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第五十五話 帰れなかった光

 三つ目のダンジョンは、地図に描かれていたよりもずっと深かった。


 入口から続く石段は、下りても下りても終わらない。ところどころ欠けた段には湿った苔が薄く張りつき、壁には古い文字のようなものが刻まれていたが、言語理解の魔法があっても意味までは分からなかった。


 小雪は杖の先に白い光を灯し、足元を確かめながら慎重に階段を下りていた。


 一つ目の洞窟でも、二つ目の廃坑でも、この光は皆を安心させてくれた。暗い場所で足元を照らし、罠を見つけ、柱や岩の陰に潜む魔物を早く発見する。攻撃も治癒もできない小雪にとって、ようやく見つけた自分の役割だった。


 けれど、この場所では、光があることがかえって怖かった。


 杖が照らす範囲の先には、さらに深い闇がある。白い光が届かない場所がどれほど広いのか、そこに何が潜んでいるのかを、嫌でも意識してしまう。


「思ったより長いな。」


 先頭を歩いていたマークが言った。


 大きな盾を持つ彼は、いつものように明るい声を出そうとしていたが、その声さえ石壁へ吸い込まれ、頼りなく響いた。


 少し後ろを歩いていた亮が地図を開き、歩みを緩めた。


「地図だと、階段を下りればすぐ広間のはずなんだけどな。」

「場所を間違えた?」


 エリーズが小さく尋ねると、亮はその場で足を止め、周囲と地図を何度も見比べた。


「いや。入口の形は合ってるし、方角も間違ってない。」

「じゃあ、地図が古いとか?」


 ダニエルが軽い調子で言ったが、誰も笑わなかった。


 出発前、亮は支部の神官へ何度も確認していた。これは現在の地図なのか。周辺の魔物について、最近の情報は反映されているのか。そのどちらにも、神官は迷いなく頷いていた。


 これまで攻略した二つのダンジョンにも、多少の違いはあった。岩が崩れて道が狭くなっていたり、地図にない小部屋が見つかったりもした。それでも、大まかな構造や危険度が、説明から大きく外れたことはない。


