第五十五話 帰れなかった光
三つ目のダンジョンは、地図に描かれていたよりもずっと深かった。
入口から続く石段は、下りても下りても終わらない。ところどころ欠けた段には湿った苔が薄く張りつき、壁には古い文字のようなものが刻まれていたが、言語理解の魔法があっても意味までは分からなかった。
小雪は杖の先に白い光を灯し、足元を確かめながら慎重に階段を下りていた。
一つ目の洞窟でも、二つ目の廃坑でも、この光は皆を安心させてくれた。暗い場所で足元を照らし、罠を見つけ、柱や岩の陰に潜む魔物を早く発見する。攻撃も治癒もできない小雪にとって、ようやく見つけた自分の役割だった。
けれど、この場所では、光があることがかえって怖かった。
杖が照らす範囲の先には、さらに深い闇がある。白い光が届かない場所がどれほど広いのか、そこに何が潜んでいるのかを、嫌でも意識してしまう。
「思ったより長いな。」
先頭を歩いていたマークが言った。
大きな盾を持つ彼は、いつものように明るい声を出そうとしていたが、その声さえ石壁へ吸い込まれ、頼りなく響いた。
少し後ろを歩いていた亮が地図を開き、歩みを緩めた。
「地図だと、階段を下りればすぐ広間のはずなんだけどな。」
「場所を間違えた?」
エリーズが小さく尋ねると、亮はその場で足を止め、周囲と地図を何度も見比べた。
「いや。入口の形は合ってるし、方角も間違ってない。」
「じゃあ、地図が古いとか?」
ダニエルが軽い調子で言ったが、誰も笑わなかった。
出発前、亮は支部の神官へ何度も確認していた。これは現在の地図なのか。周辺の魔物について、最近の情報は反映されているのか。そのどちらにも、神官は迷いなく頷いていた。
これまで攻略した二つのダンジョンにも、多少の違いはあった。岩が崩れて道が狭くなっていたり、地図にない小部屋が見つかったりもした。それでも、大まかな構造や危険度が、説明から大きく外れたことはない。
だから今回も信じた。
信じるだけの理由は、もう十分にあった。
「もう少し進んで、それでも広間がなかったら戻ろう。」
亮は地図を畳んだ。
「地図と違いすぎるなら、無理をして進む必要はない。支部へ戻って報告すればいい。」
誰も反対しなかった。
小雪も頷いた。危険なら戻ればよい。旅へ出る前、エリーズとも、怖くなったら一緒に戻ろうと約束した。
そうしてもう少しだけ階段を下りたところで、ようやく目の前が開けた。
そこは、天井の高い石造りの広間だった。かつては何かの神殿だったのかもしれない。
太い柱が何本も並び、壁際には人の形をした大きな石像が崩れたまま転がっている。空気は冷たく湿っており、どこからか鉄のような匂いが漂っていた。
「ここで一度確認しよう。」
亮の声に、全員が足を止めた。
ユナが手のひらに小さな炎を浮かべる。小雪の白い光とユナの赤い炎が重なり、広間の床を少しずつ照らし出した。
そこには、いくつもの古い傷が残っていた。
剣で削られたような跡。何か重いものを引きずったような跡。そして石の隙間へ染み込んだ、黒ずんだもの。
小雪は、それをあまり見ないようにした。
「何かいる。」
ユナが低く言った。
その直後、柱の陰から黒い影が飛び出した。
犬に似ていた。
けれど、犬ではない。
黒い身体には異様に長い脚が生え、口は頬の近くまで裂けている。赤く濁った目がこちらを見つめ、逆立った毛の隙間からは青白い光が漏れていた。
「下がれ!」
マークがすぐに盾を構えた。
魔物が勢いよく衝突し、広間に鈍い音が響く。マークが両足を踏ん張って受け止めると、亮が横から剣を振り、ユナの炎が魔物の背を焼いた。
耳障りな鳴き声が上がる。
小雪は杖を握りしめたまま、動くことができなかった。
「小雪、光!」
エリーズに呼ばれて、ようやく我に返る。
