い出してきた。四本の脚で岩場を素早く駆け、長い舌の先から黒い液を垂らしている。
一体なら、問題はなかった。
けれど、一体ではなかった。
岩の隙間から次々と姿を現し、気づけば十体を超えていた。
小雪は戦うことに固執せず、すぐに逃げた。
白い光で目を眩ませ、風魔法で身体の向きを変えながら、岩の間を抜けていく。進路を塞がれた時だけ杖や短剣を使い、決して一か所へ留まらないようにした。
昔の小雪なら、きっとすぐに足を取られ、そのまま死んでいただろう。
運動が苦手で、体育の授業を少し憂鬱に思っていた高校一年生。剣も槍もまともに扱えず、木剣を数度振っただけで腕を震わせていた少女。
今の小雪は、もうその頃とは違っていた。
何年も魔物から逃げ続け、足場の選び方を覚えた。飛びかかる直前、魔物のどこへ力が入るのかも分かるようになった。傷ついた時、痛みに驚いて足を止めれば、そのまま死ぬことも知っていた。
それでも、数が多すぎた。
峡谷の途中で、頭上から別の魔物が落ちてきた。
鳥に似た姿をしていたが、翼は骨と薄い膜でできており、頭部には目がない。顔のほとんどを占める大きな口だけを開き、小雪へ襲いかかった。
避けきれなかった。
魔物の口が、左腕へ食いついた。
「っ……!」
牙が肉へ食い込み、鋭い痛みが肩まで走った。
小雪は右手の短剣を魔物の首へ突き立てたが、牙は深く食い込んだまま離れない。背後からは、蜥蜴の魔物たちが迫っていた。
このままでは引き倒される。
小雪は反射的に、噛みつかれた左腕へ魔力を流した。
何をしようとしたのか、自分でも分からなかった。腕へ食いついた魔物を焼こうとしたのかもしれない。ただ、何とか押し返したいと思っただけなのかもしれない。
身体の奥にあるものを、噛みつかれている場所へ一気に集めた。
白い光が左腕へ集中する。
牙の食い込んだ肉の内側で、熱が急激に膨れ上がった。
次の瞬間、左腕が弾けた。
音は、少し遅れて聞こえた。
視界が白く染まり、肩から先の感覚が消える。何が起きたのかを理解するより先に、激しい痛みが遅れて脳を焼いた。
小雪は叫んだ。
自分の声とは思えない、引き裂かれるような声だった。
左腕へ食いついていた魔物は、腕ごと白い光へ巻き込まれ、岩壁へ叩きつけられた。光はそこで止まらず、背後まで迫っていた蜥蜴の群れを飲み込み、峡谷の岩肌を大きく抉った。
小雪はその場へ膝をついた。
左肩から血が溢れる。
腕がない。
肘も、手首も、指も。
何もない。
小雪はうまく呼吸ができなかった。
痛い。
怖い。
嫌だ。
死にたくない。
召喚から六年近くが過ぎても、その思いだけは消えていなかった。
小雪は地面へ倒れ込んだ。肩から流れた血が、岩の上へ広がり、光に変わっていく。
意識が遠くなる。
死ねば帰れる。
誰かの声が、頭の奥で囁いた。
神官の声。
勇者候補たちの声。
そして、隼人へ同じ言葉を告げた、小雪自身の声。
帰れる。
小雪は歯を食いしばった。
違う。
まだ、何も確かめていない。
そこで意識が途切れた。
目を覚ました時、峡谷の底には夜が降りていた。
冷たい地面の上で、小雪はしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。頭上には細い月が見え、谷底を抜ける風が頬へ当たっている。
やがて、左肩の重い痛みと違和感によって、起きたことを思い出した。
腕。
小雪は恐る恐る左側へ目を向けた。
左腕は、あった。
ただし、完全な形ではなかった。
肩から先には腕らしい輪郭が生まれていたが、表面は半透明で、その内側には地脈のように白い筋が走っている。骨らしきものもぼんやりと浮かび、まだ人間の腕とは呼べない何かが、小雪の身体から伸びていた。
小雪はその場で吐いた。
胃の中にはほとんど何も残っておらず、苦い液だけが喉を焼いた。
腕が戻っている。
切られた傷が塞がるどころではない。
失ったものが、そっくりそのまま作り直されている。
皮膚の下で、骨と肉がゆっくりと編み上げられていく感覚があった。それは痛みとも痒みとも違い、自分の身体の中に別の生き物が巣を作っているような、耐え難い気持ち悪さだった。
小雪は震えた。
祝福。
これが。
これが、神の恩恵なのか。
女神が小雪へ与えた力なのか。
再生しかけた左腕を見ながら、笑いそうになった。
笑えば何かが壊れてしまう気がして、小雪は強く唇を噛んだ。
どうして、この力は隼人へ届かなかったのか。
どうして、エリーズの腕は小雪の手の中へ戻らなかったのか。
瑞希の腹部の傷は塞がらず、亮も、オリバーも、林佳慧も、ルカも、誰一人救うことができなかった。
小雪の身体は失った左腕すら作り直せるのに、他人の浅い傷一つ治すことができない。
これは、回復ではない。
小雪はようやく理解した。
これは、小雪という形を壊れないように維持する力だ。
どれほど傷ついても、どれほど削れても、再び同じ形を作り、戦場へ戻すための力。
誰かを救う祝福ではない。