 だから今回も信じた。


 信じるだけの理由は、もう十分にあった。


「もう少し進んで、それでも広間がなかったら戻ろう。」


 亮は地図を畳んだ。


「地図と違いすぎるなら、無理をして進む必要はない。支部へ戻って報告すればいい。」


 誰も反対しなかった。


 小雪も頷いた。危険なら戻ればよい。旅へ出る前、エリーズとも、怖くなったら一緒に戻ろうと約束した。


 そうしてもう少しだけ階段を下りたところで、ようやく目の前が開けた。


 そこは、天井の高い石造りの広間だった。かつては何かの神殿だったのかもしれない。

 太い柱が何本も並び、壁際には人の形をした大きな石像が崩れたまま転がっている。空気は冷たく湿っており、どこからか鉄のような匂いが漂っていた。


「ここで一度確認しよう。」


 亮の声に、全員が足を止めた。


 ユナが手のひらに小さな炎を浮かべる。小雪の白い光とユナの赤い炎が重なり、広間の床を少しずつ照らし出した。


 そこには、いくつもの古い傷が残っていた。


 剣で削られたような跡。何か重いものを引きずったような跡。そして石の隙間へ染み込んだ、黒ずんだもの。


 小雪は、それをあまり見ないようにした。


「何かいる。」


 ユナが低く言った。


 その直後、柱の陰から黒い影が飛び出した。


 犬に似ていた。


 けれど、犬ではない。


 黒い身体には異様に長い脚が生え、口は頬の近くまで裂けている。赤く濁った目がこちらを見つめ、逆立った毛の隙間からは青白い光が漏れていた。


「下がれ!」


 マークがすぐに盾を構えた。


 魔物が勢いよく衝突し、広間に鈍い音が響く。マークが両足を踏ん張って受け止めると、亮が横から剣を振り、ユナの炎が魔物の背を焼いた。


 耳障りな鳴き声が上がる。


 小雪は杖を握りしめたまま、動くことができなかった。


「小雪、光!」


 エリーズに呼ばれて、ようやく我に返る。


 小雪は慌てて杖へ魔力を流した。白い光が強まり、広間の奥まで照らす。


 そこで初めて、柱の陰にさらに二体の魔物が潜んでいることに気づいた。


「右!二体います!」


 ダニエルが振り向きざまに弓を引いた。


 放たれた矢が、一体の肩へ刺さる。


 もう一体が飛びかかってきたところへ、エリーズが踏み込み、細身の剣で前脚を斬った。彼女の腕は震えていたが、それでも逃げなかった。


「ユナ!」

「分かってる!」


 赤い炎が走り、亮が最初の一体を斬り倒す。マークが二体目を盾で壁へ押しつけ、ダニエルの二本目の矢が喉へ刺さった。最後の一体も、エリーズが動きを止めたところへ亮の剣が入り、黒い身体が床へ崩れ落ちた。


 戦いは長く続かなかった。


 けれど、終わった時には全員が荒い息をしていた。


 床には、三体の魔物が倒れている。


「少し、強すぎないか。」


 マークが盾の表面を見ながら言った。


 そこには、深い爪痕が残っていた。


「初級から中級って話だったよな。」


 ダニエルの声からも、いつもの軽さが消えている。


 亮は答えず、地図を広げた。


「この広間の先は、道が二つのはずだ。」


 全員で地図を覗き込む。


 確かに、広間の奥から左右へ二本の通路が延びている。


 左は古い宝物庫跡。右は下層へ続く道。


 安全に探索するなら、まず左の小部屋を確認し、その後で右へ進むと書かれていた。


 けれど、実際の広間には通路が三つあった。


 左と右。


 そして、その中央に、地図にはない黒い通路がまっすぐ奥へ続いている。


 誰も、しばらく話さなかった。


「崩れて、後から開いたのかな。」


 マークが言った。


「かもしれない。」


 亮はそう答えたが、声は硬かった。


 彼は中央の通路へ近づかず、暗闇の奥を警戒するように見つめていた。


「地図にない道には入らない。左だけ確認して、少しでもおかしければ帰ろう。」

「うん。」


 ユナがすぐに頷いた。


 他の誰も反対しなかった。


 小雪は最後に一度だけ、中央の暗い通路を見た。何も見えなかったが、暗闇の向こうからこちらを見られているような気がして、無意識にエリーズのそばへ寄った。


 二人は、皆と一緒に左の通路へ入った。




   ◇ ◇ ◇




 左の通路は、すぐに行き止まりになった。


 地図には宝物庫跡と記されていたが、そこに宝物らしいものはなかった。崩れた壁と、割れた石箱がいくつか残っているだけで、部屋の広さも地図とは少し違っていた。


「何もないね。」


 エリーズが小声で言った。


「前に来た候補が持っていったんじゃないか。」


 ダニエルが肩をすくめる。


「それなら、そういう記録が残っていてもよさそうだけどな。」


 亮は周囲を見回した。


 その時だった。


 奥の壁が、動いた。


 小雪は最初、目の錯覚だと思った。


 けれど違った。


 壁だと思っていたものが、石の粉を落としながらゆっくりと立ち上がっていく。


「……え。」


 誰かの声が漏れた。


 石に似た皮膚を持つ、巨大な魔物だった。


 身体を起こすだけで、頭が天井近くまで届く。腕は丸太のように太く、顔に目はない。その代わり、顔面には三つの黒い穴が開いていた。


 誰も、すぐには動けなかった。


 小雪の杖の光だけが、震えた。


「走れ!」


 亮が叫んだ。


 その瞬間、魔物の腕が振り下ろされた。


 轟音が響く。


 床が砕け、石片が飛び散った。


 マークは反射的に盾を構え、皆の前へ出た。


「先に行け!」


 巨大な腕が、もう一度振るわれた。


 盾と拳がぶつかる。


 低い、嫌な音がした。


 次の瞬間、マークの大きな身体が盾ごと宙へ浮き、そのまま壁へ叩きつけられた。


「マーク!」


 ユナが叫ぶ。


 マークの身体は壁から滑り落ち、床へ崩れた。盾だけが重い音を立てて転がる。


 彼は動かなかった。


 その指先に、淡い光が滲み始める。


 小雪がその意味を理解するより先に、亮が叫んだ。


「戻れ!」


 小雪たちは反射的に来た道へ向き直った。


 けれど、通路は消えていた。


「そ、んな……。」


 小雪の声が漏れた。


 来た道を、崩れた石と土砂が完全に塞いでいる。先ほど魔物が床を叩いた衝撃なのか、それとも初めからそうなるように仕掛けられていたのか、今の小雪には考える余裕もなかった。


