↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
51/65

第五十一話 裂け目に落ちる白い光

「小雪!」


 ベルの声が、裂け目の前で弾けた。


 小雪は振り返らなかった。

 切り落とされた左腕は、すでに白い光に包まれながら形を取り戻し始めている。

 骨が伸びるのでも、傷口から肉が盛り上がるのでもない。

 欠けた場所だけが、世界のどこかに残された完成形を写し取るように、少しずつ埋まっていく。


 ベルは、その光景を見てしまった。


 見てしまった以上、もう知らなかった頃には戻れない。


「おまえ、何やってんだ!」


 ベルは小雪へ駆け寄った。戻り始めた腕へ触れようと手を伸ばした瞬間、横から少年魔王の平坦な声が飛んできた。


「触るな。今はまだ流れが安定していない。」

「知るか!」


 ベルは振り返り、少年を睨みつけた。


「小雪が腕を切ったんだぞ!」

「見れば分かる。」

「分かってるなら止めろよ!」

「止めれば、裂け目が飢える。」

「だから、その裂け目が飢えるって何なんだよ!」


 ベルの声が、崖の前で虚しく響いた。


 裂け目は何も答えない。


 ただ、小雪の腕だったものから生まれた白い光を、音もなく吸い込んでいる。

 その光は下へ落ちているようにも見えたが、谷底へ向かっているわけではなかった。奥へ吸われているわけでもない。ただ、世界のどこにも存在しない場所へ、そのまま消えていく。


