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第五十三話 雨の日の召喚

 春野小雪は、高校一年生の、ごく普通の少女だった。


 少し大人しく、頼まれたことはきちんとこなす方で、周囲からはよく優しいと言われていた。勉強は好きだったが、運動はあまり得意ではない。自宅から少し離れた進学校へ通い始めたばかりで、新しい制服にも、新しい教室にも、まだ完全には馴染めていなかった。


 将来について、特別に大きな夢があったわけでもない。


 ただ、母と同じ大学の法学部へ進めたらよいと思っていた。母が学生だった頃の話を聞くのが好きだったし、法律を学ぶことにも少し興味があった。まだ十五歳だったから、その先にどんな仕事をするのかまでは考えていない。まずは大学へ行く。そのために勉強をする。それが小雪にとって、十分に現実的で、手の届くところにある未来だった。


 小雪は五人家族だった。


 のんびりした父と、少し天然な母。それから、十歳の妹と八歳の弟がいた。


 父は休日になると、朝から新聞を広げたまま昼を過ぎても動かないような人だった。母は夕飯の買い物へ行ったはずなのに、帰ってくるとなぜか花を抱えていて、肝心の豆腐を忘れているような人だった。妹は少し生意気で、弟は甘えん坊だった。


 小雪は、そんな家族が好きだった。


 肩まで伸びた黒い髪に、同じく黒い瞳。身長は同年代の中では平均より少し高い程度で、外見にも能力にも特別なところなど何もなかった。


 小雪自身も、自分を特別だと思ったことは一度もない。


 その日は、朝から雨が降っていた。


 学校からの帰り道、小雪は傘を叩く雨音を聞きながら、いつもより少しだけ早足で歩いていた。駅から自宅までの道は、暗くなると人通りが減る。帰りが遅くなる時は明るい道を通りなさいと、母から何度も言われていた。


 けれど、その日は部活動の見学で帰宅が遅くなった。


 結局、どの部へ入るかは決められなかった。文芸部も少し気になったし、図書委員の先輩に誘われた文化系の同好会も面白そうだった。友人からは運動部のマネージャーも向いていると言われたが、小雪には少し忙しすぎるように思えた。


