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第五十六話 生き残る少女

 小雪は、その後すぐには城へ戻らなかった。


 戻れば、また同じ言葉を聞かされるような気がしたからだ。


 ――尊い犠牲でした。

 ――女神の祝福がありますように。

 ――亡くなられた勇者候補様方は、きっと元の世界へ戻られたことでしょう。

 ――その志は、必ず次の方々へ受け継がれます。


 どの言葉も、柔らかな声で語られた。


 神官たちは痛ましそうに目を伏せ、祈るように両手を組んだ。

 森で小雪を見つけた商人たちは、支払いなどいらないと言って馬車へ乗せてくれたし、町の宿屋の女将は、青ざめた小雪の顔を見ただけで温かな粥と毛布を用意してくれた。


 誰も、小雪を傷つけようとはしていなかった。

 むしろ、皆が優しかった。


 そのことが、小雪をますます混乱させた。


 怒鳴られた方がよかったのかもしれない。

 剣を突きつけられ、戦えと命じられたなら、まだ理解しやすかった。自分たちは利用されているのだと、誰かが冷たい顔で笑ってくれれば、その相手を憎むこともできた。


 けれど、神官たちは優しかった。町の人々も親切だった。小雪たちが勇者候補だと知れば、感謝し、食事を分け、無事を祈ってくれる。

 その人たちの顔を思い出すほど、胸の中に残った違和感を、どこへ向ければよいのか分からなくなった。


 それでも、渡された地図が間違っていたことだけは確かだった。

 安全だと説明された場所に、あまりにも強い魔物がいた。


 亮も、マークも、ユナも、ダニエルも死んだ。


 最後には、エリーズも。


 そして、小雪だけが生きている。


 そのことを言葉にしようとすると、何かが壊れるような気がした。


 自分の考えが間違っているのかもしれないという恐怖もあった。十五歳の自分が、知らない世界の仕組みを、たった一度の失敗だけで疑っているのだと言われれば、反論できる自信はなかった。


 だから、小雪は何も言えなかった。


 ただ、皆の名前だけは、何度も心の中で繰り返した。


 エリーズ・モロー。

 佐伯亮。

 マーク。

 ユナ。

 ダニエル。


 国も、言葉も、暮らしも、家族も違っていた。けれど、全員が小雪と同じ地球から来た人間だった。同じ空の下で、それぞれの日常を生きていた人たちだった。


 忘れたくなかった。

 彼らが、ただの「尊い犠牲」になり、やがて次の誰かの武勇伝へ置き換えられてしまうことだけは嫌だった。


 小雪は皆の名前を繰り返しながら、一人で次の町へ向かった。




   ◇ ◇ ◇




 その町で、小雪は別の勇者候補たちと出会った。


 五人組だった。


 アメリカ人の教師。ブラジル人の看護師。インド人の大学生。ドイツ人の会社員。そして、フィリピン人の若い女性。


 やはり全員が、地球から来ていた。


 小雪が三つ目のダンジョンから一人だけ戻ったと知ると、彼らはしばらく言葉を失った。詳しく聞こうとする者もいなかった。小雪の顔を見れば、今すぐ話せることではないと分かったのかもしれない。


 しばらくして、アメリカ人の教師が言った。


「それでも、君は生きている。」


 小雪は顔を上げた。


 彼は三十代後半くらいの男性で、細い縁の眼鏡をかけていた。話す時には、相手の顔をきちんと見る人だった。


「君が生きているなら、その経験は絶対に無駄じゃない。何が危なかったのかを考えられるし、次はもっと慎重に進める。君が覚えていれば、皆が同じことを繰り返さずに済むかもしれない。」


 無駄ではない。


 その言葉を聞いた時、小雪はほんの少しだけ息ができたような気がした。


 エリーズたちが死んだことを、無駄にしたくなかった。

 何もできず、自分だけが生き残ったのなら、せめてそのことに意味がほしかった。


 だから、小雪は彼らと一緒に行くことにした。


 今度は、すぐにダンジョンへは入らなかった。


 王国から渡された地図を何度も確認し、地元の商人や猟師にも道を聞いた。最近、魔物を見た場所はないか。以前と様子が違う場所はないか。地図に描かれていない道や、崩れた場所はないか。


