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第四十九話 教えられた世界と違う場所

 旧魔王領の空は、薄かった。


 青いことは青い。

 けれど、山の家から見上げる春の空とは違い、どこか一色足りないように見える。

 風も吹いているのに、草や湿った土の匂いがほとんどせず、耳を澄ませても鳥の声は聞こえなかった。


 古い転移室から外へ出たベルは、周囲を見渡してすぐに眉を寄せた。


「変な場所だな。」

「はい。」


 小雪は短く答えた。


 背後にある石造りの建物は半分ほど崩れ、外壁には蔦が絡んでいる。

 床の転移陣にも大きなひびが入り、王城地下にあった装置とは比べものにならないほど傷んでいた。


 それでも、装置としては生きている。

 王城地下と、この場所はつながっている。


 ベルは、その事実が気に入らなかった。


「本当に、旧魔王領なんだな。」

「はい。」

「魔族の領域。」

「はい。」

「立ち入り禁止の危険地帯。」


 小雪は少しだけ間を置いた。


「そう教えられています。」


 ベルはすぐに彼女を見た。


「そう教えられてる、な。」

「事実です。」

「おまえ、その言い方多いよな。」

「はい。」

「あと、事実ですって言い方も何か嫌なんだよ。」


 小雪は答えず、遠くへ目を向けた。


 石室の外には低い草地が続いている。

 遠くには黒い山があり、そのさらに奥には城のような影が見えた。


 魔王城。


 ベルが子供の頃から、絵物語や授業で何度も聞いてきた場所だった。


 百年に一度、禍々しい魔族たちの中から生まれる魔王が住み、人間を憎み、呪い、世界を滅ぼそうとする。その軍勢が集い、勇者が討つべき敵の中心となる城。


 そう教えられてきた。


 けれど、遠くに見える城は、ベルが知っている物語ほど禍々しくはなかった。

 黒く、静かで、外壁の一部は崩れているようにも見える。

 魔を纏う悪の居城というより、長いあいだ忘れられてきた建物のようだった。


「ここから数日歩きます。」


 小雪の声に、ベルは城から目を離した。


「馬は?」

「ありません。」

「この辺に、さすがに厩舎はねぇか。」

「ありません。」

「不便だな。」

「はい。」


 ベルは背負っていた荷物を少し持ち直した。


「まあ、鍋は持ってきたけどな。」

「鍋は重要なのですね。」

「重要だ。旧魔王領でも飯は食うだろ。」

「旧魔王領スープ。」

「だから、その名前は怖いって。」

「境界地帯スープ。」

「そっちの方がまだましだな。」


 いつも通りのやり取りだった。


 けれど、ベルの声は山の家にいた時より少し硬かった。


 小雪はそれに気づいていた。


 ここには水車がない。

 棚の奥に置いたコイルもない。

 春の匂いすら薄い。


 ベルが知っている世界の外だった。




 初日は、転移室から東へ続く低い草地を歩いた。


 道らしいものは残っている。

 ただし、長いあいだほとんど使われていないらしく、石畳の大半は土に埋まり、古い標識も道の脇へ倒れていた。


 ベルは割れた石畳を踏みながら、また眉を寄せた。


「道がある。」

「あります。」

「魔族の領域って、人間が踏み込めない未開の危険地帯だと思ってた。」

「そう教えられています。」

「またそれか。」

「はい。」


 ベルは倒れた標識のそばで足を緩めた。

 文字はほとんど消えていたが、複数の方向を示していたことだけは分かる。


「これだけの道があるってことは、昔は普通に誰かが使ってたんだろ。」

「はい。」

「誰が。」

「魔族、人間、勇者候補、王家の使者。いろいろです。」


 ベルの足が止まった。


 数歩先まで進んだ小雪も、遅れて止まる。


「王家の使者?」

「……。」


