第五十七話 隼人
五年目の春、小雪は王都の神官本部にいた。
戻りたくて戻ったわけではない。四年間、各地を歩く中で知ったことを、本部に残された記録と照らし合わせるためだった。
王国から渡された地図と実際の地形が違っていた場所。記録にあるよりも強い魔物が現れた地域。安全と説明されていたにもかかわらず、多くの勇者候補が戻らなかった場所。
小雪はそれらを自分の地図へ書き込み、近くを通るたびに各所の神官支部へ立ち寄っては、保管されている報告書と見比べるようになっていた。
神官達の記録の全てを疑っているわけではない。
何が同じで、何が違っているのかを確かめるためだった。
その日も、小雪は古い地図を机へ広げ、最近になって魔物の被害が増えた街道について、本部の職員から話を聞いていた。開け放たれた窓の外では春の雨が細く降り、湿った土の匂いが風とともに室内へ入り込んでいる。
召喚の鐘が鳴ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
小雪は地図から顔を上げた。
この五年間で、鐘の音を聞く間隔は随分と短くなった。
最初の頃は、何日も鳴らないことがあった。けれど今では、数日置きに響くことも珍しくない。一度鳴った日の夜に、再び低い音が王都を震わせることさえあった。
魔王の脅威が強まっているからだと、神官たちは説明している。各地で魔物や魔素荒れの被害が増え、それに対抗するため、より多くの勇者候補が必要なのだと。
小雪はもう、鐘が鳴るたびに召喚の間へ駆けつけることはなくなっていた。
呼ばれた人間のもとへ走ったところで、元の世界へ帰してやることはできない。大丈夫だとも、怖くないとも言えなかった。
けれど、その日は少し様子が違った。
廊下の向こうを何人もの神官が慌ただしく行き来し、困り果てたような声を上げている。
「近づけません。」
「このままでは、言語理解の術もかけられません。」
「どうすれば……。」
小雪は職員へ向けていた視線を廊下へ移した。
自分には関係ない。
そう思った。
それでも、次の瞬間、奥の部屋から聞こえてきた声に身体が止まった。
「お母さん……。」
日本語だった。
「お母さん、どこ。帰りたい。帰りたいよ……。」
気づけば、小雪は椅子から立ち上がっていた。
考えるより先に足が動き、白い石の廊下を進んで、立ち尽くす神官たちの間を抜けた。
扉の向こうにあったのは、五年前に小雪自身が目を覚ました場所とよく似た部屋だった。
高い天井。
冷たい白い石の床。
その中央に残る、召喚魔法陣の淡い光。
部屋の隅では、小さな男の子が背中を壁へつけ、膝を抱えて泣いていた。
黒い髪と黒い瞳。身体には少し大きすぎるパーカーを着て、膝までの半ズボンを穿いている。片方の靴紐はほどけたままで、しゃくり上げながら何度も母親を呼んでいた。
どう見ても、十歳くらいだった。
白い服の女性神官が、困り果てた表情で声をかけている。もちろん、男の子には何を言われているのか理解できていない。言語理解の魔法をかけようにも、額へ触れようとするたび、身体をさらに小さく縮めてしまうらしかった。
小雪は入り口で足を止めた。
五年前。
自分も、あそこにいた。
何を言われているのか分からないまま壁際へ逃げ、近づいてくる女性が怖くて、帰してほしいと泣き叫んだ。
それなのに今、小雪は白い石の部屋の外から、呼ばれたばかりの子供を見ている。
「大丈夫。」
口からこぼれた言葉に、小雪自身が驚いた。
声は微かに震えていた。
男の子が顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった目が、小雪を見た。
小雪はゆっくりと近づき、少し離れた場所へしゃがんだ。できるだけ目線を低くし、両手も相手から見える位置へ置く。
「大丈夫。私は日本人です。」
男の子の顔が、くしゃりと歪んだ。
「日本の人?」
「うん。」
「ほんとに?」
「本当です。春野小雪。あなたは?」
男の子は何度か息を詰まらせたあと、震える唇を開いた。
「隼人。」
「隼人くん。」
「佐野隼人。」
自分の名前を口にした途端、辛うじて堪えていたものが切れたらしい。隼人は再び声を上げて泣き始めた。
「僕、塾の帰りだった。コンビニの前でお母さんと待ち合わせしてて、お母さんがまだ来てなくて。それで、道が急に変になって、落ちて……。ここ、どこ。ここ、どこなの。お母さんは?」
小雪は答えられなかった。
隼人の母親は、ここにはいない。
そして五年間探し続けても、小雪は誰一人として元の世界へ帰す方法を見つけられなかった。
その事実を、目の前にいる十歳の子供へ、どのように説明すればよいのか分からなかった。
小雪は隼人へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。知らない人間に突然触れられれば、かえって怖がらせるかもしれないと思ったからだ。
けれど、隼人の方から手を伸ばした。
小さな指が、小雪の袖を掴んだ。
「帰れる?」
小雪の胸が痛んだ。
「帰れるよね? 僕、帰れるよね?」
その問いは、五年前の自分の声と同じだった。
帰してください。
家に帰してください。
お母さんも、お父さんも、妹も弟も、家で待っているから。
あの日の自分が、目の前にいる。
小雪は息を吸った。
嘘は言いたくなかった。
けれど、本当のことも言えなかった。