小雪だけを残すための呪いだった。
左腕が完全な形へ戻るまで、三日ほどかかった。
その間、小雪は峡谷の岩陰へ身を隠した。
水は岩の隙間から滲み出す細い流れでしのぎ、食事は収納袋に残っていた硬い干し肉と乾燥豆だけで済ませた。
腕が作り直される間、小雪は何度も熱を出した。身体の奥から何かを吸い上げられ、それを強制的に肉や骨へ変えられているような感覚が続いた。
腕の輪郭が明瞭になるたびに、身体の別のどこかが薄くなっていくようにも感じた。
肌から血の気が引き、以前よりもわずかに白くなった気がする。黒い髪の中には、一本だけ色の薄い髪が混じっていた。
小雪はそれを引き抜こうとして、途中でやめた。
もう、どうでもよかった。
三日目の朝、腕の透けは完全に収まった。
小雪は左手を開き、ゆっくりと閉じた。
感覚は少し鈍かったが、指は動いた。
何もなかったはずの腕が、また使えるようになっている。
小雪は、その手で短剣を握った。
握れた。
以前と同じように。
前の腕とそっくりに見えることが、かえって気味悪かった。自分の身体から生えているのに、どうしても元の腕と同じものだとは思えない。
吐き気を堪えながら左手を見ているうちに、小雪の中へ別の考えが浮かんだ。
使える。
この身体は、壊れても戻る。
血を流しても、骨を折っても、毒を受けても、腕を失っても、時間さえあれば元の形へ戻る。
ならば。
小雪は峡谷の岩壁へ向かって立った。
左手に魔力を集める。
腕を失った時、噴き出した白い光は魔物の群れを焼いた。あれは、偶然ではないのかもしれない。
これまでにも、似たことはあった。
深い傷を負った時だけ、魔法の威力が突然大きくなる。身体の一部を何かの代償として消費することで、通常では扱えないほど強い力を引き出しているのではないか。
小雪は小さく息を吐いた。
怖かった。
怖いに決まっている。
何度傷ついても、痛みに慣れることはなかった。慣れたのは、痛みがあっても動くことだけだ。
骨が折れれば痛い。
肉が裂ければ痛い。
腕が弾ける痛みなど、二度と思い出したくなかった。
それでも、前へ進むためには力が要る。
魔王城へ一人で辿り着くには、今までの戦い方では足りない。
小雪は左手の指先へ魔力を集めた。
熱が膨らむ。
皮膚が内側から裂けそうになる。
その熱を、岩壁へ向けて放つ。
白い光が、細い矢のように走った。
岩壁に穴が開いた。
同時に、小雪の左手の爪が全て剥がれた。
「っ……。」
小雪は声を殺した。
指先から血が滲む。
爪のあった場所が熱を持ち、脈打つたびに鋭い痛みが走った。
けれど、岩壁には確かに穴が開いている。
小雪は荒い息を吐き、もう一度魔力を集めた。
今度は、手のひら全体へ。
白い光が先ほどよりも大きくなり、巻き起こった風とともに岩壁を大きく砕いた。同時に、小雪の手の皮膚が裂け、掌の奥で骨が軋んだ。
痛い。
それでも、できる。
小雪は膝をつきながら、笑った。
笑ったつもりだった。
けれど、喉から漏れたのは、掠れた息だけだった。
これが、自分の力。
身体を使えば、魔法は強くなる。
爪を失えば、岩へ穴を開けられる。皮膚を裂けば、壁を砕くことができる。骨を砕けば、もっと大きな魔法を放てるかもしれない。
腕一本を使えば、魔物の群れさえ消せるだろう。
小雪は静かに、傷ついた左手を見つめた。
すでに白い光が集まり、裂けた皮膚を埋め始めている。剥がれた爪も、時間が経てば再び戻るのだろう。
これは便利だ。
燃料にできる。
小雪自身を燃やせば、もっと先まで進める。
その考えがあまりにも自然に浮かんだことがおかしくて、小雪の喉から、今度こそ小さな笑いが漏れた。
◇ ◇ ◇
北西へ進むほど、魔物の様子は変わっていった。
召喚されてから、六年半が経とうとしていた。
南の街道で見た魔物は、獣に近かった。
人を襲い、家畜を食い、畑を荒らす。
危険で恐ろしく、倒すべきものに見えた。
けれど、北西へ近づくほど、魔物たちは異様に痩せていった。
皮膚の下には骨が浮き、乾いた表面にはひびが入り、目だけが赤黒く濁っている。身体から漏れる青白い光も、立ち上るそばから霧のように薄れて消えていった。
小雪を見つけると襲ってくるが、その動きには怒りや敵意よりも、激しい飢えがあった。
肉ではない、魔力に飢えている。
小雪は、自然とそう考えるようになった。
赤黒い目と青白い光を持つ個体は、何かに駆り立てられるように小雪へ襲いかかってくる。けれど、同じ種類の魔物でも、身体に異変のない個体は、小雪の姿を見るとすぐに逃げていった。
飢えて変異した個体と、そうでない個体がいる。
それは、魔族も同じだった。
小雪が初めて魔族と出会ったのは、北の荒野にある廃村だった。
その魔族は、人間に近い形をしていた。灰色の肌に角があり、指先には長い爪が生えている。けれど、背中は曲がり、頬は痩せこけ、唇はひどく乾いていた。
小雪を見ると、魔族は武器を構えた。
小雪も短剣を抜いた。
