第五十二話 勇者システム
しばらく、誰も口を開かなかった。
裂け目の周囲を漂っていた白い光は、もうほとんど消えている。
それでもベルは、小雪の左手を離せずにいた。
世界を滅ぼすつもりだったこと。
五百人分を一人で補ったこと。
百日以上、自分を削り続けたこと。
今も、この世界をどうするか決めていないこと。
どれも理解できてはいない。
ただ、ベルには分かっていた。
まだ聞いていないことがある。
むしろ、一番最初に聞かなければならなかったことを、あまりの出来事に忘れていた。
「おまえ。」
声は、まだ掠れていた。
「さっき、何した。」
小雪はベルを見た。
「裂け目へ供給しました。」
「何を。」
「魔素です。」
ベルは、自分が掴んでいる左手を見た。
「魔素?」
そして、もう一度小雪を見る。
「おまえの腕だろ。」
小雪は少しだけ黙った。
「……私たち勇者候補の身体は、超高濃度の魔素で構成されています。」
ベルの眉が寄った。
「何て、言った。」
「正確には、召喚時にそのような身体へ作り替えられます。」
「作り、替えられる?」
「はい。」
小雪は、いつもの記録を読み上げる時のような声で説明を始めた。
「詳しい理屈は、私にも分かりません。ですが、元の世界の身体のままでは、こちらの世界へ適応できない。そのために召喚の過程で身体と魂の構造が書き換えられ、この世界の魔素を扱える形へ再構成されます。」
ベルは小雪の顔を見た。
「誰が。」
「装置です。」
「装置?」
「召喚術式そのもの、と言った方が近いかもしれません。」
小雪は自分の左手へ視線を落とした。
「その過程で強力な魔回路が形成され、身体そのものも高濃度の魔素を含む形へ変えられます。」
「じゃあ、女神の祝福ってのは。」
「女神などいません。」
あまりにもあっさり言われ、ベルは言葉を失った。
「……は?」
「少なくとも、私が知る限りでは存在を確認できません。祝福と呼ばれているものは、召喚時の再構成によって生じる個体差です。」
「個体差。」
「はい。それぞれの性質、願い、恐怖、欠落。そのようなものに応じて、固有の機能が形成される。」
「固有スキルは、女神が勇者へ与える力だと。」
「そう説明されています。」
「違うのか。」
「はい。私たちは召喚された時に作り替えられ、その過程で生じた機能を、あなたたちが祝福と呼んでいるだけです。」
ベルは小雪の左手を見た。
「おまえの補填も。」
「はい。」
「身体を作り替えられた時にできた。」
「はい。」
「固有スキルって、魔力をほとんど使わないんじゃなかったのか。」
「通常の魔法のように、大気中の魔素はほとんど必要としません。」
「じゃあ、何を使ってる。」
小雪は一瞬だけ黙った。
「私たち自身です。」
ベルの顔が強張った。
「……私たち?」
「発動に必要な魔素を、再構成された身体から引き出します。そして偶然私は、欠けた部分を補う機能が形成された。」
小雪は、掴まれている左手を少しだけ動かした。
「切り離した身体は、高濃度の魔素として放出される。そして欠けた部分は、補填される。」
ベルの手に力が入った。
「だから。」
声が低くなる。
「切って、落として。」
「はい。」
「戻ったら、また切った。」
「はい。」
「それを百日以上。」
「はい。」
ベルは目を閉じた。
「五百人分。」
「はい。」
「……何で。」
喉が詰まった。
「何で勇者候補だけが、そんな特別な身体になる。」
小雪は静かに答えた。
「逆です。」
ベルが目を開ける。
「逆?」
「勇者だから特別な身体を与えられたのではありません。」
小雪の声は、どこまでも静かだった。
「異世界人を召喚すると、この世界へ適応する過程で高濃度の魔素体へ変わる。世界の燃料になる。それが分かったから、勇者として召喚するようになったのです。」
ベルは何も言えなかった。
勇者だから特別なのではない。
世界の燃料になるから。
勇者として呼んだ。
「……どういうことだ。」
ようやく声を絞り出した。
小雪は裂け目へ目を向けた。
「この世界では、魔法を使う時、大気中の魔素を集めて燃料として使用します。」
「ああ。」
「そして、魔法使用後の魔素は全て大気や大地へ戻るとされています。」
「そう習った。」
「違います。」
ベルは小雪を見る。
「何が。」
「正確に言えば、ほとんどは戻ります。ですが、決して全てではありません。」
風が裂け目の上を通り過ぎた。