まだ何も知らない十歳の子供へ、帰れるかは分からない、死んだらどうなるのかも分からない、この世界には何かおかしいところがあるのだと伝えられるはずがなかった。
小雪は袖を握る隼人の手へ、そっと自分の手を重ねた。
「今すぐは、帰れない。」
隼人の顔が凍りついた。
小雪は小さな指が離れてしまわないように、手を重ねたまま続けた。
「でも、帰る方法を探す。私も、ずっと探してるから。」
「本当?」
「うん。」
「見つかる?」
小雪は答えに詰まった。
分からない。
五年間探して、何も見つからなかった。
それでも隼人は、怖くてたまらない異世界で、たった一つ聞こえた日本語へ縋るように小雪を見ている。
小雪は、できるだけ柔らかく笑った。
「うん。きっと見つける。」
口にしてから、自分の言葉が神官たちのものとよく似ていることに気づいた。
きっと。
おそらく。
そう伝えられている。
そう考えられている。
何一つ確かではない。それでも、人を立ち上がらせ、暗い場所を歩かせるための言葉。
希望。
ギリシャ神話。災厄の詰まった箱の底へ最後に残されたもの。頭を過ったものに、小雪は一瞬、身体を強張らせた。
けれど、隼人は小雪の小さな動揺には気づかず、少しだけ安心した顔をした。
小雪は、その表情を長く見ることができなかった。
希望は優しい顔をしている。
温かく、柔らかく、暗闇の中で人を支えてくれる。
だからこそ、残酷だ。
「お姉ちゃんも、帰りたいの?」
突然そう訊かれ、小雪は隼人を見た。
お姉ちゃん。
その呼び方に、胸の奥が小さく軋んだ。
召喚された時、小雪の弟は八歳だった。こちらで五年が経っているのなら、もう十三歳になっている。
背も伸びただろうか。声は変わっただろうか。小雪のことを、今も覚えているだろうか。
そもそも、地球でも本当に五年が経っているのかさえ分からない。
何一つ、分からなかった。
「帰りたい。」
小雪は答えた。
隼人は袖を握ったまま、何度も頷いた。
「僕も帰りたい。お母さん、心配してる。」
「うん。」
「お父さんも、たぶん怒ってる。勝手にどっか行くなって。でも、僕、悪くないのに。」
「うん。隼人くんは悪くない。」
小雪がそう言った途端、隼人は声を上げて泣いた。
今度は迷わなかった。
小雪は小さな身体へ腕を回した。
隼人は震えていた。
温かかった。
その温かさを感じた瞬間、小雪は、自分まで泣きそうになった。
◇ ◇ ◇
小雪がそばにいることを条件に、隼人はようやく神官を近づけた。
額へ指が触れ、言語理解の魔法をかけられると、隼人は気味が悪そうに顔をしかめた。
「何か、変な感じ。」
「私も最初、そう思った。」
「お姉ちゃんも?」
「うん。」
隼人はその日から、小雪をお姉ちゃんと呼ぶようになった。
小雪は訂正しなかった。
神官たちは、小雪がいて助かったと何度も感謝した。呼ばれたばかりの子供が落ち着き、ようやく食事も取れるようになったことを、本当に喜んでいるようだった。
隼人は、これまで召喚された中でもかなり幼い勇者候補だった。
「子供が呼ばれたこと自体は、初めてではありません。」
支部長はそう説明した。
勇者候補の名簿には、十二歳や十三歳の名前もあるらしい。しかし、十歳ほど幼い候補者は、ほとんど例がないという。
ほとんど。
その言葉を聞いて、小雪は胃の奥が冷たくなった。
つまり、例はある。
「隼人くんは戦わせません。」
小雪が言うと、白髪交じりの支部長はすぐに頷いた。
「もちろんです。これほど幼い候補様を、無理に戦場へお連れすることはありません。」
「王都で保護してください。」
「その予定です。」
迷いのない返事だった。
五年前の小雪なら、その言葉に安心したかもしれない。
けれど今は、名簿の中で見た一人の名前が浮かんだ。
ヘレン・ウォード。
戦わず、町でパンを焼くことを選んだ女性。
移住から四か月後、馬車事故で死亡。
ただの事故だったのかもしれない。その可能性は、今もある。
それでも小雪はもう、「保護します」という言葉を、そのまま受け取ることができなかった。
「どこで保護するんですか。」
「まずは王都の候補者宿舎でお預かりし、その後は年齢に合わせた生活環境を整えます。」
「移動先が決まったら、私にも教えてください。」
支部長は少し意外そうな顔をしたが、すぐに穏やかに頷いた。
「もちろんです。」
それから彼は、少しだけ言いにくそうに続けた。
「ただし、勇者候補様にはそれぞれ固有の祝福がございます。今後のためにも、最低限の能力確認と講習は受けていただく必要があります。」
小雪の表情が変わった。
「今後とは、何ですか。」
「小雪様。」
「十歳です。」
「承知しております。」
「小学生です。」
「小学生という制度は存じませんが、非常に幼い方であることは理解しております。」
理解している。
その言葉に、苛立ちがこみ上げた。
「理解しているなら、戦うための訓練は必要ありません。」
「戦闘のためだけではございません。この世界には魔物もおります。力の性質を知ることは、隼人様ご自身の身を守るためにも必要です。」
それ自体は、間違っていなかった。
小雪は何度も、何も知らずに危険な場所へ足を踏み入れた候補者を見てきた。自分の祝福が何なのか分からないまま死んだ者もいた。
だからこそ、腹が立った。
こうして一つずつ、説明は正しい。
理屈が通っている。
聞く人間を納得させる。
そして気づけば、誰もが勇者候補としての道を歩いている。