小雪は慌てて杖へ魔力を流した。白い光が強まり、広間の奥まで照らす。
そこで初めて、柱の陰にさらに二体の魔物が潜んでいることに気づいた。
「右!二体います!」
ダニエルが振り向きざまに弓を引いた。
放たれた矢が、一体の肩へ刺さる。
もう一体が飛びかかってきたところへ、エリーズが踏み込み、細身の剣で前脚を斬った。彼女の腕は震えていたが、それでも逃げなかった。
「ユナ!」
「分かってる!」
赤い炎が走り、亮が最初の一体を斬り倒す。マークが二体目を盾で壁へ押しつけ、ダニエルの二本目の矢が喉へ刺さった。最後の一体も、エリーズが動きを止めたところへ亮の剣が入り、黒い身体が床へ崩れ落ちた。
戦いは長く続かなかった。
けれど、終わった時には全員が荒い息をしていた。
床には、三体の魔物が倒れている。
「少し、強すぎないか。」
マークが盾の表面を見ながら言った。
そこには、深い爪痕が残っていた。
「初級から中級って話だったよな。」
ダニエルの声からも、いつもの軽さが消えている。
亮は答えず、地図を広げた。
「この広間の先は、道が二つのはずだ。」
全員で地図を覗き込む。
確かに、広間の奥から左右へ二本の通路が延びている。
左は古い宝物庫跡。右は下層へ続く道。
安全に探索するなら、まず左の小部屋を確認し、その後で右へ進むと書かれていた。
けれど、実際の広間には通路が三つあった。
左と右。
そして、その中央に、地図にはない黒い通路がまっすぐ奥へ続いている。
誰も、しばらく話さなかった。
「崩れて、後から開いたのかな。」
マークが言った。
「かもしれない。」
亮はそう答えたが、声は硬かった。
彼は中央の通路へ近づかず、暗闇の奥を警戒するように見つめていた。
「地図にない道には入らない。左だけ確認して、少しでもおかしければ帰ろう。」
「うん。」
ユナがすぐに頷いた。
他の誰も反対しなかった。
小雪は最後に一度だけ、中央の暗い通路を見た。何も見えなかったが、暗闇の向こうからこちらを見られているような気がして、無意識にエリーズのそばへ寄った。
二人は、皆と一緒に左の通路へ入った。
◇ ◇ ◇
左の通路は、すぐに行き止まりになった。
地図には宝物庫跡と記されていたが、そこに宝物らしいものはなかった。崩れた壁と、割れた石箱がいくつか残っているだけで、部屋の広さも地図とは少し違っていた。
「何もないね。」
エリーズが小声で言った。
「前に来た候補が持っていったんじゃないか。」
ダニエルが肩をすくめる。
「それなら、そういう記録が残っていてもよさそうだけどな。」
亮は周囲を見回した。
その時だった。
奥の壁が、動いた。
小雪は最初、目の錯覚だと思った。
けれど違った。
壁だと思っていたものが、石の粉を落としながらゆっくりと立ち上がっていく。
「……え。」
誰かの声が漏れた。
石に似た皮膚を持つ、巨大な魔物だった。
身体を起こすだけで、頭が天井近くまで届く。腕は丸太のように太く、顔に目はない。その代わり、顔面には三つの黒い穴が開いていた。
誰も、すぐには動けなかった。
小雪の杖の光だけが、震えた。
「走れ!」
亮が叫んだ。
その瞬間、魔物の腕が振り下ろされた。
轟音が響く。
床が砕け、石片が飛び散った。
マークは反射的に盾を構え、皆の前へ出た。
「先に行け!」
巨大な腕が、もう一度振るわれた。
盾と拳がぶつかる。
低い、嫌な音がした。
次の瞬間、マークの大きな身体が盾ごと宙へ浮き、そのまま壁へ叩きつけられた。
「マーク!」
ユナが叫ぶ。
マークの身体は壁から滑り落ち、床へ崩れた。盾だけが重い音を立てて転がる。
彼は動かなかった。
その指先に、淡い光が滲み始める。
小雪がその意味を理解するより先に、亮が叫んだ。