神官たちからは、魔族には知性がなく、人間や家畜を見境なく襲う邪悪な生き物だと教えられていた。
だから、小雪は武器を構える魔族を見て驚いた。
武器を使うということは、少なくとも、ただ本能のまま襲いかかる生き物ではない。
先に口を開いたのは、魔族の方だった。
「勇者候補か。」
低く、掠れた声だった。
小雪は答えなかった。
魔族は、小雪の腕輪を見た。外套の袖で隠していたつもりだったが、動いた拍子にわずかに見えたのだろう。
「まだ、子供を呼んでいるのか。」
小雪は短剣の柄を強く握った。
「知っているんですか。」
「何を。」
「勇者候補が、どこから来るのか。」
魔族は乾いた笑いを漏らした。
「人間どもが、空の外から贄を呼んでいることくらいは、知っている。」
小雪の喉が冷えた。
「贄?……どういう意味ですか。」
「世界が足りなくなれば、人間達が外の世界から贄を呼ぶ。贄はこの世界を潤す。」
小雪は息を止めた。
「勇者候補が、贄だと?」
「……なんだ。お前は、何も知らずにここまで来たのか。」
魔族は吐き捨てるように言った。
「まさか、まだ魔王を倒すために呼ばれたと、信じているのか。」
小雪の心臓が、どくんと鳴った。
魔族は小雪へ近づこうとして、途中でよろめいた。
小雪は短剣を構える。
けれど、魔族は襲ってこなかった。
その場へ膝をつき、荒い息を吐いた。
「殺せ。」
魔族が言った。
小雪は動けなかった。
「殺せ。このままでは、いずれ自我を保てなくなる。魔素が薄すぎる。息をするだけで、内側から削られていく。」
「魔素……。」
「知らぬのか。」
魔族は顔を上げた。
その表情へ、わずかな驚きが浮かんだ。
「お前たちは、何も知らされず送られているのか。」
小雪は答えられなかった。
何も知らない。
その通りだった。
魔王を倒せば帰れる。
死んでも帰れる。
世界を救うために、勇者候補として選ばれた。
それだけを聞かされ、各地へ送られた。
魔族は、ひどく乾いた声で笑った。
「人間どもは、変わらんな。」
その直後、遠くで物音がした。
小雪は振り返った。
魔物の群れが近づいている。魔族の匂いに引き寄せられたのか、それとも小雪の魔力を感じ取ったのかは分からない。
魔族は立ち上がろうとして、再び膝をついた。
小雪は迷った。
この魔族は、敵だと教えられてきた。
人間を襲う側であり、勇者候補にとっては討伐すべき対象だと。
けれど今、目の前にいるのは、飢えて立ち上がることもできない一人の生き物だった。
小雪は短剣を下ろした。
「逃げてください。」
魔族は小雪を見た。
「勇者候補が、魔族を逃がすのか。」
「私は、勇者ではありません。」
小雪は言った。
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「候補でも、もうありません。」
小雪は白い光を指先へ集めた。
迫ってきた魔物の前方へ光を放つと、爪が剥がれ、指先へ鋭い痛みが走った。白い衝撃が地面を爆ぜさせ、魔物の群れが一瞬怯む。
小雪はその隙に、魔族の腕を掴んだ。
「立ってください。」
「なぜだ。」
「聞きたいことがあります。」
魔族は何かを言おうとしたが、その前に小雪が肩を貸した。
痩せた身体は、思っていたよりもずっと軽かった。
小雪は魔族を連れ、廃村の地下倉庫へ逃げ込んだ。
◇ ◇ ◇
魔族は、夜明け前に死んだ。
魔物に襲われた傷ではない。
長い飢えと衰弱による死だった。
小雪は手持ちの水と食料を与えたが、魔族はほとんど受けつけなかった。
「食べ物だけでは、足りぬ。」
魔族は言った。
「魔素が要る。」
「魔素とは、何ですか。」
小雪が尋ねると、魔族は重い瞼を上げた。
「この世界を巡るものだ。魔法の根であり、命の底にあるものでもある。人間どもも使っているだろう。」
「魔力とは違うんですか。」
「魔力は器に宿る。魔素は世界を巡る。」
小雪は、その言葉を胸の中で繰り返した。
魔力は器に宿る。
魔素は世界を巡る。
魔族は掠れた声で続けた。
「昔は、これほど薄くなかった。森も、山も、川も、もっと息をしていた。魔物もここまで狂わなかった。魔族も、人間の村を襲わずに生きることができた。」
「今は、違うのですか。」
「薄い。人間たちが際限なく使うせいだ。湯水のように使い、世界から失われていくことを考えもしない。」
魔族は疲れたように目を閉じた。
「どこもかしこも、足りぬ。だから狂う。魔物は、魔力や魔素を多く持つものを喰おうとする。魔族も、弱い者から飢える。」
「それが、魔王のせいだと聞きました。」
小雪が尋ねると、魔族は薄く笑った。
「逆だ。」
「逆?」
「世界が飢えたから、魔王が必要になる。」
小雪は言葉を失った。
魔王が復活したから、世界が荒れるのではない。
世界が荒れたから、魔王が必要になる。
その言葉の意味は、まだ分からなかった。
「魔王は、何をしているんですか。」
「魔族を集め、狂ったものを抑えている。人間の国へ流れぬように、北で抱えている。」
「でも、人間は、魔王を倒せと言っています。」