 ベルは喉の奥が詰まるのを感じた。


 小雪の左腕は、もうほとんど戻っている。

 見た目だけなら、何もなかったようだった。


 けれど、何もなかったはずがない。


 補填は回復ではない。

 同じしっぽではない。


 小雪自身が、そう言った。


「小雪。」


 今度は声を落とした。


「こっちを見ろ。」


 小雪はすぐには動かなかった。


「見ろ。」


 もう一度言うと、ようやく振り返った。


 顔色は変わっていない。痛みに耐えている様子もなければ、泣きそうな顔でもない。

 ただ、予定していた作業を一つ終えた時と同じ顔をしていた。


 それが、ベルには一番怖かった。


「大丈夫です。」

「大丈夫じゃねぇ。」

「補填されました。」

「そういう話じゃねぇ!」


 ベルが叫ぶと、小雪はわずかに瞬きをした。


「もう痛くはありません。」

「痛いかどうかの話でもねぇ!」


 自分の声が震えていることに、ベル自身も気づいていた。


 怒っている。

 怖い。

 理解できない。


 その全部が一度に押し寄せているのに、目の前の小雪だけが、いつも通りの顔をしている。


「何で、そんな顔してんだよ。」

「顔。」

「何で普通にしてられるんだ。」


 小雪は戻った左腕を一度見てから、淡々と答えた。


「必要な作業なので。」

「作業って言うな。」


 ベルが一歩近づくと、少年魔王が再び声をかけた。


「そこまでにしておけ。」

「あ?」

「勇者は、まだ終えていない。」


 ベルの視線が小雪へ戻った。


 小雪は戻ったばかりの左手を軽く握り、指が動くことを確認している。それから、何事もなかったように袖をまた上げようとする。


 ベルは、その手首を掴んだ。


 今度は少年魔王も止めなかった。


「もうやるな。」

「まだ足りません。」

「足りるとか足りねぇとか、そういう話じゃねぇ。」

「足りません。」

「何がだよ!」


 小雪は答えなかった。


 ベルの手の中にある左手は、さっき自分の目の前で切り落とされたはずなのに、指も爪も、何もかもが元の形へ戻っている。


 だからこそ、余計に恐ろしかった。


「魔王。」

「何だ、吊り目。」

「説明しろ。」

「勇者に聞け。」

「こいつは答えねぇんだよ!」


 少年魔王は小雪を見た。


 小雪は何も言わない。


 やがて少年は、小さく息を吐いた。


 十歳ほどにしか見えない姿なのに、その吐息だけはひどく古かった。


「なら、俺が話す。」

「最初からそうしろ。」

「おまえが叫んでいたからな。」

「叫ぶに決まってんだろ。」

「そうだろうな。」


 少年魔王は、色のない裂け目へ目を向けた。


「これは、世界の裂け目だ。」


 ベルは黙った。


「人間どもは果ての大地と呼ぶ。魔族は飢えの口と呼び、神殿は魔王の根源と呼んだこともある。」

「魔王の根源?」

「本来、人間たちが魔王と呼んでいるものは、俺ではない。」


 ベルは少年を見る。


「は?」

「俺は魔王役だ。」

「魔王役……さっきからそればかりだな。」

「魔王役は、人間たちの物語に必要な、倒されるための魔王だ。」


 少年魔王は、何度も繰り返してきた説明をするように淡々と言った。


「本当の魔王は、あの裂け目だ。人格はない。王でもない。生き物ですらない。ただの現象だ。」


 ベルは言葉を失った。


 小雪には少しも驚くような様子はない。

 すでに知っている者の顔だった。


「百年に一度、魔王が蘇る。魔王が魔族や魔物を凶暴化させ、天を荒らし、大地を痩せさせる。そして異世界から召喚された勇者が魔王を討てば、世界は再び救われる。」


 少年魔王は、古い物語を暗唱するように続けた。


「そう教えられてきたのだろう。」

「……ああ。」

「都合のいい話だ。」


 ベルの眉が寄った。


「何がだよ。」

「誰かを悪にして、誰かを勇者にして、最後に倒したことにすれば、全て終わったことにできる。」


 ベルの喉が鳴った。