 小雪があまりにも細かく確認するため、最初は同行者たちも少し戸惑っていた。

 けれど、小雪はやめなかった。


「この地図、ここの道が抜けています。」


 神官支部の若い男性へ指摘すると、彼は困ったように笑った。


「森の道は、季節によって変わりますから。」

「でも、魔物が出た場所も、聞いていた説明と違います。」

「魔王の影響が強まっております。魔物の分布も、以前より変化しやすくなっているのでしょう。」


 答えは、いつも用意されていた。


 地図が違うのは、季節のせい。

 魔物が強いのは、魔王の影響。

 罠が増えたのは、ダンジョンが活性化しているから。

 犠牲が出るのは、世界を救うための旅に危険が伴うから。


 どの説明も、それだけを聞けばおかしくはなかった。完全な嘘には聞こえず、実際に魔物の被害が増えている地域もある。


 だからこそ、小雪はそれ以上何も言えなかった。


 証拠がない。


 自分はまだ十五歳の少女で、この世界についてほとんど何も知らない。目の前の神官は穏やかで、町の人々からも信頼されている。


 ここで「あなたたちの地図はおかしい」と叫んだところで、誰が信じるだろう。


 小雪自身でさえ、それが確かな疑いなのか、それともエリーズたちを失った恐怖から生まれた思い込みなのか、まだ分からなかった。




   ◇ ◇ ◇




 そのパーティーで、小雪は初めて自分の役割を得た。


 前に立つことはできない。強い攻撃魔法も使えず、仲間の怪我を治すこともできない。


 けれど、小雪は生き残った。

 三つ目のダンジョンで、ただ一人。


 その経験以来、小雪は、以前なら見逃していた小さな違和感に敏感になっていた。


「そこは、床の色が少し違います。」


 小雪が言えば、皆が足を止めた。


「右の壁に新しい傷があります。何かが通ったのかもしれません。」


 進む前に、周囲を確かめた。


「この先だけ、急に空気が冷たいです。地図には何もありませんが、今は入らない方がいいと思います。」


 最初は半信半疑だった同行者たちも、小雪の警告によって何度か危険を避けるうちに、少しずつ彼女の言葉を信じるようになった。


 小雪は戦えない。

 今も使えるのは、弱い基礎魔法ばかりだった。


 それでも、皆を止めることはできた。

 危ない場所へ足を踏み入れる前に、待ってくださいと言える。


 それが嬉しかった。


 今度こそ、誰も死なせずに済むかもしれない。

 エリーズたちの死を、次へ生かせるかもしれない。


 そう思った。


 しかし三か月後、そのパーティーも壊れた。


 原因は、魔物ではなかった。


 ダンジョンの下層にある、地図では安全地帯と記された場所で、突然、毒の霧が発生した。


 最初に異臭へ気づいたのは小雪だった。


「戻ってください!」


 小雪は叫んだ。


 けれど、ほんの少し遅かった。


 ブラジル人の看護師が激しく咳き込み、その場へ膝をついた。フィリピン人の女性が彼女を助けようとして近づき、同じように倒れた。


 小雪は二人を引きずろうとしたが、腕の力が足りなかった。


 インド人の大学生が駆け寄り、二人を抱えようとした。その時、毒霧の向こうから魔物が現れた。


 悲鳴が響く。

 剣がぶつかる音と、激しく咳き込む声が重なった。


 小雪も毒を吸った。


 喉の内側を焼かれたような痛みが走り、肺が急に縮んだ。息を吸おうとしても空気が入らず、視界の端から暗くなっていく。


 死ぬ。


 そう思った。


 けれど、小雪は死ななかった。


 苦しみながら吐き、石床を這い、何度も意識を失いかけた。それでも、しばらくすると呼吸が少しずつ戻り始めた。


 焼けていたはずの喉の痛みが薄れていく。

 肺が、再び空気を受け入れ始める。


 小雪の身体だけが、毒を押し返していた。


 その間に、仲間たちは光になった。


 一人が消えたあと、また一人の輪郭が淡く崩れた。

 床へ流れた血も、吐き出されたものも、身体と一緒に細かな光へ変わり、空気の中へ消えていった。


 アメリカ人の教師は、最後まで小雪を出口へ押し出そうとしていた。自分も毒を吸い、立っていることさえ難しいはずなのに、小雪の背中へ手を当て、進めと言った。


「生きて。」


 小雪は首を振った。


「一緒に。」

「君は、生きて。」


 彼の手から、少しずつ力が抜けていく。


「君なら、覚えていられる。」


 それが最後の言葉だった。


 小雪は出口の近くへ倒れたまま、彼の身体が光へ変わるのを見ていた。