「人間は、分かりやすい物語しか見ようとしない。」
魔族は目を開け、小雪を見た。
「私たちは、魔王を倒すために呼ばれているのではないのですか。」
魔族は答えなかった。
その沈黙が、答えのように思えた。
小雪の胸が冷えていく。
「死んだ勇者候補は。」
声が震えた。
「どうなるんですか。」
魔族は小雪を見た。
その目へ、一瞬だけ憐れみに似たものが浮かんだ。
「魔王役に聞け。」
「あなたは知らないんですか。」
「死ねば土地へ還ることは知っている。だが、それが何を意味するのか、召喚がどのような仕組みなのかまでは知らぬ。」
「私は知りたい。」
「なら、魔王城へ行け。」
魔族はそう言って、激しく咳き込んだ。
黒い血が、乾いた唇から流れた。
「もう疲れた。狂う前に死ねたことだけは、僥倖だったかもしれんな。」
夜が明ける少し前、魔族の呼吸は止まった。
その身体は、光にならなかった。
亡骸は消えることなく、冷たい床の上へ残った。
勇者候補は、死ねば光になる。
けれど、この世界の者たちは、死体が残る。
なぜ、地球から来た人間だけが光になるのか。
なぜ、その光はあれほど美しく、何一つ残さず消えるのか。
小雪は魔族の言葉を思い返した。
贄。
世界を潤す。
死ねば、土地へ還る。
小雪は吐き気を堪えた。
まだ確定ではない。
魔族の言葉を、そのまま信じることはできない。魔族には魔族の立場があり、人間への憎しみもある。
それでも、これまで感じてきた違和感が、少しずつ一つの方向を向き始めていた。
地図。
ダンジョン。
召喚の頻度。
光になって消える死体と血。
魔素。
魔王。
そして、地球人だけが呼ばれる理由。
小雪は、もう何も知らなかった頃には戻れなかった。
◇ ◇ ◇
それからの一年、小雪は真相へ近づくための証拠を集めながら、北西へ進んだ。
古い神殿や廃坑、魔素荒れの起きた村、放棄された神官支部を巡った。人のいなくなった支部の倉庫には、過去の記録がそのまま残されていることがあった。
今も使われている施設では、夜を待って忍び込み、保管された帳面や報告書へ目を通した。
勇者候補の死亡地。
死亡前後の魔素濃度の変動。
ダンジョン周辺の土地の回復。
召喚回数と、魔物被害の関係。
公式な報告書には、美しい言葉が並んでいた。
勇者候補の尊い働きにより、周辺魔素は安定した。
ダンジョンの浄化が完了し、村落への被害は翌月より減少した。
女神の祝福と、勇者候補の献身へ感謝を捧げる。
けれど、小雪には、もう別の意味に読めた。
勇者候補が死んだ場所では、土地の魔素濃度が一時的に上がっている。
死亡者の多い地域ほど、直後には魔物の被害が減っている。
ダンジョンは魔王へ向かうための訓練場ではなく、勇者候補を世界各地へ送り出し、その魔素を広い範囲へ還元するための場所なのではないか。
そう考えると、全てが噛み合ってしまう。
小雪は何度も否定した。
違う。
そこまで酷いはずがない。
神官たちは、本当に悲しんでいた。
町の人々は、本当に感謝していた。
この世界の人間にも、心がある。
けれど、心があることと、仕組みが残酷であることは両立する。
善良な者が、仕組みの一部として誰かを死へ送ることもある。
きっと全員が真実を知っているわけではないのだろう。
召喚を担当する者は、召喚だけを知っている。
講習を担当する者は、候補者を生き延びさせる方法だけを教える。
地図を渡す者は、上から届いた情報を伝える。
候補者の死を記録する者は、報告書へ尊い犠牲と書く。
そして、上へ行くほど知っていることが増えていく。
誰も、自分一人が全てを行っているとは思わない。
だからこそ、仕組みは止まらない。
小雪は、そう考えるようになった。
決定的な証拠は、まだなかった。
それでも、魔王城へ行き、直接確かめる理由としては十分だった。
◇ ◇ ◇
小雪の身体も、その一年の間に少しずつ変化していた。
腕を失った時のような大きな再生を繰り返すたび、黒い髪の中へ、色の抜けた髪が少しずつ増えていった。肌は以前より白くなり、身体つきもわずかに細くなったように見える。
とうに二十歳を過ぎているはずなのに、見た目だけなら十代の終わりほどに見られることもあった。
少女の面影を残した顔と、それには似つかわしくないほど疲れた目。
小雪は鏡を見るのをやめた。
たまに水面へ映る自分の顔を見ると、知らない人間を見ているような気がした。
髪には白いものが混じり始めているが、まだ黒髪だった。
肌は段々と白くなっていたが、目の色もまだ黒い。
顔立ちも、召喚された頃の小雪を残してはいる。
それでも、そこに浮かぶ表情だけは、ひどく古びていた。
身体が再生するたびに、何かが削れている。
小雪はそう感じていた。
肉や骨は戻る。
血も戻る。
傷も消える。
けれど、その材料はどこから来るのか。
魔力なのか。
魔素なのか。
それとも、小雪自身の時間や感情、もっと別の何かなのか。
以前なら、そのことを考えるだけで怖くてたまらなかった。