「一度の魔法使用で失われる量は、ごくわずかです。人が気づくこともできないほどの量です。」
「でも、なくなる。」
「はい。」
ベルは黙った。
その瞬間、頭の中にいくつもの光景が浮かんだ。
水車の軸。
ふいご。
炉。
回転の音。
摩擦で生まれる熱。
魔法を使った時に散る光の粒。
以前、小雪と交わした奇妙な問答。
――世界は、抵抗で溢れています。
「まさか。」
ベルは裂け目を見た。
「魔素も、全部戻るわけじゃない。使うたびに、どこかへ逃げるのか。」
「はい。」
「熱になったり、光になったり、散ったり。」
「その全てが単純に消失するわけではありませんが、少なくとも再び魔法へ使える形で戻らないものがあります。」
「むしろ。」
ベルはゆっくり息を吐いた。
「魔素だけが特別で、何度使っても一切失われず、全部元通りに戻るって考える方がおかしかった。」
「そういうことです。」
ベルは唇を噛んだ。
まただ。
水車。
炉。
銅線。
山の家で、小雪と一つずつ確かめたものが、こんな場所へつながっていく。
「使い続ければ。」
「少しずつ減ります。」
「世界中で、何十年も、何百年も使えば。」
「世界が飢え始めます。」
ベルは裂け目を見た。
「飢えれば、魔物や魔族に影響が出る。」
「はい。」
「魔法も、十分に発動しなくなる。」
「はい。」
「大地も痩せる。」
「はい。」
ベルは、ようやくその先を見た。
「だから。」
声が低くなる。
「足りなくなった魔素を補うために、異世界から高濃度の魔素体を持ってくる。」
小雪は答えなかった。
「勇者候補として。」
ベルは小雪を見る。
「物語の登場人物として。」
「……この世界の燃料として。」
小雪の声は静かだった。
「それが、勇者システムの本懐です。」
ベルは何も言えなかった。
「意味、分かんねぇ。」
ようやく、それだけが出た。
「勇者は、この世界で死んでも元の世界へ帰るって。」
「そう説明されています。」
「違うのか。」
小雪はベルから目を逸らさなかった。
「事実を知っているのは、この国の上層部と、各国のごく一部の首脳陣だけです。」
少しだけ間を置く。
「実際には、勇者候補たちは死んでも元の世界へ帰りません。」
ベルの喉が鳴った。
「死んだ身体と魂は、この世界の魔素として放出されます。」
小雪は淡々と続けた。
「魔法の燃料として、この世界に還る。そのために召喚されます。」
ベルの頭に、晩秋の山の家が浮かんだ。
小雪が落ち葉を拾っていた。
木から落ちた葉は、その木を育てるだけではない。
腐り、土へ戻り、大地を潤す。
別のものを育てるための力になる。
あの時、小雪はそう言った。
ベルは、今になってその言葉の意味を知った。
「……じゃあ。」
声が震えた。
「勇者候補たちは、死ぬためにわざわざ連れてこられてるってことか。」
「そうです。」
「何で。」
ベルの声が大きくなる。
「何で、そんな酷いことができるんだよ!同じ人間だぞ!知性もあって、話も通じる!」
小雪は、しばらくベルを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「……この世界の人間は、魔族をどのように扱っていますか。」
ベルは言葉を失った。
「あなたも見たでしょう。」
小雪の声が冷えていく。
「彼らは、少し魔素や魔力の変化に敏感なだけです。知性があり、言葉も通じる。力も、人間と比べて特別なものはほとんどありません。」
ベルの脳裏に、集落で見たものが浮かんだ。
人間であるベルを恐れた子供。
赤ん坊を抱いて、逃げる準備をした母親。
家の中へ隠れた者たち。
「彼らは、人間と少し姿が違うというだけで、自分たちにとって最も生きにくい、この飢えた大地へ追いやられています。」
小雪は裂け目の方を見た。
「自分たちがほとんど使っていない魔素の減少による悪影響だけを負わされ、裂け目の観測と魔王役まで押しつけられている。」
少年魔王が肩をすくめた。
「まあ、住めば都だ。作物はなかなか育たんし、放牧も難しいが、身を寄せ合って何とかやってる。王国からの給金頼みのところはあるけどな。」
ベルは何も言えなかった。
「ほら。同じ世界の住人でさえ、差別と偏見で虐げる。」
小雪が再びベルを見る。
「そんな人間たちが、異世界の、それも身体の構造すら違う存在を憐れむと思いますか。」