「戻れ!」
小雪たちは反射的に来た道へ向き直った。
けれど、通路は消えていた。
「そ、んな……。」
小雪の声が漏れた。
来た道を、崩れた石と土砂が完全に塞いでいる。先ほど魔物が床を叩いた衝撃なのか、それとも初めからそうなるように仕掛けられていたのか、今の小雪には考える余裕もなかった。
背後で、マークの身体が白い光へほどけていく。
太い腕も、大きな身体も、身につけていたものも輪郭を失い、細かな光の粒へ変わっていった。
盾だけが残った。
「右側!」
ユナが叫んだ。
崩れた石箱の向こうに、人一人が通れそうな細い道が開いている。
そこまで行けば、逃げられるかもしれない。
「ダニエル、援護を!」
「やってるよ!」
弓が鳴る。
矢が魔物の肩へ刺さったが、ほとんど効いていない。
ユナの炎が太い腕を包み、亮がその足元へ斬りつける。
エリーズは、小雪の前へ立っていた。
「小雪、下がって!」
下がる場所などなかった。
小雪は杖を握りしめた。
何かをしなければならない。
何か。
何でもいい。
けれど、小雪にできるのはまだ、光を出すことだけだった。
回復魔法は使えない。
攻撃魔法もまともに使えない。
手のひらに集めた白い魔力はただ温かいだけで、誰一人助けてくれなかった。
巨大な腕が振るわれる。
その進路に、エリーズがいた。
亮が前へ出た。
「伏せろ!」
剣を構える。
受け止めようとしたのだろう。
けれど、受け止められるはずがなかった。
亮の身体が宙へ浮いた。
小雪には、その光景がひどくゆっくりと見えた。
身体が壁へ鈍く叩きつけられる。
剣が、まるで玩具のように折れる。
口から、ひどく鮮やかな血がこぼれた。
「亮さん!」
小雪は叫んだ。
亮がこちらを見た。
何かを言おうとした。
けれど声にはならず、唇の端から血が流れ落ちた。
次の瞬間、彼の指先が淡く光った。
小雪は息を止めた。
光は指先から手へ、腕へと広がり、やがて髪や身体の輪郭まで包んでいった。人の身体が崩れるように消えるのではない。まるで初めから光でできていたものが、形を保てなくなって大気へほどけていくようだった。
石床へ落ちた血も、その場に残らなかった。
赤い色が白い粒へ変わり、亮の身体とともに宙へ浮かび上がっていく。
「……な、に。」
小雪は、その場から動けなかった。
死んだら元の世界へ戻る。
そう聞いていた。
だから、これは帰還のはずだ。
亮は帰ったのだ。
日本へ。
元の世界へ。
小雪より一足先に。
そのはずだ。
そう思わなければならない。
けれど、喉は凍りついたように動かなかった。
光はすぐに霧散し、跡形もなく消えた。
そこには、何も残っていない。
折れた剣だけが石の床へ落ち、耳障りな音を立てた。
「い、や……。」
小雪の声が震えた。
「いや。いや……。」
「小雪!」
エリーズが小雪の肩を掴んだ。
その顔は真っ青だった。唇も白く、身体は小雪より激しく震えている。灰青色の目には涙が溜まっていた。
それでも、エリーズは立っていた。
「逃げるよ!」
「で、も、亮さん、が。」
「帰ったんだよ!」
エリーズの声も震えていた。
「亮は帰ったの!日本に帰ったんだよ!」
その言葉を、本当に信じているのか。
それとも、信じようとしているのか。
小雪には分からなかった。
「ユナ!」
ダニエルの叫びが響く。
まだ、戦いは終わっていなかった。
小雪は振り返った。
ユナが巨大な魔物へ両手を向けている。赤い炎が、巨体を這うように噴き上がった。
「今のうちに行って!」
「ユナも!」
「すぐ行くから!」
言葉が耳に届くと同時に、エリーズに腕を引かれる。
二人は、崩れた石箱の向こうに開いた細い道へ向かって走り出した。
小雪は一度だけ振り返った。
ダニエルが弓を射ていた。
