第七話 勇者さま、買い出しに行く
ベルは、朝から怒っていた。
小雪は椅子に座り、生活予定表を眺めながら、暫し考えた。
昨日も怒っていた。
一昨日も怒っていた。
たぶん、今日も怒っている。
ベルは、怒る生き物なのかもしれない。
怒ってもチワワはチワワなのだが。
「小雪。」
「はい。」
「今日は村に行くぞ。」
「村。」
「そうだ。買い出しだ。」
「何を買うのですか。」
「寝具、布、食材、櫛、鍋、保存容器、危険物を入れる箱、まともな椅子。できれば寝台。」
多い。
非常に多い。
小雪は机の上に置かれた紙とペンを取って、書き付けた。
書きたい時に紙とペンが見つかる。
文明とはすばらしい。
だが、面倒くさい。
買い出し。
項目が多い。
ベルは物資を好む。
「今、何を書いた。」
「記録です。」
「俺を観察するな。」
「観察は重要です。」
「俺は実験対象じゃねぇ。」
「助手ですね。」
「助手も観察するな。」
「敬語。」
「観察しないでください。」
「検討します。」
「やめる気がねぇな。」
ベルは深く息を吐いた。
それから、小雪の服を見た。
小雪も自分の服を見る。
焦げてはいない。
昨日、ベルに怒られたので、焦げていない服を着た。
袖は少し長い。
裾も少し長い。
だが、服は服である。
問題ない。
小雪はそう判断した。
ベルは違ったらしい。
今度は小雪の頭を見ている。
白くなった長い髪。
伸びてくると、下の方だけ自分で伐採している。
若干、不揃い。
「髪。」
「はい。」
「跳ねてる。」
「はい。」
「はいじゃねぇ。梳け。」
「櫛は折れました。」
「だから買いに行くんだろ。」
「では、それまで跳ねていますね。」
「そのまま村に行く気か。」
「髪は髪です。」
「寝癖は寝癖だ。」
「生活は細かいですね。」
「おまえが大雑把すぎるんだよ。」
「敬語。」
「大雑把すぎます。」
ベルは自分の荷物の中から、小さな櫛を取り出した。
小雪はそれを見た。
「予備ですか。」
「俺のだ。」
「使っていいんですか。」
「……今日だけだ。」
「ありがとうございます。」
小雪が手を出すと、ベルは少し迷った。
それから、なぜか小さく咳払いをする。
「おまえがやると、また折るだろ。」
「はい。」
「認めるな。」
「折れます。」
「折る前提で持つな。」
「では、お願いします。」
小雪は椅子に座ったまま、少しだけ頭を下げた。
ベルの動きが止まった。
「……何だ、その体勢は。」
「梳きやすいかと。」
「……そういうことを急にするな。」
「駄目ですか。」
「……駄目じゃねぇけど。」
「敬語。」
「駄目では、ありませんけど。」
ベルは小雪の後ろに立った。
小雪はじっとしていた。
少し逡巡する気配がした後、櫛が髪に入る。
意外と丁寧だった。
引っかかると、ベルは無理に引っ張らない。
指で髪を分け、少しずつ解いていく。
白く長い髪が、肩から背中へ流れていった。
小雪は、暫し考えた。
便利。
非常に便利。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「有能ですね。」
櫛が止まった。
「……急に言うな。」
「事実です。」
「事実でも言い方があるだろ。」
「褒めています。」
「だからだ。」
「褒めると駄目ですか。」
「駄目じゃねぇ。」
「敬語。」
「駄目では、ありません。」
「では、有能ですね。」
「二回言うな。」
「敬語。」
「二回言わないでください。」
小雪は頷いた。
ベルは続きを梳いた。
耳が赤い。
小雪は鏡を見ていないので、自分の髪がどうなったのかは分からない。
だが、ベルが少し離れて確認し、満足そうに頷いたので、たぶん問題ないのだろう。
「よし。」
