第五話 三下くん、勇者さまの一日を観察する
ヴェルヴァルド・グランツは、几帳面な男だった。
本人は認めない。
認めないが、持ち込んだ荷物は種類ごとに分けられていた。
衣類は衣類。
工具は工具。
書類は書類。
調理器具は調理器具。
予備の布は予備の布。
絶対に小雪に触らせてはいけない、危険ではないが大切な物は、鍵付きの箱。
ベルは山奥の家の一室を片付けながら、深く息を吐いた。
正確には、一室ではない。
物置だった。
もっと正確に言うなら、元物置であり、現・焦げた何かの保管場所だった。
「……何なんだ、この部屋は。」
壁は焦げている。
床も焦げている。
天井も焦げている。
部屋の隅には、折れた棒、割れた瓶、謎の粉、乾いた草、魔物の角、使い道の分からない金属片が置かれていた。
いや、置かれていたというより、放置されていた。
ベルは眉間に皺を寄せた。
「人を住まわせる部屋じゃねぇだろ。」
だが、ここに住むしかない。
小雪と同じ部屋で寝るという選択肢は、最初からなかった。
同じ屋根の下。
夜。
二人きり。
勇者さま。
小雪。
白く長い髪。
銀色に近い大きな瞳。
雪のように舞う灰の中で名乗った、あの静かな声。
ベルはそこで一度、作業の手を止めた。
そして、自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
「……馬鹿か、俺は。」
小さく呟き、乱暴に焦げた木片を拾う。
そういう話ではない。
小雪は勇者である。
女である。
年上である。
そして、何より、あまりにも無防備である。
だからこそ、そこはきちんとしなければならない。
ベルは三下ではあるが、獣ではない。
三下ではあるが。
三下ではない。
「ってか、そもそも三下って何なんだよ。」
誰に言うでもなく否定して、ベルは部屋を片付け始めた。
床を掃く。
割れた瓶を集める。
危険そうな粉を紙に包む。
焦げた板を外へ出す。
窓を開けて空気を入れる。
持ち込んだ布を広げる。
寝具を敷く。
剣は右手で取れる位置。
工具箱は足元。
書類は窓から離れた棚。
水差しは入口近く。
明日使う銅線と鉄芯は、作業台に近い箱へ。
よし。
最低限、人が寝る場所になった。
ベルは腰に手を当てて、自分の寝床を眺めた。
焦げ臭いが、仕方ない。
床は硬いが、布はある。
天井に穴はない。
たぶん爆発もしない。
たぶん。
そこまで考えたところで、ベルは眉を寄せた。
「……そういえば、あいつはどこで寝るんだ。」
小雪の寝室を、ベルは見ていない。
いや、そもそも、この家に寝室らしき部屋があっただろうか。
嫌な予感がした。
ベルは自室予定の物置を出て、作業部屋へ向かった。
そして、扉の前で固まった。
小雪は作業台の下にいた。
正確には、作業台の下の床に、丸まっていた。
煤だらけの床の上。
片方だけ焦げた布を腹のあたりに掛け、白く長い髪を少し乱したまま、目を閉じようとしている。
近くには銅線。
その向こうには鉄芯。
さらにその奥には、ベルが「絶対に火を近づけない」と札を付けた赤い粉。
ベルは、しばし無言だった。
同じ屋根の下。
夜。
勇者さま。
小雪。
二人きり。
床。
煤。
危険物。
赤い粉。
ベルは自分の胸のときめきを、心の中で丁寧に踏み潰した。
「待て。」
小雪がわずかに目を開ける。
「はい。」
「そこは何だ。」
「床です。」
「分かってる。」
「では、なぜ聞いたのですか。」
「床で寝るなと言ってんだ!」
「布があります。」
「それは布じゃねぇ。元・布だ。」
小雪は腹に掛けているものを見た。
焦げて、端が縮れて、穴が空いている。
「元……。」
「布だったものだ。」
「では、元布。」
「名前を付けるな。」
「便利な概念です。」
「便利じゃねぇ。」
「敬語。」
「便利ではありません。」
ベルは深く息を吐いた。
落ち着け。
怒鳴っても仕方がない。
この勇者さまは、おそらく本気で分かっていない。
ベルは作業台の上を見た。
「寝る前に、せめて危険物を片付けろ。」
「危険物。」
「そこに赤い粉があるだろ。」
「あれは、たぶん火を近づけなければ平気です。」
「たぶんで枕元に置くな。」