今も、怖くないわけではない。
それでも、小雪はもう止まらなかった。
希望へ縋って進むのではない。
与えられた希望が嘘なのかどうかを暴くために、進むのだ。
◇ ◇ ◇
魔王城へ近づくにつれ、空は暗くなった。
厚い雲が空を覆い、太陽の光は弱い。地面は黒く乾き、草はほとんど生えていない。川は細く濁り、魚の影もなかった。
魔物の数は多かった。
けれど、以前のように、ただ人を襲うだけではなかった。
遠くから小雪を見つけると、魔力の気配に惹かれるように近づき、飢えに耐えるように身体を震わせる。
小雪は、戦う必要がない時には、できるだけ魔力を抑えた。
戦わなければならない時には、ためらわなかった。
爪を代償に、光の矢を放つ。
血を流し、魔物の群れを焼く。
骨へひびを入れ、岩壁を砕く。
左腕の肉を削り、道を塞ぐ魔物を消す。
痛みは、何度でもあった。
それでも小雪は、少しずつ声を上げなくなった。
声を上げても、誰も来ない。
助けてくれる人はいない。
慰める言葉も、もう必要なかった。
痛いのなら、痛いまま進むだけだった。
ある夜、小雪は崖の上から魔王城を見た。
黒い城だった。
山脈の奥、厚い雲の下へ沈むように建っている。高い塔のいくつかは折れ、外壁には大きな亀裂が走っていた。
人間の王都のような華やかさはない。
むしろ、廃墟に近かった。
あれが、魔王城。
世界を滅ぼす魔王が住む城。
小雪はその姿を見て、奇妙な違和感を覚えた。
もっと禍々しい城を想像していた。
魔物が溢れ、黒い炎が燃え、邪悪な力が渦巻いている場所。
けれど、遠くに見える魔王城は、ただ疲れ果てた城のようだった。
崩れかけた壁。
消えかけた灯り。
城下に広がる、痩せた土地。
その周辺に集まっている魔族たちも、勝利の時を待つ軍勢には見えなかった。
遠目には、故郷を失った難民のように見えた。
小雪は、その光景を長い間見つめた。
魔王は本当に、世界を滅ぼそうとしているのか。
それとも。
小雪は隼人の住所を、口の中で唱えた。
県名。
市の名前。
駅の名前。
マンションの色。
近くのコンビニ。
部屋番号。
忘れていない。
忘れるわけがない。
小雪は、魔王城へ続く崖を下りた。
◇ ◇ ◇
魔王城へ入ることは、思っていたより簡単だった。
正門は半ば壊れ、見張りの魔族も数が少なく、ほとんどが疲れ切っていた。小雪は正面から入ることを避け、崩れた外壁の隙間から城内へ入り込んだ。
城の中は静かだった。
ところどころに魔族の気配はある。けれど、侵入者を探して兵が駆け回る様子もなく、誰も積極的に小雪を追ってはいないようだった。
本当に、ここが魔王城なのか。
疑いながら暗い廊下を進み、やがて小雪は広い玉座の間へ出た。
天井は高く、その一部が崩れている。隙間から差し込んだ灰色の光が、ひび割れた床を照らしていた。
奥に、玉座があった。
そこへ、一人の少年が座っていた。
黒い髪。
青白い肌。
赤紫色の瞳。
額には、小さな角が生えている。
人間で言えば、十歳ほどに見えた。
小柄で、細い。王というより、誰かに王冠を被せられ、広すぎる椅子へ座らされている子供に近い。
けれど、ただの子供ではなかった。
少年は片肘をつき、退屈そうに頬杖をついている。姿勢も悪く、魔王というにはあまりにも緊張感がない。
小雪を見つけても、すぐには立ち上がらなかった。
「ん?」
少年が目を細めた。
その視線が、小雪の外套、短剣、隠しきれていない腕輪を順に見る。
そして、少しだけ顔をしかめた。
「勇者候補?」
小雪は答えなかった。
短剣を抜き、右手へ魔力を流す。
皮膚が裂け、流れた血が刃を濡らした。白い光が短剣の縁に沿って伸びていく。
少年の目が丸くなった。
「おい、待て。」
小雪は待たなかった。
床を蹴り、玉座へ向かって走る。
殺す。
この少年が魔王なら。
この少年が、全ての始まりなら。
この少年を殺せば、何かが終わるかもしれない。
終わらなくてもよかった。
少なくとも、今の小雪は、この怒りを誰かへ叩きつけずにはいられなかった。
小雪は短剣を振り下ろした。
少年は玉座から転がり落ちるようにして避けた。
「危なっ!」
白い光が玉座の背を裂き、黒い石が砕けた。
少年は床へ片手をつき、顔を引きつらせる。
「いや、待てって言っただろ。少しは人の話を聞けよ。」
小雪は左手を掲げた。
指先へ魔力を集める。爪の奥が熱を持ち、骨が軋む。
「あなたが、魔王ですか。」
少年は一瞬、きょとんとした。
それから、ひどく面倒くさそうな顔をした。
「あー……。そこからか。」
小雪は光を放った。
少年の足元が爆ぜる。
少年は慌てて横へ跳んだ。
「だから待てって! これじゃ話が進まねぇだろ!」
「答えてください。」
「答えるから、撃つな!」
少年は両手を上げた。
「俺は魔王役だ。魔王じゃない。」
小雪の手が止まった。
「魔王役。」
「そう。代役。窓口。管理担当。お飾り。まあ、その辺だ。」
「ふざけているんですか。」