「最低限だけです。」
小雪は言った。
「剣は持たせません。」
「承知いたしました。」
「ダンジョンにも行かせません。」
「もちろんです。」
「私も立ち会います。」
支部長は少し困ったように笑い、それでも頷いた。
「分かりました。」
やはり、悪い人には見えなかった。
隼人の祝福は、収納に近いものだった。
手で触れた小さな物を、目には見えない場所へしまい、必要な時に取り出すことができる。最初は石ころや木の枝しか入らなかったが、数日の練習で水筒や保存食、小さな薬瓶くらいなら扱えるようになった。
「すごい。」
小雪が素直に褒めると、隼人は照れたように笑った。
「ゲームのアイテムボックスみたいだよね。」
「うん。」
「でも、剣とかは無理だった。重いのは入んない。」
「入らなくていいよ。」
小雪はすぐに答えた。
「隼人くんは、戦わなくていい。」
隼人は少し不満そうに唇を尖らせた。
「でも、みんな戦ってる。」
「みんなと同じにしなくていい。」
「お姉ちゃんも戦ってるじゃん。」
「私は……。」
そこで、小雪は言葉に詰まった。
自分は何なのだろう。
戦いたいわけではない。
勇者になりたいわけでも、魔王を倒して英雄になりたいわけでもなかった。
ただ、止まれなかった。
止まれば、これまで死んだ人たちの顔を正面から見られない気がした。歩き続ければ、何かが分かるかもしれない。この世界の嘘へ、いつか辿り着けるかもしれない。
そのために、小雪はまだ旅を続けている。
けれど、そのようなことを十歳の隼人へ説明してよいはずがなかった。
「私は、大人だから。」
口にしてから、自分でも随分苦しい言い訳だと思った。
隼人は目を丸くした。
「お姉ちゃん、何歳?」
「二十歳。」
「えっ。」
「ここへ来た時は十五歳だったから。五年経って、二十歳。」
「高校生じゃないの?」
「よくそう言われる。」
実際、この五年間で小雪の身体はほとんど変わっていなかった。
背もあまり伸びず、顔立ちも少女の頃の面影を強く残している。高校生だと言われれば、多くの人が信じるだろう。
変わったのは、目だけだった。
鏡を見るたび、小雪自身もそう思った。
「じゃあ、本当に大人じゃん。」
隼人は安心したように笑った。
「なら、お姉ちゃんがいれば大丈夫だね。」
小雪は何も言えなかった。
大丈夫。
ずっと嫌いだった言葉。
けれど、隼人にそう言われると、否定することができなかった。
◇ ◇ ◇
小雪は、隼人を王都の外へ出すつもりなどなかった。
しかし、王都近郊の状況は少しずつ悪化していた。
街道では魔物による被害が増え、薬や食料を運ぶ馬車が襲われた。南の村では小規模な魔素荒れが起き、井戸水が濁ったという報告も入った。
周辺の安全確認のため、王都周辺にいた勇者候補たちも何組か派遣されることになった。
小雪は最初に言った。
「隼人くんは連れて行きません。」
「もちろんです。」
支部長は、当然のことのように頷いた。
問題は、隼人本人だった。
「嫌だ。」
小雪が出発することを知った隼人は、強く袖を掴んだ。
「お姉ちゃんが行くなら、僕も行く。」
「駄目。」
「ここで待ってる方が嫌だ。」
「ここは安全だから。」
「安全じゃないよ。」
隼人は泣きそうな顔で小雪を見上げた。
「ここだって、僕が勝手に連れて来られた場所じゃん。」
小雪は言葉を失った。
「お姉ちゃんがいなくなったら、またどこかへ連れていかれるかもしれない。僕、誰がいい人か分かんない。お姉ちゃんがいない方が怖い。」
小雪は初めて、自分と隼人では、この場所の見え方が違うことに気づいた。
神官達のいる場所は、小雪にとって補給と情報収集をするための場所だった。
けれど隼人にとっては、突然知らない世界へ連れてこられ、泣きながら目を覚ました場所だ。
白い服の大人たちは優しく説明してくれる。食事も与え、眠る場所も用意してくれる。それでも、家へは帰してくれない。
五年前の小雪も、同じだった。
「すぐ戻るから。」
「嘘だ。」
「嘘じゃない。」
「みんな、すぐ戻るって言うじゃん。」
隼人の声が震えた。
小雪は黙った。
隼人は実際に誰かが光になるところを見たわけではない。それでも、子供だから何も分かっていないわけではなかった。
宿舎にいた人が、ある日いなくなる。旅へ出た人が戻ってこない。大人たちは、死んでも帰れるのだと話している。
それくらいは聞いている。
小雪は膝をつき、隼人の肩へ手を置いた。
「危ないところには行かない。」
隼人が顔を上げた。
「街道の確認だけ。ダンジョンには入らない。」
「ほんと?」
「本当。」
「僕、荷物を持てるよ。薬とか、しまえるし。」
「戦わない。」
「うん。」
「私から離れない。」
「うん。」
「何かあったら、すぐに逃げる。」
「うん!」
隼人は何度も頷いた。
それでも、小雪は迷った。
連れていくべきではない。
絶対に。
けれど、ここへ置いていけば、隼人は小雪が戻るまで怯え続ける。もし小雪が戻らなければ、彼は再び一人になる。
そして、小雪ではない誰かが、いつか隼人を外へ連れ出すかもしれない。
もっと楽観的で、王国の地図を疑わず、死ねば帰れるのだと信じている誰かが。
あるいは、戦わず町へ移ったヘレンのように、隼人もどこかへ送られるかもしれない。
馬車事故。
その言葉が頭をよぎった。
ただの事故だった可能性はある。
何の証拠もない。
それでも小雪は、隼人を完全にこの制度へ預けることができなかった。