「枕はありません。」
「そこじゃねぇ!」
「敬語。」
「そこではありません!」
小雪は、しばし考えた。
「ベルは細かいですね。」
「おまえが粗すぎるんだよ。」
「敬語。」
「粗すぎます。」
「そうですか。」
小雪は少しだけ身を起こした。
眠そうだった。
目元が重そうで、白い髪の一房が頬にかかっている。
ベルは一瞬、言葉に詰まった。
小さい。
いや、小さくはない。
二十三歳だ。
本人もそう言っていた。
だが、煤だらけの床で丸まっている姿は、どう見ても拾われる前の小動物だった。
可愛い。
いや、違う。
危ない。
非常に危ない。
ベルは咳払いをした。
「おまえの寝床はどこだ。」
「ここです。」
「違う。」
「では、どこですか。」
「今から作る。」
「ベルが?」
「俺が。」
「有能ですね。」
ベルは黙った。
今のは効いた。
かなり効いた。
だが、ここで照れている場合ではない。
「……とにかく立て。」
「眠いです。」
「眠いなら、まともな場所で寝ろ。」
「床もまともです。」
「まともじゃねぇ。」
「平らです。」
「寝床の基準が低い。」
「敬語。」
「基準が低いです。」
小雪は少し不満そうにしながら立ち上がった。
歩き方も少しふらついている。
「おい。最後に寝たのはいつだ。」
「昨日です。」
「何時間。」
小雪は、しばし考えた。
「四十五分くらい。」
「それは寝たとは言わねぇ。」
「目は閉じました。」
「仮死か?」
「私は死にません。補填されます。」
「そういう話じゃねぇ。」
「敬語。」
「そういう話ではありません。」
ベルは頭を抱えた。
この勇者さまは、強い。
強いどころではない。
王城を突き破った鳥型の魔物を、片手で止めて、一言で灰にした。
だが、四十五分睡眠を睡眠に数える。
床を寝床に数える。
焦げた布を布に数える。
危険物の横で寝ようとする。
強さと生活能力が、まったく噛み合っていない。
「……俺は、とんでもないものを引き受けたんじゃねぇのか。」
「何か言いましたか。」
「何も言ってない。」
「敬語。」
「何も言っておりません。」
「そうですか。」
小雪は頷いた。
ベルは自分の部屋から予備の布を持ってきた。
それを作業部屋の隣にある、比較的焦げの少ない小部屋へ運ぶ。
そこには古い棚と、壊れかけの椅子と、用途不明の箱があった。
「ここをおまえの寝室にする。」
「作業台が遠いです。」
「寝る部屋に作業台を求めるな。」
「不便です。」
「不便でいい。寝る時は寝ろ。」
「科学が遠のきます。」
「近すぎると、おまえが遠のくんだよ。」
「どこへ。」
「人間からだ。」
小雪は首を傾げた。
本当に分かっていなさそうだった。
ベルは棚をどかし、床を掃き、持ってきた布を重ねた。
本当なら寝台が欲しい。
最低でも厚い敷物がいる。
枕も必要だ。
掛け布も必要だ。
明日、村か町で買う。
絶対に買う。
今はこれで我慢するしかない。
「今日はここで寝ろ。」
小雪は布の上に座った。
手で押す。
「柔らかいです。」
ベルは少しだけ得意になった。
「そうだろ。」
「床より柔らかい。」
「比較対象を床にするな。」
「敬語。」
「床と比較しないでください。」
「はい。」
小雪は素直に頷いた。
それから、布の端を持ち上げ、くるまるようにして横になった。
白い髪が布の上に散る。
目を閉じる。
小さく息を吐く。
「ありがとうございます。」
ベルは固まった。
胸の奥で何かが鳴った。
まずい。
これはまずい。
床で寝ようとしていた相手に布を敷いただけで、礼を言われただけで、心臓が大騒ぎしている。
ベルは一歩下がった。
「……寝ろ。」
「敬語。」
「寝てください。」
「はい。」
小雪はそのまま目を閉じた。
数秒後には、呼吸がゆっくりになっていた。
早い。
あまりにも早い。
ベルは扉の前に立ったまま、小雪を見ていた。
小動物みたいに丸まっている。
世界を救った勇者さまが。
王を震え上がらせる最強の魔法使いが。
科学だなんだとよく分からないことを言いながら家を爆発させる女が。
布にくるまって寝ている。
ベルは静かに扉を閉めた。
同じ屋根の下で暮らすことになった。