 小雪の表情はほとんど変わらなかった。


 けれど、ほんの少しだけ、余計なことを言ったと気づいた顔をした。


 ベルはそれを見逃さなかった。


「今の、何だよ。」

「見て判断してください。」

「本当に腹立つな、その言葉。」


 小雪は再び歩き出した。


「着いてくると決めたのは、あなたです。私は止めました。何度も。」

「それと、情報を小出しにするのは別だろ。」


 ベルは舌打ちし、小雪を追った。


「もう聞いても答えねぇのは分かった。でも、危ないものが出るなら先に言え。」

「はい。」

「魔物とか、魔族とか。」

「はい。」


 そこでベルは少し考えた。


「魔族も、普通に襲ってくるんだろ。」


 小雪はすぐには答えなかった。


「場合によります。」

「場合?」

「襲う者もいます。襲わない者もいます。」

「魔族が?」

「はい。」


 ベルは、明らかに納得できない顔をした。


「魔族は人間を見ると襲ってくるって習ったぞ。」

「そう教えられています。」

「小雪。」

「はい。」

「その言い方、どうにかならねぇか。」

「すみません。」

「謝るなら説明しろ。」

「できません。」


 ベルは少し黙ったあと、深く息を吐いた。


「やっぱり嫌な勇者さまだな。」

「はい。」


 それでも、剣の柄へ置いた手だけは離さなかった。




 昼を過ぎた頃、小さな集落が見えた。


 石を積んだ低い家が十軒ほど固まって建ち、その周囲には畑らしき土地と井戸がある。

 ただ、畑はひどく痩せ、家々の屋根もところどころ傷んでいた。


 ベルは思わず足を止めた。


「村か?」

「はい。」

「人間の?」

「魔族の集落です。」


 ベルの手が反射的に剣へ伸びた。


 小雪は前を見たまま、静かに言った。


「抜かないでください。」

「魔族だろ。」

「はい。」

「危険じゃねぇのか。」

「今は、こちらの方が危険に見えます。」

「どういう意味だよ。」


 小雪は答えず、集落の方を見た。


 ベルも、その視線を追う。


 家の陰から、小さな顔がこちらを覗いていた。


 子供だった。


 人間の子供より少し耳が長く、額には小さな角がある。


 ベルと目が合った瞬間、その子供はびくりと肩を震わせ、慌てて家の中へ引っ込んだ。


 すぐに、一人の女が出てきた。

 痩せた魔族の女だった。顔色は悪く、腕には赤ん坊を抱いている。


 女は小雪を見た瞬間、その場で固まった。

 赤ん坊を抱く腕に力を入れ、わずかに後ろへ足を引く。


 ベルは、その動きを見た。


 襲う準備ではない。

 逃げる準備だった。


 剣の柄から手を離すことはできなかったが、抜くこともできなかった。


「……何だよ、これ。」


 小雪は答えなかった。


 集落の奥から、老人らしい魔族が出てきた。

 背中は大きく曲がり、頭にある角は片方だけ途中で折れている。

 杖を頼りにゆっくり歩いてきた老人は、小雪の姿を認めると、少し離れた場所で深く頭を下げた。


「勇者、さま。」


 震える声だった。


 ベルは、背中に冷たいものが走るのを感じた。


 魔族が。


 小雪を勇者さまと呼んだ。


 敵意ではない。


 恐怖で。


「通ります。」


 小雪はそれだけ告げた。


 老人は何度も頷いた。


「は、はい。どうぞ。我々は何もいたしません。子らにも、決して近づかせません。」

「水を少し分けてください。」

「はい。すぐに。」

「対価は払います。」

「いえ、そのようなものは。」

「払います。」


 小雪の声は淡々としていた。


 老人はそれ以上逆らわず、やがて井戸水と硬い根菜を少し持ってきた。


 小雪は代わりに銀貨を置いた。

 老人は受け取るのを迷っていたが、小雪が銀貨から手を離すと、恐る恐るそれを拾った。


「受け取ってください。」