その口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
冷たい笑みだった。
山の家でベルが見てきた、少しずつ戻ってきた小雪の笑顔とは違う。
底の見えない、審判者の顔だった。
「百年ほどに一度、異世界から燃料を連れてくるだけで、世界中の人間たちの便利な魔法と生活を保障できる。」
小雪は静かに言った。
「逆に、戸惑う理由があると思いますか。」
少年魔王が小さく息を吐いた。
「まあ、現に千年以上続いてるからな。手間に対して得るものが多すぎる。」
まるで世間話でもするような口調だった。
「道徳的な瑕疵を負うのは、各国の首脳陣と、この国の王家や神殿だけだ。世界中の大多数は何も知らず、利益だけ受け取ればいい。」
ベルは少年を睨んだ。
「だからって。」
「だから続いた。」
少年魔王は平坦に答えた。
その後、少し興味深げにベルを眺めた。
「なあ。もうここまで言っちまったんだし、教えてやれば?」
小雪が少年を見る。
「何をですか。」
「こいつ、高位貴族なのに魔法が使えないんだろ。」
ベルの表情が変わった。
小雪の細い身体から、わずかな逡巡が伝わってきた。
「何だよ。」
ベルは小雪を見る。
「まだあるのかよ。」
「勇者。」
少年魔王は呆れたように言った。
「こいつは口は悪いが、頭は悪くなさそうだ。放っておいても、そのうち自分で辿り着くぞ。」
「口は悪いは余計だ。」
「なら、辿り着くまで一人で考えさせる方が残酷じゃないか。」
ベルは小雪へ向き直った。
握っている細い手首に、少しだけ力を込める。
「小雪。」
「はい。」
「あいつは何のことを言ってる。」
小雪はしばらく答えなかった。
けれど、やがて静かに口を開いた。
「……大気中の魔素不足の影響を受けるのは、魔族や魔物だけではありません。」
「人間も、って言いたいのか。」
「はい。」
「でも、人間は魔素欠乏症で狂ったりしないだろ。」
「通常は。」
小雪は一度、視線を落とした。
「ですが、人間の魔回路も、身体の形成過程で作られます。」
ベルの表情が止まった。
小雪が魔物の身体について説明した時に感じた、小さな違和感。
母体の中で身体が作られる時期。
大気中の魔素が足りなければ、魔回路が正常に形成されない。
「……まさか。」
ベルの声が低くなる。
「俺が魔法を使えないのは、この世界の魔素不足が原因だって言いたいのか。」
「断定はできません。」
小雪はすぐに答えた。
「ですが、あなたの出生時期と、その頃の魔素減少の記録を照らし合わせれば、可能性は高いと思います。」
ベルの顔が歪んだ。
「他のやつらが魔法を使い続けた結果。」
声が震え始める。
「俺は、最初から魔法を使えない身体になったかもしれないってことか。」
「はい。」
「ふざけんな!」
ベルの声が裂け目の前で響いた。
「俺が何年苦しんだと思ってる!」
小雪は目を逸らさない。
「無能。役立たず。落ちこぼれ。公爵家の恥。」
ベルの呼吸が荒くなる。
「どれだけ努力しても、最初から使えなかったってことかよ。俺がおかしいんじゃなくて、世界の方が狂ってたからだって?」
「はい。」
「他のやつらが何も考えず魔法を使って、その結果を俺が背負った?」
「その可能性が高いです。」
「ふざけんな!」
ベルは空いている方の手で目を覆った。
手がわずかに震えている。
「俺が何年。」
声が低くなった。
「どれだけ、自分が足りないと思ってきたと。」
小雪は、静かにベルを見ていた。
「少なくとも。」
やがて言う。
「あなたが無能だったからではありません。」
ベルは顔を上げた。
「あなたを欠けさせたのは、あなた自身ではない。」
小雪の瞳が、暗く沈む。
「この世界です。」
「……。」
「私たち勇者候補が燃料として連れてこられたことも。あなたが魔法を使えず、ここまで苦しめられたことも。」
小雪は、ベルの目を見たまま続けた。
「原因を辿れば、同じ場所へ行き着きます。」
「同じ。」
「はい。」
小雪の口元に、再びあの冷たい笑みが浮かんだ。
「だから、あなたは私と同じです。」
ベルの呼吸が止まった。
「この世界に苦しめられた。虐げられた。」
「小雪。」
「あなたには、復讐する権利がある。」
ベルは何も言えなかった。
小雪の瞳が、まっすぐに彼を捉えている。
「あなたは私の手を取れる。」
静かな声だった。
けれど、山の家の小雪の声ではない。
「おそらく、この世界で唯一、その権利を持つ存在です。」