「終わりましたか。」
「ああ。」
「ベルは毛づくろいが上手ですね。」
「毛づくろいって言うな。」
「では、整髪。」
「最初からそれを言え。」
「敬語。」
「整髪と言ってください。」
「はい。」
ベルは櫛をしまおうとして、ふと小雪を見た。
目が合った。
小雪は首を傾げる。
「どうしました。」
「……何でもない。」
「敬語。」
「何でもありません。」
「顔が赤いです。」
「暑いだけです。」
「朝です。」
「朝でも暑いのです。」
「そうですか。」
ベルは外へ出た。
少し歩き方が早い。
小雪は、暫し考えた。
ベルは暑がり。
これも記録しておいた方がいいかもしれない。
村へ向かう道は、山道だった。
小雪は歩く。
ベルも歩く。
荷物を載せるための馬も連れている。
小雪は、しばらく無言で歩いていた。
ベルは隣で、何度もこちらを見ている。
「何ですか。」
「いや。」
「はい。」
「歩けるか。」
「歩けます。」
「疲れたら言え。」
「疲れません。」
「そうだったな。」
ベルは少し不満そうだった。
小雪は、暫し考えた。
もしかして、疲れた方がよいのだろうか。
「疲れました。」
ベルが足を止めた。
「本当か。」
「いえ。」
「嘘をつくな。」
「疲れたら言えと言われたので、試しました。」
「試すな。」
「敬語。」
「試さないでください。」
「はい。」
ベルは額を押さえた。
それから、少しだけ小雪の歩幅に合わせる。
小雪はそれに気づいた。
ベルは背が高い。
足も長い。
普通に歩けば、小雪よりかなり速いはずだった。
だが、今は小雪の隣にいる。
小雪は、暫し考えた。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「歩幅を調整していますか。」
「……してる。」
「敬語。」
「しています。」
「なぜですか。」
「置いていくだろ。」
「置いていかれても追いつきます。」
「そういう話じゃねぇ。」
「敬語。」
「そういう話ではありません。」
「そうですか。」
小雪は頷いた。
ベルは細かい。
歩幅まで細かい。
生活とは、たぶん、細かいことの集まりなのだろう。
小雪はまた一つ学んだ。
村に着くと、畑のそばにいた老人が手を振った。
「おお、勇者さま。今日は爆発せんのですか。」
「まだです。」
「まだ。」
老人は楽しそうに笑った。
隣にいた老婆も笑う。
「勇者さま、今日はえらい男前を連れとるのぉ。」
「助手です。」
「ほぉ、助手さん。」
「はい。ベルです。」
ベルが一瞬固まった。
「小雪。」
「はい。」
「紹介が雑だ。」
「雑ですか。」
「公爵家の次男だとか、研究補佐官だとか、色々あるだろ。」
「必要ですか。」
「……いや。」
ベルは老人と老婆を見た。
少し考える。
「村なら、ベルでいい。」
「はい。ベルです。」
小雪がもう一度言うと、老人はにこにこした。
「ベルさんか。勇者さまを頼みますのぉ。」
「え、あ、いや、頼まれる筋合いは……。」
「ベル。」
小雪が見る。
「敬語。」
ベルは言葉を詰まらせた。
それから、妙にぎこちなく老人に向き直る。
「……お任せ、ください。」
老人と老婆は顔を見合わせた。
そして、あはははは、と笑った。
ベルは小さく呟く。
「何だ、この村。」
「普通です。」
「普通か?」
「たぶん。」
「おまえの普通は信用ならねぇ。」
「敬語。」
「信用なりません。」
小雪は頷いた。
王室から、なんかお触れは出ているのかもしれない。
しかし、特に不便はない。
ならば普通の範囲と考えて、差し支えないだろう。
村の中心へ向かう。
ベルは小雪の少し後ろを歩きながら、周囲を見ていた。
村人たちは小雪を見ると、少し驚き、すぐに手を振る。