 背後で、マークの身体が白い光へほどけていく。


 太い腕も、大きな身体も、身につけていたものも輪郭を失い、細かな光の粒へ変わっていった。


 盾だけが残った。


「右側!」


 ユナが叫んだ。


 崩れた石箱の向こうに、人一人が通れそうな細い道が開いている。


 そこまで行けば、逃げられるかもしれない。


「ダニエル、援護を!」

「やってるよ!」


 弓が鳴る。


 矢が魔物の肩へ刺さったが、ほとんど効いていない。


 ユナの炎が太い腕を包み、亮がその足元へ斬りつける。


 エリーズは、小雪の前へ立っていた。


「小雪、下がって!」


 下がる場所などなかった。


 小雪は杖を握りしめた。


 何かをしなければならない。


 何か。

 何でもいい。


 けれど、小雪にできるのはまだ、光を出すことだけだった。


 回復魔法は使えない。

 攻撃魔法もまともに使えない。


 手のひらに集めた白い魔力はただ温かいだけで、誰一人助けてくれなかった。


 巨大な腕が振るわれる。


 その進路に、エリーズがいた。


 亮が前へ出た。


「伏せろ!」


 剣を構える。


 受け止めようとしたのだろう。


 けれど、受け止められるはずがなかった。


 亮の身体が宙へ浮いた。


 小雪には、その光景がひどくゆっくりと見えた。


 身体が壁へ鈍く叩きつけられる。


 剣が、まるで玩具のように折れる。


 口から、ひどく鮮やかな血がこぼれた。


「亮さん!」


 小雪は叫んだ。


 亮がこちらを見た。


 何かを言おうとした。


 けれど声にはならず、唇の端から血が流れ落ちた。


 次の瞬間、彼の指先が淡く光った。


 小雪は息を止めた。


 光は指先から手へ、腕へと広がり、やがて髪や身体の輪郭まで包んでいった。人の身体が崩れるように消えるのではない。まるで初めから光でできていたものが、形を保てなくなって大気へほどけていくようだった。