自分のそばに置いた方が安全だ。
その時は、本当にそう思った。
後になって、小雪は何度もこの日のことを思い出す。
置いていけばよかった。
泣かせても。
嫌われても。
無理に縛ってでも、どこかへ閉じ込めておけばよかった。
けれど、この時の小雪には、それが正しい選択だとは思えなかった。
◇ ◇ ◇
街道の確認は、最初の二日間、何事もなく進んだ。
小雪たちは五人で行動していた。
小雪と隼人。
カナダ人の救急救命士、オリバー。
台湾人の大学院生、林佳慧。
そして、イタリア人の元警察官、ルカ。
全員が慎重な人たちだった。小雪の警告を軽く扱わず、地図も何度も確認し、夜営地も安全を確かめてから決めた。
隼人も小雪のそばを離れず、収納の祝福を使って、薬瓶や包帯、乾燥肉を運んでいた。必要になると、少し得意そうな顔で取り出す。
「便利でしょ?」
「うん。助かる。」
小雪がそう答えると、隼人は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見るたび、小雪は胸が苦しくなった。
このまま何事もなく戻りたい。
支部に戻って、隼人に温かい食事を食べさせる。夜は怖くないように隣の部屋で眠り、次は絶対に外へ出さない。
小雪は、それだけを考えていた。
三日目の午後、一行は街道沿いの小さな村へ着いた。
村は静かだった。
静かすぎた。
畑には人がいない。井戸のそばにも、家の前にも、子供の姿がない。風だけが、物干しに残された布を揺らしている。
小雪は足を止めた。
「おかしい。」
オリバーもすぐに頷いた。
「煙がない。昼なのに、どの家も火を使っていない。」
ルカが剣へ手をかける。
「戻るか?」
小雪は村の奥を見た。
地図では、この村は補給地点になっていた。
安全確認済み。
被害なし。
神官支部も、ここまでは問題ないと説明していた。
けれど、今の村は明らかに異常だった。
「戻りましょう。」
小雪は迷わず言った。
その時、どこかから子供の泣き声が聞こえた。
隼人が顔を上げる。
「今のは?」
「駄目。」
小雪は反射的に答えた。
「でも、子供の声だよ?」
「罠かもしれない。」
「でも……。」
もう一度、泣き声が聞こえた。
小雪の胸が締めつけられる。
この世界の子供。
隼人と同じくらいの声だった。
家の中に隠れているのかもしれない。怪我をしているのかもしれない。助けを待っているのかもしれない。
それを見捨てられるのか。
小雪は唇を噛んだ。
オリバーが静かに言った。
「俺が確認する。全員で行かない方がいい。」
「駄目です。」
小雪は首を振った。
「一人になるのが一番危ない。」
「なら、入り口までだ。中には入らない。」
ルカが周囲を警戒しながら言った。
「撤退する前に確認だけする。生存者がいるなら、放置はできない。」
正しい。
その判断は、正しかった。
だから、誰も反対できなかった。
小雪は隼人を自分の背後へ回した。
「私の服を掴んでいて。」
「うん。」
「何があっても、離さないで。」
「うん。」
泣き声は、村の中央にある納屋から聞こえていた。
扉は半分開き、中は暗い。
ルカが扉の横に立ち、オリバーが外から声をかけた。
「誰かいるか?」
返事はなかった。
ただ、小さな泣き声だけが続いている。
林佳慧が手のひらに光を灯した。小雪の白い光とは違う、淡い青色の光だった。
納屋の中が照らされる。
誰もいなかった。
泣き声だけが、床の下から聞こえている。
「地下室か?」
オリバーが呟いた。
その瞬間、小雪は気づいた。
違う。
床の下ではない。
泣き声は、床そのものから出ている。
「離れて!」
小雪が叫んだ。
直後、床が割れた。
納屋だけではない。
村の中央の地面全体が、陥没するように崩れ落ちた。
黒い穴が開き、悲鳴と土煙、割れる木材の音が一度に押し寄せる。
小雪は隼人の腕を掴んだ。
けれど、足元の土が消えた。
身体が落ちる。
小雪は咄嗟に隼人を抱きしめた。
落下の衝撃が背中を打ち、肺の中の空気が一気に押し出された。痛みで視界が白く染まる。
それでも、小雪は隼人を離さなかった。
「隼人くん!」
自分の下へ抱え込んだ隼人を見る。
隼人は何度か咳き込みながら目を開けた。
「お姉ちゃん……。」
「怪我は?」
「分かんない。痛い。でも、動ける。」
小雪は、ようやく息を吐いた。
自分の背中と足には激痛があった。おそらく、いくつか骨が折れている。
けれど、すでに身体の内側では、失われた形を戻そうとする気味の悪い感覚が始まっていた。
まただ。
そう思う暇もなく、暗闇の奥から声が聞こえた。
子供の泣き声。
けれど、今度はそれが一つではないと分かった。
泣き声と笑い声。母親を呼ぶ声。助けてと叫ぶ声。
いくつもの声が重なり、全て同じ場所から聞こえている。
少し離れた場所で、林佳慧の青い光が灯った。
「全員、生きてる?」
彼女の声も震えている。
オリバーが呻きながら身体を起こし、ルカも剣を支えにして立ち上がろうとしていた。
小雪は周囲を見回した。
そこは、村の地下に広がる大きな空洞だった。古い地下道か、土の下に埋もれた遺跡なのかもしれない。壁には太い根が絡み、崩れた天井から土が細かく落ちている。
そして、その奥に魔物がいた。
人間の子供ほどの大きさをした、黒い塊。
身体のあちこちに、人間の口に似たものが開いている。そこから、泣き声や助けを求める声が漏れていた。
声真似。