 帰った。

 元の世界へ。


 そう思おうとした。

 何度も。


 けれど、もう無理だった。


 光は綺麗だった。

 あまりにも綺麗だった。


 死体も残らない。

 流れた血も、苦しんでいた顔も、名前を呼ぶ声も、全てが最初からそこに何もなかったように消えていく。

 ただ大気へ溶け、世界の一部になっていく。


 小雪には、それが何よりも怖かった。




   ◇ ◇ ◇




 二年目の終わり頃になると、小雪は勇者候補たちの間で知られるようになっていた。


 良い意味ではなかった。


 一人で生還することの多い少女。

 強い攻撃魔法も使えないのに、なぜか死なない勇者候補。

 白い光を持つ案内役。

 仲間を失っても、一人だけ戻ってくる子。


 小雪は、どの呼び名も嫌いだった。


 死なないわけではない。


 痛い。

 怖い。

 苦しい。


 腕を裂かれれば悲鳴を上げた。骨が折れれば動けなくなり、火傷をすれば泣いた。毒を吸えば吐き、熱が出れば何日も苦しんだ。


 ただ、最後には治ってしまう。


 そして、治るのは小雪だけだった。


 何度試しても、他人には使えなかった。

 自分の手の中で死んでいく人間へ、どれほど魔力を流しても、傷は塞がらない。血は止まらない。


 それなのに、小雪自身の傷だけは勝手に埋まっていった。裂けた皮膚が戻り、折れた骨が何事もなかったようにつながり、毒が抜け、熱が下がる。


 小雪は、自分の身体が気持ち悪かった。


 仲間の前では平気な顔をしていた。

 一人になると、自分の腕へ爪を立てることがあった。


 赤い線ができる。

 血が滲む。

 しばらく待てば、それも消える。


 小雪は傷がなくなった場所を見つめながら、何度も震えた。


 神官たちは、それを祝福と呼んだ。

 けれど、小雪には、祝福だとは思えなかった。


 誰も救えない。

 ただ、自分だけを生き残らせる。


 そんなものを、一体誰が祝福と呼べるのだろう。




   ◇ ◇ ◇




 三年目、小雪は一度だけ王城へ戻った。


 戻りたかったわけではない。

 けれど、どうしても確かめたいことがあった。


 勇者候補の名簿。


 誰が召喚され、誰が旅へ出て、誰が消えたのか。

 それを、自分の目で見たかった。


 最初に小雪を迎えた壮年の女性神官は、まだ城にいた。


 彼女は小雪を見ると驚いたように目を見開き、それから以前と同じように、痛ましげな笑みを浮かべた。


「小雪様。よくぞご無事で。」


 ご無事。


 その言葉に、小雪は何も返せなかった。


 女性神官は小雪を部屋へ案内し、温かな茶を出してくれた。召喚された日のまま、彼女は優しかった。


「お痩せになりましたね。」

「名簿を見せてください。」


 小雪は、問いには答えずに言った。


 女性神官は一瞬だけ黙った。


「勇者候補様方の、ですか?」

「はい。」

「なぜ、そのようなものを。」

「覚えておきたいんです。」


 それは、嘘ではなかった。


 女性神官はしばらく小雪を見つめたあと、小さく息を吐き、分厚い帳面を持ってきた。


 そこには、名前が並んでいた。


 一番目。

 二番目。

 三番目。


 氏名、国籍、年齢、性別。召喚された日。旅立った日。最後に報告があった場所。


 小雪は、自分の名前を見つけた。


 二十三番目。

 春野小雪。日本。十五歳。


 その少し後に、エリーズの名前があった。


 三十一番目。

 エリーズ・モロー。フランス。十七歳。


 小雪の指が震えた。


 その後ろにも、名前は続いていた。


 アメリカ。

 韓国。

 スペイン。

 ブラジル。

 インド。

 ドイツ。

 フィリピン。

 エジプト。

 メキシコ。

 タイ。

 カナダ。

 ナイジェリア。

 イタリア。

 中国。

 オーストラリア。


 全て、地球にある国だった。


 小雪はページをめくった。


 名前が続く。

 さらに続く。


 すでに百人を超えていた。


 そして、その多くの最終報告地には、ダンジョン、森、遺跡、廃坑、峡谷、地下墓所、古塔と書かれていた。


 生還の記録は、驚くほど少なかった。


 小雪が前のページへ戻ろうとした時、一つの名前が目に入った。


 ヘレン・ウォード。


 小雪は指を止めた。


 戦わないと言って、王城を出た女性。

 帰るまでパンを焼いて待つのだと笑った人。

 店が決まったら手紙を書くと約束した人。