 石床へ落ちた血も、その場に残らなかった。


 赤い色が白い粒へ変わり、亮の身体とともに宙へ浮かび上がっていく。


「……な、に。」


 小雪は、その場から動けなかった。


 死んだら元の世界へ戻る。


 そう聞いていた。


 だから、これは帰還のはずだ。


 亮は帰ったのだ。


 日本へ。

 元の世界へ。


 小雪より一足先に。


 そのはずだ。


 そう思わなければならない。


 けれど、喉は凍りついたように動かなかった。


 光はすぐに霧散し、跡形もなく消えた。

 そこには、何も残っていない。


 折れた剣だけが石の床へ落ち、耳障りな音を立てた。


「い、や……。」


 小雪の声が震えた。


「いや。いや……。」

「小雪!」


 エリーズが小雪の肩を掴んだ。


 その顔は真っ青だった。唇も白く、身体は小雪より激しく震えている。灰青色の目には涙が溜まっていた。


 それでも、エリーズは立っていた。


「逃げるよ!」

「で、も、亮さん、が。」

「帰ったんだよ!」


 エリーズの声も震えていた。


「亮は帰ったの!日本に帰ったんだよ!」


 その言葉を、本当に信じているのか。


 それとも、信じようとしているのか。


 小雪には分からなかった。


「ユナ!」


 ダニエルの叫びが響く。


 まだ、戦いは終わっていなかった。


 小雪は振り返った。


 ユナが巨大な魔物へ両手を向けている。赤い炎が、巨体を這うように噴き上がった。


「今のうちに行って!」

「ユナも!」

「すぐ行くから!」


 言葉が耳に届くと同時に、エリーズに腕を引かれる。


 二人は、崩れた石箱の向こうに開いた細い道へ向かって走り出した。


 小雪は一度だけ振り返った。


 ダニエルが弓を射ていた。

 ユナの炎が揺れていた。

 巨大な石の腕が持ち上がり、大きく振り下ろされる。


 エリーズに強く引かれ、小雪は前へ向き直った。


 暗い道。

 先の見えない恐怖。


 それでも足は、硬い石畳を蹴った。


「前を見て!」


 小雪は走った。


 先を行くエリーズは、小雪の腕を離さず、さらに奥へと引っ張っていく。


 背後で、大きな破裂音のようなものが弾けた。


 ユナの赤い炎が作っていた影が、通路の壁から消える。

 弓の弦が鳴る音も止んだ。


 その少し後、暗い通路の後方が二度、淡く明るくなった。


 小雪は振り返らなかった。


 もう、振り返ることができなかった。




   ◇ ◇ ◇




 どれほど走ったのか分からなかった。


 地図には存在しない通路がいくつも分かれ、どちらが出口なのかも、どこへ進んでいるのかも分からない。小雪の杖に灯る白い光だけが、二人の足元を照らしていた。


「ごめん。」


 走りながら、エリーズが言った。


「ごめん、小雪。私が行こうって言ったから。」

「違う。」


 小雪は首を振った。


「違うよ。私も行くって言った。私も、自分で決めた。」


 息が苦しい。

 胸が痛い。

 涙で前が滲んでいる。


 それでも、止まることはできなかった。足を止めれば、二度と立てなくなるような気がした。


 しばらく進むと、通路の先に扉が見えた。


 二人は考える余裕もないまま、その中へ飛び込んだ。


 小さな部屋だった。

 壁には古い棚が並び、床には割れた瓶や朽ちた布が散らばっている。昔の薬品庫か何かだったのかもしれない。


 エリーズが扉を閉める。

 二人で棚を押し、何とか入口の前へ置いた。


 それだけで身体の力を使い果たし、二人は床へ座り込んだ。


 小雪は息を吸おうとした。

 けれど、うまく吸えなかった。


 胸も手も、止めようとしても震えていた。


 ほんの少し前まで、亮も、マークも、ユナも、ダニエルも一緒にいた。

 一緒に食事をし、話をした。マークは大げさに乾杯の真似をし、ユナは器用に包帯を巻いた。ダニエルは怖い時ほど冗談を言い、亮は小雪が泣かないように、家族について深く尋ねず、読んだ本や観た映画の話をしてくれた。


