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第四十八話 王城地下の転移装置

 翌日、山の家の前にグランツ公爵家の馬車が着いた。


 公爵家の紋章が入った大きな車体は、この一年、小雪とベルが暮らしてきた古い山の家にはやはりひどく不釣り合いだった。


 御者が馬を落ち着かせる横で、ベルは荷物を一つずつ運び出し、最後の鞄を積み終えると、改めて馬車を見上げて小さく息を吐いた。


「初めて二人で行く旅が、まさか旧魔王領になるとはな。」

「今からでも、留守をお願いできませんか。」

「できねぇよ。昨日、散々話しただろ。」


 ベルは当然のように答え、残っていた荷物を馬車の後部へ積み込んだ。剣と鞄、食料、それから鍋である。


 小雪は最後の一つをじっと見た。


「鍋。本当に持っていくのですね。」

「持っていく。」

「旧魔王領スープ。」

「だから、その名前は怖いって言っただろ。」

「では、魔族領スープ。」

「余計怖い。」

「境界地帯スープ。」


 ベルは鍋を固定する紐を締めながら、少しだけ眉を寄せた。


「急に事務的だな。」

「どれが一番よいですか。」

「何で名前をつける前提なんだよ。」

「作った時に考えますか。」

「作るのは決定なのか。」

「ベルが鍋を持っていきますから。」

「……まあ、そうだけど。」


 ベルはいつも通りの調子で答えた。


 小雪は少しだけ頷き、馬車へ向かう前にもう一度、山の家を振り返った。


 古い戸口と、作業台のある窓。

 棚の奥には昨日しまったコイルがあり、その隣には銅線と巻き取り機が残っている。

 家の脇から続く道の向こうでは水車が回り、春の水音が変わらず聞こえていた。


 この一年で、小雪が覚えたもののほとんどが、そこにあった。


 火を起こすこと。水を使うこと。壊れたら直すこと。急がず、止まりながら進むこと。自分にできないことを誰かへ頼み、代わりに自分にできることをすること。


 そして、帰る場所を持つこと。


「小雪。」


 ベルに呼ばれ、小雪は振り返った。

 彼は馬車の扉を開けたまま、こちらを待っている。


「行くぞ。」

「はい。」


 小雪は山の家から目を離し、馬車へ乗り込んだ。


 向かいにはベルが座る。扉が閉まり、やがて馬車がゆっくり動き始めた。


 車輪が雪解けで柔らかくなった道を進み、窓の外で山の家が少しずつ遠ざかっていく。

 木々の間へ隠れて完全に見えなくなっても、小雪はしばらく同じ方向を見ていた。


 ベルも、すぐには何も言わなかった。


 馬車が山道を下り始め、家へ続く道も見えなくなった頃、ようやく彼が口を開いた。


「王城の転移装置って、そんなに貴重なのか。」


 小雪は窓から視線を戻した。


「気になりますか。」

「そりゃな。科学的に考えても、かなり難しい技術だろ。」

「魔法です。」

「分かってる。」


 ベルは腕を組み、少し考えるように眉を寄せた。


「でも、魔法だからって何もなしにどこへでも飛べるわけじゃねぇんだろ。」

「はい。王城にあるものは、設置先を固定した大型魔導具です。条件が整えば、離れた空間同士を一時的につなぎ、時空を歪ませて転移を成立させることができます。一方通行しかできません。この国だけが保有する特異技術だと説明されています。」

「条件って?」

「まず装置が必要です。それから始点と終点の固定、他空間からの干渉の排除、装置を動かすための大量の魔力、それから使用許可です。」


 ベルは少し黙った。


 馬車の揺れに合わせ、窓枠が小さく軋んでいる。


「何か。」


 小雪が訊くと、ベルは片手を上げた。


「いや。何か、魔法っていうより機械みたいだなと思って。」

「そうですか?」

「ああ。どこからどこへ行くか決める。両方を固定する。余計なものが入らねぇようにして、動かすための力を入れる。条件が揃わなきゃ動かないし、勝手に別の場所へ飛ぶわけでもない。しかも一方向にしか動かない。」