 備考欄には、王都近郊の町への転居と、パン工房への就職が記されていた。


 そして、その末尾に。


 ――四か月後、馬車事故により死亡。


 小雪は、しばらくその文字を見つめていた。


「ヘレンさん。」


 女性神官が顔を上げる。


「はい?」

「この人を覚えていますか。」


 帳面を向けると、女性は少し考えてから頷いた。


「ええ。戦闘には参加せず、町で暮らすことを選ばれた方ですね。」

「事故で亡くなったんですか。」

「そのように報告を受けております。本当にお気の毒なことでした。」


 女性神官の顔には、本当に残念そうな色が浮かんでいた。


 小雪は何も言わなかった。


 馬車事故。


 日本にいたって、事故に遭うことはある。

 きっと、この事故もおかしなことではない。


 目の前の女性が死を悼む顔つきは、どう見ても演技には思えなかった。


 そうだ。


 ヘレンが手紙を書かなかった理由も、これで説明できるはずだ。


 ただ、それだけ。


 それだけのことのはずなのに、小雪はなぜか、その名前からしばらく指を離すことができなかった。


「この人たちは。」


 やがて、小雪は名簿へ視線を戻した。


「皆、帰ったんですか。」


 女性神官は目を伏せた。


「そう伝えられております。」

「伝えられているだけですか。」

「小雪様。」

「誰か、帰った人から連絡が来たんですか。」


 女性神官は答えなかった。


 小雪の胸の中で、何かが静かに冷えていく。


「私たちの世界へ戻ったか、確認したことはあるんですか。」

「それは、できません。」

「できないのに、どうして帰ったと言うんですか。」


 声は震えていた。

 怒鳴ったわけではない。


 それでも、部屋の空気が変わった。


 女性神官は悲しそうに小雪を見た。


「そう信じなければ、皆様は戦えません。」


 小雪は息を止めた。


 今、何と言ったのだろう。


 女性神官も、自分の言葉に気づいたらしい。すぐに顔色を変え、言い直すように首を振った。


「いえ。違います。申し訳ありません。私が申し上げたかったのは、希望が必要だということです。」


 希望。


 小雪は帳面へ目を落とした。


 そこには、百人を超える名前が並んでいる。


 皆、帰れると信じていた。

 死んでも戻れると思っていた。

 だから、怖くても進んだ。


 小雪もそうだった。


 エリーズにも言った。


 皆、帰ったのだと。

 元の世界へ帰ったのだと。


 小雪は帳面を閉じた。


「小雪様。」


 女性神官が声をかける。


「どうか、ご自分を責めないでください。あなたはよく戦っておられます。亡くなられた方々も、きっと。」

「亡くなったんですか。」


 小雪は顔を上げた。


 女性神官の唇が止まった。


「死んだら、帰るんですよね。」

「それは。」

「では、亡くなったと言うのは、おかしくないですか。」


 女性神官は青ざめた。


 それから、取り繕うように小さく笑った。


「この世界の肉体ではなくなった、という意味です。魂と存在は元の世界へ帰ると伝えられております。」


 小雪は、それ以上何も言わなかった。


 言えば、何かが決定的に壊れる。

 けれど、壊した後にどうすればよいのか、今の小雪にはまだ分からなかった。


 小雪は帳面に並ぶ名前を、覚えられるだけ覚えた。


 そして、城を出た。


 門をくぐる時、遠くで鐘が鳴った。


 召喚の鐘だった。


 また誰かが、地球から呼ばれている。


 小雪は振り返らなかった。




   ◇ ◇ ◇




 三年目の冬、小雪は北の村にいた。


 雪の多い村だった。


 小雪は白い息を吐きながら、宿屋の裏で薪を運んでいた。


 その村は、魔物に何度も襲われていた。家畜を食われ、畑を荒らされ、夜になれば森から聞こえる声に子供たちが泣いた。


 小雪が勇者候補だと分かると、村の人々は縋るように頼んだ。


 助けてください。

 どうか、森の魔物を追い払ってください。

 子供たちを守ってください。


 小雪は断れなかった。


 この世界の人々を憎みたいと思ったことは、何度もある。


 自分たちを呼んだ世界。

 地球の人間を使い続ける世界。

 エリーズたちを消した世界。


 けれど、目の前で泣いている子供は、小雪を召喚したわけではない。


 宿屋の女将は、寒そうな小雪へ温かい毛布をくれた。鍛冶屋の老人は、壊れた杖を黙って直してくれた。村の少年は、勇者様は寒くないのかと、自分が使っていた小さな手袋を差し出した。


