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第六話 魔法が使えない公爵家次男

 朝食を作るために、ベルは火打ち石を使った。


 かち、かち、と乾いた音がする。


 小雪は作業台の前で、生活予定表を眺めながら、その音を聞いていた。


 朝。


 起きる。

 顔を洗う。

 着替える。

 朝食を食べる。

 危険物を確認する。

 実験はその後。


 項目が多い。

 非常に多い。


 小雪は、暫し考えた。


 文明とは、かなり大変なのかもしれない。


 その間にも、ベルはかち、かち、と火花を散らしている。


 小さな火が乾いた草に移り、細い枝に移り、やがて炉の中で安定した火になった。


 ベルは手際よく鍋を置く。


 小雪は首を傾げた。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「魔道具は使わないのですか。」

「中の魔素が切れたら使えねぇだろ。……火打ち石でいい。」


 ベルはそう言って、小雪を見た。


 小雪は、ふむ、と頷き、手元の紙に書きつける。


 最近、色々忘れやすい。


 ベルと生活するようになってから、小雪はできるだけメモを取ることにした。


 決して、ペンが見つかるようになったからではない。


 火起こし。

 ベル。

 火打ち石。


「……書き付け、それだけか。」

「はい?」

「いや。何でもねぇ。」

「敬語。」

「何でもありません。」

「そうですか。」


 小雪はさらに書き足した。


 魔法なしで火を起こせる。

 有用。


 ベルはそれを横目で見た。


「おい。」

「はい。」

「何を書いた。」

「有用。」

「誰が。」

「ベルが。」


 ベルは鍋を落としかけた。


 水が少し跳ねる。


「危ないです。」

「おまえが悪い。」

「敬語。」

「あなたが悪いです。」

「なぜですか。」

「急にそういうことを書くからだ。」

「事実です。」


 小雪は淡々としていた。


 ベルはしばらく言葉を探した。


 見つからなかった。


 仕方なく、豆と刻んだ干し肉を鍋に入れる。


 小雪はそれを見ている。


「ベルは、やはり魔法が使えないのですね。」

「だからそう言っただろ。」

「敬語。」

「そう申し上げました。」

「公爵家の人間なのに。」


 ベルの手が、今度こそ止まった。


 小雪は彼を見上げた。


 その顔には、嘲りも、哀れみも、驚きもなかった。


 ただ、確認しているだけだった。


 ベルは少しだけ顔を逸らす。


「……公爵家の人間でも、使えねぇものは使えねぇ。」

「そうですか。」

「そうです。」

「不便、ですよね。」


 ベルは小さく笑った。


 笑いというより、息が漏れたような音だった。


「不便、か。」

「違いますか。」

「いや。」


 ベルは鍋をかき混ぜた。


「その通りだ。」


 この世界で、魔法が使えないことは不便だった。


 とても不便だった。


 特に、このヴァルクレスト王国では。


 ヴァルクレスト王国は、小さな国だった。


 大陸の中央から少し外れた場所にあり、北には軍事大国、東には商業都市連合、南には海洋国家、西には古い砂漠王国がある。


 国土だけで見れば、ヴァルクレストは決して強国ではない。


 山はある。

 森もある。

 鉱山も少しある。