「勇者さま、また煙上がってましたねぇ。」
「はい。」
「今度は何を作ってたんですか。」
「電磁石です。」
「でん……?」
「鉄が、なんか、くっつきます。」
「へぇ。すごいですねぇ。」
村人は、本当に分かったのか分からない顔で頷いた。
小雪も頷いた。
会話は終わった。
ベルが小声で言う。
「説明が雑すぎる。」
「長く説明すると、相手が困ります。」
「今も困ってたぞ。」
「短く困りました。」
「困ることは確定なのか。」
「はい。」
ベルは頭を抱えた。
最初に入ったのは、雑貨屋だった。
店主の女性は小雪を見ると、棚の奥から布を出してきた。
「勇者さま、今日は焦げにくい布ですか。」
「寝具です。」
「寝具。」
店主は一瞬止まり、小雪の隣にいるベルを見た。
ベルは固まった。
「違う。」
「はい?」
「いや、何も言ってねぇ。……言っておりません。」
「ベルは助手です。」
小雪が説明する。
「常駐します。」
店内が静かになった。
店主がゆっくり頷く。
「常駐。」
「はい。」
「同じお家に。」
「はい。」
「なるほど。」
「何がですか。」
「いえいえ。寝具ですね。」
店主はにこにこしている。
ベルは顔を覆った。
「小雪。」
「はい。」
「言い方。」
「何か間違えましたか。」
「間違ってはいない。間違ってはいないが、何かが違う。」
「難しいですね。」
「本当に難しい。」
「敬語。」
「本当に難しいです。」
店主は笑いをこらえながら、寝具を広げた。
厚手の敷布。
掛け布。
枕。
予備の布。
小さな毛布。
小雪は枕を手に取った。
押す。
柔らかい。
「これは何ですか。」
ベルがこちらを見た。
「枕だ。」
「知っています。」
「今、これは何ですかって聞いただろ。」
「中身を聞きました。」
「……綿か羽毛だな。」
「最近使っていなかったので、存在を忘れていました。」
「使え。」
「はい。」
小雪は枕をもう一度押した。
柔らかい。
少し楽しい。
押す。
戻る。
押す。
戻る。
ベルがそれを見ている。
「……気に入ったのか。」
「反発します。」
「枕だからな。」
「有能ですね。」
「枕を褒めるな。」
「では、ベルも有能です。」
ベルは横を向いた。
「ついでみたいに言うな。」
「敬語。」
「ついでみたいに言わないでください。」
「はい。」
小雪は枕を抱えた。
店主がにこにこしている。
「それになさいますか。」
「はい。」
「おい、待て。枕だけ買ってどうする。」
「寝ます。」
「敷布も掛け布も買うんだよ。」
「床がありますが。」
「床を寝具に含めるな。」
「敬語。」
「床を寝具に含めないでください。」
結局、ベルが寝具一式を選んだ。
小雪は枕を抱えたまま、それを見ていた。
買い物は、ベルの方がずっと上手そうだ。
次は櫛だった。
ベルは丈夫そうな櫛を三本選んだ。
「三本も必要ですか。」
「おまえは折る。」
「一本目で学習するかもしれません。」
「一本目は昨日折った。」
「今日は学習するかもしれません。」
「三本買う。」
「はい。」
次は保存容器だった。
ベルは蓋付きの箱をいくつも選ぶ。
「これは何用ですか。」
「危険物用だ。」
「赤い粉ですか。」
「赤い粉だけじゃねぇ。黒い粉も白い粉も青い粉も紫の粉も光る粉も全部だ。」
「光る粉は綺麗です。」
「綺麗な危険物だ。」
「分類が増えました。」
「増やしたくて増やしてるんじゃねぇ。」
次は鍋だった。
ベルは鍋を真剣に見ている。
小雪は横で待った。
「鍋はすでにありますが。」
「あればいいというもんじゃねぇ。料理によって使い分ける。」
「料理の幅。」
「そうだ。」
料理の幅が増えるということは、きっといいことだ。
美味しいものが食べられる。
