第五十話 少年魔王
朝の魔王城は、静かだった。
夜のうちに遠くから見た黒い影は、朝になって近づいてもやはり黒いままだったが、絵物語に描かれていたような炎も雷もなく、城壁の周囲を飛び交う魔物の群れもいない。
あるのは崩れかけた外壁と、風に鳴る古い旗の切れ端、苔の生えた石段、それから門の脇に積もった落ち葉だった。
世界を脅かす悪の居城というより、長いあいだ誰にも直されずに残された古い城に見える。
ベルは門の前で足を止め、しばらく城を見上げた。
「ここが、魔王城……?」
「はい。」
「本当に?」
「はい。」
ベルはもう一度、城壁の上から門の周囲まで視線を動かした。
「何か、もっとこう、禍々しい感じだと思ってた。」
「古いです。」
「古いな。」
「傷んでいます。」
「傷んでるな。」
「補修が必要です。」
「いや、ここで生活文明を始めるな。」
小雪は城壁の一部へ目を向けた。
大きく崩れてはいないが、石材の隙間から蔦が伸び、雨水が入った跡もある。
「ロイさんが見たら、梁や石組みの状態を確認するでしょうね。」
「ガドさんは門の金具を見るだろうな。」
「私は記録します。」
「そして俺が仕様書を作る、と。」
「はい。」
「やめろ。ここ、魔王城だぞ。」
「魔王城補修記録。」
「つけるな。」
ベルの声には、昨日までより少しだけいつもの調子が戻っていた。
けれど、右手は剣の柄から離れていない。
小雪はそれを横目で見た。
軽口は言っている。
それでも警戒している。
それでいい。
ここは警戒する場所だ。
小雪にとっても。
ベルとは、少し違う意味で。
「入ります。」
小雪が門へ向かおうとすると、ベルがすぐに止めた。
「待て。」
「はい。」
「中に魔族はいるのか。」
「います。」
「敵か。」
「場合によります。」
ベルは嫌そうに顔をしかめた。
「またそれか。」
「はい。」
「魔王は?」
小雪は、ほんの少しだけ黙った。
それを見たベルの目が細くなる。
「いるんだな。」
「はい。」
「……おまえ、魔王を討ったんじゃなかったのか。」
「国からは、そう発表されています。」
「その言い方、本当に嫌いだ。」
「すみません。」
「謝るなら説明しろ。」
小雪は答えなかった。
ベルはしばらく待ったが、やがて諦めたように息を吐いた。
「見て判断しろ、だろ。」
「はい。」
「分かったよ。」
剣の柄を握り直し、ベルは正面の門を見る。
「ちゃんと見る。」
小雪は頷き、門をくぐった。
魔王城の中は、ベルが想像していたより明るかった。
天井の一部が崩れ、そこから朝の光が入っている。床には割れた石板が並び、壁には錆びた燭台が残っていた。
廊下は広く、かつては多くの者が行き来していたのだろうが、今は二人の足音ばかりが大きく響いた。
奥へ進んでも、魔族の軍勢は現れなかった。
代わりに、小さな足音が聞こえた。
裸足か、薄い履物で石の床を歩くような音だった。
ベルの手が動き、剣が半ばまで鞘から抜かれる。
「抜かないでください。」
小雪が静かに言った。
「何か来る。」
「はい。」
「それでも抜かないのか。」
「今は。」
「今は、ね。」
ベルは完全には納得していなかったが、剣を鞘へ戻した。
ただし、いつでも抜けるように柄からは手を離さない。
やがて、廊下の奥から少年が現れた。
年の頃は十歳前後に見える。
黒い髪に青白い肌、額には小さな角があり、瞳は赤紫色だった。
服は古びているものの、仕立てそのものはよく、片手には欠けた木の器を持っている。
器の中には、乾いた木の実がいくつか入っていた。
少年は小雪を見ると、驚く様子もなく目を細めた。
「勇者。お前、やっと来たか。」
「はい。」
「遅い。」
「コイルを作っていました。」
「何だ、それ。」
「電磁石の体です。」
少年は少し考えたあと、呆れたように鼻を鳴らした。
「また変なことを始めたな。」
「はい。」