ユナの炎が揺れていた。
巨大な石の腕が持ち上がり、大きく振り下ろされる。
エリーズに強く引かれ、小雪は前へ向き直った。
暗い道。
先の見えない恐怖。
それでも足は、硬い石畳を蹴った。
「前を見て!」
小雪は走った。
先を行くエリーズは、小雪の腕を離さず、さらに奥へと引っ張っていく。
背後で、大きな破裂音のようなものが弾けた。
ユナの赤い炎が作っていた影が、通路の壁から消える。
弓の弦が鳴る音も止んだ。
その少し後、暗い通路の後方が二度、淡く明るくなった。
小雪は振り返らなかった。
もう、振り返ることができなかった。
◇ ◇ ◇
どれほど走ったのか分からなかった。
地図には存在しない通路がいくつも分かれ、どちらが出口なのかも、どこへ進んでいるのかも分からない。小雪の杖に灯る白い光だけが、二人の足元を照らしていた。
「ごめん。」
走りながら、エリーズが言った。
「ごめん、小雪。私が行こうって言ったから。」
「違う。」
小雪は首を振った。
「違うよ。私も行くって言った。私も、自分で決めた。」
息が苦しい。
胸が痛い。
涙で前が滲んでいる。
それでも、止まることはできなかった。足を止めれば、二度と立てなくなるような気がした。
しばらく進むと、通路の先に扉が見えた。
二人は考える余裕もないまま、その中へ飛び込んだ。
小さな部屋だった。
壁には古い棚が並び、床には割れた瓶や朽ちた布が散らばっている。昔の薬品庫か何かだったのかもしれない。
エリーズが扉を閉める。
二人で棚を押し、何とか入口の前へ置いた。
それだけで身体の力を使い果たし、二人は床へ座り込んだ。
小雪は息を吸おうとした。
けれど、うまく吸えなかった。
胸も手も、止めようとしても震えていた。
ほんの少し前まで、亮も、マークも、ユナも、ダニエルも一緒にいた。
一緒に食事をし、話をした。マークは大げさに乾杯の真似をし、ユナは器用に包帯を巻いた。ダニエルは怖い時ほど冗談を言い、亮は小雪が泣かないように、家族について深く尋ねず、読んだ本や観た映画の話をしてくれた。
皆、それぞれ違う国から来た。
日本。
アメリカ。
韓国。
スペイン。
本来なら、言葉さえ通じなかった人たちだった。
それでも全員に帰る場所があり、会いたい家族がいた。
ほんの少し前まで、確かに声があり、表情があり、小雪の隣にいた。
それなのに、今はもういない。
光になって、消えてしまった。
「小雪。」
エリーズが小雪の手を握った。
その手は、指先まで冷え切っていた。
「大丈夫。」
その言葉を聞いた瞬間、小雪は顔を上げた。
エリーズの目にも、涙が溜まっていた。灰青色の瞳は、ひどく不安定に揺れている。
「皆、帰ったんだよ。」
「……。」
「死んだら元の世界へ戻るんでしょう。そう言ってた。」
エリーズは、小雪の手を握る力を強くした。
「だから、亮も、マークも、ユナも、ダニエルも、きっと帰った。皆、それぞれの家へ帰ったんだよ。」
最後の方は、声が震えていた。
エリーズも怖いはずだった。
悲しいはずだった。
それでも、こんな時にまで小雪を気遣っている。
小雪はエリーズの手を握り返した。
「うん。」
やっと、それだけ言えた。
どうしても、本当だと確信することはできなかった。
それでも今は、その言葉に縋るしかなかった。
帰った。
皆、帰ったのだ。
家族のところへ。
自分たちより先に帰った。
ただ、それだけ。
そうでなければ、あの光が何だったのかを考えなければならなくなる。
その時、扉の向こうで音がした。
二人は同時に息を止めた。
心臓が、どくりと嫌な音を立てて鳴り始める。
先ほどの石の魔物のような、重い足音ではない。
もっと小さい。
けれど、一つではなかった。
かり、かり。