決して甘い同棲ではない。
これは、生活能力のない最強勇者を、人間に戻す戦いだ。
ベルはそう結論づけた。
その結論が妙にしっくり来たことが、少し悔しかった。
翌朝。
ベルは早く起きた。
公爵家にいた頃から、朝は早い方だった。
留学先でも、朝の時間は大事にしていた。
誰にも邪魔されず、道具を整え、書類を確認し、その日の予定を頭に入れる。
山奥の家でも、同じように起きた。
そして、作業部屋から聞こえる音に気づいた。
かり、かり、かり。
何かを削る音。
ベルは嫌な予感がした。
扉を開ける。
小雪が作業台の前に座っていた。
昨夜寝かせたはずの小雪が、もう作業している。
白い髪は跳ねている。
袖は片方だけ煤で黒い。
目元は眠そうだ。
だが、手元には鉄芯と銅線がある。
「おい。」
「おはようございます。」
「いつ起きた。」
「少し前です。」
「少し前とは。」
「夜明け前。」
「寝てねぇだろ。」
「寝ました。」
「何時間。」
小雪は、しばし考えた。
「二時間くらい?」
「足りねぇ。」
「昨日より長いです。」
「比較対象が死んでる。」
「私は死にません。」
「そういう話ではありません。」
「今日は敬語が上手ですね。」
「おまえのおかげで上達してんだよ。」
「敬語。」
「上達しております。」
「よいことです。」
「よくねぇ。」
「敬語。」
「よくありません。」
ベルは作業台の向かいに座った。
これはまずい。
非常にまずい。
小雪の生活実態を把握しなければならない。
浮かれている場合ではない。
いや、浮かれてはいない。
決して浮かれてなどいない。
ただ、昨夜の「ありがとうございます」は、思い出すとまだ少し胸に来る。
違う。
今は調査だ。
ベルは紙を取り出した。
ペンも取り出す。
「小雪。」
「はい。」
「今日から、おまえの生活を確認する。」
「生活。」
「そうだ。」
「なぜですか。」
「放っておいたら床で寝るからだ。」
「床は平らです。」
「その発想を矯正するためだ。」
「矯正。」
「まず、起床時間。」
「起きた時です。」
「具体性がない。」
「目が開いた時。」
「同じだ。」
「では、必要になった時。」
「何が。」
「作業。」
「睡眠より作業が優先か。」
「はい。」
ベルは紙に書いた。
起床時間、不定。
理由、作業。
「次。就寝時間。」
「眠くなった時です。」
「眠くならなかったら。」
「寝ません。」
「駄目だ。」
「なぜですか。」
「人間は寝る。」
「私は補填されます。」
ベルのペンが止まった。
補填。
昨日も聞いた気がする。
治るでも、回復するでもなく、補填。
妙な言葉だった。
だが、今はそれどころではない。
「補填されても寝ろ。」
「非効率です。」
「非効率でも寝ろ。」
「敬語。」
「寝てください。」
「善処します。」
「善処は信用ならねぇ。」
「善処します。」
「……もう駄目だな。」
ベルは紙に書いた。
就寝時間、不定。
寝ないことがある。
理由、非効率。
次。
「食事。」
「はい。」
「昨日の朝は何を食った。」
「豆。」
「どう調理して。」
「噛みました。」
ベルは目を閉じた。
「それは調理じゃねぇ。」
「硬かったです。」
「当たり前だ!」
「敬語。」
「当たり前です!」
「怒っていますか。」
「怒ってる。」
「敬語。」
「怒っております。」
「なぜですか。」
「豆をそのまま食うからだ。」
「食べられました。」
「食べられればいいというものじゃない。」
「そうですか。」
小雪は不思議そうに頷いた。
ベルは紙に書いた。
食事、不定。
豆を噛む。
調理概念なし。
「次。昼飯。」
「忘れることがあります。」
「忘れるな。」
「お腹が鳴ると思い出します。」
「お腹に管理させるな。」
「優秀です。」
「腹を褒めるな。」
「敬語。」
「腹を褒めないでください。」
「難しいですね。」
「難しくねぇ。」
ベルはさらに書いた。
昼食、腹任せ。
「夕飯。」
「たまに食べます。」
「毎日食え。」
「面倒です。」
「面倒でも食え。」
「敬語。」
「食べてください。」
「ベルが作るなら食べます。」
ベルは止まった。
小雪は淡々としている。
まったく他意はなさそうだった。