小雪は歯を食いしばった。
やはり、罠だった。
魔物の周囲には白い骨が散らばっていた。動物のものだけではない。人間のものらしい骨もある。
村人たちは、もう。
「撤退!」
小雪は叫んだ。
「戦わないで、戻ります!」
けれど、崩れた穴は高すぎた。すぐに地上へ戻ることはできない。
その間に、魔物が動いた。
黒い身体から、何本もの腕のようなものが伸びる。それぞれの先にも口があり、幼い声が次々と空洞へ響いた。
お母さん。
助けて。
痛いよ。
寒いよ。
隼人が両手で耳を塞いだ。
「やだ!」
小雪は隼人を背中に庇った。
「聞かないで。」
「子供の声がする!」
「違う。魔物の声です。」
「でも!」
「違う!」
小雪の声が強くなった。
隼人がびくりと身体を震わせる。
小雪はすぐに後悔したが、謝る暇はなかった。
ルカが前へ出た。オリバーは負傷した足を引きずりながら盾を構え、林佳慧は青い光を強めて、魔物の視界を奪おうとしている。
小雪は隼人の手を握った。
「走るよ。」
「うん。」
一行は壁沿いに走り始めた。
崩れた天井の一部が斜面になっている。そこを登れば、地上へ戻れるかもしれない。
だが、魔物の腕が伸びた。
小雪は隼人を突き飛ばすように前へ押した。
直後、伸びてきた腕が小雪の肩を貫いた。
熱い痛みが走り、傷口から血が流れ落ちる。
隼人が叫んだ。
「お姉ちゃん!」
「走って!」
小雪は肩に食い込んだ魔物の腕を掴み、炎を流し込んだ。焼けた腕を無理やり引き抜くと、肉が裂け、痛みで吐きそうになった。
けれど、傷口にはすぐに白い光が集まり始める。
治る。
小雪だけは。
ルカが別の腕を斬り落とした。
「行け!」
オリバーが隼人を抱え上げ、斜面へ向かって走る。
小雪も続こうとした。
その時、魔物の口が一斉に同じ声を出した。
「お姉ちゃん。」
小雪の足が止まった。
隼人の声だった。
「お姉ちゃん、置いていかないで。」
偽物だ。
分かっている。
それでも一瞬、身体が反応してしまった。
その一瞬で、魔物の腕が林佳慧を捕らえた。
青い光が揺れる。
「佳慧!」
オリバーが叫んだ。
林佳慧は魔物へ引き寄せられながらも、小雪たちの方を見た。
「行って!」
彼女はそう叫ぶと、手の中に集めた青い光を、魔物の開いた口へ叩き込んだ。
空洞が強い閃光に包まれた。
小雪は片腕で目を庇った。
次に周囲が見えた時、林佳慧の身体は半ば光へ変わっていた。
彼女は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、諦めたような目で小雪を見ていた。
そして、消えた。
帰った。
小雪はもう、そう思うことができなかった。
思おうとすることさえ、できなかった。
◇ ◇ ◇
地上へ戻ることができたのは、小雪と隼人とオリバーだけだった。
ルカは斜面を登る途中で、背後から伸びてきた腕に身体を貫かれた。それでも最後に、前を登っていたオリバーの身体を押し上げた。
光になって消える瞬間、彼は何も言わなかった。
魔物は空洞の奥でまだ動いていたが、斜面の一部が崩れ、入り口が半分塞がったことで、すぐに追ってくることはできなかった。
三人は村の外まで逃げた。
隼人は泣いていた。
歩きながら、何度もごめんなさいと繰り返していた。
「僕が、子供の声がするって言ったから。」
「違う。」
小雪は言った。
「隼人くんのせいじゃない。」
「でも、僕が。」
「違う!」
強い声を出してから、小雪はすぐに声を落とした。
「違う。あれは罠だった。私たち全員が引っかかった。隼人くんのせいじゃない。」
隼人は震えながら頷いた。
けれど、その顔は小雪の言葉を信じていなかった。
小雪は胸が痛んだ。
この子にも、もう傷がついてしまった。
自分が守ると決めたのに。
戦わせないと決めたのに。
人が光になって消えるところを見せてしまった。
オリバーも深い傷を負っていた。
脇腹を大きく裂かれ、出血が止まらない。
小雪は薬を探した。
「隼人くん、薬瓶を出して。」
「う、うん。」
隼人は震える手で収納を使おうとしたが、うまく取り出すことができなかった。
「出て。出てよ!」
泣きながら何度も手を振る。
薬瓶が一つ、二つと地面へ転がった。けれど、必要な止血薬が出てこない。
「落ち着いて。」
小雪は隼人の手を握った。
「大丈夫。ゆっくりでいい。」
「大丈夫じゃないよ!」
隼人が叫んだ。
「だって、血が出てる。オリバーさん、死んじゃう!」
オリバーは苦しそうに息をしながら、それでも笑おうとした。
「隼人。大丈夫だ。」
「嘘だ!」
隼人は泣きながら首を振った。
「みんな大丈夫って言う。お姉ちゃんも言う。神官の人も言う。でも、大丈夫じゃない!」
小雪は何も言えなかった。
その通りだった。
大丈夫という言葉は、何も守らなかった。
それでも人は、それを口にする。
言わなければ、その場に立っていられないから。
ようやく止血薬が出た。
小雪はオリバーの傷へ薬を押し当て、包帯を巻いた。自分の魔力も流した。
けれど、やはり傷は治らない。
オリバーは小雪の手をそっと押さえた。
「もういい。」
「よくない!」
「君は、隼人を連れて戻れ。」
「嫌です!」
「俺は救急救命士だった。」
オリバーは荒い息の合間に言った。
「助かる傷かどうかくらい、分かる。」
小雪は首を振った。
分かりたくなかった。
隼人は小雪の隣で震えている。
オリバーは隼人へ顔を向けた。
「君は悪くない。」