「……はい。」


 ベルは、その様子を黙って見ていた。


 井戸の周りには、何人かの子供が隠れるように集まっている。


 誰も襲ってこない。

 誰も罵らない。


 ただ、こちらを怖がっている。


 ベルが少し動いただけで、一人の子供が母親の服を強く掴んだ。


 ベルは、その場で足を止めた。


「俺、怖がられてるのか。」

「はい。」

「俺が?」

「人間ですから。」


 ベルは、怯えている子供と小雪を交互に見た。


「人間だから、魔族が怖がるのか。」

「はい。」

「逆じゃねぇのかよ。」


 小雪は答えなかった。


「おい。」

「見て判断してください。」

「またそれか。」

「はい。」


 ベルは何か言い返しかけたが、やめた。


 もう一度、集落を見る。

 教えられてきた魔族と、目の前の魔族は違っていた。


 少なくとも、この集落にいる者たちは違う。


 痩せている。

 疲れている。


 そして、ひどく怯えている。


 強大な敵には見えなかった。


 けれど、それを口にしてしまえば、自分がこれまで信じてきたものの何かが崩れそうで、ベルは何も言えなかった。




 集落を離れてからも、ベルはしばらく黙って歩いていた。


 低い草が風に揺れている。相変わらず鳥の声はなく、虫の音も少ない。


 やがて、ベルが低い声で言った。


「魔族って、あんな感じなのか。」

「全員ではありません。」

「だろうな。」

「人間にも、いろいろいるので。」

「それは分かる。」

「魔族にも、いろいろいます。」

「分かるけどよ。」


 ベルは眉間へ手の甲を当て、しばらく足元を見た。


「俺が知ってる話と、違いすぎる。」

「はい。」

「魔族は人間を憎んで、見つけたら襲ってくるって。」

「襲う者もいます。」

「でも、さっきの連中は違った。」

「はい。」

「何で、あいつらはおまえを怖がってた。」

「私は、人間であり、勇者なので。」

「魔王を討ったからか。」


 小雪は少しだけ間を置いた。


「そう発表されています。」

「その言い方も嫌いだ。」

「すみません。」


 ベルは苛立った顔で小雪を見た。


「おまえ、俺をここへ連れてきたくなかった理由、これか?」

「一部です。」

「魔族が、思ったより普通に暮らしてるから?」

「一部です。」

「俺が混乱すると思ったから?」

「一部です。」


 ベルは思わず空を仰いだ。


「全部、一部だな。」

「はい。」

「嫌な勇者さまだな。」

「はい。」


 ベルは舌打ちした。

 けれど、それ以上は言わなかった。


 集落で見た子供の顔が、まだ頭に残っている。


 額の小さな角。

 人間を怖がる目。


 魔族。

 敵。


 その二つの言葉が、うまく重ならなかった。




 夕方前、最初に異変へ気づいたのは小雪だった。


「止まってください。」


 声の調子が変わった瞬間、ベルも足を止めて剣を抜いた。


 低い唸り声が聞こえる。

 草むらの奥から現れたのは、狼に似た獣型の魔物だった。


 ただし、普通の狼よりずっと大きい。

 肋骨が浮き出るほど痩せているのに、全身の毛は荒く逆立ち、目は赤く濁っている。

 開いた口の端からは、青白い光の粒がわずかに漏れていた。


 ベルは背筋が冷えるのを感じた。

 以前見た大牙猪と似ている。


 小雪が半歩前へ出た。


「下がってください。」

「おまえが下がれ。」

「危険です。」

「見りゃ分かる。」


 魔物が低く唸り、周囲に浮かんでいた魔素の光がざわめくように揺れた。


 小雪が右手を上げる。


 ベルはそれを見て、すぐに彼女の前へ出た。


「使うな。」

「ベル。」

「補填を使う気だろ。」

「必要なら。」

「必要にするなって言った。」


 ベルは剣を構えた。