ベルの手の中に、小雪の細い手首がある。
「私の横に立ち、共にガベルを持てる、ただ一人の人。」
小雪は微笑んだ。
「この世界を裁きましょう。」
ベルの背中に、冷たいものが走った。
「強欲な人間たちへ、その因果の報いを与えるのです。」
「違う。」
ベルの声は、考えるより先に出ていた。
小雪の笑みが止まる。
「違う!」
ベルは小雪の手首を掴んだまま、強く首を振った。
「そんなことのために、一年おまえと一緒にいたんじゃない!」
小雪は何も言わない。
「魔素を使わなくてもいい。魔法だけに頼らなくてもいい。勇者召喚を必要としない。」
ベルは荒い息のまま続けた。
「そういう世界へ進むために、おまえは科学文明を興そうとしたんだろ!」
この一年、ずっと傍で見ていた。
小雪は本気だった。
水車が回れば喜んだ。
火が強くなれば記録した。
銅線が切れれば考え直した。
コイルが完成した時には、ほんの少し笑った。
遠い。
あまりにも遠い目的地だった。
けれど、不可能ではない。
少なくとも、その細い糸は見えたはずだ。
「確かに、俺はこの世界の因果の一端を背負わされたのかもしれねぇ。」
ベルは歯を食いしばった。
「そのせいで苦しんだ。痛い思いもした。」
「人格形成の歪みも。」
「それは余計だ。」
思わず言い返したあと、ベルは息を吐いた。
「……でも、その代わりに俺は魔法以外のやり方を知った。」
小雪の目が、わずかに動いた。
「留学して、技術を学んだ。道具も機械も見た。剣だって、料理だって、家事だって、何一つ手を抜かなかった。」
「はい。」
「魔法が使えなかったからだ。」
ベルは小雪を見る。
「魔法がなくても生きられるように。」
声が少しずつ落ち着いていく。
「魔法がなくても、人の役に立てるように。」
掴んでいる小雪の手首へ、視線を落とす。
「おまえを支えられるように。」
そして、もう一度顔を上げた。
「魔法がなくても、いや。」
一度、息を吸う。
「魔法が使えなかったから、俺はおまえの傍にいられた。」
小雪は、しばらく何も言わなかった。
それから、いつもの淡々とした声で答えた。
「あなたが魔法を使えていたら、そもそも助手にはしていません。」
ベルの顔が引きつった。
「……何だよ、その言い方。」
「最初から、あなたならこちら側に立てる資格があると思っていました。」
ベルは小雪を見た。
「だから、傍に置いたのか。」
「はい。」
迷いのない返事だった。
「事実です。」
ベルは何も言えなくなった。
あまりにも冷たい。
残酷だ。
この一年を、そんな理由から始めたのか。
けれど。
それも小雪だった。
山の家で笑う小雪だけではない。
世界を裁くために、自分と同じ場所へ立てる人間を選んだ審判者。
ベルは、その顔も見てしまった。
「勇者。吊り目。」
少年魔王の声が、二人の間へ割って入った。
「もうそろそろいいか。」
ベルが睨む。
「何だよ。」
「足が疲れた。」
「今言うことか?」
「ある程度のことは話しただろ。」
少年魔王は、すでに城の方へ身体を向けていた。
「俺は帰る。」
「おまえな。」
「おまえも疲れたはずだ。勇者も、少し休め。」
返事を待たず、少年は歩き始めた。
「部屋なら用意してやる。」
ベルは、その小さな背中を呆然と見た。
「……魔王って、こんな感じでいいのか。」
「魔王役です。」
小雪が答えた。
「今それを言うな。」
「はい。」
ベルは深く息を吐いた。
まだ何一つ整理できていない。
勇者候補が燃料だったことも。
自分の無魔力も。
小雪が最初から、自分を同じ側へ立てる人間として見ていたことも。
それでも、裂け目の前に立ち続けることはもうできなかった。
二人は少年魔王の後を追い、城へ戻り始めた。
帰り道、小雪はほとんど何も話さなかった。
魔王城の裏手から古い廊下へ入り、崩れた壁の脇を通り過ぎる。
薄暗い通路には、以前と変わらない古い石の匂いが残っていた。
小雪は、その匂いを知っている。
一年半前にも。
ここを歩いた。
あの時から。
いや、すべての始まりというならば、九年前とした方が的確だろう。
まだ、魔王も。
裂け目も。
勇者システムも知らなかった頃。
髪は黒かった。
目も黒かった。
背も、今より少し高かった。
自分が世界を裁くことになるなど、考えたこともなかった。
九年前。
春野小雪は、十五歳だった。
ただ、家へ帰りたいと願う少女だった。