 帰ったら、母に相談してみよう。


 夕飯を食べながら話せば、母はきっと途中までは真面目に聞いたあと、全く関係のない自分の高校時代の話を始める。


 小雪はそれを想像して、少しだけ笑った。


 夕方の空はすでに暗く、雨のせいで街灯も建物も滲んで見えた。


 早く帰ろう。


 弟はそろそろ宿題を終えただろうか。妹はまたテレビを独占しているかもしれない。今日の夕飯は何だろう。


 そんなことを考えていた時だった。


 目の前の道が、歪んだ。


 最初は、水たまりに映った街灯が揺れただけだと思った。雨粒が落ちて、水面の光が崩れたのだと。


 けれど、違った。


 揺れているのは水たまりではない。

 道そのものが、ぐにゃりと曲がっている。


 小雪は足を止めた。


「……え。」


 何が起きているのか、理解できなかった。


 目の前の空間に、一本の黒い線が走った。初めは糸のように細かったそれは縦へ伸び、左右へ広がり、やがて地面から空へ向かって裂けていく。


 まるで、大きな口だった。


 逃げなければ。

 そう思った時には、もう遅かった。


 小雪の足元が消えた。


「えっ」


 短い声しか出なかった。


 身体が落ちる。


 傘が手から離れた。通学鞄も、雨も、街灯も、急速に遠ざかっていく。小雪自身が落ちているのか、それとも何かに飲み込まれているのかも分からなかった。


 暗い。

 寒い。

 怖い。


 息ができない。


 助けてと叫ぼうとしたが、喉が潰れたように何も出なかった。


 最後に頭へ浮かんだのは、母の顔だった。

 今日の夕飯は、何だったのだろう。弟はまた、宿題を嫌がっているだろうか。妹は、自分が帰らなければ文句を言うだろうか。


 そんな、あまりにも普通のことだった。


 次の瞬間、小雪の意識は途切れた。




   ◇ ◇ ◇




 冷たい。


 最初に感じたのは、それだった。


 頬に触れているものが冷たい。手のひらも、膝も、身体の下にあるものも、全てがひどく冷えていた。


 小雪はゆっくりと目を開けた。


 白い天井が見えた。

 天井というより、石で造られた高い丸天井だった。見たことのない模様が刻まれ、蔦のような線と、文字らしきものが複雑に絡み合っている。


 ここは、どこだろう。


 そう思った瞬間、記憶が戻ってきた。


 雨。

 帰り道。

 黒い裂け目。

 落ちた。


「っ……!」


 小雪は跳ね起きた。


 その途端、身体が奇妙に重く感じられた。頭が痛い。喉が渇いている。足元もうまく定まらない。長い時間眠った後のようでもあり、高い熱を出した後に急に起き上がった時のようでもあった。


 けれど、それだけではない。


 自分の身体なのに、ほんの一瞬だけ距離を感じた。


 手を床につく位置。起き上がった時の重心。息を吸った時に動く胸。その全てを知っているはずなのに、身体が少しだけ遅れてついてくるような、説明のできない違和感があった。


 それは、すぐに消えた。


 小雪は恐怖のせいだと思った。今は、それどころではなかった。


 立たなければならない。逃げなければならない。

 そう思ったが、足にうまく力が入らなかった。


 小雪は座り込んだまま、周囲を見回した。


 広い部屋だった。

 床も壁も柱も白い石で造られている。高い位置には色硝子の窓があり、そこから淡い光が差し込んでいた。


 少し離れた場所に、人がいた。


 白い服を着た人々。

 神官か、祭服のような、見たことのない格好をしている。その後ろには金属の鎧を身につけた人間もおり、長い槍を持っていた。


 小雪は息を呑んだ。


 誰。

 ここはどこ。

 何が起きたの。


 白い服の人々が、何かを話している。


 音としては聞こえている。けれど、言葉の意味が分からない。英語でもない。テレビや街中で耳にしたことのある、中国語やフランス語でもない。小雪の知るどの言語とも違っていた。