 剣術大会とは違う。


 これは祭りではなく、相手も人間ではない。

 審判はいないし、相手が止まったからといって終わるとも限らない。


 それでも、ベルは退かなかった。


「俺がやる。」

「無理です。」

「決めつけるな。」


 魔物が飛びかかった。


 痩せた身体からは想像できないほど速い。


 ベルは正面から剣で受けず、横へ身体をずらした。

 大牙猪より軽い代わりに、動きが鋭く、方向転換も速い。


 振り抜かれた爪がベルの袖をかすめ、布が裂けた。


「ベル。」

「黙ってろ!」


 ベルは踏み込み、魔物の前脚を狙った。


 剣が当たる。

 けれど、浅い。


 荒れた毛と皮膚の下にある硬い何かに弾かれた。


「硬っ。」


 魔物が素早く向きを変え、赤い目でベルを捉えた。


 ベルは一度だけ大きく息を吐いた。


「こっちだ、犬もどき。」

「狼型です。」

「分類は後でいい!」


 再び飛びかかってきた魔物を、ベルは足を止めずに受け流した。

 剣で爪を逸らし、身体をずらして懐へ入らせない。


 剣術大会で見せた、相手の力を正面から受けず、別の方向へ流す動きだった。

 ただし、人間を相手にするのとは違う。魔物の重心も、呼吸も、次の動きも読みづらい。


 それでもベルは退かない。


 小雪は上げた手を下ろさず、二人の動きを見ていた。


 魔法を使えば、一瞬で終わる。


 けれど、この土地の魔素は薄く、安定していない。

 大きな出力を出すなら、補填を使う方が早い。


 ベルは、それを嫌がる。


 魔物の横へ回り込んだベルが、後ろ脚を斬った。

 魔物の体勢が崩れる。


「今!」


 ベルが叫んだ。


 小雪は左手をわずかに動かした。


 地面から伸びた細い白い線が、魔物の脚へ絡みつく。


 弱い拘束魔法だった。

 補填は必要ない。


 動きが止まったのは、ほんの一瞬だった。


 けれど、ベルには十分だった。


 大きく踏み込み、剣の柄で頭部を打つ。魔物がよろめいたところへ、首元から刃を入れた。


 魔物は激しく暴れ、毛の間から青白い光が漏れ出した。

 ベルは歯を食いしばり、そのまま剣を押し込んだ。


 やがて、魔物の身体が大きく震え、地面へ倒れた。


 赤い目の光が消える。

 青白い粒はしばらく宙を漂ったあと、地面へ染み込むように消えていった。


 ベルは肩で息をしながら、しばらく倒れた魔物を見ていた。


「……倒したぞ。」

「はい。」

「補填は。」

「使っていません。」

「本当だな。」

「はい。」


 ベルは小雪の両手を確認するように見た。


「手は。」

「本当に、どこも欠けていません。」

「よし。」


 そこでようやく、ベルは剣を下ろした。


 小雪は倒れた魔物のそばへしゃがみ込み、毛の間に残っている青白い光を観察した。

 目、皮膚、爪、口腔内。それから身体に残る魔素の流れ。


「何だ。」


 息を整えながら、ベルが訊いた。


「やはり、前の魔物と同じ症状です。」

「凶暴化か。」

「はい。」

「原因は。」

「魔素循環不全、欠乏、それに対する過剰反応が重なっています。」

「分かりやすく言え。」


 小雪は少し考えた。


「飢えています。」


 ベルは倒れた魔物を見た。


「飢えてる?」

「はい。」

「腹が減ってるってことか。」

「それもあります。ですが、それだけではありません。」

「魔素に?」

「はい。」


 ベルは眉を寄せた。


「魔物は、魔素に飢えるとこうなるのか。」

「必ずではありません。」


 小雪は魔物の身体から目を離さないまま説明した。


「魔物は、人間よりも生きるために多くの魔素を必要とします。大気中の魔素が一定の基準を下回った時や、身体が大きくなり、必要な量を体内へ取り込めなくなった時には、欠乏症を起こすことがあります。」