しかし、小雪にとっては、鍋はどれも同じ鍋に見える。
だが、ベルは違いが分かるらしい。
「これは底が薄い。焦げる。」
「焦げると駄目ですか。」
「駄目だ。」
「復元すれば。」
「焦がす前提をやめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
小雪は頷いた。
ベルは別の鍋を持つ。
「こっちは重いが、安定してる。煮込みにはいい。」
「煮込み。」
「豆をそのまま噛まなくて済む。」
「重要ですね。」
「重要だ。」
ベルは鍋を選んだ。
その顔は真剣だった。
小雪は、暫し考えた。
ベルは鍋を見る時、少し格好いい。
いや、格好いいというより、頼もしい。
鍋だが。
小雪は、その結論をどう扱えばよいか分からなかった。
支払いの時、小雪は懐から小さな袋を出した。
中には魔物の牙と、王城でもらった赤い宝石や金貨が少し入っている。
小雪は牙を出した。
「これで。」
ベルが手首を掴んだ。
「待て。」
「はい。」
「それは何だ。」
「魔物の牙です。」
「見れば分かる。」
「では、なぜ聞いたのですか。」
「支払いに牙を出すな。」
「価値があります。」
「ここは雑貨屋だ。」
「換金できます。」
「店主を困らせるな。」
「困りますか。」
小雪は店主を見る。
店主は笑顔のまま、少しだけ困っていた。
柔和な顔の額に、若干汗をかいている。
「……少し。」
「では、牙はやめておきます。」
「最初からそうしろ。」
「敬語。」
「最初からそうしてください。」
小雪は宝石を出した。
ベルがそれを見て、また止める。
「多い。」
「そうですか。」
「寝具と鍋と櫛と箱で、王城の装飾に使うような宝石を出すな。」
「赤くて綺麗です。」
「綺麗だから出すな。」
「では、ベルがお願いします。」
「最初から俺に任せろ。」
「敬語。」
「最初から俺に任せてください。」
「はい。」
小雪は袋ごとベルに渡した。
ベルはぎょっとした顔をした。
「全部渡すな。」
「会計をお願いします。」
「信用しすぎだろ。」
「ベルは、お金でも有能そうです。」
「有能そうで財布を渡すな。」
「駄目ですか。」
「……駄目ではねぇけど。」
「敬語。」
「駄目では、ありませんけど。」
ベルは袋を受け取り、必要な金貨だけを取り出した。
残りを小雪に返す。
小雪はそれを受け取った。
「ベルは買い物が上手ですね。」
ベルは硬直した。
店主がにこにこした。
小雪は首を傾げる。
「顔が赤いです。」
「暑いだけです。」
「店内です。」
「店内でも暑いのです。」
「そうですか。」
店主が小声で言った。
「勇者さま、よい助手さんですねぇ。」
「はい。有能です。」
ベルは後ろを向いた。
肩が少し震えている。
小雪は、暫し考えた。
人は暑いと震えるのだっただろうか。
雑貨屋を出る頃には、荷物がかなり増えていた。
ベルはそれを手際よく馬に積んでいく。
重いものを下。
割れ物を上。
布は汚れないように包む。
鍋は揺れない位置。
櫛は小さな袋。
危険物用の箱は別にする。
小雪は、その横で枕を抱えていた。
「小雪。」
「はい。」
「その枕、馬に積むぞ。」
「これは持ちます。」
「気に入ったのか。」
「はい。」
ベルは一瞬止まった。
「……そうか。」
「はい。反発します。」
「反発が好きなのか。」
「戻ってきます。」
「そうか。」
「はい。」
小雪は枕を押した。
戻る。
押す。
戻る。
ベルがこちらを見ている。
「何ですか。」
「いや。」
「はい。」
「……可愛い、じゃなくて。」
「はい?」
「何でもありません。」
「そうですか。」
ベルは荷物を縛る紐を、必要以上に強く結んだ。
小雪は枕を抱えたまま、村の道を見た。
村人たちは、ちらちらこちらを見ている。