 彼らには、彼らの日常があった。


 朝になれば井戸から水を汲み、畑を耕し、家畜の世話をする。家族で食卓を囲み、病気を恐れ、明日の天気を気にする。


 地球と、あまり変わらなかった。


 だから、小雪は彼らを見捨てられなかった。


 森の魔物を討伐するため、小雪はその時の仲間たちと雪の中へ入った。


 パーティーには、ロシア人の老兵がいた。

 エジプト人の学生がいた。

 メキシコ人の料理人がいた。

 そして、日本人の大学生がいた。


 加納瑞希。

 二十歳。

 東京から来たという。


 瑞希は、小雪のことを「春野さん」と呼んだ。


 この世界の言葉で十分に話せるのに、時々わざと日本語を混ぜた。


「寒いね。これ、やばいね。」


 そんな何でもない言葉を聞くたび、小雪は少しだけ日本を思い出した。


 コンビニ。

 駅。

 制服。

 雨の日の帰り道。

 母の声。

 父が広げていた新聞。

 妹と弟。


 思い出せば苦しい。

 それでも、忘れたくなかった。


 森の魔物は、雪の下へ巣を作っていた。


 白い毛を持つ、狼に似た魔物だった。


 戦いは長引いた。


 ロシア人の老兵は片腕を失いながら小雪を庇い、エジプト人の学生は魔法で雪壁を作って退路を守った。瑞希も震えながら、小雪の隣で短槍を構えていた。


 最後に、巣の奥から巨大な魔物が現れた。


 赤黒く濁った目。

 岩のような身体。

 その表面から漏れる、青白い光。


 神官支部から渡された案内には、そのような個体がいるとは書かれていなかった。

 村人から聞いた話にもなかった。


 まただ。


 小雪はそう思った。


 また、知らされていないものがいる。


 戦いの中で、瑞希が倒れた。


「瑞希さん!」


 小雪は雪の上へ膝をつき、彼女の傷を見た。


 腹部から大量の血が流れていた。薄い腹が上下するたびに、どぷりと鮮血が溢れ出す。


「待ってください。」


 小雪は両手を傷口へ当てた。


「待って。今、治しますから。」


 白い魔力を流した。


 何度も。

 何度も。


「お願い。」


 傷は塞がらなかった。


「塞がって! 治ってよ!」


 血が、小雪の指の間から溢れた。


「お願いだから……。」


 それでも、何も起きなかった。


 瑞希は小雪を見て、苦しそうに笑った。


「……春野、さん。」

「喋らないでください。」

「まだ、高校生、なんだよね。」

「喋らないで。」

「うちの妹と、同じ、くらい。」

「やめてください。」

「菜々子って、言うんだけど、さ。」

「喋ると、血が。」


 小雪は首を振った。


「お願いです。待って。」


 瑞希の声は、少しずつ小さくなっていく。


「帰れたら。」

「帰れます。」

「妹に、言って。」

「嫌です。」

「お姉ちゃん、頑張った、って。」

「嫌です。自分で言ってください。」


 小雪は瑞希の傷を押さえ続けた。


「帰るんでしょう。帰れるんでしょう……!」


 瑞希は、泣きそうな顔で笑った。


「……うち、お母さん、いなくてさ。」


 その身体が、淡く光り始めた。


 小雪は傷口を押さえた。

 けれど、もう血は流れていなかった。瑞希の身体そのものが、指の下から光になってほどけていく。


「私、帰れる、よね?」


 瑞希が言った。


 小雪は頷かなければならなかった。


 帰れる。

 大丈夫。


 そう言わなければならない。