「前の大牙猪がでかかったのも、それと関係あるのか。」

「可能性はあります。」

「じゃあ、こいつは。」

「生まれつきの影響も考えられます。」


 小雪はそこで立ち上がり、倒れた魔物を見下ろした。


「母体の中で身体が作られる時期に、大気中の魔素が不足していると、魔回路が正常に形成されない個体が生まれることがあります。」


 ベルの表情が、ほんのわずかに止まった。


「……身体が作られる時に。」

「はい。」

「魔回路って、生まれた後にできるんじゃねぇのか。」

「基礎は、身体の形成とともに作られます。」


 小雪は何気なく答えた。


「少なくとも魔物では、形成時の魔素不足が魔回路の不全につながることがあります。」

「……そうか。」


 ベルは自分の右手を見た。


 ほんの一瞬だった。

 すぐに剣を鞘へ戻す。


 小雪は気づかなかったのか、それ以上何も言わなかった。


「魔族も、か。」


 ベルが訊いた。


「おそらく、人間よりは影響を受けやすいです。」

「おそらく。」

「魔族は、人間より魔素の変化に敏感な種族なので。」


 ベルはもう一度、倒れた魔物を見た。


 赤い目はもう暗い。

 青白い光も、ほとんど消えている。


 飢えていた。

 魔素に。


 その言葉が、妙に頭へ残った。


 その時、少し離れた草むらから、小さな魔物が顔を出した。


 兎に似ている。

 二人の姿を見ると、すぐに逃げた。


 普通に。

 怯えて。


 ベルはその姿を目で追った。


「今のは、襲ってこなかった。」

「はい。」

「全部が狂ってるわけじゃない。」

「はい。」


 小雪は歩き出した。


 ベルは、しばらく倒れた魔物を見てから、そのあとを追った。




 夜は、崩れた石壁の近くで野営した。


 ベルは本当に鍋を出した。

 境界地帯スープができた。


 火をあまり大きくしないように注意しながら、水へ豆と干し肉、それから集落で受け取った硬い根菜を入れる。

 しばらく煮込むと、見慣れない土地にも、山の家で何度も嗅いだ匂いが広がった。


 小雪は差し出された器を受け取り、一口飲んだ。


「旧魔王領スープ。」

「境界地帯スープで決まっただろ。」

「はい。」

「味は?」


 ベルが訊く。


 小雪はもう一口飲んだ。


 山の家で作るものとは少し違う。

 水も、根菜も違う。


 それでも。


「ベルの味です。」


 ベルの手が止まった。


「……そうか。」

「はい。」

「変なところで刺すな。」

「刺しましたか。」

「旧魔王領でも刺さる。」

「補填されません。」

「ここで言うと怖いからやめてくれ。」


 ベルは自分の器を持ち、火の向かいへ座った。


 火は小さい。

 周囲は暗い。


 この土地には魔素に飢えたものが多い。

 こちらに引き寄せられて、何が襲ってくるか分からない。


 小雪はスープを飲みながら、空を見上げた。


 星は見える。


 けれど、山の家で見る星より、少し遠く感じた。


「小雪。」

「はい。」

「今日の魔族の集落。」

「はい。」

「あれは例外か。」

「いいえ。」


 ベルは器から顔を上げた。


「じゃあ、ああいう魔族も普通にいるんだな。」

「はい。あちらの方が一般的です。」

「魔物も、全部が狂ってるわけじゃない。」

「はい。」

「魔王が生まれたから、魔物が一斉におかしくなるわけでもない。」

「魔素不足です。」


 ベルは火を見た。


「王城の転移装置は、旧魔王領につながってる。」

「はい。」

「王家には、それが必要だった。」

「はい。」

「陛下は、おまえを怖がってた。」

「そうでしょうね。」

「例の件って言葉で青ざめた。」

「はい。」


 ベルはしばらく、自分の器を見ていた。


「俺が知ってる話と、だいぶ違う。」

「はい。」

「おまえ、本当に俺へ全部説明する気はないんだな。」

「今はありません。」

「何で。」

「先に見てほしいからです。」

「見ても、分からないかもしれない。」

「その時は聞いてください。」


 ベルは顔を上げた。


「聞いたら答えるのか。」

「答える必要があると判断すれば。」


 ベルは深く息を吐いた。


「腹立つ。」

「はい。」

「本当に腹立つ。」

「はい。」


 ベルは匙を器の中へ置いた。


「でも、今のところ、一番腹が立つのは自分だ。」


 小雪はベルを見た。


「なぜですか。」

「何も知らなかった。」

「普通です。」

「普通って何だよ。」


 ベルの声は低かった。


「この世界では、そう教えられます。」

「それを普通って言うな。」


 小雪は黙った。


 ベルは、火の向こうにある暗闇を見た。


「俺は魔族領を、ただの敵地だと思ってた。魔族は全部、人間を見つけたら襲ってくると思ってた。魔物は魔王が生まれると狂うもんだと思ってた。」

「はい。」

「でも、違うんだろ。」

「今日見たものは、そうです。」

「おまえ、本当に嫌な言い方するな。」

「すみません。」

「謝るな。余計腹立つ。」

「はい。」


 小雪は器を膝の上へ置いた。


 ベルは怒っている。

 けれど、まだ軽い。


 まだ、自分が知らなかったことへ怒れる場所にいる。