 皆、それぞれ違う国から来た。


 日本。

 アメリカ。

 韓国。

 スペイン。


 本来なら、言葉さえ通じなかった人たちだった。

 それでも全員に帰る場所があり、会いたい家族がいた。


 ほんの少し前まで、確かに声があり、表情があり、小雪の隣にいた。


 それなのに、今はもういない。

 光になって、消えてしまった。


「小雪。」


 エリーズが小雪の手を握った。

 その手は、指先まで冷え切っていた。


「大丈夫。」


 その言葉を聞いた瞬間、小雪は顔を上げた。


 エリーズの目にも、涙が溜まっていた。灰青色の瞳は、ひどく不安定に揺れている。


「皆、帰ったんだよ。」

「……。」

「死んだら元の世界へ戻るんでしょう。そう言ってた。」


 エリーズは、小雪の手を握る力を強くした。


「だから、亮も、マークも、ユナも、ダニエルも、きっと帰った。皆、それぞれの家へ帰ったんだよ。」


 最後の方は、声が震えていた。


 エリーズも怖いはずだった。

 悲しいはずだった。


 それでも、こんな時にまで小雪を気遣っている。


 小雪はエリーズの手を握り返した。


「うん。」


 やっと、それだけ言えた。


 どうしても、本当だと確信することはできなかった。


 それでも今は、その言葉に縋るしかなかった。


 帰った。

 皆、帰ったのだ。


 家族のところへ。


 自分たちより先に帰った。


 ただ、それだけ。


 そうでなければ、あの光が何だったのかを考えなければならなくなる。


 その時、扉の向こうで音がした。


 二人は同時に息を止めた。

 心臓が、どくりと嫌な音を立てて鳴り始める。


 先ほどの石の魔物のような、重い足音ではない。


 もっと小さい。

 けれど、一つではなかった。


 かり、かり。


 石を爪で引っ掻く音が、少しずつ近づいてくる。


 一つ。

 二つ。


 数えきれないほどの音が重なり、やがて扉のすぐ外で激しく鳴り始めた。


 エリーズが慌てて立ち上がる。

 剣を両手で握りしめ、胸の前で構えた。


 小雪も杖を握って息を潜めた。


 しばらくして、扉の下の隙間から、黒い煙のようなものが静かに入り込んできた。


「な、に……?」


 エリーズが呟く。


 次の瞬間、扉が内側へ弾け飛んだ。


 鈍い破裂音とともに棚が倒れ、割れた瓶が床を滑って大きな音を立てる。


 驚く間もなく、黒い小さな魔物が何体も部屋へ流れ込んできた。


 影のような身体。

 鋭い爪。

 赤く濁った目。

 身体を包む青白い光。

 耳を刺すような、甲高い鳴き声。


「走って!」


 エリーズが小雪を突き飛ばした。


 小雪は床へ倒れ込む。


 エリーズが魔物たちへ向かって剣を構えた。

 その腕は細かく震え、剣先も定まっていない。


 それでも、彼女は小雪の前へ立った。


「エリーズ!」

「早く!」


 小雪は立とうとした。


 足がもつれる。


 一体の魔物が飛びかかってきた。


 小雪は反射的に腕で顔を庇った。


 鋭い爪が、左腕へ深く食い込む。


「ああっ……!」


 熱い痛みが走った。


 血が飛ぶ。

 肉が裂ける。


「痛い!」


 悲鳴が出た。


 本当に痛かった。


 何も考えられなくなるほど、痛かった。


 エリーズが魔物を斬り払った。


 けれど、別の魔物が彼女の脇腹へ飛びつく。


 エリーズの身体が大きく揺れた。


「嫌!」


 小雪は叫んだ。


 杖を握りしめる。


 何か。

 何でもいい。

 お願い。

 助けて。


 手の中の白い光が、急に膨らんだ。


 部屋の中が一瞬、昼間のように明るくなる。


 魔物たちが怯み、赤い目を細めて甲高い声を上げた。


「今!」


 エリーズが小雪の手を掴んだ。


 二人は部屋の奥へ走った。


 奥の壁には、人一人がようやく通れるほどの小さな抜け道が開いていた。


「小雪、先に!」

「エリーズも!」

「分かってる!」


 小雪は狭い穴へ身体を滑り込ませた。


 石で腕を擦る。

 傷が痛む。


 それでも、必死に這った。


 後ろから、エリーズの荒い息遣いが聞こえる。


「もう少し!」


 前方から、かすかに冷たい風が吹いていた。

 外へつながっているのかもしれない。


 これで出られる。

 あと少し頑張れば。


 小雪は必死に進んだ。震える足は冷え切り、もう感覚が曖昧だった。心臓の音がうるさい。肺が熱い。


 やがて、穴が少し広くなった。


 小雪は身体をねじ込むようにそこへ入り、上にある段差へ手をかけた。足で壁を蹴り、何とか這い上がる。


 すぐに振り返った。


「エリーズ、手!」


 小雪は手を伸ばした。

 エリーズが腕を伸ばす。


 小雪はその手を掴み、両手で必死に上へ引いた。


 エリーズの肩が見えた。


 もう少し。

 もう少しで、こちら側へ出られる。


 その時だった。


 穴の奥から、黒い腕が伸びた。


 エリーズの足を掴む。


 彼女の身体が大きく引かれた。


「小雪!」

「嫌!」


 小雪はエリーズの腕を両手で掴み、必死に引っ張った。


「離して!離してよ!」