「ふざけてない。むしろ、お前が思い込みだけで俺を殺しに来てる。」
少年は壊れた玉座を見て、眉を寄せた。
「あと、それ、俺の椅子だからな。壊したの、お前だからな。」
「黙ってください。」
「はい。」
少年は素直に口を閉じた。
けれど、すぐにまた開いた。
「ていうか、まだ二年くらいあるんじゃなかったのか。」
「……何の話ですか。」
少年は目を丸くした。
やけにあどけない表情だった。
それから小雪の顔をしばらく見て、何かを察したように口の端を歪めた。
「なるほどな。じゃあ、とりあえず歩くか。」
「何を言っているんですか。」
「見に来たんだろ。魔王の正体を。」
小雪は眉をひそめた。
「どういうことです。魔王はあなたではないんですか。」
少年は笑った。
見た目は、確かに十歳ほどだった。
けれど、その笑みにだけは、嗄れた老人のような重さがあった。
「焦るなよ。せっかくここまで来たんだ。案内してやる。」
「罠ですか。」
「罠にかけるつもりなら、さっきからもっとちゃんとやってる。」
「信用しろと?」
「しなくていい。短剣を持ったままついてくればいい。俺を殺したくなったら、その時にまた斬れ。」
軽い口調だった。
あまりにも、軽かった。
小雪は少年を睨んだまま、短剣を下ろさなかった。
少年は気にした様子もなく、玉座の間の奥へ歩き始める。
「こっち。」
小雪は数歩分の距離を空け、その後を追った。
少年は無防備に背中を見せて歩いている。
今なら斬れる。
そう思った。
けれど、小雪は斬らなかった。
この少年を殺して、何が分かるのか。
本当に魔王ではないのなら、ここで殺しても何も終わらない。
小雪は短剣を握ったまま、少年の後ろを歩いた。
◇ ◇ ◇
玉座の間の奥には、細い石段があった。
地下へ続くのかと思ったが、そうではなかった。石段を進むと、魔王城の裏手へ出た。
外へ出た途端、冷たい風が吹きつけた。
小雪は思わず足を止めた。
魔王城の背後には、広大な荒野が広がっていた。
草は少なく、土は黒く乾いている。点在する小さな家々は、石と土で造られた粗末なものだった。遠くには畑らしい場所もあったが、緑は薄く、作物も痩せている。
そこに、魔族たちがいた。
武装した軍勢ではない。
水を運ぶ者。
干した根菜を選り分ける者。
壊れた屋根を直す者。
小さな子供を背負った女性。
杖をついて歩く老人。
角や灰色の肌を持つ者もいるが、遠目に見れば、人間の村と大きく変わらなかった。
小雪は言葉を失った。
魔王軍。
魔物を従え、人間の国へ攻め込む恐ろしい存在。
そう教えられていた。
けれど、目の前にいるのは軍ではなかった。
痩せた土地で、何とか日々を生き延びようとしている人々だった。
「意外か?」
少年が言った。
小雪は答えなかった。
「人間は、俺たちを魔族って呼ぶ。まあ、別に間違いじゃない。人間とは少し違うし、魔物に近い性質もある。魔素が薄くなりすぎると、凶暴化する奴も出る。」
少年は荒野を見渡した。
「でも、普段はあんなもんだ。畑を作って、屋根を直して、水を運んで、腹が減ったって文句を言ってる。」
「魔族は、魔王の配下ではないんですか。」
「だから、魔王はいないんだって。」
少年は肩をすくめた。
「俺たちは昔、人間に負けて、この辺りへ押し込められた。ここは魔素が薄い。魔法もほとんど使えない。人間からすれば、いらない土地だったんだろうな。」
「では、なぜここに住んでいるんですか。」
「人間が来ないからだ。ここから出れば殺されるし。」
少年は、あっさりと言った。
「魔素は薄いけど、人間に攻め込まれるよりはましだ。住めば都ってやつだな。都と呼べるほど立派ではないけど。」
少年はしばらく歩き、荒野の先を指差した。
「本命は、あっち。」
小雪は、示された方角へ目を向けた。
最初、それが何なのか分からなかった。
地平線の向こうに、黒い線が走っている。遠くの山影かと思った。
けれど、近づくにつれて、それが巨大な崖であることが分かった。
大地が、裂けている。
見渡す限り、黒い亀裂が続いていた。
底は見えない。
ただ、深い闇がそこにある。
裂け目の底からは、冷たく乾いた風が吹き上げていた。長く近くに立っているだけで、身体の中にある魔力まで少しずつ持っていかれるような感覚がある。
小雪は、足元から体温を奪われるような寒気を覚えた。
「これは……。」
少年は、裂け目の縁で立ち止まった。
「人間どもが、魔王と呼んでいるものだ。」
小雪は崖を見つめた。
大地の裂け目。
確かに、それは生き物ではなかった。
王でも、怪物でも、人の形をした敵でもない。
ただ、そこに開いている穴だった。
世界に刻まれた、巨大な傷。
「これが、魔王……。」
「魔王現象、とでも呼んだ方が近いな。」
少年は崖の縁へ腰を下ろした。
「昔から、ずっと開いてる。完全に閉じたことはない。大地の臍と呼ぶ年寄りもいる。世界の中でも、特に魔素が薄い場所だ。」
「ここから、魔物が生まれるんですか。」