 まだ、絶望には届いていない。


 小雪はそれを見て、少しだけ安心した。


 けれど。

 この先を見れば。


 おそらく、そうはいかない。


「ベル。」

「何だ。」

「明日も歩きます。」

「だろうな。」

「魔王城に近づきます。」

「ああ。」


 小雪は火の向こうにいるベルを見た。


「今なら、まだ戻れます。」


 ベルはすぐに顔を上げた。


「しつこい。」

「私は、来てほしくありません。」

「俺は戻らねぇ。」

「私が強く望んでも?」

「俺は見て判断するって言った。」


 ベルは小雪から目を逸らさなかった。


「だから、見る。」


 小雪はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


 火が静かに鳴り、遠くから何かの鳴き声が聞こえた。魔物なのか、それともただの獣なのかは分からない。


 ベルは剣を自分のすぐ横へ置いた。


 小雪は鞄の中の鈴へ、一度だけ触れた。


 どうか。


 壊れませんように。




 二日目の朝、霧が出た。


 真っ白な霧ではない。わずかに灰色がかった薄い霧が地面の近くへ漂い、その中を歩いていると、自分たちの足音まで吸い込まれていくようだった。


 ベルは何度も周囲を見回した。


「静かすぎる。」

「そうですね。」

「鳥がいねぇ。」

「ここに動物は、ほとんどいません。」

「虫も少ない。」

「はい。」

「春なのに。」

「ここでは、これが普通です。」


 小雪は淡々と歩いている。


 ベルには、その歩き方が気になった。


 霧の中でも迷わない。

 周囲を警戒してはいるが、怯えてはいない。


 この空気を知っている者の歩き方だった。


「慣れてるな。」

「はい。」

「ここに。」

「はい。」

「何度も来たのか。」

「何度か。」

「魔王討伐の時か。」

「はい。」

「その後も?」


 小雪は答えなかった。


 ベルはもう、答えないことにも意味があると分かり始めていた。


「……そうか。」


 二人は霧の中を進んだ。


 昼前、また小さな魔族の家を見た。


 今度は集落ですらない。

 崖の下へ身を寄せるように、二軒の家が建っている。煙突から細い煙が上がっていたが、外に人影は見えなかった。


 けれど、戸の隙間から視線を感じた。


 小雪は立ち止まらなかった。

 ベルも、そのまま通り過ぎた。


 しばらく歩いてから、ベルが言った。


「隠れてたな。」

「はい。」

「俺たちから。」

「はい。」

「勇者と、人間から。」

「はい。」


 ベルは少し黙った。


「……そうか。」


 その声は低かった。


 怒りとも、混乱とも違う。


 昨日より、少し重い声だった。




 三日目の夕方、ようやく魔王城の全体が見えた。


 黒い山の中腹、切り立った崖へ沿うように建つ古い城だった。

 尖った塔のいくつかは途中で崩れ、外壁も長い年月と風雨に削られている。


 ベルは足を止めた。


 子供の頃から、何度も聞いてきた名前だった。


 絵本では、赤い空の下で炎に包まれていた。

 騎士学校の講義では、魔族の軍勢が集う悪の中心として描かれた。

 王都の芝居では、勇者が光の剣を掲げて突入する場所だった。


 けれど、目の前にある城は静かだった。


 黒く。

 古く。


 そして、疲れているように見えた。


「……あれが、魔王城か。」

「はい。」

「魔王は、ここにいたんだな。」

「はい。」


 ベルは少し迷ったあと、小雪を見た。


「おまえが討った。」


 小雪は答えなかった。


 ベルは目を閉じ、小さく息を吐いた。


「またか。」

「はい。」

「国からは、そう発表されていますってやつか。」

「はい。」


 ベルはもう一度、城を見上げた。


「分かった。明日、見る。」

「はい。」

「自分で見て、判断する。」


 小雪は、少し遅れて頷いた。


「……はい。」


 風が吹き、灰色の霧が山の斜面を薄く流れていく。

 遠くでは、少ない魔素の光が不安定に揺れていた。


 ベルには、まだその意味までは分からない。

 それでも、ここまで歩くうちに、一つだけは確信し始めていた。


 ここは、自分が教えられた世界とは違う。


 隣では、小雪が魔王城を見ている。


 横顔はいつものように静かだったが、ベルには、ほんの少しだけ痛そうにも見えた。


「小雪。」

「はい。」

「明日は、答えろよ。」


 小雪はすぐには答えなかった。


 しばらく城を見たあと、静かに言う。


「答えるかどうかは、見た後で決めます。」

「本当に嫌な勇者さまだな。」

「はい。」


 ベルは少しだけ眉を寄せた。


「でも、もう戻らねぇ。」


 今度は、小雪も何も言わなかった。


 ベルは剣の柄へ手を置き、小雪は鞄の中にある鈴へ触れた。


 まだ鳴らさない。


 明日、二人はあの城へ入る。


 ベルはまだ、そこで何を見ることになるかは分からない。


 それでも、自分の目で確かめると決めたまま、夕暮れの中で静かに沈む魔王城を見上げていた。

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