 ベルは自分で整理するように、指を一本ずつ折った。


「なら、やっぱり仕組みがある。」

「そうでしょうね。」

「勇者召喚に使われるものも、似たような仕組みなのかもしれねぇな。」


 小雪の表情は変わらなかった。


 ベルはしばらく彼女の顔を見ていたが、何も返ってこないと分かると、少し嫌そうに眉を寄せた。


「……今のも答えねぇか。」

「はい。」

「そうかよ。」


 不満そうに息を吐いたものの、ベルはすぐに別の疑問へ移った。


「それで、その王家管理の転移装置が、旧魔王領方面にも向いてるわけだ。」

「はい。」

「やっぱり変だな。」


 小雪は窓の外へ視線を戻した。


「魔族の領域は危険地帯で、勇者候補以外の立ち入りは禁止って習ったぞ。」

「そう教えられています。」

「なのに、そこへ飛ぶ装置がある。」

「はい。」

「誰が作った。」

「王家と神殿です。」

「向こう側は?」


 小雪は答えなかった。


 ベルの目が少し細くなる。


「転移には始点と終点の固定が必要なんだろ。」

「はい。」

「なら、王城に装置を置いただけじゃ駄目なんじゃねぇのか。」


 小雪は黙っていた。


「どうやって向こう側を固定した。誰が行った。いつ設置した。」


 次々に問われても、小雪は窓の外を見たままだった。


「そこは、今は説明しません。」

「便利だな、沈黙。」

「はい。」

「褒めてねぇ。」


 ベルはため息を吐いた。


 けれど、それ以上は追及しなかった。


 小雪は少し意外に思い、窓に映る彼の横顔を見た。


「聞かないのですか。」

「聞いても、今は答えねぇんだろ。」

「はい。」

「なら、見る。」


 ベルは今度こそ窓の外へ視線を向けた。


「昨日、おまえが言ったからな。自分で見て判断しろって。」

「はい。」

「だから見る。聞いても答えねぇなら、見たものを自分で考える。」


 小雪は返事をしなかった。


 窓ガラスに映るベルの横顔は、いつもと変わらない。


 外には春の山道が続き、日陰には溶け残った雪があり、その向こうには王都方面の淡い空が広がっていた。


 まだ、いつもの世界だった。


 ベルが知っている世界。


 王家があり、神殿があり、魔族は人間の敵で、勇者が魔王を倒して世界を救った。


 恐らく、旧魔王領から戻る頃には、彼はもう同じように世界を見ることはできない。


 何とも名づけられない感情が胸の奥からこぼれそうになり、小雪は静かに目を伏せた。




 王都へ着く頃には陽は傾き、雲の切れ目から零れる僅かな斜陽が白い城壁を赤く染めていた。


 グランツ公爵家の馬車は大通りを抜け、そのまま王城の門へ向かう。


 春祭りの名残が残る王都は、まだ少し華やかだった。店先には春色の布が飾られ、広場の一部には祭りで使われた装飾も残っている。


 けれど、王城へ近づくほど空気は硬くなった。


 城門の近くには、見慣れない意匠の馬車が何台か止まっていた。車輪の幅も、外装も、この国のものとは少し違う。


 ベルは窓の外へ目を向けた。


「他国の馬車か。」

「おそらく。」

「西方っぽいな。」


 小雪は何も答えなかった。


 門番は馬車に刻まれた公爵家の紋章と、事前に届いていた先触れを確認すると、ほとんど待たせず道を開けた。


 ベルはすぐに気づいた。


「妙に早い。」

「王城へ先触れが届いていますから。」

「それにしてもだ。」


 馬車が城内へ進むにつれ、兵士たちの視線が集まった。


 敬意だけではない。恐れと好奇心が混じり合い、馬車が通り過ぎるまで目を離さない者もいる。


 ベルは少し眉を寄せた。


「おまえ、ここだと本当に勇者さまなんだな。」

「ここでなくても、そう呼ばれます。」

「山の家だと、わりとただの小雪だけど。」


 小雪は少し考えた。


「はい。」

「俺は、そっちの方がいいけどな。」


 小雪はベルを見た。


「私もです。」


 ベルは一瞬だけ驚いた。


 それから、少し笑った。


「そうか。」

「はい。」


 馬車は王城の奥まで通され、二人は謁見の間ではなく、王の私的な応接室へ案内された。


 室内にいたのは国王と、側近が二人だけだった。第一王子も、大臣たちもいない。


 国王は小雪を見ると立ち上がった。


「勇者殿。よく来てくださった。」


 丁寧な声だった。


 けれど、ベルはすぐに違和感を覚えた。


 舞踏会で見た貴族たちの礼とは違う。

 相手を敬うための礼というより、相手を刺激しないための礼に近かった。