 けれど、頷くことができなかった。


 ほんの一瞬だった。


 その沈黙の間に、瑞希は何かを察したようだった。

 彼女は、小雪の手を弱く握った。


「そっか。」

「違う。」


 小雪は慌てて言った。


「違います。帰れます。きっと帰れます。だから。」

「……うん。」


 瑞希は小さく笑い、目を閉じた。

 目尻から涙が流れた。


「菜々子、また、泣いてないかな。」


 それが最後だった。


 瑞希の身体も、雪へ流れた血も、淡い光へ変わっていく。


 小雪は膝をついたまま、その光が白い景色の中へ溶けていくのを見ていた。


 すぐに、何も見えなくなった。




   ◇ ◇ ◇




 四年目になり、小雪は十九歳になっていた。


 背は、ほとんど伸びなかった。

 顔立ちもまだ完全な大人とは言えず、新しく召喚された候補者たちから、年下だと思われることも多かった。


 けれど、目だけがひどく疲れていた。


 新しい候補者たちは、最初は小雪を気遣った。

 しかし、旅の話が始まると、立場が逆になった。


 小雪は、多くを知りすぎていた。


 どの道が危ないのか。

 どの地図が信用できないのか。


 神官支部の、どのような言い回しへ注意すべきか。

 魔物が現れる前に、空気がどう変わるのか。


 安全地帯と書かれていても、安全ではない場合があること。


 そして、人間が光へ変わって消える瞬間を。


 新しい候補者たちは、最初は小雪を頼った。

 けれど、長く一緒にいれば、少しずつ距離を置く者もいた。


 小雪といると、死が近く感じられるのだろう。


 あまりにも慎重で、地図を疑い、神官の説明を疑い、死んだ者が本当に帰ったのかと問い続ける。

 小雪のそばにいれば、自分たちまで帰れないのではないかと思ってしまう。


「そんなに何もかも疑っていたら、何もできないぞ。」


 ある日、一人の候補者が言った。


 イギリス人の若い男性だった。

 強い雷の魔法を使えた。

 自信もあった。


「王国の人たちは協力してくれている。地図も、資金も、装備もくれる。俺たちを騙す理由がないだろ?」


 小雪は彼を見た。


「理由がないとは限りません。」

「何のために?」


 彼は少し苛立ったように言った。


「俺たちに死んでほしいって?馬鹿げてる。俺たちは、魔王を倒すための戦力だ。」


 小雪は答えられなかった。

 彼の言うことは自然だった。


 王国は勇者候補へ食事を与える。宿を用意する。武器と防具を支給し、地図と資金を渡す。神官は祈り、町の人々は感謝する。


 そんな相手が、自分たちを殺そうとしている。

 そう考える方がおかしい。


 小雪だって、最初はそう思っていた。


「死んでも帰れるんだろ?」


 彼は続けた。


「怖いのは分かる。でも、それならなおさら挑戦するべきだ。誰かが魔王を倒せば終わる。ここで怯えていたら、いつまでも帰れない。」


 小雪は唇を噛んだ。


「帰れると、誰が確認したんですか。」


 小さく言うと、彼は顔をしかめた。


「また、それか。」


 また。


 小雪は黙った。


 自分はもう、面倒な人間になっていた。


 皆が信じようとしている希望へ水を差す人。

 不安を広げる人。

 何の証拠もないのに、疑ってばかりいる人。


 小雪が黙ると、男性は少し気まずそうに視線を逸らした。


「悪い。言いすぎたよ。」

「いえ。」


 小雪は首を振った。


「私にも、証拠はありません。」