石を爪で引っ掻く音が、少しずつ近づいてくる。
一つ。
二つ。
数えきれないほどの音が重なり、やがて扉のすぐ外で激しく鳴り始めた。
エリーズが慌てて立ち上がる。
剣を両手で握りしめ、胸の前で構えた。
小雪も杖を握って息を潜めた。
しばらくして、扉の下の隙間から、黒い煙のようなものが静かに入り込んできた。
「な、に……?」
エリーズが呟く。
次の瞬間、扉が内側へ弾け飛んだ。
鈍い破裂音とともに棚が倒れ、割れた瓶が床を滑って大きな音を立てる。
驚く間もなく、黒い小さな魔物が何体も部屋へ流れ込んできた。
影のような身体。
鋭い爪。
赤く濁った目。
身体を包む青白い光。
耳を刺すような、甲高い鳴き声。
「走って!」
エリーズが小雪を突き飛ばした。
小雪は床へ倒れ込む。
エリーズが魔物たちへ向かって剣を構えた。
その腕は細かく震え、剣先も定まっていない。
それでも、彼女は小雪の前へ立った。
「エリーズ!」
「早く!」
小雪は立とうとした。
足がもつれる。
一体の魔物が飛びかかってきた。
小雪は反射的に腕で顔を庇った。
鋭い爪が、左腕へ深く食い込む。
「ああっ……!」
熱い痛みが走った。
血が飛ぶ。
肉が裂ける。
「痛い!」
悲鳴が出た。
本当に痛かった。
何も考えられなくなるほど、痛かった。
エリーズが魔物を斬り払った。
けれど、別の魔物が彼女の脇腹へ飛びつく。
エリーズの身体が大きく揺れた。
「嫌!」
小雪は叫んだ。
杖を握りしめる。
何か。
何でもいい。
お願い。
助けて。
手の中の白い光が、急に膨らんだ。
部屋の中が一瞬、昼間のように明るくなる。
魔物たちが怯み、赤い目を細めて甲高い声を上げた。
「今!」
エリーズが小雪の手を掴んだ。
二人は部屋の奥へ走った。
奥の壁には、人一人がようやく通れるほどの小さな抜け道が開いていた。
「小雪、先に!」
「エリーズも!」
「分かってる!」
小雪は狭い穴へ身体を滑り込ませた。
石で腕を擦る。
傷が痛む。
それでも、必死に這った。
後ろから、エリーズの荒い息遣いが聞こえる。
「もう少し!」
前方から、かすかに冷たい風が吹いていた。
外へつながっているのかもしれない。
これで出られる。
あと少し頑張れば。
小雪は必死に進んだ。震える足は冷え切り、もう感覚が曖昧だった。心臓の音がうるさい。肺が熱い。
やがて、穴が少し広くなった。
小雪は身体をねじ込むようにそこへ入り、上にある段差へ手をかけた。足で壁を蹴り、何とか這い上がる。
すぐに振り返った。
「エリーズ、手!」
小雪は手を伸ばした。
エリーズが腕を伸ばす。
小雪はその手を掴み、両手で必死に上へ引いた。
エリーズの肩が見えた。
もう少し。
もう少しで、こちら側へ出られる。
その時だった。
穴の奥から、黒い腕が伸びた。
エリーズの足を掴む。
彼女の身体が大きく引かれた。
「小雪!」
「嫌!」
小雪はエリーズの腕を両手で掴み、必死に引っ張った。
「離して!離してよ!」
誰に叫んでいるのかも分からなかった。
小雪は全身の力で引いた。自分の爪がエリーズの皮膚へ食い込み、左腕の傷からは再び血が流れ始める。
それでも離さなかった。
「エリーズ、上がって! お願い、早く上がって!」
エリーズも、小雪を見ていた。
灰色がかった青い目。
初めて談話室で会った時、泣いたあとで赤くなっていた目。
家族の話をした目。
一緒に帰ろうと言った目。
「小雪。」
エリーズは、不思議なくらい静かな声で言った。
「何。」
「帰ったら、日本の話、もっと聞かせてね。」
「何言ってるの!」
「私、日本に行きたかったの。」
「行こう!」
小雪は叫んだ。
「行けるから!帰ったら来て!私が案内するから!」
エリーズは泣きながら、笑おうとした。
「うん。」
「だから上がって!」