 王の視線は一度小雪の顔から外れ、また戻った。

 身体はまっすぐ立っているが、握られた手にはわずかな強張りがある。


 恐れている。


 ベルは、そう感じた。


 この国の王が、小雪を恐れている。


「使用許可をお願いします。」


 小雪は挨拶を最小限に済ませ、すぐに本題へ入った。


 国王は一瞬、息を飲んだ。


「旧魔王領方面への転移装置、でしたな。」

「はい。」

「東方の魔物凶暴化については、こちらにも報告が届いております。確かに、勇者殿の判断を仰ぐべき事案ではありますが……。」


 王の視線がベルへ移った。


「グランツ卿も同行されるのですか。」

「そうです。」


 小雪が答えた。


 国王の顔に、はっきりと動揺が浮かぶ。


「それは……危険ではありませんか。」


 ベルは王を見た。


 危険だから止めている。表面上は、そう見える。


 けれど、声に含まれているものは、それだけではなかった。


 ベルが怪我をすることへの心配ではない。


 ベルが何かを見ること。

 何かを知ること。


 それを恐れているように見えた。


「危険です。」


 小雪は淡々と答えた。


「ですが、本人が同行を希望しています。」

「しかし、旧魔王領方面は、勇者候補以外の立ち入りを禁じてきた区域です。グランツ公爵家の次男を、そこへ向かわせることは……。」

「本人の意思です。」


 国王は言葉を切った。


 ベルは少しむっとした。


「陛下。」


 礼を失わない範囲で口を開く。


「私は自分の意思で同行を決めております。それに伴う危険も、承知しているつもりです。」


 完全には承知していない。

 けれど、それでも言った。


 国王はベルを見た。

 その目に、ほんの一瞬、憐れむような色が浮かんだ。


 ベルの胸に、また違和感が積み重なる。


 なぜ、憐れまれる。

 旧魔王領が危険だからか。


 それとも、別の何かを知ることになるからか。


 国王はすぐに小雪へ視線を戻した。


「勇者殿。」

「はい。」

「本件は、例の件に関わる確認という認識でよろしいのでしょうか。」


 部屋の空気が変わった。


 ベルは小雪を見た。


 例の件。

 昨日から何度も、何かが隠されている。


 小雪は顔色を変えなかった。


「はい。」


 それだけだった。


 けれど、国王の顔から血の気が引いた。

 側近の一人も、小さく息を飲む。


 ベルは、その反応を見た。


 例の件について、王は知っている。

 小雪も知っている。

 側近たちも、少なくとも何かを察している。


 自分だけが知らない。


「……承知しました。」


 国王は静かに言った。


「転移装置の使用を許可します。」

「ありがとうございます。」

「準備には、少し時間がかかります。それまで、勇者殿。お茶でもいかがですかな。」

「不要です。」

「南方より、珍しい砂糖菓子も届いておりまして。」

「不要です。」

「……そうですか。」


 国王は少し困った顔をした。


 恐ろしい悪人の顔ではなかった。

 むしろ、叱られることを恐れる人間の顔だった。


 小雪の機嫌を取ろうとしている。

 菓子を勧め、話を柔らかくし、何とか大事にならないようにしたい。


 ベルには、そう見えた。


 国王が勇者へ菓子を勧めて機嫌を取ろうとしている。

 小雪は、それに何の感情も見せない。


 その光景を、ベルは気味が悪いと思った。


「ベル。」


 小雪に呼ばれた。


「何だ。」


 反射的に答えてから、少し顔をしかめる。王の前で、いつもの返事をしてしまった。


 けれど、小雪は気にしていない。


「行きます。」

「ああ。」


 国王が側近へ合図を送った。


「地下転移室へ案内を。」




 王城の地下は冷たかった。


 石の階段を一段ずつ降りるたび、燭台の明かりが壁へ長い影を作る。足音は狭い通路の奥まで響き、地上の華やかな王城とはまるで別の場所へ下りていくようだった。


 ベルは、自分たちの足音を聞きながら歩いた。


 王城の地下へ入ること自体は初めてではない。けれど、この奥まで来たことはなかった。


 小雪は迷わず歩いている。


 そのことも、ベルの違和感を増やした。


「来たことあるのか。」


 小さな声で訊く。


「はい。」

「いつ。」

「一年ほど前が最後です。」

「魔王討伐の後か。」

「はい。」

「何しに。」