 誘拐。

 事件。

 夢。

 事故。


 考えがばらばらに散り、何一つまとまらない。心臓の音ばかりが、耳の内側で大きく響いていた。


 白い服の人々の中から、一人の女性が前へ出た。


 小雪の母より少し年上に見える女性だった。髪は淡い金色で、後ろでゆるくまとめられている。顔立ちは穏やかで、目元には心配そうな皺があった。


 女性は、小雪へ向かってゆっくり歩いてきた。


 小雪は後ずさった。

 背中が壁にぶつかる。

 もう下がれない。


 怖い。


 女性はそれに気づいたのか、少し離れた場所で足を止めた。小雪へ何かを話しかけたが、やはり分からない。


 分からないことが、さらに怖かった。


「来ないで。」


 小雪はそう言ったつもりだった。


 けれど、声は震えていた。


 相手に意味が通じた様子もない。


 女性は困ったように眉を下げた。それから両手を見える位置へ置いたまま、もう一度ゆっくりと近づいてきた。


 小雪は部屋の隅で身をかがめ、膝を抱えて顔を伏せた。


 誰かの手が近づいてくる。


 小雪は反射的に目を閉じた。


 女性の指先が、額へそっと触れた。

 その瞬間、頭の奥で、きん、と小さな音がした。


 痛みではなかった。


 けれど、不快な違和感があった。耳の奥へ水が入った時のようでもあり、頭の中へ細い糸を一本通されたようでもあった。


 小雪は息を止めた。


 次に女性が口を開いた時、その声ははっきりと意味を伴って聞こえた。


「大丈夫です。怖くありません、勇者候補様。」


 小雪は顔を上げた。

 女性は静かに微笑んでいた。小雪を安心させようとしているのが分かった。


 言葉が分かる。

 つい先ほどまでは何一つ理解できなかったのに。


 小雪は自分の喉へ手を当てた。


「あ、あの……。」


 声が出た。


 小雪は日本語を話したつもりだった。けれど、女性は意味を理解したように頷いた。


「はい。聞こえております。」


 小雪は血の気が引くのを感じた。


 なぜ。

 どうして。

 何をされたの。


 女性が後ろを振り返った。


「私がこのまま付き添います。皆様は、次の召喚に向けてご準備を。」


 白い服の人々が一斉に頭を下げた。


 鎧を着た兵士たちも姿勢を正し、何人かが部屋を出ていく。


 次の召喚。


 その言葉だけが、小雪の耳に残った。


 女性は再び、小雪を見た。


「今は混乱しておいででしょう。無理もありません。皆様、最初は同じです。まずはご説明いたします。」

「説明……?」

「はい。あなたがどこから来られ、なぜここにいるのかを。」


 小雪の唇が震えた。


「帰してください。」


 言葉が先にこぼれた。


「家に帰してください。私、学校の帰りで、お母さんも、お父さんも、妹も弟も、家で……。」


 そこまで言ったところで、涙があふれた。


「帰してください。お願いします。何でもします。誰にも言いません。だから、帰してください。」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。