ベルが作るなら食べる。
それだけの言葉が、なぜか心臓を直撃した。
ベルは咳払いした。
「……作る。」
「敬語。」
「作ります。」
「ありがとうございます。」
ベルは紙を見るふりをして、顔を隠した。
これは危険だ。
非常に危険だ。
昨夜から小雪は、たまに素直に礼を言う。
そのたびにベルの中の何かが大きく揺れる。
小雪は小動物ではない。
最強勇者である。
だが、小動物みたいに布にくるまり、豆を噛み、ベルが作るなら食べると言う。
情報が多い。
感情が追いつかない。
「次。入浴。」
「川。」
「川?」
「たまに川で洗います。」
「たまに?」
「爆発した時など。」
「爆発基準で風呂に入るな。」
「煤が落ちます。」
「日常的に落とせ。」
「敬語。」
「日常的に落としてください。」
「冬は寒いです。」
「湯を沸かせ。」
「面倒です。」
「俺が沸かす。」
「ありがとうございます。」
ベルはまた黙った。
紙に書く。
入浴、不定。
爆発基準。
湯を沸かす必要あり。
「洗濯。」
「復元します。」
「洗え。」
「すぐに復元すれば焦げは消えます。」
「汚れも消えるのか。」
「だいたい。」
「だいたいで着るな。」
「服は服です。」
「人前に出るんだぞ。」
「山です。」
「俺がいる。」
「ベルは人前に含まれますか。」
「含まれるわ!」
「敬語。」
「含まれます!」
「そうですか。」
小雪は少しだけ自分の袖を見た。
焦げている。
ベルも見た。
「今すぐ着替えろ。」
「なぜですか。」
「焦げている。」
「いつものことです。」
「いつもを変えろ。」
「敬語。」
「変えてください。」
小雪は、しばし考えた。
「あとで。」
「今だ。」
「科学が。」
「服だ。」
「文明が。」
「袖だ。」
「魔法に頼らない世界が。」
「まず焦げた袖を何とかしろ!」
「敬語。」
「何とかしてください!」
小雪は少し不満そうに立ち上がった。
隣の部屋へ行く。
しばらくして戻ってきた。
焦げていない服になっていた。
少し大きめの上着で、袖が手の甲にかかっている。
白い髪は相変わらず跳ねている。
ベルは黙った。
袖が長い。
少し、眠そう。
手が半分隠れている。
これは。
いや。
可愛い。
違う。
違わないが、違う。
ベルは強く目を閉じた。
「どうしました。」
「何でもない。」
「敬語。」
「何でもありません。」
「そうですか。」
小雪は席に戻った。
ベルは紙に書いた。
服、要管理。
袖、危険。
いや、袖は危険ではない。
ベルはその一文をぐしゃぐしゃと塗り潰した。
調査は続いた。
危険物管理。
「分かるものだけ危険です。」
「分からないものは。」
「不明です。」
「不明は危険に入れろ。」
休憩。
「倒れたら休憩です。」
「倒れる前に休め。」
金銭管理。
「たぶんあります。」
「たぶんで財産を語るな。」
外出頻度。
「材料が尽きた時。」
「食材が尽きた時は。」
「水があります。」
「水は食材じゃねぇ。」
家の修理。
「壊れたら復元します。」
「壊すな。」
怪我。
「補填されます。」
「怪我を前提にするな。」
ベルの紙は、どんどん埋まっていった。
そして、最後に彼は大きく書いた。
生活能力、壊滅。
小雪はそれを覗き込んだ。
「壊滅。」
「壊滅だ。」
「直りますか。」
「俺が直す。」
「有能ですね。」
「そういうことを急に言うな。」
「なぜですか。」
「心臓に悪い。」
「病気ですか。」
「違う。」
「敬語。」
「違います。」
ベルは紙を裏返した。
これ以上見ていると、頭が痛くなる。
いや、頭だけではない。
胸もおかしい。
小雪は危うい。
あまりにも危うい。
だが、馬鹿ではない。
むしろ、調査の途中で見せる理解は早かった。
ベルが道具の位置を変える理由を説明すれば、すぐに覚えた。
危険物の分類も、一度基準を示せば自分で修正し始めた。
火に近づけるべきでないもの。
湿気を避けるべきもの。
混ぜるとまずいもの。
分かれば早い。
分からないことを、生活では考えていないだけだ。
ベルは、作業台に置かれた鉄芯を指さした。
「そもそも。」
「はい。」
「おまえは、これを作って何がしたいんだ。」