「確認です。」

「どこへ。」

「旧魔王領方面です。」


 ベルは小さく息を吐いた。


「……またそれか。」

「はい。」


 舌打ちしそうになったが、王城の地下なのでやめた。


 最奥には、大きな扉があった。


 古い金属の表面には複雑な紋様が刻まれている。

 王家の紋章と神殿の印、それからベルには読めない古い文字のようなものが、幾重にも重なっていた。


 けれど、ただの文章には見えなかった。


 同じ記号が何度も繰り返され、丸と線が一定の規則でつながっている。

 左右にはよく似た形が向かい合い、その外側をさらに大きな輪が囲っていた。


「……何だ、これ。」


 ベルは思わず足を止めた。


 化学式。


 いや。

 それよりは、数式の方が近いかもしれない。


 読めないのに、意味も分からないのに、何となく目で追ってしまう。


「読めるのですか。」


 小雪が訊いた。


「読めねぇ。」


 ベルは扉を見たまま答えた。


「でも、文章じゃねぇ気がする。」

「そうですか。」

「ああ。何かの仕組みを表してる。」

「何を。」

「分からねぇよ。」


 ベルは少し近づき、左右の模様を見比べた。


「でも、こっちとこっちが似てる。」

「はい。」

「同じような形が二つある。」

「はい。」

「その間を何かがつないでる。」

「はい。」


 小雪は、それ以上何も言わなかった。


 ベルは眉を寄せる。


「また黙るのか。」

「はい。」

「本当に嫌な勇者さまだな。」

「はい。」


 重い音を立てて扉が開いた。


 中は、広い円形の部屋だった。


 床一面には巨大な魔法陣が刻まれ、その中央には石造りの台座がある。壁には複数の石板が並び、それぞれに行き先らしき名称が刻まれていた。


 王都。

 北方砦。

 南方港。

 西大陸連絡点。


 そして。


 旧魔王領境界。


 ベルは、その文字を見つけて足を止めた。


「本当にあるのかよ。」

「あります。」

「おかしいだろ。」


 ベルは小雪を見た。


「魔族の領域は危険地帯で、勇者候補以外は立ち入り禁止なんだろ。」

「はい。」

「なのに、王城の地下からそこへ飛べる。」

「はい。」

「危険すぎる。敵が逆に来たらどうする。」

「一方通行です。来られません。」


 ベルは、馬車の中で聞いた話を思い出した。


「向こう側にも装置があるんだろ。」

「あります。」


 ベルはゆっくり小雪を見る。


「なら、誰かが向こうへ行って設置した。」

「はい。」

「固定点を作った。」

「はい。」

「それが残ってる。」

「はい。」


 ベルはもう一度、床の魔法陣を見た。


「……向こうからこちらへの転移装置も、別にあるのか。」


 小雪は答えなかった。

 ベルが顔を上げる。


「また答えねぇのか。」

「見て判断してください。」

「……本当に便利だな、その言葉。」

「はい。」


 ベルは低く息を吐いた。


 けれど、もう一度、床の魔法陣へ視線を戻す。


 始点と終点を固定する。

 他空間からの干渉を排除する。

 大量の魔力を流す。

 許可された場所だけをつなぐ。


 そして、両方に装置が必要になる。


「小雪。」

「はい。」

「これ、魔物調査だけじゃねぇな。」


 小雪は答えなかった。


「答えろよ。」

「見て判断してください。」

「その言葉、もう嫌いになりそうだ。」

「すみません。」


 小雪は転移陣の中央へ歩いた。


 国王は少し離れた場所に立ち、側近たちが装置の操作を始める。古い石板がゆっくり動き、「旧魔王領境界」の文字が淡く光った。


「勇者殿。魔力を。」


 小雪は頷いた。


 ベルが一歩近づこうとすると、小雪が振り返る。


「そこにいてください。」

「何するんだ。」

「装置を起動します。」

「おまえの魔力でか。」

「はい。」

「補填は。」

「使いません。」


 ベルの目が鋭くなった。


「本当だな。」

「はい。」

「約束だぞ。」

「はい。」


 小雪は台座へ手を置いた。


 魔力が流れる。


 ベルには魔力がない。だから、その流れ自体を見ることも、感じ取ることもできない。


 けれど、部屋の空気が変わるのは分かった。


 床の魔法陣が、中心から少しずつ光を帯びていく。


 白でも、青でもない。

 古い金色だった。


 その光を、国王は少し離れた場所から見ていた。


 恐れている。

 ベルはそう思った。