 だが、巨大な穀倉地帯があるわけでも、圧倒的な軍事力を持っているわけでもない。


 それでも、この国は滅びなかった。


 理由は魔法だった。


 ヴァルクレスト王国は、世界でもっとも高度な魔法技術を持つ国とされている。


 王都の夜には魔法灯が並ぶ。

 貴族街の屋敷には、浄化魔法を組み込んだ水路が通っている。

 王城には結界が張られ、病院には治癒魔法士がいて、軍には魔導騎士団がある。


 高位貴族であれば、火を起こすくらいは子どもの遊びだった。


 水を浮かせる。

 灯りをともす。

 風を起こす。

 小さな傷を塞ぐ。

 重い荷を軽くする。


 そういった魔法は、貴族の子どもたちにとって、文字を覚えるのと同じくらい当たり前のものだった。


 もちろん、平民にも魔力を持つ者はいる。


 だが、多くは弱い。


 小さな火花を出せる。

 桶の水を少し温められる。

 針の先ほどの灯りをともせる。


 その程度で終わる者が多い。


 魔法を本当に生活や仕事や戦いに使えるのは、魔力の強い貴族や、選ばれた魔導士たちだった。


 だから、この国では魔法が身分の証だった。


 魔力が強い家は尊ばれる。

 魔法が得意な子は褒められる。

 強い魔法を使える者は、国を守る者として扱われる。


 反対に、魔法が使えない者は。


 ベルは鍋をかき混ぜる手を止めた。


「ベル?」

「何でもねぇ。」

「敬語。」

「何でもありません。」

「そうですか。」


 小雪は生活予定表を横に置いた。


 それから、今度は新しい紙を引き寄せる。


「魔法事情。聞き取り。」

「何を始めた。」

「記録です。」

「朝飯の前に記録するな。」

「朝飯の前に思いついたので。」

「おまえ、そういうところだぞ。」

「敬語。」

「そういうところです。」

「はい。」


 小雪はペンを持った。


 そして、すぐに手を止めた。


「ベル。」

「今度は何だ。」

「敬語。」

「今度は何でしょうか。」

「ペン先が曲がりました。」

「どんな力で握ってんだ。」

「普通です。」

「普通を見直せ。」

「敬語。」

「見直してください。」

「では、書いてください。」

「俺が?」

「はい。聞き取りなので。」


 ベルは額を押さえた。


「朝飯。」

「書きながらでも鍋は煮えます。」

「俺の手は二本しかねぇ。」

「あなたは有能なので。」

「便利な言葉だと思ってるだろ。」

「はい。」

「認めるな。」

「敬語。」

「認めないでください。」


 結局、ベルは鍋を火にかけたまま、小雪の向かいに座らされた。


 小雪が問い、ベルが答える。

 ベルが答えた内容を、なぜかベル自身が書く。


 非常におかしい。


 何だこれは。


 しかし、小雪の字は、先ほど曲がったペン先を見る限り、今は危険だった。


「まず、この国では貴族は基本、魔法を使えるのですね。」

「ああ。使える。使えない方が珍しい。」

「平民は。」

「使えるやつもいるが、弱い。火種くらいなら起こせる者もいる。だが、暮らしを変えるほどじゃねぇ。」

「王都は魔法で動いている。」

「かなりな。灯り、水、結界、治療、馬車、警備。貴族街なら特にそうだ。」

「村は。」

「村はもっと人力だ。薪を割るし、井戸から水を汲む。だが、それでも領主や魔導士に頼る部分はある。干ばつなら雨乞い。魔物が出れば騎士団。疫病なら治癒魔法士。橋が落ちれば魔導技師。」