ベルは、少年と小雪を交互に見た。
どちらもあまりに普通に話している。
「待て。」
思わず口を挟むと、二人が同時にこちらを見た。
「何ですか。」
「誰だ、このガキ。」
少年の眉がぴくりと動いた。
小雪は、いつも通りの調子で答えた。
「魔王です。」
ベルは固まった。
「……は?」
「正確には、魔王役ですが。」
「魔王!?」
ベルの声が広い廊下へ響いた。
「魔王は、おまえが討伐したんだろ!?」
「国からは、そう発表されていますね。」
「またそれか!」
「しかし、彼は現在も一応、魔王ということになっています。」
「このガキが!?」
少年魔王の目が、今度こそ露骨に細くなった。
「おい、勇者。」
「はい。」
「この無礼な吊り目は何だ。」
「助手兼オカン兼チワワです。」
「おい!」
再びベルの声が廊下へ響いた。
少年魔王は、騒がしいものを見るようにベルを上から下まで眺めた。
姿は子供なのに、その目だけは長く生きた老人のようだった。
「弱そうだな。」
「はあ?」
「魔力がない。」
ベルの表情が、ほんのわずかに強張った。
先日聞いた話が一瞬だけ頭をよぎったが、すぐに少年を睨み返す。
小雪は魔王へ目を向けた。
「それは、今言わなくてもよいことです。」
「事実だろ。」
「言わなくてよい事実もあります。」
少年魔王は、小雪を見て鼻で笑った。
「勇者にそれを言われるとはな。」
ベルは剣の柄を握ったまま、改めて少年を見る。
「おまえが、魔王。」
「そうだ。まあ、正式には魔王役だな。」
「小雪が討ったはずの。」
「討ったことにされた魔王だ。」
ベルの眉間に、また深い皺が寄った。
「どういう意味だ。」
「どういう意味って。」
少年魔王は少し困惑したように小雪を見た。
「こいつ、何も知らないのか?」
「はい。」
「それなのに連れてきたのか?」
「勝手についてきました。」
「許可はしたんだろ。」
「しました。」
少年魔王は、ベルを少し気の毒そうに見た。
「可哀そうに。お前、相変わらずえぐいことをするな。」
「はい。」
「認めるのか。」
「事実なので。」
ベルは二人の会話を聞きながら、とうとう額へ手を当てた。
「おい。」
「何ですか。」
「何で普通に会話してる。」
「魔王役とですか。」
「そうだよ。」
「知り合いなので。」
ベルの手が額から落ちた。
「知り合い!?」
「一年半ほど前からです。一時期、この城に住ませていただいていたので、大家とも言えるかもしれません。」
「大家!?」
ベルは本気で頭を抱えた。
「小雪。」
「はい。」
「俺が知ってる話と違いすぎる。」
「そうでしょうね。」
「魔王を討った勇者が、魔王と知り合いで、魔王は生きてて、その勇者は一時期魔王城に住んでて、魔王は見た目がガキで、おまえと普通に喋ってる。」
「はい。」
「はいじゃねぇ。」
「事実です。」
「事実が多すぎる。」
少年魔王は木の実を一つ口へ入れた。
「勇者。この吊り目は本当に騒がしいな。」
「ベルです。」
「名前は聞いていない。」
「ヴェルヴァルド・グランツだ。」
ベルが低く名乗る。
少年魔王は木の実を噛みながら、少しだけ目を細めた。
「グランツ。人間の貴族か。」
「公爵家の次男だ。」
「ふうん。」
少年魔王はあまり興味がなさそうだった。
「魔力のない貴族の子を、勇者の隣へ置くとはな。人間も変わったことをする。」
ベルの顔が一瞬だけ硬くなる。
けれど、小雪が先に口を開いた。
「ベルは、私の助手です。」
「助手。」
「はい。」
「オカン兼チワワではないのか。」
「それもあります。」
「小雪!」
三度目の叫びが廊下へ響いた。
小雪は、ほんの少しだけ目を和らげた。
少年魔王は、その変化を見逃さなかった。子供の顔のまま、年寄りのように目を細める。
「なるほどな。」
「何がですか。」
「いや。」
少年魔王は持っていた木の器を近くの台へ置いた。