「電磁石です。」
「それは聞いた。」
「鉄を引き寄せます。」
「それも聞いた。その先だ。」
小雪は少し黙った。
ベルはその横顔を見た。
眠そうで、髪は少し跳ねていて、袖は長い。
だが、その目だけは妙に静かだった。
「魔法でできることを、少しずつ魔法なしでできるようにします。」
小雪は淡々と言った。
「魔法が使えなくても、使わなくてもいい世界にします。」
ベルの喉が、小さく鳴った。
魔法が使えない。
公爵家の次男として生まれながら、ベルは魔法が使えなかった。
笑われた。
馬鹿にされた。
哀れまれた。
期待されなかった。
努力しても、魔法は使えない。
だから、ベルは別のものを覚えた。
道具。
計算。
構造。
料理。
修理。
身を守るための言葉。
馬鹿にされる前に馬鹿にする態度。
魔法が使えないなら、偉そうにしていなければ潰される。
誰よりも偉そうに振る舞っていれば、少なくとも哀れまれずに済む。
小雪は、そんなことは知らないはずだった。
知らないはずなのに。
「だから、この世界に科学文明を興します。」
ベルは息を止めた。
山奥の焦げた家。
煤だらけの作業台。
硬い豆を噛んでいた女。
床で寝ようとしていた勇者。
その小雪が、眠そうな顔で、平然と世界の話をしている。
「科学文明。」
「はい。」
「おまえが。」
「はい。」
「この家もまともに片付いてねぇのに。」
「はい。」
「飯も忘れるのに。」
「はい。」
「床で寝るのに。」
「はい。」
「世界を変える気か。」
「はい。」
ベルは額を押さえた。
無茶苦茶だ。
順番が逆だ。
規模がおかしい。
だが、笑えなかった。
小雪は本気だった。
「まずは電磁石です。」
「その前に電気だろ。」
「はい。」
「電気はどうする。」
小雪は、しばし考えた。
「これから考えます。」
「順番!」
「順番。」
「電気がないのに電磁石を作ろうとするな!」
「鉄に銅線を巻くところまではできます。」
「それは昨日俺がやった!」
「有能ですね。」
「褒めてごまかすな!」
「敬語。」
「ごまかさないでください!」
「ごまかしていません。事実です。」
ベルは黙った。
また効いた。
この勇者さまは、褒め方が雑なのに、なぜか刺さる。
非常に危険だった。
その日の昼前、ベルは小雪の生活予定表を作った。
紙の一番上に、大きく書く。
勇者さま生活予定。
小雪はそれを見ていた。
「勇者さま。」
「おまえのことだ。」
「小雪でいいです。」
ベルの手が止まった。
「……そうか。」
「はい。」
「じゃあ、小雪生活予定。」
「少し変です。」
「おまえの生活より変じゃねぇ。」
「敬語。」
「変ではありません。」
ベルは書いた。
朝。
起きる。
顔を洗う。
着替える。
朝食を食べる。
危険物を確認する。
実験はその後。
昼。
昼食を食べる。
水を飲む。
休憩を取る。
火を使う実験はベルがいる時のみ。
夕方。
片付ける。
記録を書く。
夕食を食べる。
入浴。
服を洗う。
夜。
寝る。
深夜の爆破は禁止。
床で寝るのは禁止。
豆をそのまま食べるのは禁止。
赤い粉の横で寝るのは禁止。
自分を実験器具に数えるのは禁止。
小雪は最後の行を見た。
「自分を実験器具に数える。」
「禁止だ。」
「まだ数えていません。」
「数えそうだから書いた。」
「ベルは予測が上手ですね。」
「褒めるな。いや、褒めていい。違う。今は違う。」
「忙しいですね。」
「おまえのせいだ。」
「敬語。」
「あなたのせいです。」
「丁寧な責任転嫁。」
「うるせぇ。」
「敬語。」
「うるさいです。」
「はい。」
小雪は予定表を見た。
しばし考える。
「無理では。」
「やるんだよ。」
「項目が多いです。」
「普通の生活だ。」
「普通は大変ですね。」
「おまえの普通が崩壊してるんだ。」
「科学文明には、生活も必要ですか。」
「必要だ。」
「なぜですか。」
「文明は人間が作るからだ。」
ベルは少しだけ声を低くした。
「人間が壊れてたら、文明どころじゃねぇだろ。」
小雪は黙った。
何かを考えているようだった。
いつものように、しばし考える。
だが、その沈黙は少しだけ長かった。
「……壊れる。」