 それは事実だった。


 証拠はない。

 ただ、見てきただけだ。


 光になって消えた人たちを。

 安全なはずの場所で死んだ人たちを。


 何度も。


 小雪だけが、生き残りながら。




   ◇ ◇ ◇




 その年、小雪は召喚の鐘を数えるのをやめた。


 数え続けていれば、気が狂いそうだった。


 最初の頃は何日も鳴らないことがあった鐘が、いつの間にか、以前より短い間隔で響くようになっていた。


 王国は、魔王の影響が強まっているからだと説明した。


 各地の被害が広がっている。

 だから、より多くの勇者候補を呼び、一刻も早く魔王を討伐しなければならない。


 そう言われれば、小雪にも反論することはできなかった。


 実際に、町は荒れていた。


 魔物による被害は増えていた。

 干ばつに苦しむ村があり、季節外れの嵐によって橋を失った町もあった。


 この世界が苦しんでいること自体は、本当だった。


 だからこそ、勇者候補は呼ばれ続けた。


 会社から帰る途中だった男性も、大学の講義を受けていた女性も、家で子供の夕飯を作っていた母親も。

 旅行中の老人も、部活動から帰る途中の高校生も、夜勤を終えた看護師も。

 配達中の青年も、誕生日を祝っていた少女も。


 皆、地球から突然切り離された。


 最初は泣く。

 帰してほしいと言う。

 やがて説明を受ける。

 戦わなくてもよいと言われる。


 けれど、町では魔物の被害を目にする。先に来た候補者が旅立つ姿を見て、無事に戻った者から武勇伝を聞く。


 誰か一人が魔王を倒せば、皆が帰れると教えられる。

 死んでも元の世界へ戻れると、希望を与えられる。


 そうして、多くの人が自分の意思で旅へ出た。


 小雪には、それを止める言葉がなかった。


 行かないでください。

 死んでも帰れるとは限りません。

 地図はおかしいです。

 この仕組みには、何かがおかしいところがあります。


 そう言いたかった。


 けれど、言えば必ず訊かれる。


 なぜ分かるのか。

 証拠はあるのか。

 あなたは何を知っているのか。


 小雪には答えられなかった。


 だから、できることだけをした。


 危険な地図を見れば止めた。

 力の弱い候補者が無理をしようとすれば、別の道を提案した。

 ダンジョンへ入る時は必ず退路を確認し、怪しいと思われる場所では、安全地帯とされていても決して休まなかった。


 それでも、人は死んだ。


 小雪ではない人間が。




   ◇ ◇ ◇




 四年目の終わり、小雪は一人で古い塔の上にいた。


 かつて見張り台として使われていた場所らしい。

 今は半ば崩れ、誰も近づかない。


 小雪は、そこで夜を明かすことが増えていた。


 人のいる宿が苦手になっていた。


 誰かと話せば、その人の帰りたい場所を知ってしまう。


 家族のことを聞く。

 好きだった食べ物を知る。

 将来の夢や、くだらない思い出を覚えてしまう。


 知れば知るほど、その人が光になった時に苦しくなる。


 だから、小雪は一人でいる時間を増やした。


 塔の上からは、遠くの王都が見えた。


 夜の中に、城や町の灯りが浮かんでいる。


 あの城で、小雪は目を覚ました。


 白い石の床。

 知らない言葉。

 優しい女性神官。


 ――大丈夫です。怖くありません、勇者候補様。


 あの日から、もうすぐ五年になる。


 地球にいれば、既に高校を卒業していたはずだ。