 誘拐犯なら、秘密にすると言えば帰してくれるかもしれない。悪い夢なら、お願いすれば覚めるかもしれない。


 何でもよかった。

 ただ、家へ帰りたかった。


 女性は困ったように目を伏せた。


「お気持ちは、分かります。」

「分かるなら、帰してください!」


 小雪の声が跳ねた。


 部屋の端にいた兵士がわずかに動く。女性は片手を上げ、それを制した。


「落ち着いてください。あなたに危害を加えるつもりはありません。」

「じゃあ、帰して。」

「それは……今は、できません。」


 小雪は息を呑んだ。


 今は。


 その言葉の中へ、縋るように希望を見つけた。


「今はってことは、あとでなら帰れるんですか?」


 女性はすぐには答えなかった。


 ほんの数秒だった。


 けれど、小雪には、その沈黙がひどく長く感じられた。胸の奥が冷えていく。


「あなたは、こちらの世界へ召喚されました。」

「召喚……?」

「はい。異なる世界より、勇者候補としてお招きされたのです。」


 勇者候補。


 その言葉があまりにも現実から遠くて、小雪は一瞬、意味を理解できなかった。


 勇者。


 漫画やゲームの中に出てくるもの。


 それが今、自分に向けられている。


「何を、言ってるんですか。」


 小雪は小さく首を振った。


「私、そういうの分からないです。人違いです。私、普通の高校生で、何もできないです。運動も苦手で、喧嘩もしたことないし、だから……。」

「勇者候補様の多くは、最初はそうおっしゃいます。」

「多く?」


 小雪は女性を見た。


「私以外にも、いるんですか?」

「はい。」


 女性は静かに頷いた。


「この世界では、およそ百年に一度、魔王が復活します。魔王が現れると、魔族や魔物の活動が活発になり、人々を襲い、土地は荒れ、天変地異が続きます。」


 女性の声は落ち着いていた。


 何度も、同じ説明をしてきた人の声だった。


「魔王を倒すことができるのは、女神の祝福を受けた異世界の勇者候補のみ。あなたは、その一人として選ばれました。」

「選ばれたって、誰に。」

「女神に。」


 小雪は呆然とした。


 女神。


 物語の中でしか聞いたことのない言葉だ。小雪の知る現実からは、あまりにも遠かった。


「無理です。」


 小雪は首を振った。


「私には無理です。魔王とか、魔物とか、そんなの無理です。帰してください。帰れないなら、警察を呼んでください。大使館でも、何でもいいから。」

「この世界に、あなたの世界の警察や大使館はありません。」

「じゃあ、どうすればいいんですか!」


 声が割れた。普段出さないような声量に、喉が痛んだ。


 女性は痛ましそうな顔をした。


 それでも、答えは変わらなかった。


「魔王が討伐されれば、召喚された皆様は元の世界へ戻れると伝えられています。」


 小雪は、わずかに眉を寄せた。


「伝えられている?」

「はい。」

「絶対じゃないんですか。」

「過去の記録では、そのように。」

「記録って何ですか。ちゃんと帰った人に聞いたんですか。」


 女性は、また黙った。


 小雪の指先が冷たくなった。


「では、こちらで命を落とした場合も。」


 女性が静かに続けた。


「勇者候補様は、この世界の人間とは存在の在り方が異なります。こちらで亡くなられた場合には、元の世界へ戻るのだと考えられております。」

「考えられて……。」

「確かなことを申し上げられず、申し訳ありません。ですが、過去の勇者候補様方も、そう信じて戦われました。」


 小雪はうつむいた。


 何一つ、確かなことがない。


 帰れる。

 戻れる。

 伝えられている。

 考えられている。


 どの言葉も柔らかく、優しく、だからこそ手で掴むことができなかった。


「戦わないと、どうなるんですか。」


 小雪はようやく訊いた。


 女性の表情が、少しだけ和らいだ。


「戦うことを望まれないのであれば、その意思は尊重されます。」


 小雪は顔を上げた。


「戦わなくても、いいんですか。」

「はい。」


 あまりにも迷いのない返事だった。


「無理に戦場へお連れすることはありません。魔王が討伐されるまで、王都や近隣の町で生活していただくこともできます。」

「本当に?」

「もちろんです。」


 女性は静かに微笑んだ。


「この世界へ突然お招きしておきながら、命を懸けて戦えと強いることはできません。戦わない道を選ばれた方には、王国から補償金が支払われます。住居や仕事についても、必要であれば支援いたします。」