「でも!」
「悪いのは、子供の声を使った魔物だ。君じゃない。」
隼人は泣きながら、何度も頷いた。
オリバーは小雪を見る。
「この子を。」
そこまで言って、激しく咳き込んだ。
口元から血が溢れる。
「この子を、頼む。」
小雪は頷いた。
今度こそ。
今度こそ、守る。
オリバーの身体が光になった。
隼人はそれを見て、声を上げて泣いた。
小雪は隼人の目を塞ごうとした。
けれど、間に合わなかった。
隼人は光を見てしまった。
人が死ぬと、どうなるのか。
勇者候補が消えるとは、どういうことなのか。
小雪が五年前に見たものを、十歳の隼人も見てしまった。
◇ ◇ ◇
その夜、小雪と隼人は森の中で身を隠した。
村から離れ、街道からも外れた場所にある、古い祠の跡だった。
魔物に見つかる可能性があるため、火を焚くことはできない。隼人は小雪の外套にくるまり、暗闇の中でずっと震えていた。
小雪は眠らなかった。
肩を貫かれた傷は、すでに消えていた。落下の衝撃で折れたはずの背中と足の骨も、歩ける程度には戻っている。
隼人も、それに気づいていた。
「お姉ちゃん。」
暗闇の中で、隼人が小さく呼んだ。
「何?」
「お姉ちゃん、怪我、治ったの?」
「うん。」
「なんで?」
小雪は答えられなかった。
「お姉ちゃんの魔法?」
「たぶん。」
「じゃあ、なんでオリバーさんは治せなかったの?」
小雪は目を閉じた。
その問いには、何度も何度も、自分で答えようとしてきた。
けれど、答えは出なかった。
「分からない。」
小雪は正直に言った。
「私の魔法は、私にしか効かない。」
「なんで?」
「分からない。」
「神様の祝福なんでしょう?」
小雪は唇を噛んだ。
「……そう言われてる。」
「祝福なのに?」
隼人の声が震えた。
「なんで、お姉ちゃんだけなの?」
小雪は答えられなかった。
しばらくの沈黙のあと、隼人が小さな声で言った。
「死んだら、帰れるんだよね……?」
小雪の心臓が止まりそうになった。
「……そう、言われてる。」
「オリバーさんも、ルカさんも、林さんも、帰ったんだよね?」
小雪は何も言えなかった。
隼人が小雪の袖を掴んだ。
「ねえ。」
泣きそうな声だった。
「帰ったって言って。」
小雪は隼人を見た。
暗くて、表情まではよく見えない。
けれど、彼が今、何へ縋ろうとしているのかは分かった。
希望。
残酷で、優しくて、嘘かもしれない。それでも、それがなければ呼吸すらできなくなるもの。
小雪は何度も、それを憎んだ。
神官たちが与える曖昧な希望を憎んだ。死んでも帰れるという言葉を憎んだ。誰かを前へ歩かせるために置かれた、甘い餌のような言葉を憎んだ。
けれど今、隼人はそれを求めている。
小雪から。
自分が神官たちと同じことをしようとしているのだと、小雪には分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
「帰ったよ。」
声が震えた。
「大丈夫。みんな、きっと帰った。」
隼人は小さく息を吸った。
「ほんと?」
「うん。」
「元の世界に?」
「うん。」
「家族のところに?」
「うん。」
小雪は何度も頷いた。
暗闇の中でも、隼人に見えるように。
隼人は小雪の袖を握りしめたまま泣いた。
小雪も泣きたかった。
けれど、涙は出なかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、小雪は隼人を連れて近郊の支部まで戻ろうとした。
街道は危険だった。村の地下にいた魔物が、まだ周囲へ影響を及ぼしている可能性もある。
それでも、森を抜ければ支部までは一日で着く。慎重に進めば戻れると、小雪は考えた。
隼人はほとんど話さなかった。
昨日まであれほどよく話していた子が、黙ったまま小雪の後ろを歩いている。それでも、小雪の服の裾だけはしっかりと掴んでいた。
森の中は静かだった。
小雪は何度も足を止め、周囲を確認した。
音。
匂い。
空気の重さ。
少しでも異常を感じれば、進む道を変えた。
昼を少し過ぎた頃、二人は小さな川へ出た。
地図にも記されている川だった。
ここを越えれば、街道へ戻ることができる。
小雪は川辺へしゃがみ、水に手を触れた。流れは速かったが、渡れないほどではない。
「隼人くん、少し休もう。」
隼人は黙って頷いた。
小雪は水筒へ水を補充し、隼人に乾燥果物を渡した。
隼人はそれを受け取ったものの、食べようとはしなかった。
「食べないと、歩けないよ。」
「うん。」
そう答えながら、隼人は手の中の乾燥果物を見つめていた。
小雪は隣へ腰を下ろした。
「怖かったよね。」
隼人の唇が震えた。
「……うん。」
「本当に、ごめんね。」
小雪が言うと、隼人は首を振った。
「お姉ちゃんは悪くない。」
「でも、守るって言ったのに。」
「守ってくれた。」
隼人は小さく言った。
「僕、生きてる。」
その言葉に、小雪は息を詰まらせた。
生きている。
確かに、そうだった。
けれど、生きているだけで、守れたと言えるのだろうか。
隼人はもう、昨日までの隼人ではない。小雪と同じものを見てしまった。
小雪が何かを言おうとした時、川の向こうで枝の折れる音がした。
小雪は立ち上がった。
木々の間に、狼に似た魔物がいた。
けれど、普通の獣ではない。口元からは、人間の声に似た音が微かに漏れている。
一体ではなかった。