 母と同じ大学の法学部へ進みたいと願っていた。

 もし召喚されていなければ、今も家族と喧嘩をしたり、友人と笑ったり、試験や課題に悩んだりしていたのかもしれない。


 けれど、小雪の時間は、どこかで歪んでしまった。


 自分の手を見る。


 傷はない。


 何度も裂かれ、焼かれ、毒に侵され、骨を折られた手なのに、傷跡はほとんど残っていない。


 綺麗な手だった。


 小雪は、その手が嫌いだった。


 エリーズの手は、最後まで引き上げることができなかった。

 瑞希の血は、光となって溢れ、消えていった。

 誰も救うことができなかった。


 それなのに、自分の手だけが、何度も何度も元へ戻る。


 小雪は膝を抱えた。


 この世界の人々にも心がある。

 それは、もう分かっていた。


 宿屋の女将は優しかった。

 商人は小雪を助けた。

 村の子供は、自分の手袋を差し出してくれた。


 けれど、地球から来た人々にも心があった。


 エリーズは日本へ行きたかった。

 瑞希には、菜々子という妹がいた。

 亮は映画や本の話をよくしてくれた。

 マークは明るく笑った。

 ユナは包帯を巻くのが上手だった。

 ダニエルは、怖い時ほど冗談を言った。


 皆、ただの勇者候補ではなかった。


 生きていた。

 確かに、生きていた。


 小雪は顔を伏せた。


 涙は出なかった。


 泣きすぎたのかもしれない。

 それとも、泣くために必要な何かが、少しずつ削れているのかもしれない。


 遠くで、鐘が鳴った。


 夜の王都から、低い音が届く。


 召喚の鐘。


 小雪は目を閉じた。


 また、誰かの日常が終わった。


 けれど、もう立ち上がらなかった。


 走っても間に合わない。

 召喚を止めることもできない。

 呼ばれた誰かへ、大丈夫だと言うこともできない。


 大丈夫ではないから。

 怖くありませんなどと、もう言えないから。


 小雪は塔の上で、鐘の音を聞いた。


 一度目の音が夜の中へ消え、その少し後に二度目が響いた。


 世界のどこかから、また一人、地球の人間が奪われた音だった。


 小雪は王都の灯りを見つめたまま考えた。


 いつか、確かめなければならない。


 あの光は何なのか。

 王国は何を知っているのか。

 なぜ、地球の人間ばかりが呼ばれるのか。

 戦うことを選ばなかったヘレンは、本当にただ事故で死んだのか。

 そして、なぜ自分だけが、何度死にかけても元へ戻るのか。


 まだ答えはない。

 証拠もない。

 世界へ問いを突きつけるための力も、今の小雪にはなかった。


 それでも、いつか。


 小雪は目を開けた。


 夜の向こうで、王都の灯りが揺れている。


 それは綺麗だった。

 温かそうで、その一つ一つの下に、何も知らずに眠る人々の生活がある。


 だからこそ、小雪には、もう知らないふりができなかった。


 誰かの平穏が、別の誰かの日常を奪い続けることで成り立っているのなら。

 その仕組みが、帰れるという希望を与えながら、人々を何度も死へ送り続けているのなら。


 いつか必ず、その正体を確かめる。


 小雪は、そう決めた。


 この世界を救うためでも、今すぐ何かを裁くためでもない。


 ただ、自分が見てきた人たちの名前を、何もなかったことにはさせないために。

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