彼らは小雪のことはもう知っている。
もしかしたら、ベルを見ているのかもしれない。
ベルは背が高い。
金髪で、服も上等で、顔も非常に整っている。
ただ、今は鍋と寝具と危険物用の箱を真剣に縛っている。
小雪は、暫し考えた。
ふむ。公爵家次男というより、荷造りの人。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「荷造りも上手ですね。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
「褒めています。」
「分かってるから困るんだよ。」
「困りますか。」
「困る。」
「敬語。」
「困ります。」
「では、控えます。」
ベルは少しだけ、ほっとした顔をした。
小雪は頷いた。
そして、三秒後に言った。
「でも、有能です。」
「控えろと言っただろ!」
「敬語。」
「控えてください!」
「はい。」
ベルは顔を覆った。
村の道端で、老人と老婆がこちらを見て笑っている。
「勇者さま、助手さんと仲良しじゃのぉ。」
「はい。」
「おい。」
「違いますか。」
「違わ……違わなくは、ねぇけど。」
「敬語。」
「違わなくは、ありませんけど。」
小雪は頷いた。
「仲良しです。」
ベルが完全に止まった。
小雪は首を傾げる。
「違いましたか。」
「……違いません。」
「そうですか。」
老人と老婆は、また顔を見合わせて、あはははは、と笑った。
ベルは荷物の紐を結び直している。
もう結べているのに、何度も結び直している。
小雪は、暫し考えた。
ベルは、暑い時、紐を結び直す。
記録しておこう。
帰り道、小雪は枕を抱えたまま歩いた。
ベルは何度か「積め」と言ったが、小雪は持つことにした。
反発するので。
しばらく歩くと、ベルが言った。
「小雪。」
「はい。」
「疲れてねぇか。」
「疲れていません。」
「枕、重くないか。」
「軽いです。」
「そうか。」
「ベル。」
「何でしょうか。」
「ベルは今日、何度も疲れていないかと聞きます。」
「聞く。」
「なぜですか。」
「……心配だからだろ。」
小雪は足を止めた。
ベルも止まる。
「心配。」
「何だよ。」
「敬語。」
「何でしょうか。」
「私はとても強いです。」
「知ってる。」
「敬語。」
「知っています。」
「疲れません。」
「それも知ってる。」
「では、なぜ心配するのですか。」
ベルは少し黙った。
それから、視線を逸らす。
「強くても、放っておけねぇやつはいる。」
「放っておけない。」
「そうだ。」
「私は、放っておけないですか。」
「……かなりな。」
「そうですか。」
小雪は、暫し考えた。
放っておけない。
それは、どういう分類だろう。
危険物。
食材。
助手。
有能。
暑がり。
放っておけない。
小雪には、まだよく分からない。
ただ。
ベルがそう言うなら、そうなのかもしれない。
「では、ベル。」
「何でしょうか。」
「放っておかないでください。」
ベルの足が止まった。
小雪は枕を抱えたまま、彼を見上げる。
返事がない。
聞こえなかったのだろうか。
小雪は、もう一度言った。
「放っておかないでください。」
ベルは何も言わなかった。
山の木々が風に揺れる。
少し離れた場所で、馬が鼻を鳴らした。
小雪はベルを見上げたまま待った。
「ベル?」
「……そういうことを。」
「はい。」
「急に言うな。」
「急でしたか。」
「急だ。」
「敬語。」
「急です。」
「では、次から予告します。」
「予告の問題じゃねぇ。」
「難しいですね。」
「難しいです。」
ベルは顔を逸らした。
耳が赤い。
小雪は、暫し考えた。
やはり暑いのかもしれない。