木々の間に、赤黒い目が次々と浮かび上がる。その身体の隙間から、青白い炎のような光が滲んでいた。
小雪は隼人を背中へ庇った。
「走るよ。」
隼人は頷いた。
二人は川へ入った。
冷たい水が膝まで上がり、速い流れが足を取ろうとする。小雪は隼人の手を握り、対岸を目指した。
背後で、魔物が水へ飛び込む音がした。
近い。
小雪は隼人の手を強く引いた。
「もう少し!」
対岸まで、あと数歩。
その時、隼人の足が滑った。
「お姉ちゃん!」
小雪はすぐに隼人の腕を掴んだ。
けれど、背後から飛びかかってきた魔物が、小雪の背中へ食らいついた。
鋭い痛みが走る。
小雪は歯を食いしばり、隼人の腕を離さなかった。
魔物の牙が背中の肉を裂く。
別の魔物が、隼人の足へ食らいついた。
隼人が悲鳴を上げた。
「隼人くん!」
小雪は白い光を周囲へ爆ぜさせた。
強い光と衝撃が魔物たちを一瞬怯ませる。
それだけでよかった。
その隙に、小雪は隼人を対岸へ投げ出すように押し上げ、自分も川岸へ這い上がった。
けれど、隼人の足から血が流れている。
傷は深かった。
小雪は顔色を変えた。
「薬を出して。」
隼人は震える手で収納を使おうとした。
しかし、魔物は待ってくれない。
川から次々と上がってくる。
赤黒い目。
濡れた毛。
身体から漏れる青白い光。
人間の泣き声に似た鳴き声。
小雪は短剣を抜き、刃へ風をまとわせた。
勝てない。
この数を相手に、隼人を抱えて逃げ切るのは難しい。
それでも、逃げるしかない。
「掴まって。」
小雪は隼人を背負おうとした。
その時、隼人が小さく言った。
「お姉ちゃん。」
「喋らないで。」
「僕、歩けない。」
「背負う。」
「お姉ちゃん、逃げて。」
小雪は、隼人を睨むように見た。
「何を言ってるの。」
「僕、足、痛い。たぶん無理だよ。」
「無理じゃない。」
「お姉ちゃんだけなら、逃げられる。」
「黙って!」
小雪は叫んだ。
隼人はびくりと身体を震わせた。
けれど、その目は妙に静かだった。
十歳の子供がしてよい目ではなかった。
「オリバーさんも、ルカさんも、林さんも、帰ったんだよね。」
「そうだよ。」
小雪は即座に答えた。
「帰った。だから隼人くんも支部へ戻る。私と一緒に。」
「もし死んだら、僕も帰れる?」
小雪の息が止まった。
「死なせない。」
「でも、もし。」
「死なせない!」
魔物が飛びかかる。
小雪は短剣で受け止めた。
爪が腕を裂く。
痛みとともに血が流れ、すぐに傷口へ白い光が集まり始める。
小雪の傷は塞がる。
けれど、隼人の足は塞がらない。
小雪は隼人を抱えようとした。
その瞬間、別の魔物が横から飛び出し、隼人の腹へ爪を突き立てた。
世界が止まった。
隼人の小さな身体が跳ねた。
「い、や……。」
小雪は魔物を斬った。
短剣へ流し込んだ白い魔力が風とともに爆ぜ、魔物の身体を地面へ叩きつけた。
小雪は隼人を抱きしめた。
隼人の腹から血が溢れている。
小さな手が、小雪の服を掴んだ。
「お姉ちゃん……。」
「大丈夫。」
小雪は言った。
「大丈夫。大丈夫だから。薬を出して。私が使うから。」
隼人は収納から薬瓶を出そうとしたが、手が震え、何も取り出すことができなかった。
小雪は自分の鞄を探った。
包帯。
止血薬。
回復薬。
持っているものを、全て使う。
傷口へ薬を押し当てる。
それでも、血は止まらない。
小雪は白い魔力を流した。
何も起きない。
「お願い。」
小雪は呟いた。
「お願い。今回だけでいいから。私じゃなくていいから、この子を……。」
魔力を流す。
何度も。
何度も。
けれど、隼人の傷は塞がらない。
小雪の裂けた腕だけが、白い光とともに勝手に治っていく。
「違う。」
小雪は、自分の腕を見た。
「違う。そっちじゃない。」
小雪は隼人の傷へ手を押し当てた。
「私じゃない。こっちを治して……!」
身体の奥にある熱を、全て隼人へ押し込もうとする。
届かない。
どれほど願っても、魔力は隼人の身体へ入らない。
隼人が小さく咳をした。
唇から血がこぼれる。
「お姉ちゃん。」
「喋らないで。」
「死んだら、元の世界に、帰れるんだよね?」
小雪は首を振った。
違う。
違うと言いたかった。
分からないと言いたかった。
嘘をつきたくなかった。
もうこれ以上、希望で誰かを歩かせたくなかった。
けれど、隼人は小雪を見ていた。
怖くて、痛くて、苦しくて、それでも最後の最後に縋れるものを探している。
お母さん。
お父さん。
家。
塾の帰り道。
コンビニの肉まん。
元の世界。
小雪は隼人を抱きしめた。
「帰れる。」
声が壊れた。
「帰れるよ。」
隼人の目から涙がこぼれた。
「ほんと?」
「うん。」
「お父さんと、お母さんに、また会える?」
「会える。」
「怒られない?」
「怒られない。」
「僕、悪くない?」
「悪くない。隼人くんは、何も悪くない。」
小雪は何度も頷いた。
隼人は少しだけ笑った。
「お姉ちゃん。」
「うん。」
「僕の住所、覚えてる?」
小雪は息を呑んだ。
隼人は何度も、自分の住所を小雪へ教えていた。
帰ったら来てね、と。
魔王を倒したら、日本へ来てね、と。
県名。
市の名前。
駅の名前。
マンションの色。
近くにあるコンビニ。
部屋番号は、人に教えてはいけないのだと言いながら、それでも小雪にだけは教えてくれた。
「覚えてる。」
「ほんと、に?」
「覚えてる。」
小雪は、隼人が何度も繰り返した住所を口にした。
最後まで。
一つも間違えないように。