「生まれるというより、この周辺から先におかしくなる。世界全体の魔素が減ると、まず裂け目の周りが一番早く痩せる。」
「魔素が減る?」
「魔法は魔力を媒介に周辺の魔素を集めて燃料のように使うが、使用後にその全てが大気へ戻るわけじゃない。少しずつ減っていく。そして足りなくなる。」
「足りなく、なる。」
「魔素が足りなくなれば、魔物は魔力を持つものを襲いやすくなる。魔族も、たまに自我を失う。」
少年は裂け目の底を覗いた。
「だから、人間どもは分かりやすい話にする。魔王が復活した。魔王が世界を荒らしている。勇者を呼び、魔王を倒せとな。」
「倒すことはできないのに?」
「できないな。崖だから。」
小雪は少年を見た。
少年は真顔だった。
「私たちは、崖を倒すために呼ばれたんですか。」
「言い方。」
少年は少しだけ笑った。
「まあ、説明通りなら、そういうことになるな。」
「笑い事ですか。」
「お前にとっては、違うだろうな。」
少年はあっさりと答えた。
「でも、こっちの世界から見れば、千年近く続いている仕組みだ。人間どもが異界から魔素の濃い人間を呼ぶ。そいつらがこっちの世界で死ぬ。魔素がこの世界へ還る。魔素が補われると裂け目の周辺も少し落ち着き、世界全体もわずかに延命する。」
小雪の指が震えた。
「死ぬと、魔素がこの世界へ還る?」
「そう。」
「元の世界には?」
「帰らない。」
少年は即答した。
小雪は息を止めた。
「……帰らない。」
「帰れない。召喚された時点で、お前たちの身体はこの世界で存在できるように、超高濃度の魔素体へ身体を作り替えられている。」
少年は一度言葉を切り、小雪を見た。
「仮に元の世界へ道をつなげられたとしても、その身体のまま向こうで存在を保てるかは怪しい。」
少年は片手を軽く振った。
「死ぬと、光になるだろ。あれは身体がほどけて、魔素として世界へ戻っている。」
小雪の視界が揺れた。
エリーズの手。
亮の身体。
雪の上で光になった瑞希。
オリバー。
林佳慧。
ルカ。
そして、隼人。
小さな身体が、小雪の腕の中で光になって消えた。
あれは、帰還ではなかった。
変換だった。
補填だった。
燃料だった。
小雪は膝から崩れそうになった。
それでも倒れず、短剣を握る手へ力を込めた。
まだ聞かなければならないことがあった。
「戦うことを選ばなかった候補者は、どうなるんですか。」
少年は小雪を見た。
「人間側が、どう処理してるかまでは知らない。」
「ある勇者候補が、町で暮らすことを選びました。しかし四か月後に、馬車事故で死んだと記録されていました。」
「それ、殺されたんじゃないか?」
少年は何でもないことのように言った。
小雪の息が止まった。
「知っているんですか。」
「知らない。人間側の細かな処理なんか、俺に聞くな。」
少年は裂け目へ視線を戻した。
「ただ、制度の目的は魔素を補うことだ。呼んだ人間に長く生きられたら、意味がないだろ。事故が本当に事故だった可能性もあるが、少なくとも、俺なら疑う。」
――四か月後、馬車事故により死亡。
やはり、ただの事故ではなかったのかもしれない。
戦わない道を選んでも、結局は死ぬようにできている。
けれど、まだ少年の出まかせの可能性もある。
小雪はそのことを理解していた。
それでも、胸の奥で何かが崩れていった。
「なぜ、わざわざ勇者の物語にするんですか。」
小雪は掠れた声で尋ねた。
「召喚して殺すことだけが目的なら、旅へ出す必要はない。衣食住を与え、戦い方を教え、武器や地図まで持たせる理由は何ですか。」
「だから、人間側の考えまでは知らないって。」
少年は面倒そうに頭を掻いた。
「ただ、死んだ場所の周辺へ濃く還るのは確かだ。各地で死ねば、それだけ広い範囲へ魔素が散る。だから各地へ送り出している、と考えれば筋は通る。」
「資金や装備まで用意する必要は。」
「人間の制度には人間の事情があるんだろ。世界中の国が関わってる。召喚を正当化する理由も、費用を集める理由も必要なんじゃないか。」
少年は肩をすくめた。
「正確なことは、王国の連中に直接聞け。」
小雪は裂け目を見た。
ダンジョンや討伐、調査という名目で、勇者候補は世界各地へ送り出されていた。
そして、各地で死んだ。
候補者が死んだ場所では、魔素が濃くなった。
小雪が集めた記録とも一致する。
「それで。」
少年が言った。
小雪はゆっくり顔を上げた。
「これが俺の知ってる範囲だけど、何か感想は?」
軽い声だった。
まるで、長い説明を終えた後の雑談のようだった。
小雪は少年を見た。
「……とりあえず、あなたを殺してもいいですか。」
「いやいやいや。ちょっと待て!」
少年が慌てて立ち上がる。
「なんで、ここまで聞いてその結論になるんだよ!」
「あなたは、知っていた。」
「知ってたけど。」
「私たちが帰れないことも。」
「知ってたけど、それを決めたのは俺じゃない。」
「止めなかった。」
「止める理由がないだろ。」
少年は言ってから、少しだけ口を閉じた。