山道は少し涼しいが、ベルは暑がりだ。
ベルはそのまま数歩進んだ。
それから、小雪を置いていかないように、また歩幅を小さくした。
山の家に戻ると、ベルはすぐに荷物をほどいた。
小雪は枕を持って、自分の寝室になった小部屋へ向かう。
昨日、ベルが作った寝床に、新しい敷布と掛け布と枕が置かれた。
小雪は枕を置いた。
押す。
戻る。
押す。
戻る。
ベルが扉のところで見ていた。
「寝心地は夜に確認しろ。」
「今も確認できます。」
「寝るなよ。」
「寝ません。」
「本当か。」
「たぶん。」
「たぶんで寝るな。」
「敬語。」
「たぶんで寝ないでください。」
小雪は頷いた。
それから、寝床を見た。
床より柔らかい。
元布より暖かそう。
枕は反発する。
ベルが選んだ。
小雪は少し考えた。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「ありがとうございます。」
ベルは動かなくなった。
小雪は首を傾げる。
「聞こえましたか。」
「……聞こえた。」
「敬語。」
「聞こえました。」
「よかったです。」
ベルは片手で顔を覆った。
「本当に、急に礼を言うな。」
「やはり予告しますか。」
「しなくていい。」
「では、突然言います。」
「それも違う。」
「難しいですね。」
「……難しいです。」
小雪は頷いた。
そして、作業部屋へ向かおうとした。
ベルが襟の後ろを軽く掴む。
「どこへ行く。」
「電磁石。」
「買ったものを片付ける。」
「ベルが。」
「一緒に。」
「科学が。」
「生活だ。」
「文明が。」
「寝具を。」
小雪は、暫し考えた。
科学文明には、生活も必要。
ベルが言っていた。
「分かりました。」
小雪は作業部屋へ行くのをやめた。
ベルが少し驚いた顔をする。
「素直だな。」
「生活も文明なので。」
「そうだ。」
「つまり、ベルは生活文明担当です。」
「何だ、その担当は。」
「重要です。」
「……まあ、重要ではある。」
「有能ですね。」
「……またそれか。」
「はい。」
ベルはため息をついた。
しかし、怒っているようには見えなかった。
小雪は買ってきた櫛を棚に置く。
保存容器を作業台の下に置く。
鍋は台所へ。
布は寝室へ。
枕は寝床へ。
金貨の袋はベルへ。
ベルが目を見開いた。
「だから、財布を全部渡すな。」
「会計担当なので。」
「いつからだ。」
「今日から。」
「勝手に決めるな。」
「敬語。」
「勝手に決めないでください。」
「では、お願いします。」
「頼み方で押すな。」
「駄目ですか。」
「……駄目じゃねぇ。」
「敬語。」
「駄目では、ありません。」
「ありがとうございます。」
「だから、急に礼を言うな。」
ベルは金貨の袋を受け取りながら、また顔を赤くした。
小雪はそれを見て、暫し考えた。
ベルは暑がり。
買い物が上手。
荷造りが上手。
毛づくろいが上手。
会計もできる。
生活文明担当。
非常に有能。
小雪は満足して頷いた。
その日の実験は、結局あまり進まなかった。
だが、寝床は整った。
危険物用の箱もできた。
食材も増えた。
鍋も増えた。
櫛は三本ある。
小雪は紙を取り出した。
少し考えて、記録する。
科学文明の前に、生活文明が少し興った。
ベルはそれを見た。
「……何だ、その文明は。」
「ベルの文明です。」
「俺の?」
「はい。」
「勝手に興すな。」
「敬語。」
「勝手に興さないでください。」
「もう興りました。」
「……そうかよ。」
「敬語。」
「……そうですか。」
ベルは頭を抱えた。
小雪は、買ったばかりの枕をもう一度押した。
戻ってきた。
悪くない。
生活文明は、思っていたより悪くないのかもしれない。