「つまり、平民は魔法を自由に使えないが、魔法に依存している。」


 ベルは少しだけ目を細めた。


「……そうだな。」

「不便ですね。」

「おまえ、そればっかだな。」

「便利な言葉です。」

「便利じゃねぇ。不便だと言われる側の気持ちも考えろ。」

「ベルは不便と言われると嫌ですか。」


 小雪が問う。


 真っ直ぐに。


 ベルは言葉に詰まった。


 小雪は本当に、ただ確認しているだけだった。


 だから、余計に答えづらい。


「……俺自身が不便なんじゃねぇ。」


 ベルは低く言った。


「俺が不便に扱われる世界が、不便なんだよ。」


 小雪は少し黙った。


 それから、ベルからペンを奪うと、紙に書いた。


 魔法が使えない者が不便なのではなく、魔法が使えない者を不便に扱う世界が不便。


 ベルはそれを見た。


「……書くな。」

「重要です。」

「そういうのは恥ずかしいんだよ。」

「恥ずかしい。」

「それも書くな。」

「敬語。」

「書かないでください。」

「もう書きました。」

「消せ。」

「重要なので。」

「……おまえな。」

「ベル。」

「何だ。」

「敬語。」

「……何でしょうか。」

「これは科学文明に必要な視点です。」


 ベルは黙った。


 小雪は続ける。


「魔法が使えない者が不便なのではありません。仕組みが一部の魔法に依存しているから、不便が起きます。」

「……。」

「誰でも扱える仕組みがあれば、変わります。」


 小雪は、眠そうな顔で、当たり前のように言った。


 ベルは視線を逸らした。


「そう簡単に変わるかよ。」

「簡単ではありません。」

「だろ。」

「でも、変えます。」


 ベルは小雪を見た。


 小雪は淡々としている。


 焦げた家。

 曲がったペン先。

 まだ煮えていない朝食。

 生活予定表。

 寝癖。

 少し長い袖。


 小雪は魔法中心の世界を変える話をしている。


 この世界で、おそらく最も強大な魔法を操れる勇者が。


 馬鹿げている。

 どうかしている。


 しかし、本人は真面目にそれを成そうとしている。


「……おまえは、そもそも何でそんなことを考えてるんだ。」


 ベルは思わず聞いた。


 聞いてから、少し後悔した。


 小雪は黙った。


 暫くして、小さく呟く。


「……魔法に頼る世界は、危ういので。」

「それだけか。」

「はい。」

「本当に?」

「はい。」


 小雪は目を伏せた。


「それだけです。」


 ベルは、それ以上聞かなかった。


 今の小雪の声は、普段と同じようで、少しだけ違った。


 踏み込む場所を、間違えた気がした。




 ベルが魔法を使えないと分かったのは、五歳の頃だった。


 貴族の子どもは、早ければ四歳、遅くとも六歳までには魔力の兆しを見せる。


 小さな光。

 揺れる水。

 指先の火花。

 風で浮く羽根。


 最初は皆、遊びのように魔法を使う。


 ベルも使えるはずだった。


 グランツ公爵家は、代々強い魔導士を輩出してきた家である。


 父も使えた。

 母も使えた。

 兄は、幼い頃から見事な魔法を使った。


 だから、ベルも当然使えると思われていた。


 だが、何も起きなかった。


 魔導教師は言った。


 まだ幼いのです。

 成長すれば自然に開きます。


 神殿の神官は言った。


 回路が眠っているのでしょう。

 祈りと訓練で目覚めます。


 母は言った。


 焦らなくていいのよ。


 父は言った。


 グランツの血が流れているのだ。

 いずれ使える。


 兄は言った。


 大丈夫だ、ヴェル。

 僕も手伝うから。


 ベルは信じた。


 訓練した。

 祈った。

 魔導具を使った。

 薬も飲んだ。

 痛い検査も受けた。


 だが、何も起きなかった。


 十歳になる頃には、周囲の声は変わっていた。


 まだなのか。

 公爵家なのに。

 兄上はあんなに優秀なのに。

 落ちこぼれだな。

 無能だ。

 何か欠けているのでは。

 お気の毒に。

 あの子の前では魔法の話を控えてあげて。


 慰めは、刃物より嫌な時がある。

 哀れみは、笑い声より深く刺さることがある。


 ベルはそれを知った。


 そして、ある日、決めた。


 哀れまれるくらいなら、嫌われた方がましだ。

 可哀想だと思われるくらいなら、性格が悪いと思われた方がましだ。


 傷つく前に、相手を見下す。

 笑われる前に、笑う。

 哀れまれる前に、偉そうにする。


 そうすれば、少なくとも惨めではない。


 たぶん。


 あまり、惨めではない。


「ベル。」


 小雪の声で、ベルは現実に戻った。


 鍋が煮えている。


 危ない。


 危うく焦がすところだった。


「煮えました。」

「分かってる。」

「敬語。」

「分かっております。」

「焦げます。」

「焦がさねぇ。」

「敬語。」

「焦がしません。」


 ベルは慌てて鍋を火から下ろした。