「約束。」
灰青色の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
次の瞬間、エリーズの身体が強く引かれた。
一瞬だった。
小雪の手から、細い腕がすり抜ける。
「エリーズ!」
小雪は穴の中へ手を伸ばした。
届かない。
暗闇の奥で、エリーズの剣が一度だけ光った。
それから、何かが砕けるような、湿った音がした。
小雪は叫んだ。
何度も、何度も名前を呼んだ。
返事はなかった。
やがて、穴の奥から淡い光が溢れ始めた。
白く、薄く、儚い光だった。
「……嫌。」
小雪は穴へ腕を突っ込んだ。
光の向こうへ手を伸ばす。
「エリーズ。」
細かな光の粒が、指の間をすり抜けていく。
「嫌だ。行かないで。」
小雪は何度もエリーズの名前を呼びながら、指の間を抜けていく光を掴もうとした。
けれど、どれほど手を動かしても、何一つ残らなかった。
温度も。
重さも。
あの細い腕の感触も。
つい先ほどまでそこにいたはずの少女は、ただ淡い光となって、暗闇の中へほどけていった。
「行かないでよ……。」
光は答えなかった。
最後の粒が消えたあと、小雪の手の中には、本当に何も残っていなかった。
帰った。
きっと帰ったのだ。
エリーズは、フランスへ帰った。
家族のところへ。
母が焼いた菓子を食べる。
兄とまた喧嘩をする。
いつか日本へ旅行に来る。
その時は、小雪が案内する。
約束した。
だから、帰った。
そう思いたかった。
思わなければならなかった。
けれど、小雪の胸の奥では、別の声が消えなかった。
あれは、本当に帰った人の光なのだろうか。
小雪には、どうしてもそうは見えなかった。
◇ ◇ ◇
その後のことを、小雪はあまり覚えていない。
気がつけば、一人で通路を歩いていた。
杖はまだ手の中にあり、白い光も灯っていた。けれど、その光は以前よりずっと弱く、頼りなく見えた。
どの道を通ったのか。
どうやって狭い穴から抜けたのか。
何度転び、何度壁へぶつかったのか。
何も覚えていない。
ただ、空気が流れてくる方へ歩いた。
途中で、左腕の痛みを思い出した。
魔物の爪で深く裂かれた傷。
小雪は足を止め、袖をまくった。
そして、息を呑んだ。
傷が、塞がり始めていた。
「何……。」
ついさっきまで血が流れていた。
肉が裂け、腕を動かすだけで焼けるように痛んでいた。
それなのに、傷の奥で白い光が揺れている。
裂けた皮膚の両端が寄り、元の形へ治っているのとは少し違った。
失われた部分へ、何かが新しく満ちている。
空白を埋めるように。
何もなかった場所へ、改めて形が作られていくように。
小雪は震える指で触れた。
まだ痛みはある。
皮膚の下で何かが動いているような、気持ちの悪い感覚もあった。
けれど、傷は確かに戻っていた。
「回復、魔法……?」
小雪は何度も練習した。
傷へ手をかざした。
魔力を流した。
祈った。
けれど、誰の傷も治せなかった。
ダニエルの腕も。
訓練用の魔獣も。
そして、エリーズも。
何一つ治すことができなかった。
今も、魔法を使った覚えはない。
詠唱もしていない。
ただ、自分の傷だけが勝手に戻っている。
「何で……。」
答える人はいなかった。
小雪は袖を下ろした。
それから、また歩いた。
外へ出た時には、空が明るくなり始めていた。
森の中へ朝の光が差し込んでいる。
つい先ほど、あの暗い場所で皆が死んだとは思えないほど、眩しく、吐き気がするほど清々しい朝だった。
小雪は遺跡から少し離れた場所まで歩き、そこでとうとう足が動かなくなった。
木の根元へ崩れるように座り込む。
周囲には誰もいなかった。