「それで。例の件の確認に来たんだろ。」
「はい。」
「じゃあ、本当の魔王のところへ行くか。」
ベルは眉を寄せた。
「……本当の魔王?」
「ああ。」
「どういう意味だ。おまえが魔王なんだろ。」
少年は軽く肩をすくめた。
「ついて来い。すぐ分かる。」
そう言って歩き始めた少年魔王の後を、小雪が迷いなく追った。
ベルも少し遅れて歩き出したが、頭の中は混乱したままだった。
城の中には、ところどころ生活の痕跡があった。
水を溜めた甕や、乾燥させた草束、古い本が積まれた棚、応急的に補修された扉。
人の気配は少ないが、誰も暮らしていない城ではないことが分かる。
軍勢が集まる城には見えなかった。
ベルは歩きながら、そのことにも気づいていた。
「東の魔物は、やはり魔素欠乏ですか。」
小雪が訊いた。
「おそらくな。」
少年魔王は前を向いたまま答えた。
「ただ、単なる局地的な欠乏じゃない。流れが乱れている。東だけではなく、南にも少し兆しがあるし、西はもっと悪い。」
「西大陸。」
「ああ。」
ベルは黙って聞いていたが、そこで眉を寄せた。
「西大陸がどうした。」
少年魔王は少しだけ振り返った。
「人間どもが、また火遊びを始めている。」
「火遊び?」
「戦だ。」
ベルの足がわずかに止まった。
「戦争、か。」
「まだ全面戦争ではない。だが、大規模魔法が使われ始めている。それも、以前にはなかった規模だ。魔導士を集め、術式を重ね、土地ごと焼くようなものを試している。」
小雪の目が少し冷えた。
「報告より早いですね。」
「人間の報告は遅い。魔素の流れは嘘をつかん。」
「影響は。」
「このままなら、裂け目がまた飢える。」
ベルは、その言葉を聞き逃さなかった。
「裂け目って何だ。」
小雪は答えない。
少年魔王も答えなかった。
「おい。」
少し苛立って声を上げると、少年魔王が肩越しに振り返った。
「本当の魔王だよ。」
「だから何なんだよ、それ。おまえが魔王なんだろ。」
「俺はただの魔王役だ。」
少年魔王はそのまま城の奥へ向かった。
「裏へ回る。裂け目はそっちだ。」
ベルは隣を歩く小雪を見た。
「小雪。」
「はい。」
「裂け目って何だ。」
「見れば分かります。」
「本当に腹立つな。」
「はい。」
「戻れなくなるって言ってたのは、これか。」
「一部です。」
「また一部。」
「はい。」
ベルは大きく息を吐いた。
「分かった。見る。」
剣の柄へ手を置いたまま、二人の後を追った。
魔王城の裏手へ出た瞬間、風が変わった。
城の中には古い石と乾いた木の匂いがあり、外には薄い草と土の匂いがあった。
けれど、裏手を吹く風は、そのどちらとも違った。
冷たいわけでもない。
熱いわけでもない。
ただ、何かが足りない。
ベルは一歩外へ出た途端、胸の奥がすうっと空になるような、不快な感覚を覚えた。
「何だ、ここ。」
誰も答えなかった。
城の裏手には、崖があった。
けれど、普通の崖ではない。
地面は途中で途切れているのに、その先に谷底が見えない。下があるようにも、空が続いているようにも見えない。
黒でも白でもない。
色がない。
世界の一部だけが剥がれ落ち、そこだけ何も存在しなくなったような裂け目が開いていた。
ベルは足を止めた。
裂け目の周囲には、細かな光の粒が漂っている。
魔法を使った時に見えるものとよく似ていた。
けれど、動きが違う。
周囲へ広がらない。
元の場所へ戻らない。
ただ、少しずつ裂け目へ向かって流れ、その中へ消えていく。
ベルはしばらく言葉を失っていた。
小雪は、一人で崖の方へ歩き始めた。
ベルは反射的に手を伸ばし、その腕を掴んだ。
「近づくな。」
小雪が振り返った。
「危険です。」
「分かってるなら近づくな。」
「確認します。」
「ここで何を。」
小雪は裂け目を見た。
「どの程度、補填が必要かを。」
ベルの手に力が入った。
「補填?」
「はい。」