 聞きたくない。

 一瞬、そう思った。


 けれど、もう聞かなかったことにはできない。


「じゃあ、魔物の凶暴化は。」

「魔王が命じたわけではない。」

「魔族が人間を襲うのは。」

「魔王が命じたわけではない。」

「天変地異は。」

「魔王が起こしたわけではない。」


 ベルの声が荒くなる。


「じゃあ、何なんだよ。」


 少年魔王は裂け目を見た。


「飢えだ。」


 その言葉は、ひどく静かだった。


「世界から魔素が減れば、最初にこの辺りから影響が出る。大地が痩せ、魔物が狂い、魔族にも異常が出始める。だから人間たちは、それを魔王の復活と呼ぶ。」


 ベルの頭に、昨日の魔物が浮かんだ。


 赤い目。

 口元から漏れていた青白い光。

 痩せた身体。


 小雪は、飢えていると言った。


「それが、魔王のせいってことにされてたのか。」

「そうだ。こちらに異常が出始めれば、人間側から魔王役を立てるよう連絡が来る。」


 ベルは奥歯を噛んだ。


「ふざけんな。」

「ふざけてはいない。ずっとそうだった。」

「なお悪い。」

「そうだな。」


 少年は否定しなかった。


 その平坦さが、かえってベルの怒りの置き場を奪った。


「おまえは、それを知ってたのか。」

「知っていた。」

「知ってて、魔王のふりをしてたのか。」

「そうだ。」

「何で。」

「利害が一致したからだ。」

「利害?」

「魔族は、世界が飢えれば最初に被害を受ける。人間は、世界そのものに問題があると認めたくない。ならば、人間は魔王という物語を用意し、魔族は倒される役を出す。」


 ベルは少年を睨んだ。


「何だよ、それ。」

「長い時間をかけて積み上げられた、歴史ある仕組みだ。」

「仕組みって言えば済むと思うな。」

「済まない。」


 少年魔王は淡々と答えた。


「だが、そうやって事実世界は続いてきた。千年以上前からな。」


 ベルは息を吸った。


 何かを言おうとした。

 けれど、言葉が出なかった。


 魔王を斬ればいいのか。

 違う。


 裂け目を斬ればいいのか。

 そんなことができるようには見えない。


 小雪を止めればいいのか。

 それは止めたい。


 けれど、止めた先で何が起こるのか、ベルにはまだ分からない。


 気づけば、彼は小雪の左手を握ったままだった。


 小雪は振りほどこうとはしない。ただ、静かに立っている。


「一年半ほど前になるか。」


 少年魔王が言った。


「こいつは、ここへ来た。」


 ベルの指に力が入った。


「魔王討伐の時か。」

「少し違う。人間どもが討伐完了を発表したのは、その大分後だ。」

「……。」

「勇者は魔王役だった俺を追い詰め、ここで初めて真実を聞いた。」


 ベルは小雪を見た。


 小雪は何も言わない。


「この世界がどうやって保たれてきたのか。勇者召喚が何のために行われているのか。そして、魔王討伐という物語が何を終わらせるために必要なのか。」

「待て。」


 ベルの声がかすれた。


「そこまで言うなら、全部言え。」

「まだ早い。」

「ふざけんな。」

「今のおまえは、目の前で腕を一本落とされただけで、もう壊れかけている。」


 ベルは反論できなかった。


 少年の声は平坦だった。


 だからこそ、嘘には聞こえなかった。


「先に、一年半前の話をしてやるよ。」


 少年魔王は裂け目へ向き直った。


「真実を知った勇者は、王へ勇者召喚の停止を求めた。」


 ベルは息を止めた。


「勇者召喚の、停止。」

「そうだ。次を呼ぶな、と言った。」

「次?」

「当時、世界はまだ足りていなかった。」


 ベルは眉を寄せた。


「何が。」

「魔素だ。」


 裂け目の縁では、小雪の腕から流れ込んだ白い光が、まだわずかに揺れている。


「世界は、まだ飢えていた。だから王家と神殿は、さらに勇者候補を呼ぶつもりだった。前例通りに、これまで通りに。途中で止めれば、世界は安定しないと信じていたからな。」