少し前まで、亮も、マークも、ユナも、ダニエルも、エリーズもいた。国も言葉も家族も、それまで歩んできた人生も全て違っていたけれど、全員が突然この世界へ連れてこられ、帰りたいと願っていた。
それなのに、自分だけが残った。
小雪は膝を抱え、顔を伏せた。
声を出さずに泣いた。
息が詰まるほど泣いた。
何度も、皆の名前を思い出した。
けれど、誰も戻ってこなかった。
しばらくして、ふとヘレンの顔が浮かんだ。
私は戦わない。
帰れるまで、パンでも焼いて待つ。
小雪にも、きっとあの道を選ぶことはできたはずだった。
何とも戦わず、ただ待つために、この世界で新しい生活を始める道。
それなのに、自分は旅へ出た。
エリーズと一緒なら行けるかもしれないと思った。
自分で決めた。
確かに、自分で決めたことだった。
亮たちも、自分で決めた。
だから、誰を責めればいいのか、小雪には分からなかった。
地図は確かに違っていた。
魔物は、説明よりもあまりに強かった。
それでも、最後に行くと決めたのは自分たちだった。
小雪は何度も同じ考えへ戻り、そのたびに胸の奥が潰れるように痛んだ。
後悔で、頭がおかしくなりそうだった。
◇ ◇ ◇
昼近くになって、森の近くを通りかかった商人の馬車が小雪を見つけた。
勇者候補の証である腕輪を見ると、商人たちは顔色を変え、すぐに馬車を止めた。
「大丈夫か!」
その言葉を聞いて、小雪は少しだけ目を開けた。
大丈夫。
また、その言葉。
水を飲ませてもらった。
毛布をかけてもらった。
近くの町まで運んでもらった。
商人たちは親切だった。
何も悪くなかった。
町の神官支部へ着くと、小雪はすぐに温かい部屋へ通された。
神官が、机を挟んで向かいへ座る。
小雪しか戻っていないことに気づいた時、その顔は本当に悲しそうに見えた。
「何があったのですか。」
小雪は答えようとした。
地図が違っていたんです。
道が一本多くあって。
宝物庫には何もなくて。
出口が塞がって。
魔物が。
マークを。
亮を。
ユナを。
ダニエルを。
エリーズを。
皆が、光に。
けれど、喉が震え、うまく言葉にならなかった。
「皆が。」
しばらくして、ようやく声に出せた。
自分のものとは思えないほど、ひどく掠れた声だった。
「皆、死にました。」
神官はわずかに目を伏せた。
机の上に置かれた手へ、少しだけ力が入る。
「そうでしたか。」
しばらく沈黙したあと、神官は静かに言った。
「尊い犠牲でした。」
小雪は顔を上げた。
神官は悲しそうだった。
本当に、皆の死を悲しんでいるように見えた。
「勇者候補様方は、きっと元の世界へ戻られたことでしょう。」
きっと。
小雪は、その言葉を聞いた。
きっと。
おそらく。
伝えられている。
考えられている。
でも、誰も確かなことは言わない。
「帰ったんですか。」
小雪は訊いた。
神官が顔を上げる。
「はい?」
「本当に。」
声が震えた。
「元の世界へ帰ったんですか。」
神官は、すぐには答えなかった。
ほんの少しだけ、困ったように目を伏せた。
それだけだった。
小雪は、自分の左腕を押さえた。
そこには、もうほとんど傷がない。
神官が、その動きに気づいた。
「小雪様。その腕は?」
小雪は、とっさに袖を下ろした。
「何でもありません。」
「ですが、先ほど商人の方が、かなりの傷を受けたように見えたと。」
「何でもありません。」
自分でも驚くほど、硬い声だった。
神官はまだ何か言いたそうにしていたが、小雪はもう腕を見せなかった。
その手は、エリーズを引き上げられなかった。
亮を助けられなかった。
ユナも。
マークも。
ダニエルも。
誰一人、治すことができなかった。
それなのに、自分の傷だけが消えている。
「何でもありません。」
小雪は、もう一度言った。
今度は、少しも声が震えなかった。