 誰に叫んでいるのかも分からなかった。


 小雪は全身の力で引いた。自分の爪がエリーズの皮膚へ食い込み、左腕の傷からは再び血が流れ始める。


 それでも離さなかった。


「エリーズ、上がって! お願い、早く上がって!」


 エリーズも、小雪を見ていた。


 灰色がかった青い目。


 初めて談話室で会った時、泣いたあとで赤くなっていた目。

 家族の話をした目。

 一緒に帰ろうと言った目。


「小雪。」


 エリーズは、不思議なくらい静かな声で言った。


「何。」

「帰ったら、日本の話、もっと聞かせてね。」

「何言ってるの!」

「私、日本に行きたかったの。」

「行こう!」


 小雪は叫んだ。


「行けるから!帰ったら来て!私が案内するから!」


 エリーズは泣きながら、笑おうとした。


「うん。」

「だから上がって!」

「約束。」


 灰青色の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。


 次の瞬間、エリーズの身体が強く引かれた。


 一瞬だった。


 小雪の手から、細い腕がすり抜ける。


「エリーズ!」


 小雪は穴の中へ手を伸ばした。


 届かない。


 暗闇の奥で、エリーズの剣が一度だけ光った。


 それから、何かが砕けるような、湿った音がした。


 小雪は叫んだ。


 何度も、何度も名前を呼んだ。


 返事はなかった。


 やがて、穴の奥から淡い光が溢れ始めた。


 白く、薄く、儚い光だった。


「……嫌。」


 小雪は穴へ腕を突っ込んだ。


 光の向こうへ手を伸ばす。


「エリーズ。」


 細かな光の粒が、指の間をすり抜けていく。


「嫌だ。行かないで。」


 小雪は何度もエリーズの名前を呼びながら、指の間を抜けていく光を掴もうとした。


 けれど、どれほど手を動かしても、何一つ残らなかった。


 温度も。

 重さも。

 あの細い腕の感触も。


 つい先ほどまでそこにいたはずの少女は、ただ淡い光となって、暗闇の中へほどけていった。


「行かないでよ……。」


 光は答えなかった。


 最後の粒が消えたあと、小雪の手の中には、本当に何も残っていなかった。


 帰った。


 きっと帰ったのだ。


 エリーズは、フランスへ帰った。


 家族のところへ。


 母が焼いた菓子を食べる。


 兄とまた喧嘩をする。


 いつか日本へ旅行に来る。


 その時は、小雪が案内する。


 約束した。


 だから、帰った。


 そう思いたかった。


 思わなければならなかった。


 けれど、小雪の胸の奥では、別の声が消えなかった。


 あれは、本当に帰った人の光なのだろうか。


 小雪には、どうしてもそうは見えなかった。




   ◇ ◇ ◇




 その後のことを、小雪はあまり覚えていない。


 気がつけば、一人で通路を歩いていた。


 杖はまだ手の中にあり、白い光も灯っていた。けれど、その光は以前よりずっと弱く、頼りなく見えた。


 どの道を通ったのか。

 どうやって狭い穴から抜けたのか。

 何度転び、何度壁へぶつかったのか。


 何も覚えていない。


 ただ、空気が流れてくる方へ歩いた。


 途中で、左腕の痛みを思い出した。


 魔物の爪で深く裂かれた傷。


 小雪は足を止め、袖をまくった。


 そして、息を呑んだ。


 傷が、塞がり始めていた。


「何……。」


 ついさっきまで血が流れていた。

 肉が裂け、腕を動かすだけで焼けるように痛んでいた。


 それなのに、傷の奥で白い光が揺れている。


 裂けた皮膚の両端が寄り、元の形へ治っているのとは少し違った。


 失われた部分へ、何かが新しく満ちている。


 空白を埋めるように。

 何もなかった場所へ、改めて形が作られていくように。


 小雪は震える指で触れた。


 まだ痛みはある。


 皮膚の下で何かが動いているような、気持ちの悪い感覚もあった。


 けれど、傷は確かに戻っていた。


「回復、魔法……?」


 小雪は何度も練習した。


 傷へ手をかざした。

 魔力を流した。

 祈った。


 けれど、誰の傷も治せなかった。


 ダニエルの腕も。

 訓練用の魔獣も。

 そして、エリーズも。


 何一つ治すことができなかった。


 今も、魔法を使った覚えはない。


 詠唱もしていない。


 ただ、自分の傷だけが勝手に戻っている。


「何で……。」


 答える人はいなかった。


 小雪は袖を下ろした。


 それから、また歩いた。


 外へ出た時には、空が明るくなり始めていた。


 森の中へ朝の光が差し込んでいる。


 つい先ほど、あの暗い場所で皆が死んだとは思えないほど、眩しく、吐き気がするほど清々しい朝だった。


 小雪は遺跡から少し離れた場所まで歩き、そこでとうとう足が動かなくなった。


 木の根元へ崩れるように座り込む。


 周囲には誰もいなかった。


 少し前まで、亮も、マークも、ユナも、ダニエルも、エリーズもいた。国も言葉も家族も、それまで歩んできた人生も全て違っていたけれど、全員が突然この世界へ連れてこられ、帰りたいと願っていた。