「何を補填する。」
小雪は答えなかった。
少し離れた場所では、少年魔王が黙って二人を見ている。
止めない。
そのことが、ベルをさらに不安にさせた。
「小雪。」
「はい。」
「何する気だ。」
「作業です。」
ベルは信じられないものを見るように小雪を見た。
「作業?」
「はい。」
「作業って何だ。水車じゃねぇんだぞ。コイルでもねぇ。ここは何なんだよ。」
小雪は静かに答えた。
「世界の裂け目です。」
ベルは息を止めた。
「世界の、裂け目。」
「はい。」
「何で、そんなもんがある。」
「今は説明しません。」
「小雪。」
「ベル。」
小雪は、掴まれている腕を見た。
「離してください。」
「嫌だ。」
「離してください。」
「何をするか言え。」
「言えば、あなたは止めます。」
「止めるに決まってるだろ。」
「だから言いません。」
ベルの顔が歪んだ。
「おまえ、本当に腹立つな。」
「はい。」
「はいじゃねぇ。」
小雪は少し黙ったあと、ベルの顔を見た。
「あなたは、見て判断すると言いました。」
「これは見る前に止めるやつだろ。」
「まだです。」
「何がまだだ。」
「まだ、見ていません。」
小雪は、自分の腕を掴んでいるベルの手へ目を落とした。
銅線を巻いた手。
髪を整えると約束した手。
剣を持つ手。
今は、小雪を止めている手。
「離してください。」
「嫌だ。」
「ベル。」
「嫌だ。」
小雪は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「では、すみません。」
周囲の空気がわずかに動いた。
強い風ではない。
攻撃でもない。
ただ、ベルの指を一瞬だけ緩めるための風だった。
「小雪!」
掴んでいた手が外れた。
小雪はすぐに崖の縁へ向かい、そこで立ち止まった。
袖をまくる。
白い腕が露わになる。
ベルの喉が、嫌な予感で詰まった。
「何してる。」
小雪は答えなかった。
右手の中に、小さな光の刃を作る。
ベルは走り出した。
「小雪、やめろ!」
間に合わなかった。
小雪は、自分の左腕を切断した。
音は、ほとんどなかった。
血も出なかった。
切り離された場所から噴き上がったのは、白い光の粒だった。
雪のようにも見えた。
灰のようにも見えた。
魔法を使った時に散る光にも似ていた。
けれど、ずっと濃かった。
切り落とされた腕は、地面へ落ちる前に輪郭を失った。白い粒へほどけ、そのまま裂け目の方へ流れていく。
ベルは動けなかった。
裂け目が、その光を吸い込む。
周囲を漂っていた弱い光とは違い、小雪の腕から生まれた白い粒は濃く、途切れずに流れ込んでいった。
やがて、色のない裂け目の縁が、ほんのわずかに明るくなった。
まるで。
世界そのものが。
長いあいだ止めていた息を、ようやく吸ったようだった。
ベルは、ようやく小雪を見た。
左肩から先が消えている。
その輪郭を埋めるように、今度は新しい白い粒が集まってくる。
補填。
光が腕の形を作り、指先まで戻っていく。
少し前まで欠けていたことなど分からないほど、元の形へ戻っていく。
けれど。
同じではない。
ベルは、小雪が以前言った言葉を思い出した。
同じしっぽではありません。
小雪は表情を変えていなかった。
痛みをこらえる顔でもない。
苦しむ顔でもない。
ただ、予定していた作業を一つ終えた時の顔だった。
少年魔王も止めなかった。
黙ったまま、裂け目へ吸い込まれていく光を見ている。
ベルの喉から、ようやく声が出た。
「小雪。」
叫びにはならなかった。
自分でも驚くほど小さな声だった。
けれど、次の瞬間には、遅れて押し寄せてきた怒りと恐怖が胸を突き上げた。
「小雪!」
小雪は振り返らなかった。
自分だったものから生まれた白い光が、まだ裂け目へ落ちていく。
世界の端が、ほんの少しずつ満たされていく。
ベルは、その光景を見てしまった。