決して忘れないように。
まるで、何かをつなぎ留めるための呪文のように。
隼人は安心したように息を吐いた。
「魔王を、倒したら、会いに来て。」
「うん。」
「待ってる、から。」
「うん。」
「約束、だよ。」
「約束。」
小雪は隼人の手を握った。
「絶対に行く。」
隼人は、もう一度笑った。
それは、十歳の子供の笑顔だった。
怖くて、痛くて、それでも最後に家を思い出している顔だった。
「お姉ちゃん。」
「うん。」
「ありがとう。」
小雪は首を振った。
ありがとうと言われる資格などない。
守れなかった。
助けられなかった。
そして、嘘をついた。
けれど、隼人の身体はもう、淡い光を帯び始めていた。
指先から、髪から、身体の輪郭から、細かな光の粒となってほどけていく。
「嫌。」
小雪は隼人を抱きしめた。
「嫌だ。行かないで。お願い。隼人くん、お願い……。」
光は止まらなかった。
小雪は隼人の身体を押さえた。
傷口を押さえ、腕を掴み、肩を抱いた。
それでも、光は指の間からすり抜けていく。
隼人の手が、小雪の手の中で軽くなった。
最後に、隼人の唇が小さく動いた。
声は、ほとんど聞こえなかった。
けれど小雪には分かった。
お母さん。
そう言ったのだと。
次の瞬間、隼人の身体は光になって消えた。
小雪の腕の中には、何も残らなかった。
血も。
重さも。
温かさも。
何も。
ただ、小雪だけが残った。
いつものように。
◇ ◇ ◇
小雪は、しばらく動かなかった。
周囲にいた魔物は、いつの間にかいなくなっていた。
小雪が無意識に放った光に怯えて逃げたのかもしれない。あるいは、隼人が消えたことで興味を失ったのかもしれない。
もう、どうでもよかった。
小雪は川辺へ座り込んだまま、自分の腕を見た。
隼人を抱いていた腕。
魔物の爪で裂かれたはずの腕。
傷は、すでに塞がっていた。
小雪はその腕へ爪を立てた。
皮膚が裂け、血が滲む。
けれど、白い光が集まり、すぐに傷口を塞いだ。
もう一度、爪を立てる。
また塞がる。
何度も、何度も繰り返した。
どうして。
どうして、自分だけ。
隼人の傷は塞がらなかった。
エリーズの傷も、瑞希の傷も、誰の傷も治せなかった。
それなのに、小雪だけが治る。
小雪だけが残る。
守ると決めたのに。
絶対に死なせないと決めたのに。
小雪は両手で顔を覆った。
涙は出なかった。
泣きたいのに、泣けなかった。
喉の奥で何かが壊れたような声だけが漏れた。
それは、悲鳴にも笑い声にも似ていた。
隼人は帰れたのだろうか。
お母さんに会えたのだろうか。
お父さんに抱きしめられたのだろうか。
塾の帰り道へ戻れたのだろうか。
コンビニの前で、肉まんを買ってもらえたのだろうか。
小雪は、自分が隼人へ言った言葉を思い出した。
帰れる。
会える。
怒られない。
悪くない。
最後の一つだけは、本当だった。
けれど、それ以外は、何一つ確かめたことのない言葉だった。
小雪は隼人へ希望を渡した。
自分が憎んでいたものを。
王国が小雪たちへ与えたものと、同じものを。
最後の瞬間、怖くないように。
少しでも痛みが薄れるように。
家を思い出すことができるように。
あの時は、そうするしかなかった。
それでも、それは嘘だった。
少なくとも、小雪の中では。
小雪は空を見上げた。
木々の隙間から、青い空が見えた。
地球の空と同じような色をしている。
同じ青なのに、ここは地球ではない。
「ごめんなさい……。」
小雪は唇を動かした。
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
隼人に。
エリーズに。
瑞希に。
亮に。
これまで光になった全員に。
それとも、五年前の自分に。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
小雪は隼人の住所を、もう一度口にした。
県名。
市の名前。
駅の名前。
マンションの色。
近くのコンビニ。
部屋番号。
隼人が何度も教えてくれた言葉を、一つずつ確かめるように繰り返した。
忘れない。
絶対に忘れない。
魔王を倒したら、会いに来て。
隼人はそう言った。
小雪は約束した。
けれど、小雪はもう分かっていた。
魔王を倒せば終わる。
死ねば帰れる。
誰かが救ってくれる。
その希望に縋り続けている限り、また誰かが死ぬ。
小雪は立ち上がった。
身体は重かった。
けれど、傷はもうなかった。
戦いの跡が残る外套を握りしめ、小雪は支部がある方角へは戻らなかった。
王都へも向かわなかった。
ただ、北を見た。
魔王城がある方角。
魔王が完全に力を取り戻すまで、まだ五年あると言われていた。
勇者候補たちが力をつけ、王国の騎士たちとともに討伐へ向かうべき時期は、まだ先なのだと。
けれど、小雪はもう待てなかった。
次の鐘が鳴る前に。
次の子供が呼ばれる前に。
次の誰かが、帰れるという言葉を信じて光になる前に。
確かめなければならない。
魔王とは何なのか。
王国は何を知っているのか。
なぜ地球の人間だけが呼ばれ続けているのか。
あの光の先に、本当に帰る場所があるのか。
隼人の声が、耳の奥に残っている。
――お姉ちゃん、死んだら元の世界に帰れるんだよね?
小雪は目を閉じた。
もう、誰にもその問いをさせたくなかった。
小雪は一人で歩き出した。
隼人の住所を、胸の奥で何度も唱えながら。