 それなのに、自分だけが残った。


 小雪は膝を抱え、顔を伏せた。


 声を出さずに泣いた。

 息が詰まるほど泣いた。


 何度も、皆の名前を思い出した。


 けれど、誰も戻ってこなかった。


 しばらくして、ふとヘレンの顔が浮かんだ。


 私は戦わない。

 帰れるまで、パンでも焼いて待つ。


 小雪にも、きっとあの道を選ぶことはできたはずだった。


 何とも戦わず、ただ待つために、この世界で新しい生活を始める道。


 それなのに、自分は旅へ出た。


 エリーズと一緒なら行けるかもしれないと思った。


 自分で決めた。


 確かに、自分で決めたことだった。


 亮たちも、自分で決めた。


 だから、誰を責めればいいのか、小雪には分からなかった。


 地図は確かに違っていた。

 魔物は、説明よりもあまりに強かった。


 それでも、最後に行くと決めたのは自分たちだった。


 小雪は何度も同じ考えへ戻り、そのたびに胸の奥が潰れるように痛んだ。


 後悔で、頭がおかしくなりそうだった。




   ◇ ◇ ◇




 昼近くになって、森の近くを通りかかった商人の馬車が小雪を見つけた。


 勇者候補の証である腕輪を見ると、商人たちは顔色を変え、すぐに馬車を止めた。


「大丈夫か!」


 その言葉を聞いて、小雪は少しだけ目を開けた。


 大丈夫。


 また、その言葉。


 水を飲ませてもらった。

 毛布をかけてもらった。

 近くの町まで運んでもらった。


 商人たちは親切だった。


 何も悪くなかった。


 町の神官支部へ着くと、小雪はすぐに温かい部屋へ通された。


 神官が、机を挟んで向かいへ座る。


 小雪しか戻っていないことに気づいた時、その顔は本当に悲しそうに見えた。


「何があったのですか。」


 小雪は答えようとした。


 地図が違っていたんです。

 道が一本多くあって。


 宝物庫には何もなくて。

 出口が塞がって。


 魔物が。


 マークを。


 亮を。


 ユナを。


 ダニエルを。


 エリーズを。


 皆が、光に。


 けれど、喉が震え、うまく言葉にならなかった。


「皆が。」


 しばらくして、ようやく声に出せた。

 自分のものとは思えないほど、ひどく掠れた声だった。


「皆、死にました。」


 神官はわずかに目を伏せた。

 机の上に置かれた手へ、少しだけ力が入る。


「そうでしたか。」


 しばらく沈黙したあと、神官は静かに言った。


「尊い犠牲でした。」


 小雪は顔を上げた。


 神官は悲しそうだった。

 本当に、皆の死を悲しんでいるように見えた。


「勇者候補様方は、きっと元の世界へ戻られたことでしょう。」


 きっと。


 小雪は、その言葉を聞いた。


 きっと。

 おそらく。

 伝えられている。

 考えられている。


 でも、誰も確かなことは言わない。


「帰ったんですか。」


 小雪は訊いた。


 神官が顔を上げる。


「はい?」

「本当に。」


 声が震えた。


「元の世界へ帰ったんですか。」


 神官は、すぐには答えなかった。

 ほんの少しだけ、困ったように目を伏せた。


 それだけだった。


 小雪は、自分の左腕を押さえた。


 そこには、もうほとんど傷がない。


 神官が、その動きに気づいた。


「小雪様。その腕は?」


 小雪は、とっさに袖を下ろした。


「何でもありません。」

「ですが、先ほど商人の方が、かなりの傷を受けたように見えたと。」

「何でもありません。」


 自分でも驚くほど、硬い声だった。


 神官はまだ何か言いたそうにしていたが、小雪はもう腕を見せなかった。


 その手は、エリーズを引き上げられなかった。


 亮を助けられなかった。


 ユナも。

 マークも。

 ダニエルも。


 誰一人、治すことができなかった。


 それなのに、自分の傷だけが消えている。


「何でもありません。」


 小雪は、もう一度言った。


 今度は、少しも声が震えなかった。

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