 転移装置を恐れているのではない。

 それを起動する小雪を。


 そして、おそらく、その先にあるものを恐れている。


「小雪。」

「はい。」

「無理は。」

「していません。」

「本当に?」

「はい。」

「ならいい。」


 ベルは剣の柄へ手を置いた。


 旧魔王領、魔物、魔族、魔素異常、例の件、国王の怯え、王城地下の転移装置。


 分からないことばかりだった。


 やがて光が強くなり、小雪が台座から手を離す。


「起動しました。」


 側近が装置を確認し、頷いた。


「座標固定。旧魔王領境界、転移可能です。」


 国王が小雪へ向き直った。


「勇者殿。どうか、ご無事で。」

「はい。」


 王は次にベルを見た。


 少し迷ってから、同じように声をかける。


「グランツ卿も。」

「はい。」


 ベルは礼をした。


 国王は、まだ何か言いたそうだった。

 けれど、結局何も言わなかった。


 小雪が転移陣の中央へ入る。


 ベルも隣へ立った。


「小雪。」

「はい。」

「今さら、置いていこうとするなよ。」

「しません。」

「信用していいか。」

「努力します。」

「そこは、はいって言え。」

「はい。」

「遅い。」


 ベルは小さく笑った。


 小雪は笑わなかった。

 なにか覚悟を決めたような、ひどく硬い表情だった。


 足元から光が立ち上がる。


 床が遠ざかるような感覚があり、次の瞬間には身体が落ちるのか浮くのかも分からなくなった。胃の奥が持ち上がり、耳鳴りがする。


 水車とは違う回転。

 魔法の光が身体の周りを流れ、王城地下の石壁が大きく歪んだ。


 そして次の瞬間、空気が変わった。




 そこは、古い石室だった。


 王城地下より狭く、天井の一部は崩れている。

 石壁の隙間からは蔦が入り込み、床へ刻まれた魔法陣も王城のものよりずっと傷んでいた。


 それでも、同じ形だった。


 ベルは、まず床を見た。

 王城地下で見たものと同じものが、確かにこちら側にも作られている。


「……本当に、旧魔王領に作ってるのか。」


 ベルは低く呟いた。

 小雪は何も答えなかった。


 ベルは石室の外へ目を向ける。


 半ば壊れた扉の向こうには、低い草地が広がっていた。


 緑は薄く、土は灰色がかっている。

 空は広いのに鳥の声が聞こえず、風が吹いても草の擦れる乾いた音しか返ってこない。

 遠くには黒い山が見え、そのさらに向こうに、城のような影があった。


 ベルの喉が少し乾いた。


「小雪。」

「はい。」

「あれが。」

「魔王城の方角です。」

「方角。」

「ここから数日歩きます。」


 ベルはもう一度、石室を振り返った。


 王城地下とつながった転移室。

 旧魔王領境界。

 立ち入り禁止のはずの場所。


 誰かがここへ来て、装置を置いた。


 そして王家は、それを今も使える状態で残している。


「何で、こんなところに転移先がある。」


 ベルは低く訊いた。


 小雪は黒い山を見たまま答えた。


「昔、必要だったからです。」

「誰に。」

「王家に。」

「何のために。」


 小雪は答えなかった。


 風が石室の中へ入ってきた。


 冷たいわけではない。

 けれど、温かくもない。


 春のはずなのに、この場所には春の匂いが薄かった。


「小雪。」

「はい。」

「ここ、何か空気がおかしい。」


 ベルは石室の外へ出ながら、周囲を見た。


「山の家とも、王都とも違う。乾いてるっていうか、薄いっていうか。」


 小雪はベルを見た。


「はい。」


 それだけ答えた。


 ベルは黙った。


 小雪は鞄の中へ手を入れ、ベルが結びつけてくれた小さな鈴へ一度だけ触れた。


 この鈴を使うことは、もう二度とないかもしれない。

 けれど、その考えを表には出さないまま、静かに顔を上げた。


 遠くには黒い山がある。

 その向こうには魔王城があり、さらに奥には世界の裂け目がある。


 小雪は歩き出した。

 ベルも少し遅れて石室を出ると、すぐにその隣へ並んだ。


 背後には、王城へつながる転移陣が残っている。


 ベルは歩き始めてから一度だけ振り返った。


 しばらく転移室を見たあと、何も言わずに前を向き、小雪の隣へ戻る。


 旧魔王領の空は、その先の不安を表すように薄く濁っていた。

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