 小雪は女性の顔を見た。


 嘘をついているようには見えなかった。


 本当に小雪を心配し、戦わない道を選ぶことも当然の権利だと思っているような、迷いのない優しさがあった。


「旅へ出ず、王都で暮らしている方もいるんですか。」

「はい。」


 女性は、柔らかく頷いた。


「全ての勇者候補様が、戦いを選ばれるわけではありません。」


 その言葉を聞いた瞬間、小雪はようやく少しだけ息を吐いた。


 戦わなくてもいい。


 剣を持たなくてもいい。魔物と戦わなくてもいい。強い人や、勇気のある人や、そういうことのできる誰かが魔王を倒してくれるまで、待っていてもいい。


 けれど、そう考えてしまった自分に、小雪は小さな罪悪感を覚えた。


 誰かに戦わせ、自分は安全な場所で待つ。


 それでよいのだろうか。


 それでも、怖かった。

 どうしようもなく怖かった。


 今は、戦わずに暮らすという選択肢があることだけで救われた。


 女性は、小雪へ手を差し出した。


「まずは、他の勇者候補様方のいらっしゃる場所へご案内いたします。そちらでお休みください。今すぐ、戦うかどうかを決める必要はありません。」


 小雪は、その手を見た。


 取っていいのか分からなかった。


 けれど、取らなければ何も始まらない気もした。


 しばらく迷ったあと、小雪は女性の手へ指を重ねた。


 女性の手は、とても温かかった。




   ◇ ◇ ◇




 小雪は女性神官に連れられ、白い石造りの建物の中を歩いた。


 そこは城の一部らしかった。高い天井、長い廊下、壁に飾られた見たことのない紋章。窓の外には塔があり、そのさらに向こうには城壁と、赤茶色の屋根が連なる街が見えた。


 異世界。


 そう説明されても、まだ信じられなかった。


 けれど、目に映るものは全て、小雪の知る日本とは違っていた。


 電柱がない。車がない。アスファルトもない。人々の服も、建物も、空気の匂いも違っている。


 廊下を歩く人々は、小雪を見ると足を止め、深く頭を下げた。


 そのたびに、小雪は肩を縮めた。


「あの。」


 小雪は隣を歩く女性神官を見上げた。


「さっき、言葉が分かるようになったのは、何ですか。」

「言語理解の魔法です。」

「魔法。」

「はい。この世界には魔法があります。勇者候補様方は、こちらの世界の者より強い魔力を持つことが多く、さらに女神から固有の祝福を授かるとも言われています。」

「祝福……。」

「人によって異なります。強い炎を扱える方、傷を癒やす方、身体能力に優れる方、物を作ることに長けた方。様々です。」


 小雪は自分の手を見た。


 外から見た限りでは、何も変わっていない。


 魔力。

 祝福。

 勇者候補。


 どの言葉も、今の小雪には重すぎた。


「私は、何ができるんですか。」

「それは、これから確認いたします。」

「何もできなかったら?」

「その場合も、無理に戦う必要はありません。」


 女性は、またそう言った。


 戦いたくなければ、補償金を受け取って暮らすことができる。

 住居も仕事も、王国が支援する。

 誰か一人が魔王を倒せば、皆が帰れる。


 説明は丁寧だった。

 脅されてもいない。

 女性は優しかった。


 だからこそ、小雪は余計に混乱した。


 恐ろしいことが起きているはずなのに、扱いは丁重だった。誘拐されたはずなのに、小雪を客人のように扱う。帰れないと言われているのに、寝床も食事も用意される。戦わなくてもよいと言われ、選ぶのは自分だと説明される。


 何が正しいのか、分からなかった。


 やがて、二人は大きな扉の前へ着いた。


 女性神官が扉を開ける。


 中は、広い談話室のような場所だった。

 長い机と椅子が並び、壁際には大きな暖炉がある。棚には本や地図が収められ、奥にはいくつもの扉が見えた。宿舎のようになっているらしい。


 そして、そこには人がいた。


 十人以上。

 いや、もっといる。


 小雪は思わず足を止めた。


 肌の色も、髪の色も、服装も、全てばらばらだった。大人の男性が多く、二十代、三十代に見える者もいれば、もっと年上に見える者もいる。女性も数人いたが、いずれも小雪より年上に見えた。


 全員が、こちらを見た。


 一人の男性が立ち上がった。


「新しい子?」


 意味が分かった。


 彼も、この世界の言葉を話している。


 女性神官が頷いた。


「二十三番目の勇者候補様です。春野小雪様。皆様、どうかお力添えを。」


 二十三番目。


 小雪は、その数字を頭の中で繰り返した。


 自分は最初ではない。

 特別でもない。


 二十三番目。


 それが安心なのか、恐怖なのか、小雪には分からなかった。


 談話室にいた人々の反応は様々だった。


 気の毒そうに見る人。興味深そうに見る人。ああ、またかという顔をする人。小さく手を振ってくれる人。


 女性神官は小雪へ向き直った。


「勇者候補様方は、まず数日から十数日ほど、こちらで講習を受けます。この世界について、魔法について、魔物について。それから、旅へ出る場合に必要な武器や防具、地図、資金について学んでいただきます。」

「旅……。」

「すでに魔王討伐の旅へ出発された方々もいらっしゃいます。もちろん、しばらくこちらに留まることもできますし、戦わずに暮らす道を選ぶこともできます。」


 小雪は、その言葉にまた、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 その様子を見たのか、談話室の奥にいた一人の男性が軽く笑った。