小雪が小さく呟いた。
ベルは顔を上げた。
「小雪?」
「いえ。」
小雪は予定表へ視線を戻した。
「では、生活はベルに任せます。」
「丸投げするな。」
「敬語。」
「丸投げしないでください。」
「私は科学をします。」
「おまえも生活するんだよ。」
「善処します。」
「善処は信用ならねぇ。」
「では、監視してください。」
ベルは止まった。
小雪は真顔だった。
「私が生活を忘れていたら、ベルが監視してください。」
「……そういう言い方をするな。」
「駄目ですか。」
「駄目じゃねぇけど。」
「敬語。」
「駄目では、ありませんけど。」
「では、お願いします。」
小雪は軽く頭を下げた。
ベルは何も言えなくなった。
監視。
見ていろということ。
小雪が自分で、自分を見ていられないから。
ベルが見る。
小雪はそう言った。
ベルは胸の奥が妙な熱を持つのを感じた。
ときめきだけではない。
世話焼きだけでもない。
自分を初めて必要とした相手への、妙な誇らしさと責任。
そして、魔法が使えない自分でも、この勇者さまの隣で役に立てるかもしれないという、馬鹿みたいな期待。
ベルは顔を逸らした。
「……仕方ねぇな。」
「敬語。」
「仕方ありませんね。」
「ありがとうございます。」
「だから、急に礼を言うな。」
「なぜですか。」
「心臓に悪い。」
「まだ病気ですか。」
「違います。」
「長いですね。」
「病気じゃねぇからだ。」
「敬語。」
「病気ではありませんからです。」
「変。」
「知ってる。」
「敬語。」
「存じております。」
「とても変。」
「うるさいです。」
小雪は少しだけ口元を緩めた。
本当に少しだけだった。
だが、ベルは見た。
見てしまった。
笑った。
いや、笑ったと言えるほどではない。
口元がほんのわずかに動いただけだ。
それでも、ベルには十分だった。
胸に落雷。
先日から何度目か分からない落雷。
ベルは両手で顔を覆った。
「どうしました。」
「……何でもありません。」
「顔が赤いです。」
「暑いだけです。」
「窓は開いています。」
「それでも暑いのです。」
「そうですか。」
小雪は頷いた。
そして、生活予定表を手に取った。
「では、実験を。」
「予定表のどこを読んだ。」
「朝食の後に実験とあります。」
「朝食を食ってねぇだろ。」
「豆なら。」
「噛むな。」
「では、ごはん。」
「待ってろ。作る。」
「はい。」
小雪は椅子に座った。
足が少し浮いている。
袖から指先だけが出ている。
眠そうな目で、生活予定表を眺めている。
ベルは台所へ向かいながら、深く息を吐いた。
可愛い。
危ない。
強い。
放っておけない。
そして、たぶん、とても面倒くさい。
「……本当に、俺は何に惹かれたんだ。」
「何か言いましたか。」
「何も言っておりません。」
「そうですか。」
小雪は生活予定表を見たまま言った。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「朝食の後、電磁石です。」
「その前に、電気の作り方を考える。」
「はい。」
「その前に、顔を洗う。」
「必要ですか。」
「必要だ。」
「科学文明には。」
「科学文明にも必要だ。」
「そうですか。」
小雪は素直に立ち上がった。
桶を持って、外へ向かう。
ベルはそれを見て、少しだけ安堵した。
よし。
まず一歩。
人間生活への一歩。
そう思った直後、小雪は振り返った。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「顔を洗った後、髪も復元でいいですか。」
「櫛を使え!」
「敬語。」
「櫛を使ってください!」
山奥の朝に、ベルの声が響いた。
麓の畑で鍬を振るっていた老人が、ふと山を見上げる。
「今日は爆発せんのぉ。」
隣の老婆も山を見た。
「代わりに、若い男の声がするのぉ。」
「勇者さま、何を始めたんじゃろうか。」
「さあのぉ。」
老夫婦は顔を見合わせた。
それから、あはははは、と笑った。
山の上では、今日も世界を変える準備が始まっていた。
まずは、勇者さまの顔を洗うところから。