「これまで通りって、何だ。」

「それは後で聞け。」

「またかよ。」

「一度に全て聞けば、本当に立っていられなくなる。」

「勝手に決めるな。」

「なら、立っていろ。」


 少年魔王はベルの怒りを受け流すように続けた。


「勇者は王へ言った。今すぐ召喚を止めろ、と。」


 ベルが握っている小雪の手が、ほんのわずかに動いた。


 それだけだった。


 けれど、ベルは気づいた。


「王は止められなかった。いや、止め方が分からなかったと言う方が正しいかもしれない。世界を飢えさせたまま途中で止めれば、全てが崩れると教えられてきたからな。」


 王城で見た国王の顔が、ベルの頭に浮かんだ。


 小雪を恐れていた王。

 菓子を勧め、何とか機嫌を取ろうとしていた王。


 悪人には見えなかった。


 だからこそ、余計に気味が悪かった。


「勇者は言った。」


 少年魔王の声は、少しも揺れない。


「ならば、この世界を滅ぼす、と。」


 ベルの身体が固まった。


「……は?」


 小雪は何も言わない。


「今、何て言った。」

「このまま次を呼ぶなら、自分がこの世界を滅ぼすと、王へ告げた。」


 ベルは小雪を見た。


「小雪。」

「はい。」

「本当か。」

「はい。」


 あまりにも短い返事だった。


 ベルは言葉を失った。


 昨日まで、いや、今朝まで、ベルは小雪が魔物の凶暴化を調べに来たのだと思っていた。

 何か危険な情報を知っているのだろうとは思っていた。


 王城の秘密。

 魔族領の真実。


 それくらいだと。


 世界を滅ぼす。


 その言葉は、あまりにも遠かった。


 遠すぎて、意味が頭に入らない。


「だが、滅ぼさなかった。」


 少年魔王が言った。


「そして、王へ代案を出した。」

「何を。」

「足りない分を、代わりに自分が補う、と。」


 ベルの指が強張った。


「こいつは百日以上、ここで自分を削り続けた。」


 少年魔王は裂け目を示した。


「削っては、あそこへ流した。戻れば、また削った。それを何度も繰り返した。」

「やめろ。」


 ベルが言った。


 少年魔王は止まらなかった。


「五百人分だ。」


 ベルの呼吸が止まった。


「五百……。」

「本来なら、その後さらに呼ばれるはずだった勇者候補たち。その分を、こいつ一人で補った。」

「やめろって言ってるだろ。」

「聞くと言ったのは、おまえだ。」

「こんな話だと思ってねぇ!」

「そうだろうな。」


 少年魔王は、それでも平坦だった。


「俺も、最初は半信半疑だった。自分を刻むなんて正気の人間ができることじゃない。」


 そこで初めて、小雪が口を開いた。


「私は、五百人分がどのくらいなのか分かっていませんでした。」


 ベルは小雪を見る。


「小雪。」

「ただ、次を呼ばせたくありませんでした。」

「……。」

「だから、補いました。」

「補いました、じゃねぇ。」


 ベルの声が震えた。


「百日以上って何だよ。」

「百日と少しです。」

「少しって何だよ。」

「数えていた記録が、途中で読めなくなりました。」

「何で、そんな言い方するんだよ。」

「事実です。」

「事実って言うな!」


 ベルは叫んだ。


 小雪は黙った。


 ベルの手は、小雪の左手を強く握っている。


 痛いかもしれない。


 けれど、小雪は何も言わない。


「その結果、勇者召喚は止まった。」


 少年魔王が静かに続けた。


「王は止めざるを得なかった。世界を滅ぼすと脅され、そのうえ足りない分を勇者本人が埋めたからな。結果が同じなら、悪くないだろ?」


 ベルは何も言い返せなかった。


 代わりに、小雪へ顔を向ける。


「……だから、王はおまえを怖がってたのか。」


 小雪は少しだけ首を傾けた。


「それもあります。」

「それも?」

「はい。」

「まだあるのかよ。」

「あります。」


 ベルの喉から、笑いに似た息が漏れた。


 何も面白くない。

 笑えるはずもない。


 ただ、もうどういう顔をすればいいのか分からなかった。


「おまえ。」

「はい。」

「そんなことしてたのか。」

「はい。」

「それで、その髪か。」


 風が吹いた。


 小雪の白い髪が揺れる。


 雪のような髪。


 ベルは何度も綺麗だと思った。


 今も綺麗だった。


 だからこそ、吐きそうになった。


「その身体もか。」

「旅の影響もあります。」

「質問に答えろ。」

「補填の影響も、あります。」

「顔が幼く見えるのも。」

「おそらく。」

「おそらくって何だよ。」


 小雪の顔には特になんの感情も浮かんでいない。それが酷く不気味だった。

 ただの事務連絡をするような平然とした顔で、自分の代償を語っている。


「正確にはよく分かりません。」

「なんで分からないんだよ、おかしいだろ。」

「でももう終わりました。」

「終わってねぇだろ!」


 ベルの声が裂けた。


「今またやっただろ! 俺の目の前で!」

「今回の補填は少量です。」