「怖がらなくていいよ。最初はみんなそうだから。」


 茶色い髪の男性だった。

 二十代半ばくらいに見え、穏やかな顔をしていた。


「俺も最初は大騒ぎした。でも、案外何とかなる。魔法も使えるし、ここの飯も悪くない。」


 別の男性も肩をすくめた。


「別に、全員が旅に出るわけじゃないしな。戦わないって決めた人もいる。」


 小雪はその男性を見た。


「本当に?」

「ああ。」


 男性は何でもないことのように頷いた。


「少し前にも一人、王都を出て、近くの町で暮らすことにした人がいたはずだ。店の仕事を紹介してもらったとか。」

「そう、なんですか。」

「だから、今すぐ全部決めなくていいよ。」


 茶色い髪の男性が言った。


「魔王を倒せば帰れる。自分で倒せなくても、誰か一人が倒してくれれば全員帰れる。ゲームみたいなものだと思えばいい。」


 ゲーム。


 その言葉に、小雪は少しだけ違和感を覚えた。


 けれど、ここにいる人たちは、自分よりずっと落ち着いて見えた。


 怖がっている人もいるのかもしれない。帰りたい人もいるのかもしれない。それでも、小雪のように泣き叫んではいない。


 旅に出なくてもいい。

 別の町で暮らしている人もいる。


 少なくとも、自分は今すぐ剣を持たされるわけではない。


 そのことに、小雪は少しだけ安心した。


 女性神官が、近くの椅子を勧めてくれた。


「今日は、まずお休みください。お食事と着替えをご用意いたします。詳しい説明は明日からで構いません。」


 小雪は小さく頷いた。


 椅子へ座ると、急に身体から力が抜けた。自分がどれほど緊張していたのか、その時になって初めて分かった。


 誰かが、温かい飲み物を出してくれた。

 見たことのない器だった。中身からは、薄い蜂蜜のような匂いがする。


 小雪は両手で器を包んだ。


 温かかった。


 その温かさに、また涙が出そうになった。


 帰りたい。

 家に帰りたい。

 母に会いたい。

 父の声を聞きたい。

 妹と弟に、ただいまと言いたい。


 けれど、ここには他にも同じように呼ばれた人がいる。そして、その人たちは何とかここで生きている。


 なら、自分も少しは落ち着かなければならないのかもしれない。


 魔王を倒せば帰れる。

 誰か一人でも倒せば、全員が帰れる。

 戦わない選択肢もある。


 こちらで死んでも、おそらく元の世界へ戻れる。


 おそらく。


 その言葉だけが、胸の奥へ小さな棘のように残った。


 それでも、小雪は器を握りしめながら、何度も自分へ言い聞かせた。


 大丈夫。

 きっと、大丈夫。


 ここにいる人たちも、そうしている。


 戦いたくなければ、戦わなくてもいい。


 なら、きっと。


 その時だった。


 遠くで、鐘の音が鳴った。


 ごうん、と低い音が、城の石壁を震わせる。


 談話室にいた人々が一斉に顔を上げた。何人かはすぐに目を伏せ、先ほどまで笑っていた男性も、少しだけ口を閉ざした。


 女性神官が、静かに扉の方へ視線を向ける。


 小雪は器を持ったまま尋ねた。


「あの、今のは……。」


 近くにいた男性が答えた。


「召喚の鐘だよ。」

「召喚……。」

「次の候補が来るんだ。」


 小雪は何も言えなかった。


 つい先ほどまで、自分が倒れていた白い石の部屋。


 知らない人々に囲まれ、言葉も分からず、泣きながら震えていた場所。


 そこへ、今度は別の誰かが呼ばれる。


 小雪と同じように。


 その人は、どこにいたのだろう。


 雨の帰り道だったのかもしれない。

 仕事中だったのかもしれない。

 家で夕飯を食べていたのかもしれない。

 家族と話していたのかもしれない。


 そう考えた瞬間、小雪の胸が苦しくなった。


 鐘は、もう一度鳴った。


 ごうん、と。


 低い音が、城全体を震わせる。


 まるで世界のどこかで、また誰かの普通の日常が終わったことを知らせる音のようだった。


 小雪は、両手の中にある温かな器を強く握りしめた。

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