 小雪は椅子に座ったまま、彼を見ている。


「何だ。」

「敬語。」

「何でしょうか。」

「なんとなく。この世界で、ベルが三下になった理由が少し分かりました。」


 ベルは鍋を落としかけた。


「何を勝手に分かってんだ。ってか三下って何なんだ。」

「防具ですね。」

「防具?」

「はい。」


 小雪は紙に何かを書いた。


 三下態度。

 用途:防具。

 効果:哀れみ回避。威嚇。

 欠点:燃えやすい。チワワ化。


「待て。燃えやすい、チワワ化って何だ。」

「すぐ怒るので。あと吠える。」

「怒らせてるのはおまえだ。」

「敬語。」

「怒らせているのはあなたです。」

「丁寧な責任転嫁。」

「うるさいです。」

「防具は有効でしたか。」


 ベルは言葉に詰まった。


 有効だったか。


 分からない。


 少なくとも、哀れまれる回数は減った。

 代わりに、嫌われる回数は増えた。


 取り巻きのような友人はできた。

 だが、本当の意味で気を許せる相手はほとんどいなかった。


 それでも、何もしないよりはましだった。


「……それなりにな。」

「そうですか。」

「でも、防具って言うな。」

「では、鎧。」

「同じだ。」

「外せますか。」


 ベルは小雪を見た。


 小雪は、何気なく聞いただけのようだった。


 だが、その言葉は妙に深く刺さった。


 外せますか。


 そんなことを聞かれたことは、たぶんなかった。


 皆、ベルの態度を責めた。


 性格が悪いと言った。

 ひねくれていると言った。

 公爵家の品位を落とすと言った。


 けれど、それが鎧なら外せるのか、と聞いた者はいなかった。


 ベルは視線を逸らした。


「外したら、刺さるだろ。」

「何がですか。」

「いろいろだ。」

「では、今は外さなくていいということですね。」


 小雪は淡々と言った。


「必要な防具なら、つけていていいと思います。」


 ベルは何も言えなかった。


 小雪は続ける。


「ただ、作業の邪魔な時は外してください。」

「……作業。」

「はい。銅線が歪みます。」

「感動しかけた俺が馬鹿だった。」

「感動。」

「何でもねぇ。」

「敬語。」

「何でもありません。」


 小雪は頷いた。


 そして、スープの椀を見た。


「ごはん。」

「はいはい。」

「敬語。」

「はいはい、どうぞ。」

「敬語ではありません。」

「いいから食え。」

「敬語。」

「食べてください。」


 ベルは椀を小雪の前に置いた。


 小雪は両手で椀を持つ。


 ふう、と息を吹きかける。


 少し冷ましてから、一口飲んだ。


 ベルはそれを見ていた。


 白く長い髪。

 長い袖。

 椀を持つ小さな手。

 眠そうな銀の目。

 世界を変えると言った口。


 何だ、この生き物は。


 魔物を一瞬で灰にする。

 王を怯えさせる。

 床で寝る。

 豆を噛む。

 科学文明を興す。


 そして、三下の防具を「必要ならつけていていい」と言う。


 ベルは本気で分からなくなった。


 自分は一体、何に惹かれたのか。


 顔か。

 強さか。

 声か。

 小ささか。

 危うさか。


 それとも、自分を哀れまず、怒りもせず、ただ有用だと見たその目か。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「おいしいです。」


 ベルは撃ち抜かれた。


 答えは分からない。


 だが、とりあえず。


 この勇者さまに、硬い豆を噛ませてはいけない。


 それだけは、はっきりしていた。




 朝食の後、小雪は再び電磁石を手に取った。


 ベルはすかさず止めた。


「待て。」

「はい。」

「生活予定表。」

「朝食後は実験です。」

「その前に顔を洗う。髪を梳く。危険物を確認する。」

「項目が多いです。」

「文明は大変なんだろ。」

「そうでした。」


 小雪は少しだけ不満そうに立ち上がる。


 桶を持って外へ向かう。


 その後ろ姿を見ながら、ベルは紙の端に小さく書いた。


 魔法が使えない者でも、使える仕組み。


 それから、少し考えて、もう一行足す。


 小雪は、俺を哀れまなかった。


 書いてから、ベルは慌ててその一行を塗り潰した。


 何を書いている。


 馬鹿か。


 ベルは紙を裏返した。


 その時、外から小雪の声がした。


「ベル。」

「何だ。」

「敬語。」

「何でしょうか。」

「櫛はどこですか。」

「昨日渡しただろ。」

「はい。」

「なら使え。」

「櫛が折れました。」

「髪を梳いただけで!?」

「力加減を誤りました。」


 ベルは天井を仰いだ。


 朝はまだ始まったばかりだった。


 魔法が使えない公爵家次男は、世界を変える前に、まず勇者さまに櫛の使い方を教える必要があった。

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