「量の話じゃねぇ!」

「ですが、裂け目の揺らぎは少し落ち着きました。」

「世界より先に、自分の腕を見ろ!」


 小雪は自分の左腕を見た。


 傷はない。

 特に何の跡も残っていない。いつも通り補填された腕。


 それでも、ベルはその手を離せなかった。


 離せば。


 また同じことをする気がした。


「ベル。」

「何だよ。」

「離してください。」

「嫌だ。」

「まだ観測が必要です。」

「嫌だ。」

「ベル。」

「嫌だって言ってんだろ。」


 小雪は黙った。


 少年魔王も、しばらく何も言わなかった。


 裂け目の周囲では、残った光の粒が静かに流れている。


 ベルは小雪の手を掴んだまま、荒くなった呼吸を整えようとしたが、少しも整わなかった。


 頭の中で、これまでの出来事が勝手につながっていく。


 補填は回復ではない。

 同じしっぽではない。


 魔物討伐の時、腕の輪郭が白い光へほどけたこと。


 白い髪。

 小さくなった身体。


 王の怯え。


 旧魔王領への転移装置。


 世界を滅ぼすという言葉。


 五百人分。

 百日以上。


 ベルは、ただ立っているだけで精一杯だった。


「勇者。」


 少年魔王が小雪を呼んだ。


「はい。」

「今のは、一時的な補填にすぎない。」

「はい。」

「根本的な解決にはならない。」

「分かっています。」

「西が悪い。」

「西大陸ですか。」

「ああ。もうすぐ大きな戦が始まる。八十年ぶりの大戦になるだろうな。それに今回は、過去にはなかった規模の大魔法が開発され始めている。このまま進めば、以前とは比べものにならない速度で消費が進む。」


 ベルはゆっくり少年魔王を見る。


「……また、世界が飢えるってことか。」

「そうだ。」

「また、魔物が狂う。」

「そうだ。」

「また、魔族が苦しむ。」

「そうだ。」


 ベルは一度、裂け目を見た。


「また、世界がおかしくなる。」

「そうだ。」


 少年魔王は淡々と答えた。


 ベルは奥歯を噛んだ。


「それで、どうするつもりだ。」


 少年魔王は小雪へ向き直った。


「勇者。おまえは一年前、この世界を滅ぼすと言った。」


 小雪は答えない。


「俺たちはたしかに長年、おまえたちの生き血を啜って生きてきた。」


 ベルの眉が動いた。


 生き血。


 その言葉の意味は、まだ分からない。


 けれど、ひどく嫌な響きに感じた。


「だからこそ、魔族はもう抵抗するつもりはない。裂け目が飢え、世界が欠け、それでもおまえが滅ぼすと言うなら、それも仕方ない。そういうところまで来ている。」

「魔王。」


 小雪の声が、少し低くなった。


「事実だ。」

「はい。」

「どうするつもりだ。」


 小雪は、すぐには答えなかった。


 裂け目を見た。

 少年魔王を見た。


 最後に、ベルを見る。


 その視線を受けただけで、ベルはなぜか息が詰まった。


「……滅ぼすつもりでした。」


 小雪は静かに言った。


「一年前は。」


 ベルの手が震える。


「けれど。」


 小雪は、まだベルを見ていた。


「僅かな、細い糸を見つけてしまったから。」


 ベルは何も言えなかった。


 細い糸。


 その言葉を、前にも聞いた。


 銅線を初めて引いた日、細くて切れそうな一本を見ながら、小雪は蜘蛛の糸のようだと言った。


 あの時、小雪はどんな顔をしていた。

 何を考えていた。


 今のベルには、もう分からない。


 けれど、小雪の視線は自分へ向いている。


 だから、意味だけは分かってしまった。


 水車。

 滑車。

 炉。

 銅線。

 コイル。

 魔法ではない力。


 小雪は皆が使えるものを作る為に、それらを作っていたのではない。


 世界を滅ぼさずに済む理由を。

 滅ぼす以外の道を。


 探していた。


 そして、その細い道の中にはベルもいる。


「小雪。」

「はい。」

「俺は。」


 言葉が続かなかった。


 自分が何なのか。

 細い糸なのか。

 世界を滅ぼさないための理屈の一部なのか。


 そんなものになりたいとは一度も頼んだ覚えはない。


 小雪は静かに続けた。


「まだ、決めていません。」


 ベルは小雪を見る。


「何を。」

「この世界を、どうするかです。」


 ベルは完全に言葉を失った。


 少年魔王も、もう何も言わなかった。


 裂け目の周囲では、小雪から流れ出た白い光の最後の粒が、音もなく消えていく。


 世界は、まだそこにある。

 けれど、ベルが知っていた世界は、もうどこにもなかった。


 しばらくして、ベルは自分の手の中にある小雪の左手へ視線を落とした。


 さっきまで、そこには何もなかった。


 その腕がなぜ世界の裂け目を満たしたのか。


 小雪が五百人分を補ったというのは、一体どういうことなのか。


 ベルはまだ、何一つ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。