小雪は、その言葉を聞いた。
止める理由がない。
少年は、悪びれていなかった。
言い方を間違えたという顔はした。
けれど、考えそのものを後悔しているわけではない。
ただ、小雪を怒らせる言葉だったことに気づいただけだ。
小雪は短剣を握りしめた。
「理由がない?」
「俺たちからすればな。」
少年は小さく息を吐いた。
「お前たちは、別の世界の人間だ。召喚したのも、人間どもだ。こっちは、魔素が戻れば助かる。裂け目の周辺も落ち着く。狂う魔族も減る。俺たちが自分から止めようとする理由は、薄い。」
「私たちは、人間です。」
「そうだな。」
「生きていました。」
「そうだな。」
「家族がいました。」
「そうだろうな。」
「それでも、あなたには関係がないんですね。」
少年は、少しだけ困ったような顔をした。
「関係がない、というか。」
「ただの燃料だから、ですか。」
小雪が言うと、少年は黙った。
否定しなかった。
小雪の胸の奥で、怒りが音もなく燃え広がった。
この少年には、小雪たちへの悪意がない。
憎しみもない。
苦しめてやろうと思ったこともない。
ただ、そういう仕組みなのだと受け入れている。
地球の人間が呼ばれる。
死ぬ。
魔素になる。
世界が延命する。
だから何だ、という顔をしている。
小雪は、それが何よりも許せなかった。
「王国は。」
小雪は言った。
「王国の上層部は、このことを知っているんですね。」
「知ってるに決まってるだろ。」
少年は即答した。
「何も知らずに、千五百人近くも呼べるか?」
千五百。
小雪の喉が詰まった。
「最近は、特に多い。向こうも焦ってるんだろうな。大型魔法を使いすぎなんだよ。都市結界、転移門、魔法炉、天候制御、広範囲の攻撃魔法。あんなものを年中使っていれば、魔素が減るのも当然だ。」
少年は、裂け目の向こうへ視線を向けた。
「昔は、一度補えば百年近く保ったらしい。今回はどうだろうな。このまま魔法を使い続ければ、次は三十年後か、それより早いかもしれない。」
「また、呼ぶんですか。」
「そりゃ呼ぶだろ。」
何でもないことのように、少年は言った。
「便利だからな。」
小雪は少年を見た。
便利。
燃料。
補填。
制度。
延命。
誰も、エリーズの名前を呼ばない。
誰も、隼人の住所を覚えていない。
小雪だけが覚えている。
「怒るのは分かるぞ。」
少年が言った。
「お前の立場なら、怒るだろうな。でも俺に怒られても困る。俺は召喚していないし、魔王でもない。裂け目を見張り、危険な状態になったら人間側へ知らせる。それが俺の役目だ。」
小雪は、黒い裂け目を見つめた。
これが魔王。
これが世界に開いた穴。
これが、小雪たちが呼ばれた理由。
では、何を殺せばよいのだろう。
誰へ怒ればよいのだろう。
この少年か。
王国か。
上層部の神官か。
召喚陣を作った、千年前の誰かか。
魔素を使い続ける人々か。
それとも、この仕組みを当然のものとして回し続けている、世界そのものか。
小雪は短剣を下ろした。
少年が、わずかに安心した顔をする。
「お。落ち着いたか?」
「いいえ。」
「じゃあ、なんで下ろした。」
「あなたを殺しても、意味がないからです。」
「ああ、うん。それは本当にそう。」
少年は頷いた。
小雪は少年を見た。
「王国へ行きます。」
「だろうな。」
「案内してください。」
「はいはい。城の地下に転移装置がある。古いから、ちゃんと動くかは少し怪しいけど。」
少年は歩き出しかけ、ふと振り返った。
「ただ、一つ言っておく。」
「何ですか。」
「王国の連中、お前が考えているような悪人じゃないぞ。」
小雪は答えなかった。
「多分、その方がもっと腹が立つだろうな。」
少年は肩をすくめた。
「世界を救うために必要な制度です。我が国は各国の合意に基づき、召喚の実務を引き受けているだけです。自分たちも重い責任を背負っている被害者です。そんな顔をする。」
小雪は目を伏せた。
「でしょうね。」
「分かってるのか?」
「ここまで来れば。」
誰も、自分は悪くないと言うのだろう。
世界のため。
仕組みだから。
必要だから。
他に方法がないから。
そして、小雪の怒りだけが、理解の足りないものとして扱われる。
小雪は、もう一度裂け目を見た。
深い闇の底は、どこまで見つめても分からなかった。
「誰も悪くないのなら。」
小雪は呟いた。
少年が小雪を見る。
「きっとこの世界自体が、間違っているんですね。」
少年は、今度は茶化さなかった。
ただ、静かに小雪を見ていた。
小雪は短剣を握り直した。
「なら、それごと壊すしかありません。」
裂け目の底から、冷たい風が吹き上げた。
少年は、小さく息を吐いた。
「やっぱり、お前、かなり危ないな。」
「今さらです。」
小雪は答えた。
そして、少年の後へ続いた。
もう魔王を倒すためではない。
誰か一人を殺すためでもない。
この世界が、何を当然のものとして生きているのか。
それを確かめるために。




